# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | 真実と嘘と殺し屋 | ほろほろ | 905 |
2 | 牛 | わら | 1000 |
3 | 友に捧ぐ | 雪篠女 | 999 |
4 | カートでスリル | 石川順一 | 991 |
5 | 満月の夜に | 志崎 洋 | 991 |
6 | マックシェイクと轆轤首の憂鬱 | なゆら | 944 |
7 | くりてくりて | 志保龍彦 | 1000 |
8 | 壁 | 近江舞子 | 755 |
9 | 蜜蜂 | オハラショウコ | 1000 |
10 | 座敷わらし | クマの子 | 1000 |
11 | 煙が目にしみる | yasu | 734 |
12 | 朋遠方より来る有り | げし | 999 |
13 | ごんぶと森のコン太 | 彼岸堂 | 1000 |
14 | 嗚呼素晴らしき人生 | 謙悟 | 1000 |
15 | スズメガ | 高橋唯 | 1000 |
16 | ジーザス | 三浦 | 1000 |
17 | 暗闇で君に会いたい | euReka | 994 |
18 | すきだらけ | ハダシA | 977 |
19 | 『空飛ぶマタドール』 | 石川楡井 | 1000 |
殺し屋がいた。非情になりきれず、何処か優男を想像させるほどに、その殺し屋は甘かった。
ある日依頼を受けた。内容を見てその殺し屋はその依頼を断ろうとした。それどころか殺し屋すらやめようと考えた。
だが、殺し屋が踏み込んだ世界は何処に行き着いても「裏」、であった。
心優しき殺し屋が選択できるのは常に前に進むことをよしとするもの。つまりは殺すことだった。
「お願いだから殺さないで!お金なら幾らでもあげるから!!」、そう女は言った。
「いや駄目だ。俺はお前を殺す」そういう殺し屋には、何故だか依頼を受ける前の様な優しさが無かった。
「あなた...もしかしてジャン?ジャンなの?」女が言った名前は、殺し屋が裏の世界に入る際に捨てた名だった。
「あぁ。その通りだ」そう殺し屋は言った。続けて「あんたが殺しそこなったジャンだよ」と言った。
「...なるほど。ばれたのなら仕方が無いわね。実はね、ジャン。私あなたの事殺したいほど嫌いだったの!!」
そういって女は殺し屋を殺そうとし、そして......死んだ。
殺し屋は手についた汚れた血を拭き取り依頼書の裏を眺めた。
そこには”組織”が調べたターゲットのありとあらゆる情報が記載されていた。当然ジャンを殺そうとした動機も。
だが、今はそんな事どうでもいい。今はただ人を殺したくて、殺したくて、殺したくて仕方が無い。
”母親”と呼ぶには余りにも醜くて薄汚い存在”だった”モノを見下しながら殺し屋は笑った。
もう、殺し屋に弱さであり強さでもある優しさは無かった。最後に自分というターゲット殺して殺し屋となった。
正しく組織の狙い通りだった。母親の事もジャン庇って車に轢かれて死んだと伝え、他の家族についてもジャンにはとても素晴らしく感じられるよう組織が情報を操作した。
だがその実、父親はジャンの存在に嫌気がさして別の女と行方をくらまし、母親はジャンが再婚の邪魔になるからと言って殺そうとした。他の親族に関しても似たようなもの。正しくジャンは不遇なる人生だった。
真実は残酷で嘘は優しい。だが、今のジャンはそれ故に殺した。そしてこれからも彼は他人を殺し、自分を殺していくのだろう。
それが殺し屋、なのだから―――
食べてすぐ寝たら牛になってしまった。夕飯の後、そのままコタツで横になっていた。至福のひとときだった。いつの間にか眠りに落ちていて、目覚めたら牛になっていた。
何をするべきか全くわからず、とりあえず外に出た。道行く人はみんな驚いた。遠巻きに眺めて写真を撮っていた。言葉が話せなくなっていた。何か言おうにも「モー」にしかならない。間もなく警察やらテレビクルーやらいろいろ来て、牧場に送られた。
牧場には言葉の通じる奴が多かった。通じない奴は本当の牛。通じる奴は元人間というわけだ。コタツにやられたという奴はかなり多かった。
これから一生草しか食えないのかと思っていたら、ビールが飲めた。じつにうまかった。厩舎で先輩に聞いたら実に簡単なことだった。肉を柔らかくするため。つまるところ、ここにいる牛は食用ということだ。
元人間の牛たちの間で脱走計画が立てられていた。もちろん参加した。脱走はうまくいったが、驚くには値しない。人間が作った柵を人間が越えただけのことなのだ。
リーダーに従って山を登った。彼曰く、この上に彼が放浪している時に知り合った牛がいて、その者こそが真のリーダーとのこと。
奥深い山中を川沿いに進んだ。小さな滝が見えた。滝壺の畔に、まるで清酒白鹿のコマーシャルのように一頭の牛が佇んでいた。荘厳な光景だったが、それは鹿ではなく、牛だった。
彼を囲んで我々は腰(?)を下ろした。近づいて見るとその牛は全身に傷跡を持ち、片目が潰れていた。しかし残った右目は鋭い眼光を放っていた。彼は口を開いた。その言葉は我々の胸を突いた。
――もう我々は、この国にはいられない。
彼は牛になった後、スペインに渡ったらしい。スペインで闘牛となって、何人ものマタドールを倒してきた。牛になった人間が自分だけではないと知り、我々を助けるために帰国したそうだ。
確かに雄牛は牧場で死を待つことしかできない。だがマタドールを殺すことには耐えられないし、生き残れるとも思えない。我々は口々にそんなことを答えた。彼は静かに首を振った。それを見て我々は口をつぐんだ。
――インドに行こう。
