仮掲示板

第59期・一点買い

#14 暑寒 川野佑己さん

 いろいろと考えちゃった。
 一見すると言語の類似性に関する論文の体裁を取っていて、きれいにまとまっているが、よくよくネットで調べてみると作中の例は嘘話が多い。
 まずヤチ=谷地をアイヌ由来とする説だが、遡れば柳田國男が主張した文献がある。しかしこれを根拠不明確として退ける別解釈が提唱されている様子だ。「他言語との行き来」という展開はともかく、「バツ」を例とした英語と日本語の類似も然り。一致に意味を見出す説もあるが、偶然の一致と考えるのが通例のようだ。なお、大辞林などで「×」は「罰」から転じたかと仮説されている。「バッテン」は「罰点」を充てるだろうか。
 「先に音があり、文字は後から」とあるが、言葉の由来を辿る場合「音に対して直接性の高い話し言葉先に充てられ、書き文字は後」であることに異論を挟む余地はないと思う。動物の鳴き声のように音を書き文字に転化したことが明らかなものを例に取れば――犬や鶏の鳴き声を日米比較してみれば――まあ似ているといえるだろう。
 しかし、音と意味の似る「言葉」が総て同じ音から発したかどうかは、作中で語られるだけではにわかには首肯しがたい。表題の「暑寒」について調べたところ北海道の「暑寒別」という地名がヒットした。暑寒別すなわちソ・カ・ウン・ペッはアイヌ語で「滝・の上・にある・川」を意味する。現代日本語を基本言語として暮らす私にしてみると、果たして何の「音」から「言葉」が発したものか、よくわからない。
 「音」に由来し「意味を与えられた言葉」の「組み合わせ」で地名が作られることも十分ありうる。タナカという地名は田中の意であろうしこれは「田」+「中」という「意味を与えられた言葉」の「組み合わせ」と解釈するのが妥当ではないか。つまりウラワのような地名については、「音」だけの類似性で意味の類似を語ることは難しい、そういうことになるのではないかと思う。
 言語学を学んだことはないが、発祥を同じくしない言語間において、直接的に音に由来するものを除いては、個々の単語について音と意味が似ても偶然の一致、シンクロニシティと考えてよいのではないかと思う。

 長々と書いたのは、実は論旨の矛盾を指摘することが目的ではない。これが論文ではなく川野さんによる創作小説であると私が思っている、ということの表明なのである。そう思ったのは最後の段落で架空の地ウラワへの旅を思う語り手の姿が描かれたためである。まあそこまでは見事に騙されて読んだわけだが。
 ホルへ・ルイス・ボルヘスは短編「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」(「伝奇集」収録)において実在する百科事典の架空のページから架空の都市を調査していく様子を学術調査記録的に(という表現が適切かわからない)書いている。調査媒体が架空のものであることは、解説を読まないとわからない(はずだ)。しかしこれを区分するなら幻想小説であり、調査記録という読み方はしない。(似たような幻想小説の書き方を「クトゥルー神話体系」を編纂したH・G・ラヴクラフトがしているが、ラヴクラフトかクトゥルー神話なら知っているという人はいるのではないだろうか)偉そうに例を挙げなくとも論文や博物誌という学術的体裁を持つ小説はいくらでもある。
 あまりに巧妙すぎて伝わりにくい、という風はあるが、古典を踏襲した民族誌風ちょびっと幻想小説としてしみじみと読むことができるのではあるまいか。
 前期の一連の全感想投票で「せつない≒刹那」理論を展開した私としては「似ているからといって騙されるな」と釘を刺されたと解釈し考えを改めなければならないのかも知れないのだが、こうした言葉のシンクロニシティから良質の物語が派生する可能性があるとか言ってしまって、発展的にまともっぽくまとめたようなあたりでご勘弁をいただきたいというのが本音である。

