人間の心はガラスのコップにそそがれた水だと思っている。自分も他人もコップの中の水だ。同じ水だ。なのにコップが邪魔をしていて水は直接に混ざることができない。その間を埋めるための伝達手段のひとつが言葉だと思っている。言葉でガラスを浸潤させて意志を伝える行為が小説を書くことだと思っている。qbcさんじつは女性なんですってよ。
投票は、確実にめずらしい色味だろう水なのに言葉があわあわとしていてもどかしい作品を選びました。誤読などありましたら、申し訳ありません。己をもって人を律するな。
投票は、
6 秩序を想う 森 綾乃
15 マイソフィスト 壱倉柊
18 横断者 笹帽子
の三作品です。
6 秩序を想う 森 綾乃
「読者」「作品」「作者」の三者を前提に考える。作者の心を読者に伝える手段が作品だとする。このお話は、作者が作品に近すぎるように感じました。たぶん作者が作品内の彼に近づきすぎているのではないかと。
>黒々と交差する電線に、高い早春の空は区切られ、すっかりと歪な多角形である。
この冒頭は彼が世界を眺めている視点なのかそれとも作者が彼を見つめている視点なのか、いずれにしろ読者にとっては唐突に感じられてしまうのではないかと思いました。ここを最初に読んだ時は一人称の小説なのかとかんちがいしてしまいました。
「正しく青い」「懐かしげな雲」といった言葉は誰の感覚の中で「正しい」のか「懐かしい」のか明瞭ではなかったです。このあたりも冒頭の部分で彼の視点に読者を近づけていれば問題のすくない表現になったのではないかと感じました。
もちろん小説内の人物と作者の距離が近い作品がつまらないわけでなく、読者を一緒に連れて歩いていってくれないゆえにものたりなかったんだと思います。この作品も何度か読んでいるうちに入りこむことができ、楽しかったです。ねじくれているくせに文字面では着飾ろうと勉める姿を見たように思います。
それからこれはおそらくとても余計なお世話だと思うのですが、文のリズムを「、」で取りすぎているように感じました。たとえば、
>小さな、硬いグレイである。
これを平仮名にして、
>ちいさな、硬いグレイである。
などとして、若干のゆるやかさを与えることもできますし、あるいは語彙の変更で文の呼吸をコントロールしていって幅が出るのではと思いました。「、」は読むための便宜的なもので、極端なことを言うと存在理由さえ疑ってもよいものではないかと考えています。
15 マイソフィスト 壱倉柊
おもしろいストーリーを書いていると思いました。
友人が作家になる話(http://tanpen.jp/49/25.html)の変形になると思うのですけれど、たぶん壱倉さんはふだんからこういうことを感じているのかなと。
日常的に感じていることを題材にまでひきあげ、それを読者に読ませるおもしろい話に作りこめる能力があるのだと思います。「インフルエンザ明け」といった納得感のあるシチュエーションは自分が体験したか人から聞いた話か、あるいは他の物語からの蓄積なのかと思う。
言葉と構成が気になりました。
もうほとんど小言のような細かい点なのだけれども、言葉ではたとえば、
>振り向くと背の低い試験監督が立っていた。
ここでなぜ「背の低い」と試験監督の姿を説明したのかの意図が分からない。話全体から眺めてこの「背の低い」というのは不必要に思う。
「背の低い」という情報付加をすることによって、より状況を読者に対して明確にするという意図があるならば、圧迫感を出すために「背の高い」ほうがいいのかもしれないとも思う。
もちろんあっても構わないし、「背の低い」だからといって致命的な問題ではないのだけれど、ただ、言葉の選択に対する緊張感を作品を読んでいて感じられないのが残念に思います。緊張感があるならば「お言葉に甘えた」などのありふれた慣用句は使わないのでは、と思いました。
構成に関しては、ストーリーの山場である《じつは吉田が嘘をついていた》という部分と他の部分の温度感がほとんど同じということが気になりました。
「ソフィスト」という言葉も、もうすこし劇的演出の中で登場させたほうが良かった。
たとえば、単純な遅延効果を使って、
>私「あなたは世界史で習ったあれみたい」
>吉「あれって?」
>私「忘れました」
>吉「ヒントを」
>私「ソ、なんとか」
>吉「ソフィストな」
>私「さすがソフィスト」
ですとか。
また「ソフィスト」は用語なので若干の説明が欲しいなと思いました。
18 横断者 笹帽子
ふしぎなことを無理なく書きすすめられる点はすばらしいと思う。
ふしぎなことを書くにはまず尋常なことを書くことができなくてはいけなくて、それはふしぎなこととは尋常ではないことだから。尋常の上に立地しているからふしぎはふしぎとなる。たとえば「濃い緑のズボンとセーターを着ている」という描写でお話に現実としての輪郭を与えているからこそふしぎが成立する。
ただ今月のqbcさんの「せぶんてぃ〜ん」などはそもそも彼女は尋常も不思議もないという立場だから最初からふしぎなことを書いているつもりもなく俺は俺の知るありのままをどうもふざけたことばかりしてしまうどじっこ現実に対して思いださせてあげるためにありのままに書いたようです。
他人が読んでふしぎに思う話をまず書きぬける点がすばらしいと思いました。
難を感じるのは、そのふしぎの部分で留まっている点です。
現時点ですでに形としては完成はしていると思うのですが、もうひとつ味が欲しい。ただ、正直ここから先は個性になるのでこうしたらいいという直接的なことは言えないのですが。
とむさんの感想にあるように「歩行者の持ち時間が長くても、その分が僕自身の人生の時間に上乗せされるわけではない」「人の流れに乗ると、逆らうのは難しい」といった随想的人生考察の部分に対する回答を設置するのでもいいと思います。
また「交代相手は自然に決まるのだという」の部分を、「進む方向を半ば失って」しまった人間に対する皮肉として、
>進行方向を見失った人間は役立たずだから標識にされるらしい。
のようにしたり。
ふしぎを見たいという欲求が満ちると、そのふしぎは何故起きたのかという知的好奇心が湧くのが人間だと考えています。
以上になります。勝手を申しまして恐縮でした。