それは夢のような提案だった。インドならば牛は安泰だった。だが、いざ山を下り始めると涙が溢れてきた。周りを見るとみんな泣いていた。
前方に目を遣ると、すでに一度祖国を捨てていた傷だらけの背中、というより臀部も、やはり泣いているように見えた。
私には心から友人と呼べる者が唯一人だけいた。
もっとも彼は人ではない。だから、彼が私を友だと思ってくれているかはわからないのだけれど……それでも、私にとっては、友と呼べるのは彼しかいなかった。
だから、私は彼の事を友だと思うことにしていた。
私と彼には、ただただ、静かに過ごす時間を共有する以外には特に接点もない。人ではない彼とお喋りをする事はできないし、人である私は、やはり彼とお喋りする事はできない。お互いに見つめあうか、目を閉じて風の音を聞くか、ゆったりと睡眠をとる位のものである。
気まぐれで気分屋な彼でも、私が目を覚ますまで傍に居てくれるし、彼が寝ている時は、目を覚ますまで私が傍にいた。
親しいのか、そうでないのか、本当の所はわからないが、そんな彼とも暗黙のルールが一つだけあった。
私の食事を彼に与えない事。
気まぐれな彼と静かに過ごす時間を共有するようになってから随分と経つが、私が横でパンや弁当を食べていても彼はそれ等を欲しがらなかったし、私も与える事はなかった。食事まで共有してしまったら、私達の関係が変わってしまうと、出会った頃から互いに理解していたのかもしれないし、彼にとって私の食事は欲するものではなかっただけなのかもしれないが、勝手に暗黙のルールとして決めていた。
それから、暫くして、彼の住処にビルが建つことになり、私と彼の憩いの場は、その姿を消そうとしていた。
そして、私は一つ、決心した。
彼の事を母に話し、友から家族になってもらおうと思ったのだ。
しかし、それは簡単な話ではない。母や父は彼等が好きではなかったからだ。小さな頃に無断で彼と同種の存在を連れ帰った時は、酷く叱られ連れ帰った子は保健所へと連れて行かれた。彼もそうなってしまったらと思うと、今まで母や父に言う事ができなかったのだ。
しかし、その日、私は、父と母を前に固い決心を目に込めて懇願した。そして、裁断の時を待った。
父や母は少しだけ話し合った後、私の目を見て、あっさりと承諾してくれた。拍子抜けする程に。
私の心は躍り気分も高揚した。
次の日、何時もより早起きをして、彼の為に缶詰を買い、彼の元へと走った。缶詰を渡せば私の意図を彼は汲み取ってくれるはず……だった。
だが、缶詰を渡す事はできなかった。
その代わりに私の頬を涙が伝った。とめどなく溢れる涙は彼の為なのか私の為なのかわからなかった。
「カートでスリル」と言う名前の会社が警察の摘発を受けた。
観覧車のゴンドラの部分にカートを使って営業を続けて居た。
営業開始から半年は滞り無く営業を続けて来られて居た。
むしろスリルを味わえると言うので好評だったぐらいだ。
客の入りも良く、無謀な若者や、自暴自棄な若者のはけ口になると言うので警察も見て見ぬふりをして来たのだが。
しかし遂に死者が出て、警察が動かざるを得なくなった。
どうせ無謀な若者が、無謀な乗り方をして居たんだろうと警察が調査に乗り出すと、死んで居たのはお婆さんだった。
「カートでスリル」の観覧車はゴンドラ部分にカートを使って居るので、確かにスリルは満点だった。覆いの部分が全く無いのは言うに及ばず、その為に大人しくして無いと簡単に落下して仕舞う。
比較的大きなカートが使われて居たが、何人乗っても料金が一緒と言う、タクシー方式だったので、ケチな若者がよく経費を節減する為に4人や5人で一つのゴンドラ(カート)に乗ったりして居た。
大人しく乗って居ても詰まらないのか、観覧車のゴンドラが最上階にさしかかると度胸試しに激しくゆすると言うのがこの地域の若者達の避けては通れぬ儀式と化して居て、この儀式に異を唱える者は人徳の無い者として就業できないと言うのが、この地域の若者を支配する共通認識とすらなって居た。
この様なバックグラウンドの為、警察が当初、無謀な若者が多人数で乗って無謀な事をカートの上でやって居たのだろうと思った。
亡くなったお婆さんは愛しのお爺さんに先立たれて、日々退屈だった。何とか外との接点を求めて、出歩いて居たが、どうも張り合いが無い。何処へ行っても、御婆さんと言う事で、大事にされて仕舞う。わしゃもっとスリルを味わいたいんじゃと思っても、そんな場所は何処にも無い様に思われた。
そんな日々の中、「カートでスリル」と言う所がやって居る、スリル満点の観覧車を街頭チラシ配りのチラシを受け取って知って仕舞ったのだ。
これだ、これがわしゃの求めて居た物だ。もうその観覧車と何年も前から相思相愛であったかの様に、今すぐに飛んで行くよと言うのりで乗りに行って仕舞ったと言う訳だ。
そして、たった一人で乗って居たのだが、昔取った杵柄で(このお婆さんは新体操の選手だった)カートの上で片手で逆立ちしながら、本を詠んで居たらバランスを崩して落下して仕舞った。
「おとうさん、ほら見て、きれい……」
女の子はそう言って、夜空を指さした。
そこには満月がきらきらと輝いていた。
「うん、きれいだね」
「おかあさんはあそこにいるの?」
「そうだよ」
父親はやさしく答えた。
「あそこは天国?」
「うん、天国かもしれない。おかあさんはいつもあそこから見守ってくれているんだよ」
「そう……」
かわいいえくぼをへこませて、女の子は月にむかってほほ笑んだ。
「おかあさん……」
彼女が物心ついた時には、もう母親はいなかった。いつも父親と二人だけだった。だけど、不思議とさびしさは感じなかった。なぜなら、母親は夜空を見上げればそこにいたからだ。
月が彼女の母親がわりだった。
三日月になったのを見ては、