 ああ、これは感想ですから間違いや調査不足はあっても虚構はありませんよ。

書評の効用

 私などもう自作もしばらく出していないから純読者と言っていいと思うのですが、そういう人間がひと様の作品を読んでみようかなと思うのは、一つには感想で興味を引かれた時、なんですね。
 こういうのはまさにマスコミで書評が担っている役割だろうと思うのですけども、そのために大体世間の書評というのは褒めることになっているんでしょうが、読者としては褒められているから読みたくなるとは限らなくて、やはりその辺は感想の芸、ということになるわけで。
 で、この川野さんの作品、興味を引かれて読んでみたわけなんですが、私は単純な読みで、最近暑いね、中でも埼玉は暑いよ、という話じゃないかと思ったのですが。語り手はこの暑いという現実を拒否して、どこかにアナザーワールドがあるに違いない、というのが主題であって、それを証明するために言語学やら民俗学やらを動員しているんですね。

 当然ながらこれはとむさんの感想に対する異論などではないです。何やら意味不明な点数を添付しながら感想を書いている人がいますけど、(それを否定するつもりでもないです)あれは自分の読解力に対する自己採点かしら。
 この作品に30点とか言ってますが、そんなにわかりにくい話じゃなかろうと思うんですけどね。執筆の背景を考えてみれば見えてくる。

 ただ私が書くんだったら、語りのレベルにおける「暑い」という現実をもう少し感覚的具体的に表現するかなあと思いますが、それは千字という限度もあるし、でも理論の方すこし削ってもいいかもなあと思ったりもして、やはり作品論にはならないのだった。

Re:書評の効用

〉 当然ながらこれはとむさんの感想に対する異論などではないです。何やら意味不明な点数を添付しながら感想を書いている人がいますけど、(それを否定するつもりでもないです)あれは自分の読解力に対する自己採点かしら。

意味不明な点数を付けている本人です(笑)
否定するつもりではないのならば、なぜこのことを引っ張り出したのか説明していただけると幸いです。最後に厭味までくっつけて。

不快ではありますが喧嘩をふっかけようというのではありません。理由がわかれば自分の改善する点も見えてくると思いますので、是非教えていただけませんか?

作品としての書評

 端的にお答えしますと、チキンさんの「評」は全体的にきわめていい加減であり、それを補充する意味もあってとむさんは『暑寒』を取り上げられたのだろうと思ったからです。もちろんこれは私の個人的な感じ方ですが。

 こんなことを言うとまた、一般的な読者の素直な感想を否定する、閉鎖的なサイトだとかなんとか文句が出そうな気がしますが、こういう柄の悪い直言をするのは私ぐらいなものなので安心されたし。
 感想も一つの作品であると私は考えます。当然それについての感想もあり得ます。簡単にいえば、作品をけなす以上、自分の感想文もテクストとしての出来を問われるのを覚悟すべきだと言うことです。

「 論文を模した作品なんだろう。が、実力が足りていない。知識が足りていない。従って粗が目立つ。しかもそれらの粗を己の想像で補えないのがこの手の作品のつらいトコロ。
 少なくとも知識に関しては、地元の図書館に1日でも籠もればそれなりに得られたと思うのだけど。
 30点。 」

 これが『暑寒』評の全文ですが、何を根拠に断言しているのか全く不明な御託宣です。「実力が足りていない」と言うのであれば、どのような理想に対してどこがどう劣っているのか明らかにする必要があり、「知識が足りていない」と言うのであれば、誤謬を具体的に指摘すべきです。さらに「粗を想像で補えない」というのもまた違うので、この作品にいかに想像が使われているか、丁寧に追っているのがとむさんの感想なわけです。
 かくの如く全く読めていないにもかかわらず、「図書館に1日でも籠もれば」なぞというのは全く方角違いであって、「30点」というのはこの作品に対する自分の読解力を告白しているように見えたということです。
 まあここまでズケズケ言ったら、海坂の言い分などもうあと百年は受け入れられそうにないですが、この作品そんなに難しいか?と思うんですけどね。先にも言った通り、この夏の異常な暑さという普遍的な状況を補助線にすれば共感できるのではないかと。

 最後に取って付けたみたいですが、全感想はやはり貴重であると思います。何たって全部の作品に何か書くってのは大変です。それに対してこんな無遠慮に非難するなんてまあひどい人。という批判を、今度は私のテクストが受けるわけです。
 かくして私のような無縁の読者を引っぱり込む作用があるので、やれる人はめげずにやって頂きたい。私もまだ実は『暑寒』しか読んでないんですが、いずれ全作品読んでみようと思ってます。たぶんもうこうして反論することはないと思いますが。

