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6 泉 qbc
泉が湧く。庭に。
俺は叔母に訊ねる。
「どうしましょうか」
縁側に立って庭を眺めていた俺は居間にいた叔母を振りかえる。叔母は俺に背中を向ける。腕組みして台所へ消える。叔母は困ると台所に逃げる。
俺は叔母を追いかける。足元の畳は古いために踏みつけると沈みこむ。叔母が色あせた紺色の暖簾の向うに見える。黒いストレッチデニムに包まれた叔母の脚が見える。俺は暖簾をくぐる。台所に叔母が立っている。灰青の刺子の割烹着の背中が見える。叔母は俺に背中を向けている。顔をうつむかせている。乳白のうなじが見える。
すべては俺の母親の杜撰が原因だった。
俺は東京の大学に合格する。地方に住む俺は東京に住む子供のいない叔父叔母夫婦の家に下宿することになる。しかし叔父が家にいない。叔母が言う。
「よその女のところに行きました」
三五歳の叔母は俺の叔父に嫁いできた人で血縁ではない。俺は母親に連絡すると言う。しかし叔母はそれを止める。俺を下宿させることによって幾許かの金がもらえるらしい。女の一人身には金が要ると叔母が言う。
俺の母親はすべての取決めを電話で済ませた。それが原因だった。
背後にある黄ばんだ障子の向こうの庭では泉が湧きつづけている。二人きりの夕食の最中に俺は落ちつかない。
叔母は海老の白和えを俺にすすめる。真魚鰹の照り焼きをすすめる。里芋と蛸の味噌汁をすすめる。
「――さん、たくさん食べてね」
俺は泉に怯えながら食事をする。
「健康な体で学校に通って良い成績をもらわなくちゃ、この生活は成りたたないんですから」
叔母が口癖を言う。
三日が過ぎて週末になる。叔母が泉への対処方法を俺に伝える。湧き出る泉の温度は入浴に適しているから、これは温泉だと教えられる。
「穴を広げて底に板を敷けばお風呂になります」
俺の健康にも庭に温泉があることは望ましいことだと叔母は言う。
「ただし気をつけてください。温泉を掘る時には天然の致死性のガスが出ることもあるそうですから」
「そんなこと、どこで知ったんですか?」
「インターネットです」
「じゃあ」
「はい」
「死ぬおそれもありますね」
「お気をつけあそばせ」
叔母は俺をからかう。
掘削作業には手間がかかる。俺は穴を掘る。広げる。底をならす。昼になると叔母が塩結びを作ってくれる。添えられた赤い柴漬をつまむ。仕事をやりきれば、ご褒美になんでも好きな物を作ってあげると、叔母が俺に約束する。
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7 はりこ qbc
二歳下の後輩から連絡があった。部室棟が改築のために壊されるから来てほしい。私は働いているが彼女はまだ大学三年だ。
土曜日。私は部室棟の壁から一七九センチ離れて立っていた。女同士の付合は面倒。わざわざ時間を作った。見あげた。五階建。三八の部室を収容したむきだしのコンクリート。昇った。踊り場に下品な落書。美術部が書いたのかもしれない。三階。手芸部々室。入る。連絡をくれた後輩が待っていた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
一年ぶりに部室を訪れた。後輩が訊ねた。懐かしいですか。私は答えなかった。後輩は片隅の赤い三角錐を見た。工事現場にあるコーン。私はAの学生時代を思いだした。
A。
彼は部室にシェイカーを導入し、ソフトドリンクでノンアルコールカクテルを作った。三六種のレシピを持っていた。私の一歳年上で、手芸部々長だった。神棚を置いた。質問ノートを作った。例えば「恋人はいますか?」「世界は平和ですか?」「仕合せですか?」。一ページに一つの質問が一センチの太さの黒ペンで紙面いっぱいに書かれている。それを手繰り女の部員と会話した。彼は女に人気があった。私達の心の襞を精読した。私は彼と交際していた。三月。彼は工事現場の赤いコーンを一つ盗んで部室に運んだ。
