▼意見をいただいたところで、ファシリテーターとしていまいちど与件整理いたしますと、以下のようになるかと思います。
□ 目的 : コンテストサイトとしての公正さを保ちながら、
コミュニケーションを通して「短編」の作品の質を高めるには、
どういうことに気をつけたらよいか。
□ 問題 : プロトコル(コミュニケーション上の暗黙の了解)の混乱
プロトコルとは、例えば、先生には先生に対する接し方をしたり、親には親に対する、友達には友達に対する振る舞い方を変えるというような、コミュニケーションのやり方のことです。相手によって私たちはプロトコルを変更する。近い言葉で言えば、マナー、エチケット、ドレスコード。
「書き手(作品・感想・投票すべて)の意識にまかされるべきことが公にされた」という旨の意見がありました。
書き手の意識がつまりプロトコルで、いろんな人が来るところなのにこれを個々人にまかせているから、混乱、不和、が起きるのだろうなと思いました。
※また、再確認ですが、ここで何を言おうがなにも決まらないです。個々人の認識が個々人の認識として個々人に認識され、それに影響されるかどうかは個々人の認識の領分です。
行為の意味を明瞭にしておきたいと思っています。
▼現状のプロトコル
現在、短編で採取されるプロトコルはざっくりと、以下のように分類できるのではないかと思います。
□ 媒体 :
・ 短編内(感想票、掲示板)
・ 非短編内(メール、ブログ、SNS、オフ会、その他)
□ 内容 :
・ 批判
→ 私的感情を含まない、作品レベルの批判の内容
⇒ 作品の質向上、につながる?
・ 好意
→ 私的感情を含む、作品、個人レベルの好意の内容
⇒ 馴合、につながる?
・ 中傷
→ 私的感情を含む、作品、個人レベルの悪意の内容
⇒ 荒れ、につながる?
これらがミックスされて「短編」のコミュニケーションが形成されていると思われます。
また媒体がSNSであっても感想票(記名ならば)であっても、内容が批判であっても中傷であっても、これらには発信者、受信者ともに「相手の認知」というものが伴ってきます。そして「相手の認知」こそコミュニティの発生要素ではないかと考えられます。
※「内容」に関する補足ですが、
作品のどこどこが悪いと私的感情抜きで指摘するのが「批判」。
感想をいただきありがとうございますといって自作解説したりするのが「好意」
先日私が投稿した(http://tanpen.jp/bbs/nbbs.cgi/temp/673)のようなものが「中傷」
▼コンテストとコミュニティという媒体の性質の違い
両者の違いは、「短編」サイト内であれ一般的であれ、以下のように捉えられているものではないでしょうか。
□ コンテスト :
→ 批判的プロトコルが求められる公正無私の公的審査コミュニケーションスペース
⇒ 短編で言うと、感想票
※ 機能としては、作品のクオリティ維持につながる?
□ コミュニティ :
→ 好意的プロトコルが許される私的コミュニケーションスペース
⇒ 短編で言うと、掲示板
※ 機能としては、創作のテンション維持につながる?
そして「非短編内」は、一般的に私的な好意的プロトコルが積極的に許される場所であると考えると、この「非短編内」での交流が活発化しすぎたために、その影響が「短編内」にも及んだのだと思います。
→ 私的属性の強い「非短編内」交流が活発化して、「短編内」の公的属性のコンテストに影響を与えてしまった。
▼プロトコルの混乱という問題
例えば以下のようなことが、意見から見ると、問題になっているかと思われます。
□ 「批判⇔好意」
→批判的空間であるべき「感想票」で、私的な「好意」票と思われるものが見られる。
□ 「感想票⇔掲示板」
→批判的内容が求められている「感想票」の内容に対して、私的空間である「掲示板」で私的な返信がなされる。
□ 「記名感想票⇔相手の認知」
→批判的空間であるべきコンテストにおいて「記名感想票」が投じられると、「相手の認知」が伴い、コミュニティが発生してしまう。
これらは今回、問題としてトピックのあがったものです。
個々人の持つプロトコルによって、その内容に対して正当な媒体、媒体に対して正当な内容というものがあると思います。
その個々人同士のプロトコルの相違から、「媒体と内容の不一致による混乱」が生じるのだと思われます。
▼まとめ
□ コンテスト(公)とコミュニティ(私)
コンテスト(感想票)=「批判的内容(作品レベル)」クオリティ維持?
