まさかニーチェと並べられるとは思いませんでした。恐れ多い(笑)
これはあくまでテーマでしかないんです。読者の皆様に伝わればそれに越したことはありませんが、伝わらなくてもひとつの物語として楽しめるそれが理想です。ですから、自分の解説抜きで、アイディアが奇抜であるとかただ単に面白いというような、物語としての感想を頂いても素直にうれしいんです。
ということで、返信をば。
連夜で自作解説に力を入れてしまいますが、今期ばかりは大目に見てください。
既出の解説とダブっている部分もありますが、そこも大目に見てください。
>これは後からつけたした理屈ですか? それとも最初にこのメモがあって、
確かに後付に見えるかもしれませんね。あえて否定はしません。ただ今思いついたわけではないですよ。自分の1000文字小説の創作方法は基本的に物語の軸となる発想とテーマを選んで、そこからリンクしそうな中継地点となるガジェットをつくることから始まります。
>それをもとに方程式をかくように小説にしたんでしょうか?
たとえば、本作ではまず最初に脳の保存と人間の無知というテーマがあって、その流れで保存方法に“漬ける”を思いつきました。では、“漬ける”という行為の意味合いは何だろうと考えて、“発酵”させることだと導きます。
では、“発酵”と人間の無知を繋げるにはどうすればいいか。
長期間漬け込まれた脳はどうなるのか、漬け込んでいる間の人間はどうしているのか、そもそも脳を取り出したときに“思考”はどうやって生まれるのかetc.を考えたときに、はじめて脳の“思考”≠人間の“思考”という式が生まれました。それに沿って論理的に話を詰めていったのです。
ただ、本作では特に顕著だったのですが、論理が物語に飲み込まれる瞬間というものがあります。つまり、テーマの軸と一緒に物語の軸も存在し、どちらの軸が主軸になるのか分からなくなる瞬間です。
本作でいう物語の軸とはそれこそ祖父ちゃんの存在になります。この祖父ちゃんの存在が結末を二つ作ることになる原因でもありました。
現在のラストは物語の軸に飲まれた結果です。だからどうにも気に食わなかった。
ですが本作では“思考の分断”というテーマで定めていました。脳が題材ですので作中の命題はそのまま現実の命題でもあると考えたのです。ということは、“思考の分断”をメタ的に用いて、作者としての自分の思考/嗜好/志向を分断することも表現としては間違いではないのかなと考えた次第。物語として楽しんでもらえれば……、というのはそれに則したものです。
物語の軸とは、それこそショートショートの優等生的なオチの形。もちろん、それを狙って作品を書くことがありますが、本作の場合はそうではありませんでしたので。
ですから、ブログに載せたものは最終的にまとまったテーマの全体像であり、最初からすべてのものが揃って書き始めたわけではありません。
大方、解説で言及している部分は当初から頭にあったものですが。
>それで石川さんは1000字でこの問題に答えをだせずに2パターンつくった、
確かにそのとおりです。自分で答えが見出せなかった。
>と。つまり、石川さん自身が「問い」はつくったけれども「答え」がうまく
>導けなかった、と。
ただし、二つのラストは「脳は考えるところにあらず」:「脳こそ考えるものである」という問いに対する別々の解答として用意したものではないんです。
「脳は思考する部分であり、記憶を貯蓄する部分でもある」
わざわざそこに踏み込んで、書いたものがアナザーラストです。つまり答えが見出せなかった問いは「脳は思考回路なのか、単なる記憶中枢なのか」という命題に対してでした。
脳という存在を“思考”に限定するのが腑に落ちなかった故のものですが、あえて“思考”に限定してしまったほうが分かりやすいと思ったのでした。
結局、脳が何なのかは今の今まで答えが出せずにいます。
>・・・・・・ただ、哲学として面白くても小説として「設計図」どおりに書く書き
ええ、おっしゃるとおりです。
>方がいいのかは個人的には、よくわからないです。
ですから自分の解説は作品を楽しむ上で、参考にしてもらいたくなかったのです。“脳を漬ける”というアイディア自体、(皆さんからありがたいお言葉を頂戴したように)自分でも面白いなと思って採用しましたから、純粋にそれを楽しんでいただければと思っていました。
それが投票終了後に解説を掲示した理由でもあります。いい意味でも悪い意味でも作品に影響を与えたくなかったので。
それ以前に自作解説ほど恥ずかしいことはないですね。
蛇足ですが、自分の1000文字小説観を。
1000文字小説は文字数が限られていますし、特に書き込める内容が少ない形式です。
だからといって、1000文字という枠に見合った内容で終わらすにはもったいない気がします。文字が少ないということはそれだけ、読者の想像が介入する余地も引き出せるということであって、奥行きは作者の思いと腕次第で無限に広げられますよね。自分が1000文字小説を書き始めたのは、そこに惹かれたからです。
ショートショートの大家・都筑道夫氏のショートショートの定義は《長編が長い棒の端から端、短編がそれを任意に切った端から端、ショートショートは棒を縦にして小口から覗かせたもの》だそうです。
つまり、見えているのは表面だけで、その奥には棒一本分の奥行きがあると自分は解釈しました。1000文字は短すぎず長すぎず、作品練成の手段としては最適かと思っています。
一種の実験ですね。短い文の奥にどれだけのものを封じ込められるか。
だから、1000文字小説はやめられないのです。
今後もまたお世話になるかと思います。
拙作をお読みいただく際は、奥行きに潜む作者なりの論理を想像してもらえたら、より一層楽しめるかもしれません。まったくつまらない作品の場合もあるかと思いますが、その時はまあ……大目に見てください(笑)
ふつつかな作者ですが、全作感想とあわせて、今後ともよろしくお願いします。