仮掲示板

ひとり短編 作品 1〜5

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1 ……………………! qbc

 不安に。眩暈がする。胃袋が鉄球になって子宮まで落ちる。これは十七才の時。居間でたばこを吸う母親の前を通る(もう無理!)。眼球がボコっと外れ鼻裏に転げる(世界が暗闇に変わる)。っ。と叫ぼうにも舌が喉奥へ引きずりこまれていく最中(脳味噌もそのうち落ちるだろう→バレる前に言え!)。
「お母さん! 実は! 私! 彼氏ができた!」
 幾千の数ミリサイズの菱形、の鱗に覆われた大蛇が母親の足元で蟠っていて、私はその蛇に頭から飲み込まれ、目の前が真黒に(いや目玉は先程から顔の内側!)。

 十一才の時。母親は私に暴力を振るった。蛇はその様子も眺めていた。
「今度ね、友達と映画を見に行く!」
 すると子供時代の母親が私の膝裏へ金属バットを力いっぱい振る。
 私は前方によろめく。
 少女時代の母親が私の額を金鎚で殴る。
 私は後へゆれる。
 現在の母親がフライパンで私の延髄を叩く。
 私はスギの木のようにまっすぐ立つ。
 私は三人の母親にメッタ打ちにされる。それを蛇は眺めていた。

 この線! この線から入ってきちゃ(絶対に!)、(ああでも母親は右足の踵を2センチ浮かせた!)、ダメだからね! 
 私が社会に出るようになり、職場の男性のことや別居中の父親のことを話し、或いは疑問を提出すると、母親はいつも決まって沈黙した。その度に私の視界は暗黒に(……十七歳から私は蛇の腹じゃ?)。
 私はある日、部屋の隅でうずくまっている。部屋は消灯してあり目玉も顔面の内側だから暗い。なのに傍らに母親の蛇がいることだけは分かる。私はこの、物心ついてからいつでも、常に、四六時中、二四時間週七日、私の心の側に、近くに、いつでも居る蛇に、憎悪以上にその身近であったという点ひとつを頼みに気安さをも抱いていた。私は初めて、蛇に話しかけてみた。
「あんたもヒマね」
 蛇は答えた。「そうでもない」
「ヒマ人はみなそう言う」
 蛇は笑うように鳴いた。「しゅしゅー」
 その緩んだ鳴き声が私の神経を大胆にさせた。今までの闇の世界が嘘のように思えた。いやそもそも(まさしく!)私に過去なんてなかったのかも。
「ねえ食べられるのかしら」
 言って私は蛇に噛みつく。人間で言ったら喉笛のあたり。もうこれで。しゅーなんて鳴けない。呆気ない。私は蛇を平らげる。美味。そして視界が戻る。
 蛇の皮がすこしばかり残っていたのでそれを首にちょっと巻いてみた。ネッカチーフ(かわいいでしょ!)。

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2 スピーチの草案 qbc

 ご結婚おめでとうございます。もう一度。おめでとうございます。
 二年前に新郎は私の教え子でありました。実を言えばあまり出来の良い学生でなかったのでありますが勘繰るに彼は私のような学問にまみれた年寄り男のことを珍しく思い、それで興味を持ったのでしょう。よく酒を酌み交わしたものです、よくあることです、好奇心を媒介とした青年と老人の交際。世間一般では普通の、有り得ないことではないです。このスピーチの機会はその縁で頂いた次第です。

 彼が酒席で口にすることと言えば私の専門である考古学ではなく、喰い物と恋でした。
「のれそれ、という魚をご存知ですか?」
「知らない」
「残念です」
 彼は次々と私に話題をぶつけました。私の返事の殆どが「知らない」「興味がない」でした。彼は私の関心領域がどこにあるのか探っていたみたい。「先生の恋愛は?」と問われたことがあります。その時は無言で退けましたが今日ここで応えたく思います。