Re:作品としての書評

 まずは丁寧なご返答ありがとうございます。

 つまりは、海坂さんはとむOKさんの尻馬に乗って、気に入らない私の「評」を蔑んでみたってことですね。

 海坂さんのおっしゃるとおり、一度UPしたテキストに反論、異論が出るのは当然だと考えています。また私自信の読解力については反論する意味を持ちません。
 とはいえ、あのような下卑た表現をされる方が「短編」におられるとも思いませんでしたが。今後は気に入らなければ“名指し”で攻撃してください。

 なお、申し訳ありませんが「暑寒」の評については、とむOKさん、海坂さんの感想を読んだ今でも変えるつもりはありません。
 大上段から切り捨てただけの「評」ですので、当然根拠も理由も書いていません。というか、あの文章だけで私の意図を理解してしまったつもりになられたとは正直驚きました。

 読み返したら思った以上に厭味の多い文章になってしまいましたが、今後も変わらぬご活躍を心より期待しております。本心です。

Re*2:作品としての書評

ごめんなさい。誤字です

×また私自信の読解力については反論する意味を持ちません。
○また私自身の読解力については反論する意味を持ちません。

Re*2:作品としての書評

チキンさんへ

はじめまして。横レス失礼します。
ちょっとお話したいと思って、書かせていただきます。


〉 なお、申し訳ありませんが「暑寒」の評については、とむOKさん、海坂さんの感想を読んだ今でも変えるつもりはありません。

なぜでしょうか?
かくいう私が、他の方の批評や感想を読まずに全感想を書いているのは矛盾していますが、その考えも変わりつつあります。「ああ、こういう読み方があるのかぁ」と勉強になると思ったからです。
お互いに、そうかぁ、と思って、変わっていくことがなければ、作品を発表したり、感想を書いたり、掲示板で会話をすることに意味がなくなってしまいませんか。
それこそ、感想のほうが、”広告の裏”になってしまいませんか。


〉 大上段から切り捨てただけの「評」ですので、

どうして、大上段から切り捨てるのでしょうか。
読み手に読んでもらうことをもっと考えたほうがいい、読み手に優しい作品を書き手は考えるべきだ、という意見だったかと思いますが(違ってたらすみません)、私は読者としては、このサイトに対して「こんな素晴らしい作品を無償で公開してくれて、読ませていただけるなんて」というふうに受け取っています。そんなふうに卑下するのがおかしい、と言われそうですが、これについては最後に書きます。


〉当然根拠も理由も書いていません。というか、あの文章だけで私の意図を理解してしまったつもりになられたとは正直驚きました。

誰だって、書いてあることしか、わかりません。
それなのに、書いてあることに対して返事を書いた方に対して、「あれで私の意図のすべてがわかったと思うなんて」というのは、発言していないことまですべて理解しろ、と、無理難題を言っているように思います。

どうして、根拠も理由も書かないことが当然なのですか。
それをきちんと書くべきではないですか、というのが、海坂さんの指摘ではないのでしょうか。(と、私は人の発言していないことを勝手に想像する悪い癖があることをお詫びします。海坂さん、他にご不快に思われている方、すみません)



読ませていただいている、という言葉は、卑下しているわけではありません。
まず、ここは自分が運営しているサイトではありません。そして、すでに常連の方たちが集まっていて、場が出来上がっていました。それを崩してはいけない、ということもないとは思いますが、違う趣旨の作品を読みたいのなら、自分の読みたい作品が集まる場所を探すなり、自分でそういう場を作れば良いのではないかと思います。(その意味では、常連の方たちが優しく迎え入れてくれるから、ぜひ投稿したい方は投稿することをおすすめします、なんて、勝手なことを言ったと反省しています)

