つづきまして、#10です。(行数制限のため、#10のみ)
#10 迷いネコみるきー euReka
http://tanpen.jp/200/10.html
秋のページに踏み出したスニーカーの足裏が、ぐんにゃりとした空想の地雷を踏んづけてしまった私は、きっと次の瞬間に爆発しながら砕けていくセカイの匂いや甘い殺意、そして食べかけのシュークリームにさよならを言うひまもなくただ地面に向かってぐきゅーと叫びながらその踏んづけている足元に目をやると、それは空想の地雷なんかじゃなく昔なじみの迷いネコみるきーの柔らかいお腹だった。
この小説は、「私」を語り手とした一人称小説です。「私」のそばには「迷いネコみるきー」がおり、登場人物はこの二人だけです。上に引用した1段落目が少々ややこしく書いてあるので、内容を整理してみましょう。
「秋のページ」というのは、9段落目にある「落ち葉が秋の絵を描き始めた地面」と、おそらく同じもので、落ち葉が地面にたくさんあるのでしょう。そこにスニーカーを履いた足を乗せたと思っていたところに「ぐんにゃりとした」感触があり、見てみると「迷いネコみるきーの柔らかいお腹」を踏んでいた、というのが起きている出来事の流れです。続いて出来事以外の箇所を見ていきましょう。
「空想の地雷を踏んづけてしまった私は」と躊躇なく語っていることから、「私」は、空想したものに接触することが可能な異能者か、あるいは空想を現実と混同する者のどちらかと考えられます。
続いて「セカイ」という語句ですが、5段落目にも「セカイが砕けるほど心地よいネコのお腹」という文で出てきます。この小説では1段落目と5段落目の2箇所に出てきますが、どういった意味で使われているのか定かではないため、推測してみましょう。世界、ではなく、セカイ、と片仮名で書かれてあるところを見ると、セカイ系、という語句が思い浮かびます。Wikipediaの「セカイ系」の項目にある「東浩紀らの定義によるセカイ系」の項では、「主人公とヒロインを中心とした小さな関係性の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと」と書かれています。しかし、この小説がセカイ系と共通性があるのかはまだわかりません。
Wikipedia - セカイ系
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%AB%E3%82%A4%E7%B3%BB
2段落目以降は、「私」と「迷いネコみるきー」の会話が主となっています。拾えそうな情報を探ってみましょう。
「夏は終わったんだね」と、みるきーは私を見上げながら言った。「ほら、彼岸花が揺れて」
夏が終わっているようです。15段落目に「ラジオ体操」「秋ナス」という語句が登場するので、舞台は日本だと考えていいでしょう。そして、ここに登場する彼岸花が花を咲かせているのだとすると、「日本では9月中旬頃に赤い花をつける」とWikipediaにはあるので、その頃だろうと考えられます。
Wikipedia - ヒガンバナ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%8A
以降の出来事をざっと拾っていきます。「私」は「迷いネコみるきー」を踏んづけていた足をどけると、地面に寝そべり、「迷いネコみるきー」の体に指を滑らせます。「迷いネコみるきー」は、「私の空想の地雷に付き合ったせいで内臓が破裂」しており、「肋骨も折れてる」ようです。体を起こした「私」は「缶ビールを飲みながら、食べかけのシュークリームを食べ」ながら「迷いネコみるきー」の話を聞いています(「食べかけのシュークリーム」は、1段落目に「食べかけのシュークリームにさよならを言うひまもなく」として登場しています)。「迷いネコみるきー」が「仰向けに」なって「滝のように血を吐き出し」ながら、「だけど今は、僕を抱きしめて欲しいんだ。君が僕にくれた、お気に入りのバスタオルにくるんで」と「私」に頼むところで、この小説は終わります。
さて、気になるのは、以下の文です。
迷いネコみるきーは、私の空想の地雷に付き合ったせいで内臓が破裂し、咳に血が混じりはじめていた。
「迷いネコみるきー」の「内臓が破裂」したのは、「私の空想の地雷に付き合った」からだと書かれています。爆発に巻き込まれた、ではなく、「付き合った」から、です。「空想の地雷」は、1段落目では「ぐんにゃりとした空想の地雷」と書かれていました。この「ぐんにゃりとした」は「迷いネコみるきー」のお腹の感触で、「私」は踏んづけた「迷いネコみるきー」のお腹を「空想の地雷」と勘違いしていたのですが、声に出してそう言ったわけではなく、考えていただけです。ということは、「迷いネコみるきー」には、「私」が自分のお腹のことを「空想の地雷」と勘違いしていたことはわからないはずです。わからないことに「付き合」うことはできませんから、「付き合った」というのは「私」の一方的な考えであると推測できます。「私」の考えだけにあった「空想の地雷」が原因ではないとすると、「迷いネコみるきー」の「内臓が破裂」したのは、「私」が「踏んづけ」たからだと考えられます。では、どうして「私」は、自分が踏んづけたことを「付き合った」と表現したのでしょうか。