「新入部員だよ」
彼は手芸と部員を愛していた。彼の奇妙な行動は私達に娯楽をあたえるためだった。
ある十一月の雨の晩。私は江古田の駅前の居酒屋で酒を飲んだ。終電を逃す。雨宿りに部室に行くとAがいた。私達はキスをしてみだらな姿になった。繋がった。そして終えた。
彼が言った。
「子供の頃に戻りたい」
「どうして?」
私の体はくすぶっていた。あの頃にこんなことはできなかったでしょう。彼は神棚を見あげた。あそこの裏を覗いてごらん。
神棚の裏にはレコーダがあった。盗聴器だと彼が教えてくれた。
彼が言った。
「こういうことは、くだらなくないですかね」
今や彼は全貌を明らかにしていた。私は彼の頭のうしろを撫でた。彼は自分の汚点を自分で愛していた。部員を喜ばせる下衆な努力を自分で愛していた。その自分をさらけだす機会を待ち望み、相手を探していた。私は、自分が彼を愛していることを確信した。
私は言った。
「あなたはこういうことをしても、かまわないのよ」
弱者。私は彼をしゃぶりまわしたくなった。一つ言い足した。私以外の人間にはこのことを一生のあいだ黙っていなさい。
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8 毛の抜けた男 qbc
深夜の小学校の校庭だった。バスケットボールコートで男女が話をしていた。女は旅行鞄を持っていた。男は半袖のシャツを着ていた。
女は言った。
「私は知っているよ。もう一度あなたはやり直したいと思っている」
「そんなことない」
「ばかね冗談よ。あなたはだらしのない男。チャンスがあったって、やり直そうなんて気ないわ」
「あの時と同じだ。俺はもう、あのゴールにシュートなんかできやしない」
男はバスケットゴールを指差しながら言った。
「あなたはバスケやっていなかったじゃないの」
「学校の授業時間の範囲内での話さ」
女は旅行鞄を開けた。中から写真のアルバムを取り出して男に見せた。
「懐かしい」
「あなた昔は毛深かった」
「今じゃこんなつるつるだ」
男は女に前腕部を見せた。窓ガラスみたいだった。
「俺は人を裏切るたび毛が抜けるからね。こんなになっちゃった」
「髪の毛と眉毛とまつ毛だけは残っているのね」
「お目こぼしさ。ここ無かったら、見た目変だろ?」
女はうふふふふふと笑った。
「それにこの方が、良いと思わないか? 毛なんかなくて、人間、良いのさ」
「でも、ちょっと物足りない」
女は旅行鞄からバスケットボールを取り出した。
「このボール、あなたの二の腕にあてるじゃない?」
「痛い! 突然人に向かって投げるな」
「見た? 今のボールの動き。あなたの肌があんまりにも滑らかだから、つるりとすり抜けてあんな向うへ行ってしまった。
もしもあなたが毛深いままだったら、あのボールはあなたの腕毛との摩擦で、すぐ足元に落ちていたかもしれない。そうしたらすぐにもう一度シュートを打てたんじゃない?」
「あてた角度の問題さ」
男は向うへ行ったボールの元へと走り出した。
「見てろ」
男はボールを拾い、ドリブルでゴール下まで運ぶ。そしてシュートの構えを取った。
「無理よ」
女は右手を伸ばし、男のシュートを妨害した。ボールは男の足元に転がった。
「シュートするのばれてた。あなたの行動はいつもそう。思い切りは良いけど準備がへたっぴー。そして誰かに邪魔され信頼を裏切るの」
男はゴール下に転がっていたボールを拾った。そしてシュートした。女の妨害はなかったが、フープにかすりもしなかった。
男が言った。
「まあ、お互いにいい汗をかいたじゃないか。今晩はこれで良しとしようじゃないか」
「私はちっとも汗なんか、かいてないけど。仕方ないわ。まあ良しとしておいてあげるわ」
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