 私は結婚をしておりません。しかし恋愛を嫌悪しているのではありません。私は淡い恋を好みます。自分と相手の心がふれるかふれないかの、その間の煙のような感情を愛しています。
 健康で艶やかな、肉づきの良いのが私の理想です。それは私の職場の手伝いの女性かもしれません。私は恐らくその女性を一目に見て恋したと思う。彼女は私によく飴を呉れます。その他の仕草の観察からも彼女が私に良い感情を抱いていると思う。だが告白の仕方が分からない。
 文献を取ろうとした時、彼女と手と手がふれあいます。温もりが伝わる。体温は様々な感慨を催させます。そして肌、驚きの小さな声。また視線が瞬間に交わる。互いに微笑を浮べ手を引く。
 私はそれだけで満足です。あの体温。肌。声。視線の交錯。あの頬笑。それだけでとても官能的です。私はその感情の記憶を再生し、反芻します。何度も何度も。彼女が私を愛しているという予測は、もはや確信に変わります。
 しかし確信はやはり行動を促しません。私はお気に入りのレコードに毎晩、寝床に就く前、針を落とせば満足なのです。

 ただこのような趣味の私は子を産み増やす重要な事業に参加する意志がないというという点において、自分自身を人類にとっての荷物のように思っています。しかしながら彼は今、子を作るべく家庭を築こうとしています。その素晴らしい勇気をここに心から賞賛したいと思います。
 ご結婚おめでとうございます。

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3 プラットフォーム qbc

 正月。実家傍の商店街の行事で餅をつく。
 姉夫婦が来ていた。姉の長女がいた。十三歳。二年ぶりの姪は大人の真似をするようになっていた。
「どうぞ」
 大根おろしと正油の餅を俺に差し出す。俺はそれを齧った。うまかった。
「だが磯部巻のほうが好きだ」
「持ってきます」
 姪は三八秒で戻ってきた。俺の手の中の餅と磯部巻を交換した。齧り掛けは姪が食べた。姪は仕合せそうだった。俺は三二歳だ。
 年上の男と話すのが珍しいのだろう。いらい姪は俺に懐いた。

 ある晴れた土曜日だった。テレビで紹介されたカレーを食べたいと願われて姪と街に行った。手を繋ぎたいとせがまれて断った。
 食べ終える。うまいカレーだった。
「帰ろうか」
「早すぎる」
 昼間の光が姪の黒髪の滴りに跳ね返ってうねる。姪は微弱な非難を篭めて俺を見上げた。
 俺は思った。きみは綺麗だ。成長したらきっと更に。将来有望な人を虐げる機会を与えてくれありがとう。
 プラットフォームに立つ。
「これから用事がある」
「分かりました」
 姪は気丈だった。拗ねなかった。
 姪は俯いていた。生まれてから十三年しか経過してない頬はうつくしかった。地球の大気にまだあまり汚されていないからだろうか。
「進呈します」
 姪がぬいぐるみを差し出した。姪の携帯のストラップに付いていたものだった。
 頂戴した。その時に気付いた。姪の手の甲に絆創膏が貼られている。絆創膏の下に好きな人の名前を書くおまじないを俺は思い出した。理解しがたい。

 滞りなかった。昔に勤めていた会社の女の後輩の家に行き、女の資格の勉強を手伝い、不意に香水を何処に噴霧するか尋ねた。女は髪をかきあげる。ある類の女は年上の男に弱い。
 むきだされたうなじに口付けて性行為を始める。とてもすてきに気持ちがよかった。
 事後に俺は嘘をついた。
「あした休日出勤」

 プラットフォームに立つ。
 風が冷たい。
 最終電車に乗る直前だった。姉から携帯電話にメールが来た。
 姪を一人で帰したことを叱責する内容とともに以下の文面が添えられていた。
 ――姪のぬいぐるみを返してあげて。
 ――あれは貰ったんだ。
 ――ご冗談を。
 あのぬいぐるみは姪の宝物だそうだ。誰にも渡すはずがないらしい。俺は姪のかわいらしい罠にかかったことを知った。俺がむりに姪から奪ったことになっていた。
 姉のメールはこう締め括られていた。
 ――次回の姫の所望はオムライスとのことでございます。

