仮掲示板

第200期を読む その7

つづきまして、#11です。(行数制限のため、#11のみ)



#11 C'est tout とむOK
http://tanpen.jp/200/11.html

 この小説は「あたし」を語り手とした一人称小説です。まずは、「あたし」のプロフィールを探ってみましょう。

   濡れた黒い舗道をローファーで蹴って、高校前のバス停、古い物置を縦に割ったような待合所にかけ込む。

   一瞬あたしを見上げた顔は同じクラスの(誰だっけ)。

 「あたし」は高校生だと考えられますが、性別は明らかではありません。「小六の夏」に中学生の「男の子」を好きになったことが、9段落目に書かれているだけです。上の2つ目の引用に登場する「(誰だっけ)」は、「いたって普通の男子」のことであると、6段落目に書かれています。「あたし」の両親についての記述はありますが、現在、両親と同居しているなどの家庭環境はわかりません。
 さて、この小説は、以下のように分けることができます。

   現在:1段落目から8段落目と、16段落目から22段落目
   回想:9段落目から12段落目
   語り手の思い、あるいは心象風景:13段落目から15段落目

 それでは、流れを追ってみましょう。季節は「初夏」です。「午後遅く」に、「あたし」は「高校前のバス停」がある「待合所にかけ込」みます。「鮮やかな空が、急に昏くなった」ことから、夕立にでもあったのでしょう。待合所の「板壁の傍」には「同じクラス」で「バスの人」ではない「いたって普通の男子」が「屈ん」でおり、「あたし」に声をかけられても「膝を抱え」たまま「スマホを見」ているだけです。「あたし」も「そこに誰もいないみたいに、ヘッドフォン」でチェロの演奏を聞きながら外の「雨音」に意識を向け、目をつむり、「森の奥」にある「泉」を思い描き、そこで「手を伸ば」します。しかし、「野太いほどのアルトの不協和音。麦茶色のいかつい膝、膝」と書かれた複数の人物が持つ「ぱんぱんのスポーツバッグ」に押されて「あたし」の「膝」が「(誰だっけ)の脇腹に当た」り、彼の「呼吸」を意識してしまうと、そのことが「小六の夏、好きだった男の子」との思い出を呼び起こし、回想に入ります。「好き」だった「中学生」の「男の子」が住んでいるらしい「スナックの二階」に招かれた「あたし」は、「キッチンで電話をしている、甘ったるい、化粧くさい声」を聞きながら、「男の子」にさわられそうになります。「触れられるのはまだ怖」かった「あたし」が拒むと、「お前って、普通んちの子だもんな」という「ざらりとした虚ろな拒絶」に遭います。この言葉に「あたし」が「軋んだ」のは、「どうでもいい、と、普通、は似ている」からだと説明されます。回想が終わると、今度は「あたし」の両親について語られ、「家族のために家族を見失った」「仕事中毒のパパ」と、「パパがいない夜を」「空っぽの段ボールで埋めた」「通販依存症のママ」が登場します。そこからさらに、「泉」のイメージが、「幼い頃」「最後に」「家族で見た」「古い映画のシーン」であるという告白が続き、「スクリーンの中と外」で「あたし」が「繰り返し」「手を伸ば」しては「何度も絶望」していることが語られます。ここで再び現在に戻り、「機銃掃射みたいに荒々しいディーゼル音」を響かせてバスが到着します。「湿ったスニーカーの重い足音が、次々とステップを昇り、箱の中へと呑まれて」いき、「麦茶色のいかつい膝、膝」たちが「待合所」を出ていきます。しかし「あたし」はバスには乗らず、「いま乗った麦茶色の顔たち」を見送ります。そして、同じく「待合所」に残っていた「(誰だっけ)」の「頑なな背中」に「手を伸ば」し、「指先」で触れます。以上が、この小説のあらすじです。
 次に、細部を拾っていきます。

   そこに誰もいないみたいに、ヘッドフォンから低く流れるチェロと、雨音に体を預ける。

   野太いほどのアルトの不協和音。

   膝から聞える。灰色の背中、濡れた呼吸に息が詰まる。

   キッチンで電話をしている、甘ったるい、化粧くさい声。

   機銃掃射みたいに荒々しいディーゼル音が、目の前の路上に止まる。湿ったスニーカーの重い足音が、次々とステップを昇り、箱の中へと呑まれてゆく。

   チェロの旋律と雨音が戻り、瞼の裏で彼の呼吸に混じりあう。

 この小説には、音の情報がよく出てきます。その理由は、6段落目にある「瞼の裏に森が広がってゆく」以降、「あたし」がほとんど目をつむっているからでしょう。「あたし」は、「そこに誰もいないみたいに」目をつむり、「雨霧に煙る森の奥、慈雨を湛えた泉」のイメージを見ています。
 続いては、「あたし」の目線についてです。

   濡れた黒い舗道をローファーで蹴って、

   埃まみれの板壁の傍で屈んだ、二十日鼠みたいなワイシャツの背中。

   麦茶色のいかつい膝、膝。

 上の3つの引用から、「あたし」の目線が下を向いているらしいと推測できます。「同じクラス」の「男子」が、「待合所にかけ込」んだ「あたし」の目にまず留まったのも、下を向いていたからでしょう。
 「あたし」が、どのように「同じクラス」の「男子」を捉えているか、見てみます。