同人誌のようになっている、という、どなたかの発言もあったかと思いますが(タンソさんだったかな…指名しないのではなく記憶力が悪くて覚えていない&確認する時間が惜しいだけです)、個人サイトなんて同人誌みたいなものではないでしょうか。そして個人サイトはたくさんあるのですから、自分の肌に合う場所を探すのが良いのではないでしょうか。私など、このサイトは、良い意味で、古き良き時代の、文学系の同人誌のようだと思いました。だから、そこに参加したいと思いました。
でも感想を書くと、自分の文学的素養のなさから、ろくなことが書けなくて、読みの浅さに自分で自分が嫌になります。それでも、感想や評をいただいてありがたいと思うから、自分なりに書いています。でもそれも、もう少し、逃げないで、評に少しでも近づくことを考えたほうが、自分の勉強になるかもしれない、と思いつつあります。

医療にしても政治にしても、情報開示を市民が求める時代です。けれど、開示された情報を的確に判断する能力が、市民には求められるわけです。ただ「つまらない」と思って、その作家の本を買わなくなるだけの読者から、こうして作者と読者の会話が可能な時代における読者の在り方を、考えるべきなのではないかと思います。

しかも、どちらも無償での行動です。忙しい読者、というタンソさんの言葉もありましたが、作者だって忙しい中、書いているのだ、と思えば、お互い様ではないでしょうか。そもそも、読み手、書き手、と分ける意味が、私にはよくわかりません。どちらも、ただ、人だと思うからです。作品という形で発言するか、感想や投票という形で発言するか、ではないでしょうか。

とはいえ、このサイトを離れた個人としては、「趣味のものは好きにやったらいい」という思いがあります。投稿作品に対して、改行の多様や、逆に改行のない文章は、小説としてどうかと思う、という思いはあるけれど、それがネットでの文章の新たなあり方だという考えもあるので、今までそれについて指摘するようなことをしてきませんでした。でも、そのせいでこのサイトのあり方を崩しているのかもしれないと思うと、次に自分が全感想を書くときは、もう少し考えなければならないと、私自身は思いつつあります。
チキンさんは、どう思いますか。

チキンさんの書評について(Re*3:作品としての書評)

チキンさんの書評はなかなか鋭くて面白いです。

チキンさんの表現をかりれば、海坂さんが「かみつかれた」のは得点をつけている点ではないかと思います。私も「大上段から切捨て」云々についてはともかく、得点をつける必要はなかったんじゃないか、と思います。つまり、得点をつけることによって「評者」であるチキンさんがある種の権威をもってしまう。

たとえば、今回のハンニャさんの感想95点!(すばらしい)チキンさんは10点!(ぜんぜんだめ)と書いたとすると、やっぱりチキンさんはムカつくでしょう。ハンニャさんはもしかしたらうれしいと思うかもしれない。もちろん、これは例えですよ。私は前半部分の緊張感のあるチキンさんの感想をすばらしいと思っています。どうぞ、来期も書いてください。

ちなみに話題になっている「暑寒」については私もややチキンさんと同意見です。暑くて読めなかったです。

Re*3:作品としての書評

こちらこそはじめまして。

〉〉 なお、申し訳ありませんが「暑寒」の評については、とむOKさん、海坂さんの感想を読んだ今でも変えるつもりはありません。
〉なぜでしょうか?

 このことを説明しようと思うと、拙い私の表現力では最初から説明せざるを得ず、長くなるのでできれば避けたかったのですが。とはいえ私は物書きではありませんので表現のヘタなところはギュッと目をつぶってください(笑)

 まず、この作品(に限りませんが)の私なりの読み方として、一読したあと、この作品のキーマンである語り部のシチュエーションを考えます。で、今回想像できたのが二つ。
 ひとつ目が、「真夏の昼下がり・日本家屋の居間で、となりには縁側。居間と縁側の間の障子戸は解放され、そこから日差しが差し込んでいる・うだるような暑さの中で、扇風機の横に寝っ転がっている男性(or扇風機の前であぐらをかいている女性)・全身汗だくの男性(女性)は右手に団扇を持ち、シャツの襟元から風を送り込んでいる」パターン。これをパターンAとします。
 ふたつ目が、「夏ではあるが時間帯は不明・クーラーの効きが悪い薄暗い書斎・人物(性別不明)が机(orパソコン)に向かって集中しながら物書きをしている・人物の額にはうっすらと汗」のパターン。これをパターンBとします。
 他にも考えられるシチュエーションはありましたが、この作品と合わせたときにどれもあまり面白くはならないので外しました。