⇔
コミュニティ(掲示板)=「主に好意的内容(個人レベル)」テンション維持?
□ 問題点
→ 個々人が持つプロトコルの相違から「媒体と内容の不一致による混乱」が生じている。
★展望としては、やはり「批判」と「好意」のバランス感覚、コンテストとコミュニティの場のわきまえ、あたりなのかなと思います。
★「お互いの存在を尊重する関係」という意見(常套句ですが)も、やはりヒントだと感じます。
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というあたりで、また、なにか意見がいただけましたら幸いです。
なにかが決議されるわけでもないですし、ただ意見を出して、これが認識の共有となり、ポジティヴな変化の契機となればと思います。
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▼以下、私的所感。
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モバゲーに「教えてgoo」みたいな質問広場があって、先日そこで私は中学生の恋愛の悩み相談に「個人的な意見ですが」と冠をつけて回答をしたところ、「当然もちろん意見を取捨選択するのは私自身です」と余計な心配ですよ的ニュアンスでコメントいただきました。40件近くレスのついていた相談で、この点、物心がついたときからネットのあったいわゆるネットネイティブはリテラシーが高いと思いました。
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「短編」が自分という存在を認知される場所であるならば、茂木健一郎が言うところのセキュアベースとなり、なにか新しいものでも生まれそうな気がしないでもないと頭にフラッシュしないこともないです。
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無名の投票感想であっても「相手の認知」は伴う。コミュニティが発生しないわけじゃないと思う。ただ、もちろん記名の相手とやるよりかはイメージがつかみづらい。
相手がはっきりしたほうが作品を書きやすいかという問題なんだろうか。
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リピートユーザーとユニークユーザーという切口で見ると、リピートが多ければ多いほどコミュニティとしては内輪臭がしはじめ、ユニークユーザーが多ければ多いほど新鮮であると言えるかと思います。
そしてリピートユーザーが発言を繰り返すことでプロトコルが自然と決まってくる。
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「作品+αを評価するのはコンテストとしてフェアではない」といった意見に対しては、読んで泣きそうになりました。
個人レベルでのコミュニケーションが作品制作のテンション維持に繋がるだろうという仮説と、感想は個人レベルで書いて欲しくないという気持ちの間でジレンマがありました。
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私は以前に短編の作品について自作含めて批評し合うメールでのコミュニケーションを一年近く続けていたことがありました。これはとても有意義で、書くこと読むことに対する意識を上げてくれた経験です。一対一であったから、自然にプロトコルが決まったんだろうなと思います。
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「みな小説を書こうという目的のもとにあるのだから、お互いの存在を尊重する関係でありたい。→敵(映画や演劇)がいるのだから、そちらに視線を向けよう」という意見に関してですが。
腹の立つ上司がいると、部下が一致団結するという話はよくあるので、こういう考え方も有り得ると思いました。(個人的には漫画、ゲーム、インターネット、携帯といったあたりも付け加えたいところです。可処分時間の争奪戦といったところでしょうか)
目的遂行のためならその過程にある「批判」や「好意」も構わないというぶぶんまで意見をおしひろげると、有益な見解だと感じました。
もちろん、個々人の作品制作のモチベーションに関わる内的プロセスに関する領域に関与することになるので、実効力があるかというとやはり難しいとは思うのですが。
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「書き手(作品・感想・投票すべて)の意識にまかされるべきことが公にされて、参加している者の品位を落とされた気がした」。
「品位を落とされた」というのは、トピックとしてとても面白いです。わざわざ分かりきったことを公にすることが「品位」を落とす、阿吽の呼吸を明文化することは不粋だ、という理解で正しいでしょうか。それとも「公にされたこと」の内容と「書き手」の意識が食い違っていたことからくる、自信の動揺という意味でしょうか。
「呼吸を明文化することは不粋だ」であれば、これは自作解説についての「作者の言葉で固定してしまったら正直つまらない」という意見と、プロトコルの相違という観点から言えば、類型だと思います。
ところで、色々な人が集まった場所ではその様々な「呼吸」に合わせられずに呼吸困難になってしまう人も出てきてしまうのかなと思います。