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4 紙片 qbc

 今までなかったことだが掛けようとした相手の番号が携帯電話のメモリから消えている。そんな筈はないがなんらかの切っかけでデータを消去してしまったのかもしれない。或いはそもそも番号を登録していなかったのかもしれない。
 わたしは三二歳だったかもしれない。会社員だったかもしれない。男性だったかもしれない。自分のプロフィルさえ時おりに不鮮明になる。ただ以前に恋人がいるときは別だったのだが。例えば恋人の目が年齢からくるわたしの服装への興味の減退をきびしく監視する。わたしの年収を見張る。わたしがわたしである輪郭は、恋人の言葉が形づくっていた。
 ところで、会社の後輩にひどい物忘れをする男がいた。会社では博覧強記なのだが、社外ではしょっちゅう何かを忘れた。彼はこのほど、五年間の交際の末に恋人と別れた。彼は言うのだ。
「よくよく考えたうえの結論です。分かりますよね、先輩は。だから話しているんですけれども。彼女が言います。
 ――なんでこの前、がんばるって言ったのに、それを忘れるの。
 約束するんです。けど、すぐその約束を忘れるんです。そのたびに彼女は怒る。その都度、俺は忘れないようにがんばるから、って答えるんです。でも、先輩、なんど約束しても俺は忘れるんです」
 わたしたちは喫茶店で話をしていた。彼の顔はしわくちゃの折り込み広告だった。しかし彼はよく喋った。
「どうしていいか分からなくなりますよね、忘れると。相手に対してまずいな、という気持ちと、それから、忘れることなんてどうでもいいじゃないかという気持ち。たぶん約束じたいがどうでもいいから忘れるんだけど、でも、彼女の手前、それは言えないでしょう。傷つけるから」
 優しいかどうかじゃない。忘れないかどうかじゃないだろうか、人間は。わたしは怖くなった。このまま電話番号を忘れたままでいると、わたしは彼のようになるんじゃないか。番号をおもいださなくては。彼のようには。このままでは。もう。
 わたしは机の上の紙の束をひっくり返した。床に散乱する紙片。たしかメモがある。番号を書いたメモが。メモをもらっておいて良かった。あった。番号。きみのか。いやちがう。きみとはちがう名前が書かれてある。それは不注意で濡れてがびがびになっているかもしれない。丸められて潰れているかもしれない。わたしは、懸命に探した。泣きだしてしまいそうだった。もうなにもかもを忘れたくはなかった。

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5 毛にまつわる物語 qbc

 人間はおもしろい。新入社員ガイダンスの最後に、右上をホチキスで留めたB5版のコピーの紙束が配られた。
「小説です。お疲れでしょうが、一時間ばかり割いて明日までに読んできて下さい。短いですから」
 題名は「毛十本」。こんな話だった。
 ――第一毛
 私は毛深い。人を裏切るたび、一本ずつ生えていったからだ。父親を欺き、金をせびったときに腕に一本。母親に嘘をつき、学校を休んだときに脛に一本。そして――

 同期入社は一人。女だ。十人の会社に二人の新卒者が採用された。出社三日目の昼休みに同期が言った。
「第五毛が良い。あなたは?」
「俺は、うん。まだそんなに読みこんでないから」
 「毛」に関する問答は朝から四度目だった。しかもそれぞれ違う人から。あれが好きこれが好き。話題がうまれる。「毛」を間に社内は結ばれていた。例えば第五毛。色の話で、色の名前を知るたび毛が生えていく。この第十毛まである短編集随一のうつくしい幻想怪奇譚だと、読んだときに思った。俺は同期の性格の一端を知った。まるで「毛」は鏡だ。なるほどこの会社はおもしろいことを思いついた。

 二年経った。一所懸命に働いた。会社の理念を理解しようと努めた。楽しい。同期が一昨日に辞めた。辞め際、こう言った。
「私、ほんとうは第三毛が好きだった」
「そうか」
 第三毛は、女が男を一人知るたび、毛を生やす話だ。三毛派であることを告白するのは、女っぽいと思われるのを嫌ったため、と同期は語った。
 俺はずっと彼女のことを五毛派だと思っていた。そう思い、接した。その彼女に対する勘違いが彼女を苦しめ、彼女を退職に追いこんだのかもしれない。嘘はつかないほうが、良いのだろう。信じられないものは、去るしかないのだろう。素直になれないものは、これはかわいそう。

 社長に呼ばれた。
「書く書かないは、自由なんだけれど」
 「毛十本」に代わる物語を書いてみないかと言われた。この質問は、三年目の社員に必ず訊くらしい。また「毛十本」が社長の手になるものだということも教えられた。そこで分かった。なぜ「毛」なのか。社長が禿頭であることに由来しているのだろう。
 九日間、悶々とした。十日目の夜に然るべき気持ちでキィボードの前に座った。会社の役に立ちたかった。キィを叩くうち、指先があつくなる。手首が痺れだし、叩けなくなった。けれども、しばらくすると回復した。ふたたびキィを叩き続ける。続き続ける。

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