 パターンAの場合、語り手は自らの暑さからの現実逃避のための思考に身をゆだねて語り、その思考の最後に、『シベリアのどこかに……』と、オチにつながります。
 また、パターンBの場合、論文あるいは記事(雑誌記事?投稿記事?)を書くための思考が「語り」になっており、最初は論理的であったものが暑さの所為で徐々に崩れ、最後にこの論が正しければ『シベリアのどこかに……』と、語り部の本音がオチにつながります。

 私は当初(正確には黒田皐月さんの記事193を読んだあとですが)、タイトルの「暑寒」を暑寒=ショカン=所感の暗喩と考えており、パターンAがこの作品にはふさわしいなと考えていました。また、パターンAだと理論展開に多少のウソや矛盾が含まれていても思考のながれるに任せた結果として片付けられます。
 しかしながら、パターンAだとすると作品全体に流れる固い口調(考慮すべきは……、解釈できる等)に非常に違和感があり、徐々に考えがパターンBの方がふさわしいのではと考えるようになりました。パターンBであれば、最低限のウソや矛盾を無くさないとオチの面白さが引き立ちません。従って、私の「暑寒」に対する評につながります。

 とむOKさんや海坂さんはたぶんパターンAが正しい読み方である(語り部のシチュエーションが私の想像どおりとは思いませんが)と主張されているのだと思いましたが、私はパターンBがふさわしいと思っていますし、何も読み方はひとつだけではないのだから、別にいいんじゃないかなーと思います。


〉お互いに、そうかぁ、と思って、変わっていくことがなければ、作品を発表したり、感想を書いたり、掲示板で会話をすることに意味がなくなってしまいませんか。

 正直に書きますが、とむOKさんの書き込みを読んだときには「そうかぁそっちの方か」と思いましたが、残念なことに海坂さんの書き込みを読んで素直に「そうかぁ」と思えるほど人間ができていません。


〉〉 大上段から切り捨てただけの「評」ですので、
〉どうして、大上段から切り捨てるのでしょうか。
〉読み手に読んでもらうことをもっと考えたほうがいい、読み手に優しい作品を書き手は考えるべきだ、という意見だったかと思いますが(違ってたらすみません)、

 はい、そのように主張したのは私です。ただ、言い訳をするならば、今回の一連の「評」について、ひとつひとつ解説するためにはとてもじゃないけど時間がありませんし(上記の「暑寒」について書いたものは約2時間弱です)、また掲示板は作品と違って双方向でやりとりができるので、わからない「評」についてはその都度、質問してもらえばいいや。と考えていました。甘かったようですね。
 質問が前後しましたが、大上段から切り捨てたのは、どうしても3行程度まででは上手くまとめられなかったからです。ココだけ空欄ってのも変だなと考えた末です。


〉〉当然根拠も理由も書いていません。というか、あの文章だけで私の意図を理解してしまったつもりになられたとは正直驚きました。
〉誰だって、書いてあることしか、わかりません。
〉それなのに、書いてあることに対して返事を書いた方に対して、「あれで私の意図のすべてがわかったと思うなんて」というのは、発言していないことまですべて理解しろ、と、無理難題を言っているように思います。

そうですね、誰だって書いてあることしかわからないと思います。
ところが海坂さんは、
〉さらに「粗を想像で補えない」というのもまた違うので、
〉かくの如く全く読めていないにもかかわらず、「図書館に1日でも籠もれば」なぞというのは全く方角違いであって、
と、なぜ「粗を想像で補えない」と書いたか、なぜ「図書館に1日でも籠もれば」と書いたかを理解して(その上で否定して)おられる様子でしたので驚いただけです。


〉どうして、根拠も理由も書かないことが当然なのですか。
〉それをきちんと書くべきではないですか、というのが、海坂さんの指摘ではないのでしょうか。(と、私は人の発言していないことを勝手に想像する悪い癖があることをお詫びします。海坂さん、他にご不快に思われている方、すみません)

