第99期 #14

夜の中で

 星々が騒がしく瞬きはじめる頃、窓はのしかかる闇を四角く取り除いて暖かな光を湛えていた。彼は夜道を足早に歩き、窓を道標に帰宅した。
 帰宅した彼を、壁に掛けられた写真が出迎えた。写真の中にイチョウを背にして並ぶ家族四人が見えた。彼は視線を外し、温度差で顔を上気させながら母のいるキッチンへ向かった。キッチンでは母が背を向けて料理を作っていた。コンロで鍋とみそ汁が沸いていた。換気扇からあぶれた湯気が霧のように部屋を覆っていた。霧の中で母のせわしなく動く小さな背中がぼんやりと見えた。ただいま。彼は母にそう告げ、椅子にもたれてうたた寝をしている父の斜め前に腰掛けた。霧の中で母がわずかに顔を向けたような気がした。父は腹の前で手を組み合わせ静かに目を瞑っていた。弟の姿がみえなかった。かあさん。彼は弟の所在を訊ねた。母はペティナイフで魚の延髄に切り込みを入れた。お腹すいてるのね。母は魚の頭をひねって首を折った。関節の限界を越えた首は滑るようにくるくると回った。今日のご飯はお肉なの。あなた好きでしょ。霧は熱を帯びはじめ、彼の頬を汗が伝った。頭を静かに胴体から外すと喉に内臓が連なってぶら下がっていた。割かれた白い腹からどす黒い血が塊でこぼれ、溢れた血がまな板を染め上げた。血と内臓の臭いが熱い霧に運ばれて部屋中に満ち、彼は粘つく唾液を飲み込んだ。弟はどこにいるの。母は答えなかった。父はすべてが停止したかのように目を瞑ったままだった。霧の中で換気扇の立てる甲高い駆動音と汁の煮えたぎる音だけが低く響いた。

「ただいま!」
 弟がくぐもった足音を立ててキッチンに入ってきた。父は目を覚まし、「おかえり」と言いながら背筋を伸ばし上げ、コンロに目をやって狼狽した。霧は既にかき消えていた。
 窓の外には黒い絹のほつれのような夜空があった。窓に鍋をかき混ぜる父とグラスに注いだジュースを飲み干す弟だけが映っていた。彼はいたたまれなくなってキッチンから出た。廊下に出ると写真が目に入った。彼は傾いた写真を平らに均した。イチョウの葉の降り積もる秋だった。母は金色の海の上で笑っていた。写真に触れた彼の指先が、白い布で隠された禍々しい縫合痕の膨らみを憶えていた。記憶に比べて、写真はあまりにも平坦だった。
 母はもういない。父も弟もいつか死ぬ。彼は全てを遠くに感じた。心の中にしまい込んだ闇が絞り上がり、彼の目から涙が落ちた。



Copyright © 2010 高橋 / 編集: 短編