第99期 #7

青梅の実

坂を転げ上ってゆく彼女の姿を見た。かのニュートンの発見した万有引力に逆らっているこの光景は、およそ不自然に見える。私は今、先ほど飲んだものよりもずっと甘くて苦い、愉悦と後悔のカクテルを飲んだのだ。

黒いアスファルトで塗り固められた東京の大地に、たくさんの温かなヘモグロビンが舞い降りる。恐らく15.9g/dL。女性にしては多めであるのが、そこに咲く紫陽花のような赤い色をなしている理由なのだろうか。

ぐいと踏ん張り力んでいた右足から力を抜き、少し右へと滑らせる。先ほどの彼女のときと違って、ニュートンの法則は私を無視しなかったが、今度はクリープ現象の影響と重なり合って、その働きを感じない。その代わりと言おうか、再び右足をそっと踏み下ろすと、背中は軽く加速度を感じた。

私は家に着く直前にふと、この家は誰のものになるのだろうかと考えてみる。残された服や化粧台や庭の植木。彼女は几帳面で、折を見ては庭を綺麗にしていたから、外からはとても良い家に見える。

これから私のすることは、庭の木に生った麗しい青梅の実をいくつかもいで口に運ぶだけ。そうすれば私も晴れて彼女と同じ側の人間だ。短針が二回りするごとに、あの煩わしくわざとらしい東の空のほの明かりに憂鬱することは二度とない。



Copyright © 2010 初寿 芳 / 編集: 短編