 えーと、困ったな。
 「根拠も理由も書かないことが当然」ではなくて「大上段から切り捨てただけなので“当然”根拠も理由も書いていません」と発言していますよね。
 また、話の流れとしては、私の根拠も理由も書いていない「評」があって、それに対して海坂さんが「きちんと書くべきだ」と指摘しておられます。それを遡って私の「評」に根拠や理由を書き込むのは不可能ですよね。
 もっとも、この点について私は不誠実だったと思います。海坂さんのご指摘の通り、今後はできるだけ根拠や理由を入れるよう努力します。読解力はどうにもなりませんが。


〉チキンさんは、どう思いますか。

 私なんかはかなり“荒らし”に近い存在で好き勝手やってますので、いつ「出て行け!」と言われるかわかりません(笑)
 今回の件は海坂さんの「侮蔑的表現」にカチンときて噛みついたことです。またその根底には、読解力の低い人間は「悪」「不要」的な風潮も感じ取れます。

 なべさんは書き手も読み手も同じ“人”なのだから分ける意味がないと書かれていますが、書き手にとってはこれほど解放されたサイトはないと思います。一度投稿してしまえば、必ず反応があります。もちろん歓迎ばかりではなく、手痛い批評がある場合もあるでしょう。しかしながら、それは書き手にとって覚悟の上での投稿ですので次へのステップだと考えれば受け入れることができます。

 一方で、書き手は作品を発信しなければ始まらないのに対して、読み手は受け取るだけ受け取って発信する必要はありません。感想や投票という形、特に掲示板において反論をおそれず感想や評論で発信できる人は少ないと思います。一度手痛い反論を受ければ、再度発信しようと思う人はさらに少なくなります。これは発信する目的が違うからです。感想に次のステップはないですよね。より立派な感想を書こうと奮起する人であればいずれ書き手になるのではないでしょうか。

 私自身は10人の読者がいれば彼らの読解力に応じて10通りの読み方がある。と信じている人間です。ですから己の読解力を理由に掲示板に書き込むのを尻込みさせるようでは読み手にとってはまだまだ閉鎖的なのかなーと思ったりもします。

 私自身については今後も飽きるか「出て行け!」と追い出されるかするまでは拙い読解力と拙い表現力で発言していくんじゃないかなと思います。というか、いくらあなたの読解力は低いですよ。と言われたところで一朝一夕じゃあ何ともなりませんし。

ぐあ、気がついたら4時間も書いてるよ。明日起きられるか非常に不安(笑)

面白い読みではありますが

 私もしつこいね(苦笑)皆さん生産的な仕事をしてるのにいつまでこんな絡んでるんだ自分。

〉 とむOKさんや海坂さんはたぶんパターンAが正しい読み方である(語り部のシチュエーションが私の想像どおりとは思いませんが)と主張されているのだと思いましたが、

 とむさんのことは知りませんが、少なくとも私は全く全然そんなことは考えませんでした。語り手(語り部ってのもちょっと変わった用語ですな。民話か昔話か)が扇風機に当たっているかクーラーに当たっているか、縁側にいるか書斎にいるかなんて関係ないと思いますけど。
 ま、これは揚げ足取りに類する話で、チキンさんは「論文」かただの「意識の流れ」かという点を問題にしてるわけですね。
 でも私の見るところ、残念ながらそれも関係ないのですね。なぜか。そんなことは書いてないからです(笑)もう少し判りやすく言えば、このテクストは観念・思念だけを純粋に表現しているのであって、語り手のことは極限まで切り詰めてある。その結果、最後にかすかに出て来た「暑い」という情報がきわめて印象深く刻みつけられるわけです。