「おかあさんがやせて、かわいそう」
と言って、目にいっぱい涙を浮かべた。
そして、満月の時は、
「きれいね、おかあさん……」
と、うれしそうに満月を見つめ、ほほ笑んだのだった。
いつしか月日は流れ、女の子はりっぱな娘に成長した。見ちがえるばかりに美しくなり、その姿は母親にそっくりだった。
「こんなにきれいになって……」
父親は目をうるませながら娘を見つめた。
「お前もだんだんと母親に似てきたな……」
「おとうさんは、おかあさんがいなくてさびしくなかったの?」
「さびしくなんかないさ、お前がいるからな」
父親は母親にうりふたつの娘を本当に愛おしく思っていた。
「おとうさん、私の小さい頃のこと覚えている?」
「ああ、覚えているよ。とってもかわいかった……それに、いつも月を眺めてばかりいた……」
「そうだったわね……」
彼女の顔にふと、さびしさがよぎった。そして、思い切るかのように父親に向かって言い放った。
「おとうさん、私……知ってしまったの!」
「何!」
突然の言葉に父親は驚いた。そして、父親は観念したように押し黙った。
いつかはこの日が来るのを怖れていたかのように……。
「おとうさん、長い間本当にありがとう……」
娘の目には大粒の涙があふれていた。
「これから、母のところに行きます……さようなら」
そう言うと、彼女の体はまばゆいばかりの光につつみこまれた。そして、夜空に向かって、ふわりと舞い上がっていった。
「待ってくれ!……」
父親は、夜空に向かって大声で叫んだ。
「そうか、知ってしまったのか……、お前の母親は………かぐ………」
夜空には、満月がきらきらと輝いていた。
ろくろ首の足元に100円玉があった。
以前やっていたマクドナルドのCMが頭にちらつき、ろくろ首はいてもたってもいられなくなり、人間の時間でいうと3日間かかってマクドナルドにたどり着き、さて何を食べればよいのだろうか、と考えながらカウンターに踊り出る。何も分からぬまま、ろくろ首は目に映ったマックシェイクを注文する。ほどなくして手渡されたマックシェイクを手に、ろくろ首はマクドナルドをあとにする。
闇雲に歩きながら、いざ啜ろうとしたその時、ろくろ首の天敵である天狗が舞い降りた。
この天狗、たいへん意地の悪い天狗であった。というのはマクドナルドへ向かうろくろ首を3日間追いかけていたのだ。そして、ろくろ首がいざ啜ろうとした瞬間を見計らって舞い降りる。驚いたろくろ首、天敵の出現で慌てて首をにゅううううううううううと伸ばす。ろくろ首といっても年がら年中首を伸ばしているわけではない。首を伸ばすのは、天狗に遭遇したときと身長測定のときのみ。首を伸ばしてどうするのか、それはここで言ってしまうと、ろくろ首全般が困る事になりますのであえて言いませんが、はい、天狗死ぬ。
さて、首を伸ばしてしまったろくろ首。すぐに首を縮め、マックシェイクを啜ればよかろう、そう思うかもしれない。しかし、である。
簡単に首は縮まらないのだ。一旦伸ばした首は自然に縮まるようになっているのだが、その縮まる速度が、人間の時間でいうと大体3日間かかる。3日間もマックシェイクを放っておけば、何か違う味になりそうで嫌だ。なによりようやく手にしたマックシェイク、一刻も早く飲みたいのがろくろ首の心情。だから、ろくろ首、長い首のままマックシェイクを啜る。が、本場仕込みのマックシェイク、流動性がなく、強い啜る力が必要となる。まず口で吸い上げ、マックシェイクがストローから口の中に入る。
常時ならここで終りだ。しかし今は首を伸ばした状態、続いて、長い首を経なければならない。マックシェイクを吸い、長い首を通り抜ける、そんな力が、本体になかった。面食らったがすでに時遅し、哀れろくろ首、マックシェイクが首につまり、足元に転がる天狗と同じ場所倒れこみ、苦しみながら死んでしまったのである。
よいか小僧、マックシェイクの粘り気を決して侮るなかれ。南無。
ブラブラと人気の無い通りを歩いていると、やけに壁の白い画廊を見つけた。丁度、誰かの個展をやっているらしかった。しかも画ではなく人形の個展だった。芸術に疎い私だが、不思議と惹かれるものがあって入ってみることにした。
中に入ってみると、受付はなく、当然それを務めるはずの人もおらず、画廊のオーナーどころか人っ子一人いなかった。
不審に思わないでもなかったが、取り敢えず作品をさっさと見ようと、たいして広くもない部屋に視線を巡らせた。四方だけでなく床まできちんと白で統一された空間の真ん中に、一つの円形のテーブルがあり、その上に小さな四角い箱が置いてあった。箱の天井は空いており、中が俯瞰出来るようになっていた。箱の中にあったのは、一つのテーブルと小さな箱、そして一体の人形だった。
その人形は小さいながらに非常に精巧に出来ていて、顔はもちろん、シャツの皺まで見事に造形されていた。今にも動き出しそうな程に、不気味な精彩を放っていた。
しかし、期待した程のものではないなと、少々がっかりしていると、人形に糸が繋がっていることに気がついた。その糸を辿っていくと箱の横の二本の棒に繋がっていた。どうやら、この人形は傀儡人形らしかった。見るだけでなく参加できるタイプの芸術ということだろうか。そういうものならば、私は嫌いではなかった。
少し興が乗ってきた私は、戯れに棒を弄くってみた。しかし、素人が上手く操演出来るはずもなく、私の人形は無様に、滑稽に、喘ぐような踊りをして見せるのが精一杯だった。