と、その前に、「私」が「迷いネコみるきー」の「内臓が破裂」するまで「踏んづけてしまった」理由を探ります。以下の引用が答えになりそうです。
私は、セカイが砕けるほど心地よいネコのお腹に、そのまま沈んでしまいそうな自分にハッとして足を引っ込めた。
どうやら「私」は、「セカイが砕ける」ほどの心地よさに我を失っていたようです。ここでは「セカイが砕ける」ことが心地よさを強調する言葉として使われています。「セカイが砕ける」については、1段落目にも記述があります。引用してみましょう。
きっと次の瞬間に爆発しながら砕けていくセカイの匂いや甘い殺意、
これは、「ぐんにゃりとした空想の地雷を踏んづけ」たことで起こると「私」が考えたことです。つまり、「空想の地雷を踏んづけ」ることと「セカイが砕ける」ことは連動しているのです。そしてここで、「私」が「迷いネコみるきー」の「お腹」を「空想の地雷」と勘違いしたこと、つまり「ぐんにゃりとした」感触において「空想の地雷」と「迷いネコみるきー」の「お腹」が同等であったことを引いてみると、「迷いネコみるきー」の「お腹」を「踏んづけ」ることと「セカイが砕ける」ことが「私」の中で連動しているとは考えられないでしょうか。もう一度、以下に引用します。
私は、セカイが砕けるほど心地よいネコのお腹に、そのまま沈んでしまいそうな自分にハッとして足を引っ込めた。
迷いネコみるきーは、私の空想の地雷に付き合ったせいで内臓が破裂し、咳に血が混じりはじめていた。
「私」は、自分が踏んづけた事実を「付き合った」と表現しています。私は先ほど、「付き合った」というのは「私」の一方的な考えであって、「迷いネコみるきー」の「内臓が破裂」したのは「私」が「踏んづけ」たからだ、と書きました。しかし、「私」と「迷いネコみるきー」は初対面ではなく、「昔なじみ」なのです。「付き合った」と、言葉で確認を取らずとも確信できる関係性ができていたと考えることはできないでしょうか。「迷いネコみるきー」が実際に「付き合った」のだと考えた場合、「内臓が破裂」するためには「迷いネコみるきー」が「付き合」う必要があったことになり、「迷いネコみるきー」自身の意思が働いていたことになります。とすると、「迷いネコみるきー」は「私」の勘違いを忖度し、自分の「お腹」を「空想の地雷」に擬態(?)したと考えられます。もう一度、以下の引用を見てみましょう。
私は、セカイが砕けるほど心地よいネコのお腹に、そのまま沈んでしまいそうな自分にハッとして足を引っ込めた。
「迷いネコみるきー」の視点でこの文を捉えてみると、前後の段落に抵抗している記述も見当たらないことから、「私」の足が「そのまま沈んで」いくことに納得しているように見えます。「ハッと」した「私」は「足を引っ込め」たわけですが、引っ込めずに「そのまま沈んで」いたら一体どうなっていたのでしょう。おそらく、途中で「足を引っ込めた」にもかかわらず「内臓が破裂」した「迷いネコみるきー」は、死んでいたのではないでしょうか。私は、「迷いネコみるきー」が自分の「お腹」を「空想の地雷」に擬態したこと、「私」の中では「空想の地雷を踏んづけ」ることと「セカイが砕ける」ことが連動していることを書いてきました。そして、「迷いネコみるきー」の「お腹」を「踏んづけ」ることと「セカイが砕ける」ことが「私」の中で連動していると仮定したわけですが、以上を踏まえると、「迷いネコみるきー」が死ぬことは「セカイが砕ける」ことと同義であり、「迷いネコみるきー」が自分の意思でそのことに協力し、それは「私」の考えを忖度した結果で……ということは、「私」が「セカイが砕ける」ことをある程度は望んでいる、と「迷いネコみるきー」が思っている、と考えられるのではないでしょうか。(あるいは、「セカイが砕ける」ことを望んでいるのは「迷いネコみるきー」の方なのかもしれません。)
最後に、もう一度、セカイ系、の定義を引用してみましょう。
「主人公とヒロインを中心とした小さな関係性の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと」
この小説は、「私」と「迷いネコみるきー」を中心とした小さな関係性の問題が、「空想の地雷」を挟んで、「セカイが砕ける」といった抽象的な大問題につながっています。言い換えれば、「私」と「迷いネコみるきー」を中心とした小さな関係性の問題が、「空想の地雷」に擬態した「迷いネコみるきー」を挟んで、「迷いネコみるきー」の死、という「私」と「迷いネコみるきー」にとっての大問題につながっている小説、と呼ぶことができそうです。
(#11へ、つづく)