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 三浦さん、解説ありがとうございます。
 逐語でここまで細密に分析していただけるというのは、滅多にないことなので、実にありがたいです。何を書いて、何を書かずに表現するか、その拘りどころを驚くほど正確に見抜いておられます。
 私が「結びつけたかった」ものが何かについては、主人公が男の子に使った「普通」という言葉を、私がもっと気をつけて扱っていれば、違った読み方をしていただけたかも知れません。


サトゥルヌス 三浦さん


 「サトゥルヌス」はローマ神話の農耕神ですが、有名なゴヤの(トラウマティックにグロい)絵「我が子を食らうサトゥルヌス」に描かれた如く、「子殺し」の神でもあります。
 wikiでは「自己の破滅の恐怖」が子どもを食らい殺す原動力であるとの解釈ですが、それを残虐に描いたゴヤと、同じ時代の人びとが「子どもを殺す親」をどう見ていたのだろうか、という想像も膨らみます。
 神話の語られたであろう古代に遡ってみると、飢餓と隣り合わせの日々の暮らしの中で人減らしのために堕胎や嬰児殺しが行われていた状況があります。「農耕神が子殺しの神でもある」というのは、その状況を反映しているのでしょうか。子どもが親の所有物としてその命に軛をかけられ、親のサバイバルの犠牲になっていたわけですが、神話を語り継いだ人びとは、そのようなやるせない自分たちの世界を、どのように感じていたのでしょう。

 現代の三浦さんの「サトゥルヌス」の物語では、主人公は女性、この女性による「父親殺し」で物語が始まり、最期に「六人」の男女(子ども)を鎌で斬殺する「子殺し」の結末になっています。
 文中で誰をサトゥルヌスに擬しているのかは明示されませんので、私は最初は父親をそれと見て読みましたが、どうやらそうではない。では女性の方かと思うと、単純にそうとも思えない。
 そこで私は「連鎖」と捉えることにしました。

 親子関係をテーマに論じる社会評論家の芹沢俊介氏が、
「親殺しの前に、親による子殺しが先立つ」
というニュアンスのことを著作で繰り返し述べていたのを漠然と覚えているのですが、これは昭和後期に社会問題化した「家庭内暴力(親殺し)」の背景にある親からの圧力をみごとに指摘していますし、現代では親子の加害・被害の関係が逆転した形で顕在化していることがわかります。つまり「児童虐待(子殺し)」です。「殺す」は物理的に命を奪うことだけを指してはいません。殴り、謗り、子どもの人格を傷つけ損なうことも含まれます。
 また、児童虐待は「連鎖」する――つまり、親から虐待を受けた子が自分の子を虐待するようになることが少なくない、と、言われています。親子の間で「子殺し(虐待)」から「親殺し(家庭内暴力)」に反転するだけでなく、次世代の「子殺し」に連鎖するのです。「殺し、殺される親子」の関係は、世代を超えて連鎖してゆきます。
 三浦さんの物語はまさに、この「殺し、殺される親子」の連鎖の風景、「親に殺され、親を殺した子どもがどう生きてゆくか」を丁寧に追って描いています。罪なき被害者が復讐者となり、それで満たされることはなく、寄る辺ない放浪者となり、やがて被害者意識のまま同じ加害者の立場に辿り着く。
 だから、主人公に子どもが生まれると「その子が成長していくにつれ、父を殺す夢を繰り返し見るようになった。」のであり、最後には子どもを殺して「父を殺した理由なら一つ一つ挙げられる気がした。」のでしょう。
 この苦しい遍歴は、主人公を変え、あらゆる時間、空間で繰り返されています。決して他人事ではありません。


 一読者として欲を言えば、ということになりますが、この連鎖の先に何を提起するのか、というところが気になります。もちろん簡単なことではないと思いますが、三浦さんの物語が、連鎖の中で生きる苦しみ(あるいは、虚無?)に寄り添っているのだとすれば、連鎖を断ち切って生きようとしている人びとに寄り添って書いたなら、どんな物語になるんだろう。そんなことを空想しました。

(とむ)

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