数分も操っていると、私はすぐに飽きてしまった。棒を元の位置に戻して、早々にここから出ようと考えたが、ふと箱の中の箱のことが気になった。あの箱の中には何があるのだろうか。私は思い切り顔を近づけて、目を細めて凝視してみた。すると、箱の中には、さらに小さなテーブルがあり、その上にさらに小さな箱があり、傍らにさらに小さな人形が立っているのだった。そして、その人形からは糸が伸びていて、私が先ほど操っていた人形の両手の棒に繋がっているのだった。
その瞬間、私は言い様の無い不安と、凄まじい圧力を伴った視線を頭頂部に感じた。
私は呼吸することが出来なくなり、俯き、体を奇妙に屈めた姿勢のまま、蟹歩きで画廊の出口に向かった。私は外に出ても、まだそれを維持しながら、家路についた。
以来三十年間、私はまだその姿勢のままでいる。
壁。壁。また壁。ここも壁。何処を彼処も壁だった。
光は一切ない。男が瞳を開けても閉じても変わらない深い、深い闇。彼自身の姿も確認できない。
目が覚めたとき、男は寝転がった状態でそこに居た。
まずは姿勢を変え、這いつくばり、床に罠か、若しくは脱出口がないか慎重に調べた。何処に手を当ててもまっ平ら。おそらく四畳半もないだろう。狭い空間だった。
今度は立って両手を前方に押し出し、おっかなびっくり歩き、四方を時計回りに触ってみた。どれもコンクリート特有の冷たく、人を突き放す感触。どうやら何処にも隙間のない壁に囲まれた部屋にいるようだと男は理解した。
男は闇の中に更なる暗い闇を見た。心まで漆黒に染まり、身動きが取れない。
しばらくの放心状態ののち、男は壁に背を預け、胡坐をかき、腕組みをする。
男の脳裏の映像。目覚める前、夢の中で男は辺りに何の建造物もない広大な砂漠にも似た明るい荒野を歩いていた。そして、地平線の果てまで辿り着くと一つの扉を見つけ、開き、踏み入り、今があった。
刹那の光。それとともに上から降るものがあった。軽い音が転がる。
部屋の中央とおぼしきところに落ちたそれを手探りで掴み、手のひらでまさぐる。少し粘り気があり短い紐らしきものが端から出ている棒状のものと小さな四角い箱。箱のほうはスライドできて中に小さな棒が複数入っていた。これは蝋燭と燐寸だろう。
慎重に燐寸を擦り、蝋燭に火を灯すとその大きさに不釣合いなほどの明かりが部屋全体を照らした。
やはり四方は壁だった。見ればその壁にはびっしりと文字が刻まれていた。先ほど男が触れたときにはなかったものだ。それは見るからに人名だった。千は下らない数がある。
男は釘が一本、足元に転がっているのを見つけると、力を込めて自分の名前を壁に削った。
男は、女の蜜蜂に目を奪われていた。それは、血管が透けてみえそうな肌理の細かい白肌や、浮き上がった鎖骨や、滑らかな首筋を横に置いてまで、その一点にライトを集中させるほど見事なできばえの蜜蜂だった。女の左乳房には、今にも飛び立ちそうな蜜蜂の刺青が小さくとまっている。
「俺、子供の頃、蜂にさされたことあるから苦手なんだよな」
男は、女の蜜蜂をそっと指で撫でながら言う。煙草の火を水におしつけたときのようなジュッという音が聞こえたかと思うほど、一瞬にして昂っていた気持ちが萎えていくのを男は感じていた。欲求が蜜蜂に吸い取られていくような感覚。
「それはきっと蜜蜂じゃなくて雀蜂じゃない? 蜜蜂は針が一本しかなくて、刺すとその針がとれちゃうから、余程のことがない限り刺したりしないのよ」
ふぅんと肯きながらも、男は女の蜜蜂から目を離すことができないでいる。
「これ、まるで私の蜜を吸いにきてるみたいでしょ?」
「うん、でもさ……、こういう場所に彫ってもらうのって恥ずかしくないの?」
「知り合いだから」
知り合いという言葉を聞いて、男は、その知り合いはただの知り合いではないだろうという気持ちでいっぱいになっていった。顔のない男が女の胸に蜜蜂の刺青を彫っているところを想像すると、萎えていた気持ちが仄暗いところから突然目覚め、カッと熱くなる。
男は、女の身体と同化してしまってもいいかのように埋もれていく。その絶頂に達する瞬間、尻のあたりに鈍痛が走る。
「いっ」
何かに刺されたような痛み。
女は笑っているのか泣いているのかよく分からないような曖昧な表情で、戸惑う男の顔を下から覗き込むようにして言った。
「まただわ、私が男の人と関係するたびに刺すの。私を守ろうとしているみたい、ごめんね」
男は黙ったまま、蜜蜂の痕跡が跡形もなくなっている女の左乳房をぼんやり見つめる。
「また彫ってもらいに行かなくちゃ」
「知り合いにかい?」
「そう、知り合いに」
男は、その知り合いの彫物師がどんな気持ちで女に蜜蜂を彫るのかを想像する。女の肌と対極な浅黒い肌した器用な右手が、女の左胸に蜜蜂を彫っていく。左手は、女の右乳房を掴んでいるに違いない。痛みの声なのか喜びの声なのか、判別できないような女の呻く声が、こもった空間に響く。男が確かめるよう尻に手をやると、小さな突起物が指に触れた。つまみとると、それは、蜜蜂の残した一本の針だった。
目は覚めていた。天井に並ぶ四角い板は全て木目を持っていた。それは違う木目の一部が並んでいるのだけど、見ていると全てが繋がっているようにも見えた。
いつものように学校へ行く仕度をしなくてはならないのだけど、布団の中で仰向けのままなぜか体は言うことを聞かなかった。固い粘土の塊にでも成ったように手も足も動かなかった。
家内は台所だろうか。何も聴こえてこなかった。遠くに居るのだろうか。大きな声を出すのは億劫だ。このまま横になっていたい気もする。
天井を見詰めていると視界の隅で動くものがあった。もぞもぞと動く黒い影が時折視界に入った。家内にしては様子が違う。
首の代わりに眼だけ動かし正体を見定めようとした。体は小さく動きは小動物の感じがした。影は子供の姿をしていた。しかしうちには子供は居ない。十年経ったが出来なかった。どこの子供だろう。男の子のようだ。そう、ちょうど私が受け持っている、小学三年生の子供のようだ。
