>もぐら様
「誰とでも」より「誰でも」のほうがよいようです。失礼しました。
「誰でもが同じように生きていけること」が目標です。漠然としていますから、すぐに達成できるものではありませんし、本作のみで達成しようとするはずもありません。そのような考え方で書き継いでいく、というだけにすぎません。当然ですが。
「既に誰もが望んでいる」とおっしゃいますが、私はそうは思っていません。望みの内容は違うでしょうから。
> 夢を見るように誘導する行為
は作品中のどの部分を指すのかわかりません。
サーフィンの例を挙げておられますが、文中の少女が具体的にどういう夢を見たかを追求することを本作では目指していないということです。
夢を抱く子どもは具体的にイメージしていないことも多いと思います。スポーツをするのに必要な能力を、はじめから具体的に考えられる子ばかりではないでしょう。だからそこを書く必要は、本作ではないと考えています。具体的な(PTやOTの)サポートを事細かにイメージしていただく必要を感じません。
たとえばサーフィンの例を実際の問題として考えると。子どもには、父親が楽しい思い出として語った経験を、自分も共有したいという願いが強いと思います。ならば実は「サーフィン」と固定する必要がなくなってくるのです。
障害があっても「こんなことは無理だ」と決めつけずに、自由に他者に話せる雰囲気を書こうとしました。これまでの文学作品では、そういうことに気をつけられたものがないと感じています。先に書いたように障害者の特殊性が扱われることが多いと思っています。障害者だから感動した、というように。
夢を受けとめた上で、その夢のためにどんな手伝いができるかを考える、という順序が、私にとっては基本です。
健常者に近づこうとすると限界があり、健常者と全く同じになることはほぼ不可能と言えます。原則として治らないものを「障害」と呼ぶのですから。
理想は、障害があっても治療なんかせずに健常者とともに生きられることです。障害者=少数者、健常者=多数者で、社会は多数者に便利なようにできています。そこを見直してもいいと思っています。
> キーワードがしっかり提示されています
キーワードは、読者が読み取るものですから、そのことについては何も申し上げられません。しかし書き手としては意図しておりません。
もぐら様のおっしゃることは理解しているつもりです。むしろ私の意図が伝わらないのでしょう。それはそれで仕方のないことです。問題の捉え方が根本から違うのですから。ここですり合わせる必要を感じていません。違う考え方を提出し合えばそれで充分だと思います。