わかんないんですけどね。
私もね、実を言えば似たような気持ちになることありますよ。新人賞とって作家になってもどうせ死ぬんじゃん、と。死後に作品が残ったとしても本人わからへんわけやし、死ねばおんなじや、と暗くなったりしてね。
そういう「悩み」といっていいのかどうか、私の場合は転換して消えてしまうものだから、単なる精神状態の軽い変調だと思ってますが、私の中で解決しているわけでもないし、処方箋が出せるわけでもないです。
て言うか、こういう問題は誰か解決したのか言うたら、わからんですね。ニーチェとかいう人は積極的ニヒリズムとか永劫回帰とか言うたそうですが、さいきん中島義道という哲学者のかたは、ニーチェは間違ってる。私の人生には何の意味もない。ただそれだけだ。と言ってました。文学界の九月号だったかな。
それにしても人文科学ってのはすごいもので、ニーチェといえば偉大な哲学者やなあと誰でもなんとなく思ってますけど、堂々と反対してもよろしいのですね。
〉 お前らも俺も、今のままだと焼却炉行きだ。恐ろしくないか? 俺は恐ろしい。一部の人間にしかわかってもらえぬまま自分の世界が喪に服される日が来るのが、怖くて怖くてたまらない。俺は生きつづけたい。
あ、思い出した。タンソさんにお勧めの本ですけど、佐藤友哉『1000の小説とバックベアード』て、もうお読みになりました? 私は冒頭しか読んでませんが(ぉぃ)このあいだ三島賞とった小説です。小説とは何か、時代を超えるとはどういうことか、ということについて書いてあるらしいですよ。
脈絡がないんだけど一つ付け加えておけば、タンソさんの文章を読み直していて思ったのは、やはり「分かってもらいたい」という言葉が多いなあということ。
自分の外に何かを求めている限り、苦は免れないと思うのですよ。これはお釈迦さんも言うてはることですけど。
私はいつの頃からか、むしろ「わかりたい」と思うようになったような気がします。「わかってもらう」というのは他人任せだから自分にはどうにも出来ないけれども、人が作り出した世界をわかるのは、自分の方のことだから、自由になります。
それで私の場合は色々な本を読むようになったんだと思いますが、本当は生身の人間とも付き合うのが大切なのかも知れないけれども、そこはそれ人の向き不向きがあるから。