子供は両手を前に付くと、ひょいと膝を寄せてきて私の顔を覗き込んだ。あどけない表情だった。どこかで一度会ったような印象も覚えた。
「具合が悪いの?」
高い声だ。口が動かなかった。心の中で「ちょっと体が動かないんだ」と呟くと、ふーんと言ってまた部屋の隅へ跳ねていった。
私は子供の背中に話し掛けた。
「きみ名前はなんて言うんだい」
「僕は……」
その後は返ってこなかった。
「何年生だい」
「三年生だよ」
やはり小学三年生だった。どこのクラスの生徒だろうか。思い出そうと頭の中でクラス写真を辿ってみる。すると思い掛けない所でこの子を見つけた。
解った。この子は昔の私だ。小学三年生の時のクラス写真に映った私にそっくりなのだ。
子供の頃の自分の背中を見ているのは不思議な気持ちがした。妙に愛くるしくもあった。子供の背中とは皆そうなのかもしれないが、私も同じだったのだ。
子供の私は机にあった万年筆で遊んでいた。ペン先を眺めてはメモ用紙に線を引き、不思議そうにインクの出所を見詰めていた。小学三年生だ。心が内に向かうことなど無さそうだ。私もこんな時分があったのだ。昔の自分の背中を見て、疲労を背負った今の私に気付く。
まぶたが段々と重くなってきた。視界が暗くすぼんでいく中、小さな顔の覗き込むのが見えた。
「おやすみなさーい」
幾ばくかして家内の起こす声が聞こえた。軽くなった体と共にいつもの朝を迎えた。
今夜はこの冬いちばんの寒さらしい。僕は草臥れたコートの襟を立て、薄暗い街灯に照らされながら帰宅の途についていた。あの路地を曲がれば、自宅まではほんの数十歩で辿り着けるはずだった。
「おい」
背後から人の気配はしていたけれど、いつの間にこんな近くまで来ていたのだろうか。ややドスのきいた声が鮮明に耳まで届いた。
「何か御用ですか……」
振り向いた僕は思わず固唾を飲んだ。後ろから声をかけてきた男の右手には、鋭く先の尖った刃物が握られていたのだ。
殺される――。僕は咄嗟に瞼を閉じた。治安の悪化が叫ばれて久しい。この辺りでも数日前に強盗殺人があったばかりだった。
「煙草を出せ」
「煙草?? ですか?」
「早くしろ!」
一瞬男が何を言っているのか理解に苦しんだのだけれど、男を怒らせてはなるまいと僕は手早く鞄から愛用の黄色いシガレットケースを取り出してそのまま差し出した。男はそれを強引に奪い取ると、あっという間に闇に吸い込まれていった。
「助かった……」
極度の緊張から解き放たれた安堵感からか、僕はその場にしゃがみこんだ。
思えば、人身事故の影響で電車が遅れたいらいらもあったのだろう、普段は滅多に外では吸わないのだけれど、駅の喫煙所で一服してしまったのがいけなかった。男は駅からずっと後を追ってきたはずだ。僕が煙草を持っているのを知っていたのだから――。
もう何度目になるのだろうか。度重なる値上げによって、煙草は庶民が気軽に一服できる代物ではなくなっていた。それによって喫煙率は飛躍的に低下したけれども、僕のようにどうしても止めることができない愛煙家は少からずいるのだ。
「はあ……」
僕はため息をひとつ吐いたあと、コートの内ポケットに忍ばせていたなけなしの一本に火を付けた。
コンコン。
「誰?」
「僕だよ」
「僕って誰だい?」
「ええと、同じクラスの……東だよ」
ガチャガチャ。
「やあ」
「どうしたんだい? 何か用?」
「それよりも、とりあえず入れてくれないか。びしょ濡れなんだ」
「雨でも降って来たのかい」
「いきなりだよ」
「……どうぞ」
「やれやれ、助かった。……ねえ、タオルを貸してくれない?」
「いいけど。そんなにすごいのかい」
「ああ、バケツの水をひっくり返したみたいだよ」
「僕はずっと部屋にいたけど、気がつかなかったな」
「寝ていたんじゃないのかい」
「そんなことないよ。……ホラ、窓から見てごらん。外は晴れているじゃないか」
「……もうやんだのさ」
「……」
ゴシゴシ。
「そんなところにいると風邪をひくよ。こっちの部屋へおいでよ」
「え、いいよ。床を濡らしちゃわるいし」
「かまわないよ。それに話があって来たんだろ」
「それじゃあ……失礼するよ」
ドタドタ。
「何か飲む?」
「そんな、おかまいなく」
「お茶しかないけど」
「すまないね」
「さあ、どうぞ」
ゴクゴク。
「こりゃ、うまい。いいお茶だね。これでも、お茶にはうるさいんだ」
「安物の玄米茶だよ」
「……そうなんだ」
「……そうなんだよ」
「……」
「で、なんだい」
「えっ」
「何の用? その、どしゃ降りの中、わざわざ……」
「あ、ああ。そのことなんだけど……」
モジモジ。
「どうしたの」
「いやあ、大したことじゃないんだけどさ」
「だから、何だい」
「……うーん。面と向かうと、言いにくいなあ」
「……良い話? 悪い話?」
「……」
「ねえったら」
「……」
「黙っていたらわからないよ」
「……」
「ごめん。悪いけど……。僕はそろそろ出かけなくちゃならないんだ」
「ええっ、そうなのかい。じゃあ、またの機会にするよ。いやあ残念だ残念だ。でも仕方ないよね」
「……うん。でも、いいのかい」
「いいよいいよ。明日、学校で」
「……」
「……」
「ねえ、一つ聞いていいかな」
「な、なんだい」
「君、本当に東君かい?」
「な、何を言うんだい」
「どうも印象が違うような……」
「ハハハ。間違いなく、僕は東だよ」
「そう。……ごめん。変なことを聞いて」
「いやいや。……じゃあ、帰るね」
コソコソ。
「ねえ!」
「……は、はい?」
「やっぱり話してくれよ」
ドキドキ。
「頼むから」
「そうかい。わかったよ。それじゃあ、話すけど、実は……」
バキューンバキューン!