   一瞬あたしを見上げた顔は同じクラスの(誰だっけ)。

   (誰だっけ)は目立たない。背が小さい。月に何度か勝手に休む。

 1つ目の引用では、「同じクラス」の「男子」のことを「あたし」がよく知らないような口ぶりになっていますが、2つ目の引用では、「男子」を「目立たない」と評しながらも「背が小さ」くて「月に何度か勝手に休む」ことを意識して覚えていることから、1つ目の引用の「(誰だっけ)」が、そのままの意味ではなさそうだと考えられます。

   それくらいの、いたって普通の男子。踞る背中なんて見たことない。見たくもない。

   どうでもいい、と、普通、は似ている。だから、軋む。

 自分が言われれば「軋む」と感じる言葉を、「あたし」は「同じクラス」の「男子」に対して使っています。そして、「どうでもいい」に似ている言葉を使いながらも「あたし」は、「見たことない」「男子」の「踞る背中」を見て、「見たくもない」と憤っているようです。(「背が小さい」「男子」の「背中」は、はじめに「二十日鼠みたい」と評されています。ハツカネズミは実験用マウスとも関連があるため、単に小さい様を言っているというわけではないのかもしれません。)2段落目で「一瞬」「顔」を見せた「同じクラス」の「男子」ですが、その後は最後まで、「背中」として「あたし」に認識されていきます。

   泉の幻影は古い映画のシーンだと思う。幼い頃、家族で見た最後の。スクリーンの中と外で、あたしは手を伸ばす。繰り返し、何度も絶望する。

   彼は動かない。チェロの旋律と雨音が戻り、瞼の裏で彼の呼吸に混じりあう。深い森、雨に煙る泉。あたしは手を伸ばす。頑なな背中に、指先が触れた。

 1つ目の引用では、「泉」のイメージが「古い映画のシーン」と「家族」に結びつけられています。「スクリーンの中と外で、あたしは手を伸ばす」というのは、「泉」のイメージの中で「手を伸ば」している「スクリーンの中」と、イメージの「外」、つまりは現実、もっと言えば「家族」に向かって「手を伸ば」すことを指していると考えられます。それが「繰り返し、何度も絶望する」ことに終わっているのは、何ものにも触れられなかったからでしょう。2つ目の引用では、「あたし」は「泉」のイメージの「中」で「手を伸ば」しています。そして、その「指先」がイメージの「外」であるところの「頑なな背中」に触れたところで、この小説は終わります。「スクリーンの中と外」で「手を伸ば」した「あたし」が、ようやく何ものかに触れた、という締め括りですが、どうして「彼」ではなく、「背中」なのでしょうか。

   一瞬あたしを見上げた顔は同じクラスの(誰だっけ)。

   いま乗った麦茶色の顔たちが、高い車窓のなかで一斉に揺れた。

 「あたし」は「顔」を認識していますが、それは体の部位としての「顔」であって、表情が読み取れる「顔」ではないようです。表情は、その人の内面を探る手がかりになります。表情を読み取らない、ということは、内面を探る気がない、内面が存在しないものとして扱う、ということでしょう。2つ目の引用にある「麦茶色の顔たち」というのが、それに当たります。では、1つ目の引用にある「(誰だっけ)」は、どうでしょうか。「誰」かを問うということは、内面が存在する人間として、相手を認識しているということにならないでしょうか。であればこそ、「踞る背中なんて見たことない。見たくもない」と、「あたし」の心が動いているのではないでしょうか。
 ここで、「同じクラス」の「男子」について探っておきましょう。

    埃まみれの板壁の傍で屈んだ、二十日鼠みたいなワイシャツの背中。

   「チャリ盗られた」
     別に、それだけ、という風に。膝を抱え、スマホを見ながら。

    (誰だっけ)は目立たない。背が小さい。月に何度か勝手に休む。

    背中は踞ったまま、動かない。動けない。それ以上壁には寄れない。

   「乗らないの?」
    と、踞ったままの背中。

    彼は動かない。

 自転車を盗まれたと説明する「同じクラス」の「男子」は、バスにも乗らず、歩いて去るわけでもなく、「二十日鼠みたいなワイシャツの背中」を「あたし」の方に向けたまま、ずっと「埃まみれの板壁の傍で屈ん」でいます。「同じクラス」の「男子」に、「チャリ盗られた」以上の悪い出来事があったと想像しても行き過ぎではないでしょう。このことは、「踞る背中なんて見たことない」という「あたし」の記憶からも推測できます。そして、自転車を盗まれ、「待合所」の「板壁の傍で」ずっとうずくまっているような人が「月に何度か勝手に休む」のは、奔放な性格だから、というようなポジティブな理由からではないだろうことも推測できますし、さらに、すべてを受け入れられているというわけではなく、何かしらの「拒絶」に遭っているのだろうとも推測できそうです。
 そう、私は、「あたし」が体験した「虚ろな拒絶」と、この「同じクラス」の「男子」の「拒絶」を結びつけようとしています。「あたし」は、「同じクラス」の「男子」の「背中」に「見たくもない」「拒絶」された人間のイメージを感じ取ったからこそ、「普通」という、自分が「虚ろな拒絶」を感じ取った言葉を「同じクラス」の「男子」に対して使ったのではないでしょうか。そして、「あたし」の「指先」に触れるのが、「同じクラス」の「男子」である「彼」としてではなく「頑なな背中」であるのは、「背中」が「拒絶」のイメージをあらわしており、「家族」と結びつけられた「泉」のイメージを通して、「あたし」がその「拒絶」と向き合ったことをあらわしているからではないでしょうか。



(#12へ、つづく)

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