第98期 #11

イヨヒメバチ

 俺はあの女を三度抱いただけだった。ある朝、あの女の娘だと名乗る少女が現れた。名を海といった。母は蒸発したとのことだった。
 そのとき俺は二十三で少女は十三だった。

「彼女いないの?」
「なんで」
「そしたらあたし邪魔じゃん」
「いないよ」
「別に気を使わなくていいよ。あたし大丈夫だから」
「だからいないというのに」
 世の男は女に飢えていなくてはならないのか、とも思ったが言わずにおいた。テレビに顔をやった海の、その気配にやわらぎがあることを感じたからだ。少しの重みが結果として海の負担を軽くしているなら、それでいいと思った。

 海は必ず、週に一度は酩酊して帰ってきた。俺は海の帰宅を翌朝に知ることになる。俺はなにも言わなかったし、海もなにも話さなかった。
 ある晩、泥酔した海が寝ている俺の布団に潜り込み、絡み付いて性器に触れた。俺は海を見た。海は焦点の定まらない瞳でへらへらと笑っていた。俺が拒むと海は大声で俺を侮辱した。その顔はやはり笑っていた。俺は、たしなめや怒りとは違う、底の暗い憎しみから海を殴った。海の顔から笑顔が消えた。眼窩はうっ血してみるみる腫れあがった。
 その晩から俺と海との交流は途絶えた。断絶は数ヶ月続いた。

 それからも海は変わらず、週に一度は酔って帰宅した。
 俺はフラッシュバックする海の表情に苦しんだ。あれは恐怖ではない。裏切りを目の当たりにした人間の顔だ。そんなつもりはなかった。

「来週の水曜、暇?」
 あるとき海から声をかけてきた。海は酔っていた。
「わかった、空ける」
「うん」
 海は俺の目をしばらく見ていた。俺はなんとか海の目を見た。だがその考えを読むことはできなかった。おやすみ、と海が背を向けてようやく、俺は息をすることができた。

 水曜。海の三歩後ろに俺。海は振り向かなかったが、俺に合わせた歩調で進んだ。
 いくつか電車を乗り継いで訪れた先は墓地だった。海は無言のまま、ある墓の前で立ち止まって手を合わせた。俺も合わせた。
「九十八回目」
「毎週?」
 海は頷いた。
「言ってくれれば花と線香を持ってきたのに」
「お墓参りじゃないんだから」
 願掛け?
 その間を察して海が言った。
「はじめはお父さんの命日までだったの。でもダメだったから」だから百回。
 帰ってくるかな?
 わかんない。でもいい。

 海が手を合わせて目を瞑ると、どこからか流れてきた線香の煙が風を受けて膨らみ、渦を巻きながら霧散した。



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