「……ごめんよ。でも、こうするより他なかったんだ……」
タンタカ山の裏にごんぶとの森という場所がある。一年中暢気な奴等が暢気に過ごす暢気な森だ。その森でちっとばかし有名な狐がいる。名前はコン太。大層な武勇伝で森中の動物から知られている。今日もコン太は森の広場で大勢の動物を前に武勇伝を語る。切り株の上は彼のステージだ。
「で、俺達はバカな人間をこの爪でギッタギタにしたわけだ。ずばーっ! ばりーっ! てな」
森の暢気な連中はそれを聞いて喚声を上げたりする。いじめっ子達も気に入らないとは思いつつも渋々聞く。何故か? それはもちろん諺の通り。
このコン太、無駄に虎をほめるのが上手い。ちょっとうざったい感じで褒めてくるのが絶妙に虎心をくすぐるとか。そういうわけで虎は一応コン太を舎弟として認め、守っているのだ。
だがある日のこと。
「ちょっ、マジで虎さん相変わらず毛並みパネーっすね! マジ威厳たっぷりじゃないっすか! 爪も超エッジきいててャベー! ッべ、超カッケぇ! さすがっすね」
いつものようにコン太が派手に虎を褒めているが、何やら虎の顔が浮かない。
「コン太」
「はい!」
「俺もう、虎やめるわ」
「はい?」
コン太は思わず聞き返してしまった。
「正確には動物やめる。俺、四聖獣にスカウトされた」
「えっ」
「これから俺、神クラスだから。俗物と付き合っちゃいけないんだわ」
「えっ、えっ」
虎の毛が徐々に美しい銀色になっていく。
「まぁそういうわけだから。お前にヨイショされんの、嫌いじゃなかったぜ」
そう言って虎は一吼えしてから空へ飛んでいってしまった。その咆哮が凄すぎて、コン太はタンタカ山から一気にごんぶとの森まで吹っ飛ばされてしまう。
「マジかよ」
コン太はどうしていいかわからず、空を見上げてこんこん鳴いていた。
次の日からコン太の世界は一転する。
虎が消えたのを知ったいじめっ子が急にコン太を虐めるようになったのだ。元々弱いコン太に抵抗の余地はない。
「おら、フォックスクローやれよ。虎の旦那を猟銃から救った技なんだろ?」
「ぐっ、うぅ」
いじめっ子に噛まれた部分が膿んでいます。
コン太はこうして嘘を吐きすぎた罰を受けるのです。彼はこのまま虐められ続け、社会で孤独になり、誰にも看取られることなく一匹でむなしく死んでいくのでしょう。そして地獄で宇宙の終わりまで生かされたまま責め苦を受け続けるのでしょう。嘘をついてはいけませんね。
めでたし、めでたし。
ここに、命が降りる。
両親の愛情を一身に受け、首も座り、自分の手足で動けるようになり、やがては立ち上がり。すくすくと育った子供は、自らの足で歩くことで、また新たな世界を見出す。自分の意思で、成長するための活動を行っていく。
学校に入り、教養を身につけるだけでなく、他人との交流を重ねていく。ボロボロのテストを机の引き出しに隠したこともあった、友達とケンカして何日も口を聞かなくなったこともあった。
いくら挙げてもキリがないような思い出が、いくつもいくつもそこにあった。そのときの思い出は不思議なことに、大人になってからのそれとは違い、成長しきった今でもずっと、心に深く刻み込まれている。
小学校、中学校、高校、大学と上がっていくにつれて、自立について周りから色々教え込まれ、また深く考えさせられた。そのときに抱いていた感覚は、実際とは全くと言っていいほど違っていたなと、今更になって思い返す。
部活も勉強もサークルもそこそこに頑張り、大学を卒業するとそれなりの職場にありつくことはできた。良いことばかりではなかったが、悪くはなかった。自分のこれまでを省みたとしても、十分納得はできた。
就職して二年ほど経った頃、今の女房と結婚した。会社のひとつ上の先輩で、入社した当初から優しく接してくれた人だ。気弱な自分に手を差し伸べて、また引っ張ってくれた彼女には、今でも感謝している。
子供は二人もうけた。一姫二太郎。縁起がいい。娘は高校に入学し、息子も中学三年を迎えている。二人とも、順調に育っている。これからも、子供達の成長を間近で眺めていたかった。
だけど、それは、もう、出来そうにないらしい。
一年ほど前、体調が優れない日に病院に行ったとき、医者から胃がんと宣告された。そして、あと一年もてばいいほうだ、とも言われた。
驚きはなかった。ただ「ああ、もう終わるんだ」という考えだけが、頭の中を彷徨っていた。
病気を打ち明けると、両親も女房も泣いていた。そんな中、子供達は少し信じられないような、困惑した表情で。それを見て初めて、悲しみが募り出していた。
だけど、それは、もう。
いつの間にか、目から大粒の涙がこぼれていた。
それでも、現実を段々と受け入れていく。残りわずかな時間で、出来ることを模索していこうと考える。そうだ、子供達にはまだまだ伝えたいことが沢山残っている。死ぬ前に、ひとつでも多くのこ