〉と、なぜ「粗を想像で補えない」と書いたか、なぜ「図書館に1日でも籠もれば」と書いたかを理解して(その上で否定して)おられる様子でしたので驚いただけです。

 申し訳ありませんがこのくだりは何をおっしゃりたいか理解できません、と申し上げておきます。煙に巻かれた気分です。

〉 今回の件は海坂さんの「侮蔑的表現」にカチンときて噛みついたことです。またその根底には、読解力の低い人間は「悪」「不要」的な風潮も感じ取れます。

 侮蔑だ侮みだと連呼されるのもなんか人聞き悪いよなーと思うんですけど、まあ、そう感じられたのでしたら、お気の毒さまでしたと。
 その上でさらに遠慮なく言わせてもらえば、チキンさんってテクストの読みにおいて感受性豊かなんだなあと思います。これは確かに一つの才能です。『暑寒』の語り手の造型なんか、普通に読んでたら出来ません。
 ただやっぱり書いてない事を勝手に読むのはよしあしで、読解力の低い人間は悪とか不要とか言われても、そんなことは誰も露ほども考えてませんよ、としか言いようがない。
 ただ私が思うのは、読みが低い状態、ほど悪であると。だから最悪なのは作品のみ二十いくつか存在して票感想も一切ゼロ、掲示板も皆無。誰も読んでないんじゃないかという状態ほど不幸なものはないでしょう。
 そして少しずつ読みは精密化されていかなきゃいけない。掲示板等に発表された感想は、だからみんなの共有財産なんだと私は思います。誰が正しいとか能力が高いとか気にする必要はないので、早い話が、チキンさんの書き込みがなかったら私は『暑寒』についてこんなに考えて書きませんでしたし。

Re:面白い読みではありますが

文字だけでの意思の疎通ってホント難しいな。と改めて思います。

〉 でも私の見るところ、残念ながらそれも関係ないのですね。なぜか。そんなことは書いてないからです(笑)もう少し判りやすく言えば、このテクストは観念・思念だけを純粋に表現しているのであって、語り手のことは極限まで切り詰めてある。その結果、最後にかすかに出て来た「暑い」という情報がきわめて印象深く刻みつけられるわけです。

 実のところ、なぜ海坂さんがここまで「読み方」(解釈の仕方と言った方が良いのかな?)にこだわられるのかが、全くわからないのです。
 ですからせっかく解説いただいても、海坂さんのような「読み方」はできません。と申し上げるしかないのですね。結局のところ私は私なりの、海坂さんのおっしゃる「感受性豊か」、にしか読めないんです。
 私は読者がそれぞれ(私は私なりに、海坂さんは海坂さんなりに)勝手に読んで、勝手に解釈すればいい。その結果楽しめればもっといい。と思うんですけどそれではダメなんですかねぇ。

しばらく留守で

失礼しておりました。

 「暑寒」(川野佑己さん作)の感想については、「こう読んだら面白い」と自分が思うことを書いているうちにできあがりました。たくさんの記事がついていてびっくりしました。他の方の感想も読ませていただきましたが、それに異見しようとかそういう意図ではありませんです。

 つけていただいた記事を読んで、改めて自分の読み方を考えることができました。海坂さんの仰るように、もっと語り手個人の感覚に引きつけて読むという読み方をしていなかったなあと思います。また、チキンさんのように、語り手の姿と物語を想像するということもしていませんでした。
 また「暑寒」について「暑寒別」を持ち出したのは文章が地名の音と意味を論じるスタイルを採っており、アイヌの地名の音を日本語の漢字表記に転じることが例として出されていたためです。「暑寒」=「所感」は考えないでもなかったのですが、より凝った見解を打ち出すことを優先してしまったに過ぎず、今はもっとシンプルに、「所感」の音から転じたと解釈してもいいのかとも思っています。


 ところで点数をつけることについて議論が出ておりますが、私のような小心者からしてみると、人の作品を点数化して評価するという姿勢で読み、かつ記事を出すなんて度胸のある真似は到底できません。

 チキンさんに向けての私の意見として申し上げますが、「評価する」という言葉を用い点数をつけて感想を出した場合、単なる「読者」ではなく「評価者・採点者」と自分を位置づけることになります。これは自分がそう思わなくても、周囲から「評価して点数をつける人」と見られるわけです。
 「評価者・採点者」として見られる場合、その人の文章は「読んでどう感じたか(思ったか)の個人的感想」ではなく、「ある基準に照らした作品の客観的批評」と判断されます。すると、その人個人の思いを書いた、というだけでは済まされず、その判断根拠と配点方法の妥当性が他者から問われる、そうした事態に晒されます。根拠が書かれない限り問われ続けるもので、書いたら書いたで妥当性が議論されます。そういうことがあっておかしくないだけの言葉の威力が「評価」「点数」にはあるのだと思います。


 「評価」ということとは少しずれますが、掲示板における読者感想投稿は、出版社の読者アンケートのように一方通行のものとは異なります。つまり無謬の侵しがたいものとして絶対的に許容されるのではなく、他の読み方をする人の目に晒され、場合によっては感想も批評されるわけです。チキンさんが私の感想や海坂さんの感想を読んで何かを感じ取られ、それについての感想を入れつつ、返信の形で作品感想を再度お書きになっているように。

 海坂さんの言葉をお借りすると、「感想も一つの作品であると私は考えます。当然それについての感想もあり得ます。簡単にいえば、作品をけなす以上、自分の感想文もテクストとしての出来を問われるのを覚悟すべきだと言うことです」に近いものとなります。チキンさんが語っておられる「一度投稿してしまえば、必ず反応があります。もちろん歓迎ばかりではなく、手痛い批評がある場合もあるでしょう。しかしながら、それは書き手にとって覚悟の上での投稿ですので次へのステップだと考えれば受け入れることができます」ということが感想というテクストにも当てはまり、人に覚悟を求めるなら自分も評価される覚悟を持て、ということにもなるわけです。たとえ個人的な感想であっても、感想の文言に対して批評が行われるのは、そうした理由によるのです。対話型の掲示板である以上、それを止めることは難しい。誰だって自分の好きな作品がけなされれば文句の一つもいいたくなるってものでしょうね。

 いずれにしても私を含めて、十分な覚悟ができている人だけが作品を投稿し、あるいは感想を書いているわけではないことは、何となくおわかりいただけているのではないでしょうか。


 さて、「評価」に話を戻しますが、「短編」に投稿される作品をあえてジャンル分けしようとすると、ライトノベルを意識して書かれたもの、文学志向の強いもの、ショートショート的なもの、ジュブナイルを目指していると思われるもの、などかなり多彩です。そして、それらを一つの評価で括ることは困難です。これら複数の方向を向いた作品にはそれぞれの面白さがあり、あるいはそれぞれの作品に(異なる、あるいは類似の)努力の必要な部分があるのだと思います。

 商業誌レベルの話を例に出しますが、例えば先日芥川賞を獲った諏訪哲史氏の「アサッテの人」(群像新人賞受賞作)が電撃大賞を受賞できるかと言えば多分そうではないでしょう。宮部みゆき氏は「龍は眠る」で日本推理作家協会賞、「理由」で直木賞、「蒲生邸事件」でSF大賞を受賞しています。「蒲生邸事件」は直木賞候補にもあがったようですが、作品を取り替えて他の賞を受賞できるわけではないように思えます。

 そういうわけで、小説の「評価」は多様であるため、「評価」あるいは「点数化」には慎重にならざるを得ない、というのが私の意見です。


 私個人の話になりますが、私は読み方も偏っておりますし、人様の作品に点数をつけるほどたくさんの本を読んだわけでもないから、評価するというのはおこがましいと思っています。そのくせ内面では、自分の基準に照らして評価しようという姿勢が、いくら消し去ろうとしてもどうしてもどこかにあるのです。それはそういう読み方をしてきたからです。だから読んで感想を書いても、どこか評価めいていたりします。
 したがって、感想を公開する時はかなり推敲します。自分の性癖に撹乱されずに、伝えたいことを人にわかってもらうためには、言葉に慎重にならざるを得ない、と思うからです。推敲してこの程度かと言われれば、まあそれまでなのですが。

 しかしそれはあくまで私のことであって、他の方が素敵だと思った作品を素直に素敵だと表現することを制約するものではないと思っています。お互いの感想をきっかけとして、良い対話が生まれるといいですよね。


追記。

 親記事における私の記述に不正確な部分を発見したしました。

> 似たような幻想小説の書き方を「クトゥルー神話体系」を編纂したH・G・ラヴクラフトがしているが、

→「ク・リトル・リトル神話体系」などに収められるH・P・ラヴクラフトの作品に似たような幻想小説の書き方が見られるが、

 以上の様に読み替えていただければ幸いです。

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