男がわかめうどんを注文して数分がすぎた。
客は男のほかに尼が一人だけ。古さびた狭い店内には湯の沸く音、麺をすする音、何処からかやってきたスズメガの飛来する羽音が響いていた。店主は拳を腰にあててだし汁をじっと見つめていた。男は手持ち無沙汰から頬杖をついた。
尼は花柄の厚いスカーフで頭から肩までを蕾のように覆い隠していた。その花弁の隙間から細長い腕を伸ばして器をつかみ、箸を持つ手を祈りのように動かして、うどんを熱心にすすっていた。香りを纏った湯気が薄暗い蛍光灯の下で立ちのぼっていた。ぶんぶんと高速で飛び回っていたスズメガは瓶にささったリンドウにとまり、輪になった口吻を反らすようにして花弁の隙間を窺っていた。
通りに目を向けると、新参と思しき子連れの夫婦が数人のギャングに囲まれていた。尼も身体をひねってそちらに向けた。
ギャング達はなにも言わなかった。父は黙って金を差し出した。ギャングはそれを当然のように受け取った。
ギャングが母の鞄を指差した。母は怯えながら首を横に振った。ギャングの手が鞄に掛かると母は狂ったような悲鳴をあげた。ギャングが母を殴った。母はもんどりうって倒れた。転んだ拍子にスカートが捲れ上がり、肉の張った白い腿があらわになった。鼻が折れて付け根から曲がった。鼻血が噴き出した。
子は下を向いていた。ギャングの一人が近寄り、挑発的にぱしぱしと平手打ちした。子はなにも反応するまいと口を結んで耐えていた。だが母の悲痛な呻き声を聞いて堰を切ったようにしゃくりあげた。ギャングが舌打ちして母を蹴り上げた。父は黙って見ていた。一人が母めがけて放尿し、数人がそれに続いた。尿に濡れた薄手の服が身体に張り付いて、隠された肉感的なカーヴを暗示した。ギャング達がはじめて笑い声を上げた。父は鞄をギャング達に差し出した。
唐突にうどんが置かれ、振り向くと、店主は既に背を向けてだし汁に目を落としていた。男は器をつかみ上げて唇をすぼませ、いざ汁をすすろうと傾けた。その器めがけてスズメガが一直線に飛び込んだ。スズメガは羽をばたつかせて激しく汁を撒き散らし、こんな事体になってしまったことにスズメガ自身も驚いているようだった。
尼は携帯をかざし、オーマイゴッドという表情で撮影していた。一枚撮るたびに軽快なエフェクト音が鳴り響いた。男は溺れたスズメガを箸でつまみ上げ、羽を毟りながら尼を観察した。
右足がびしょ濡れだ。靴の裏をのぞけばとうとうすり切れて穴があいていた。耳を澄ます。一日中だらだら降りつづき今になって強くなってきた雨があらゆる気配を鈍らせていた――逃げられた。
自宅まで歩く気力がなく、事務所に帰った。シャワーを浴び、ローリングロックに手をかけたが、思いとどまってコーヒーを淹れた。午前八時。二時間後には善良な市民であるご夫人に大切なワンちゃんの死を告げなければならない。そっちの世界に入る前にまずこっちの世界にけりをつけておくべく資料を一枚一枚焼いていった。
電話が鳴った。嫌なタイミングだ。煙草に火をつけ、マッチを灰皿に捨てると、深く吸い込み、ほそく長く吐いた。
「ジーザス探偵事務所」
「下でかけてるの。これから伺うわね」と女の声がし、切れた。
俺は残った資料にインクをぶちまけ屑かごにつっこむと、ソファからデスクに移り、ひきだしに拳銃があるのを確かめてからゆったり腰掛けた。
ひかえめなノックがした。
「どうぞ」
がたがたドアが揺れ、そして止まった。
「開いてないみたいだけど」
「……失礼」
ドアを開けると、極上の女が立っていた。
「人を捜してほしいの」
「誰です」営業時間外だが何も言わないでおいた。
「わたしよ!」と女は叫び、走り去った。まだ眠気をはらんだ路地を甲高い笑い声が遠ざかっていく。
ドアを閉め、カギをしっかりかけると、ローリングロックを空け、ソファに横になった。酒はまたたく間に全身にまわった。そういえば一昨日の夜からなにも食べていない。夕方まで寝てやろうと目をとじた。
凶暴なノックの音と犬のきゃんきゃんいう鳴き声におこされた。くそ。まだ朝の九時だ。寝覚めが悪いが、ドアを壊されたら修理代が払えない。足がふらつく。
「寝ていたか」
俺は言葉を失った。マーカス上院議員! 俺がつい二時間前まで必死に追いかけていた男を一匹の兵隊蟻とするなら、この老人は庭につくった蟻塚を眺めながらレミーマルタンを飼犬に舐めさせている上院議員だ!
「これだけ言いに来た――わしは、すべてを白日の下にさらす。では、失礼するよ」
「この犬は?」
「知らん」
議員が去り、俺はコート掛けに腰をふっている犬を蹴飛ばした。うるんだ目でこちらを見ているその片方の耳の先が二つに割れている――ジーザス! まちがいない、あのばあさんの犬だ!
くそっ、毎回こうだ! 俺は一度だって、自分の力で事件を解決したことがない!
みんなが僕と目を合わさないのは、きっと僕が猫の死体なんかを手にぶら下げているせいだと思う。僕はこの憐れな猫をどこか適当な場所に埋めてやるつもりだったのだが、適当な場所なんて、そう見つかるものじゃない。
「君ちょっと!」
緊張した顔の警官に、僕は突然呼び止められた。
「ここで何をしてる」
「デートの待ち合わせを」
警官は緊張を緩めない。
「手に持っているものは何だ」
「アイスクリームにでも見えますか?」
僕がそう言うと、警官は顔を紅潮させ僕の胸ぐらを掴んだ。
僕は猫を持っていない方の手で上着のポケットから拳銃を取り出すと、警官のこめかみに銃口を当てた。
「じつは、その相手の女とはずっと昔に別れたきりなんです」
「ああ……」
「でもまた会いたいっていう手紙を彼女からもらって、今日はここで待ち合わせをしてたって訳なんです」
僕は警官の腰ベルトから、猫を持った方の手で器用に拳銃を抜き取ると、両手を上げる警官にさよならを言った。
「もし彼女が来たら伝えて下さい。やり直すのは、やっぱり無理だと」
僕は人ごみに紛れこみながら、目に付いた地下鉄の階段を降りていった。地下鉄の構内では、オレンジ色の宇宙服みたいなものを着た人やヘルメットを被った人たちが、何かを叫んだり忙しそうにしていたので、死んだ猫をぶら下げている僕のことを変な目で見たりする人は全然いなかった。
「ここは危険です! 今すぐ地上へ逃げて!」
僕は自動改札を飛び越え止まっている電車に乗り込んだ。車内には、床に倒れた人や白い泡を吹いている人たちが大勢いた。
「ねえその猫、名前なんていうの?」
ふいに小さな女の子が僕に近寄ってきた。
「名前は知らないけど……君、大丈夫?」
「うん、大丈夫。その猫、眠ってるの?」
「まあね」
電車がゆっくり動き出したので、僕は女の子の手を引いて座席に腰を下ろした。
「ねえ、なんかワクワクしない?」と女の子は言いながら、僕の顔を下から見上げるように覗きこんだ。
「君といると、なんだか楽しいよ」
僕は真っ暗な地下鉄の窓を眺めた。
「あたしがお母さんで、猫はお父さん。あなたは、あたしの子供ね」
車両の隅で、岩のようにうずくまったエレファントマンが小さく、醜悪に頷いた。
「だからあたしがみんなを守るの。だってあたし、お母さんですもの」
僕は泣いていたと思う。そして暗闇は無言のまま、バラバラに砕けていく僕たちをじっと見ていた。
「……」
ちょいちょいちょい、ちょいちょいちょい。耳そうじをするときに、みんな耳の奥をつつくよね。でも、その位置よりもっとずっと奥。脳みその奥の奥の奥。宇宙とかとつながっているところのやや手前。今、みんなのそこがちょっとだけ震えていた! 音がでかすぎて、何がなんだか聞き取れないんだけど。
「……」
明かりが全部消えているのは、演出じゃない。後で聞いた話では、電線を伝わってこの空間へ入ってくるすべての電気を100%遮断していたらしい。でも、音量はずっと一定のパワーを保っていた。たまにレーザービームがまたたく。奥の奥をちょっとだけ揺らされたみんなのつむじの先からふわーっとキラキラしたパワーが出て、もちろん、目には見えないんだけど。そのキラキラしたやつは自由自在に流れるように集まって、線を伝って、楽器やコンピュータにパワーを注いで音が鳴ってる。そこにいた人はみんななんとなく理解してた。そんなの当たり前の話じゃん、と強く。
暗闇は、地下200階みたい。国家権力でもコントロールできない何者かが静かに潜んでいるような色をして、天井から床まで見えない煙が包んでいた。別に、誰もここから出たいと思わない。時計は見ない。そんなもの持っている奴はいないし。
外のオフィシャルグッズ売り場の商品は、もうずっと前に売り切れていた。
さっきまでは、ここで、胸のところに大きく『一人ぼっち』という文字がプリントされたTシャツを販売していた。このお店には、商品がそれしか置いてなかったのである。なんでこんな、4800円もするグッズを買ってしまうのか、不思議なんだけど、長い長い列に並んで、ほとんど全員がそれを欲しがった。
右を見てみる。左を見てみる。あれ? みんな買ったばかりの『一人ぼっち』Tシャツを着てるんだよ。おれも着てるんだけど。踊ってるんだかなんだか、脇の下をつつかれてもがいているみたいに揺れて。
これでもか、これでもか。
「……」
会場を出ると、出入口から長い廊下が伸びていた。来たときはこんな廊下なかったよ、もちろん。廊下の先は行き止まりだった。みんな、どっちへ歩いたらいいか、とか、そういうくそどうでもいいことを考えたくなかったので、ボーっとしたま、しばらく行ったり来たりした。
家に帰りつくまでの途中の道で、奥の奥が震える感覚はきれいさっぱり忘れていた。
我先にという意気が重なって、同じタイミングに告白したのがまずかった。
「じゃあ、先に見つけた方と付き合ってあげる」
リリーがそんなこと言うから、ぼくとメイスは否が応でも“空飛ぶマタドール”を見つけなくてはならなくなった。話には聞くけど、どこをどう探せばいいのかさえ検討もつかないぼくは色々考えて、いいことを思いついたんだ。見つけたと嘘をつく。いや、別のものをそれだと偽る。それも却下。ぼくが思いついたのは、リリーをその気にさせちゃえばいい、ただそれだけだ。抜け駆けは卑怯だけど、都市伝説を探し当てるくらいなら手っ取り早い。
校舎からリリーが出てくるのを待って、偶然を装って一緒に帰る。深い森に囲まれた一本道は夕暮れで薄暗くなっていた。
「どう。捜査は順調?」
「まあね。今夜あたり出るんじゃないかと思ってるんだけど」
「ホントにっ? どこに出るの」
「たぶん、あっちかな。空のあそこら辺」
ボクは一際輝く一番星を指差した。途端にリリーは目をきらきらさせた。マタドール以外のことで気を引こうとしていたのにしくじった。これでは見つけたも同然、彼女の期待はぐんと伸びる。でももし見つけられなかったら……。むしろ逆効果だ。どうする、どうはぐらかそう。「あ、あれかな」
リリーが指差したのは、相変わらずの一番星だった。けれど様子がおかしい。少しずつそれは大きくなっていく。一瞬、ものすごい光がぼくらの視界を奪った。気付かない内に目をつむっていたぼくの腕を誰かが小突いた。
「見つけたっ。すごいよ何あれっ」
リリーの声で瞼を開けると、円錐状の光の中央に浮かび上がるホルスタインを見つけた。その周囲を薄ぼんやりとした背の高いマタドールが赤い布を振っている。光を放射しているのは銀色の大きな円盤で、ホルスタインとマタドールは円盤の底面に開いた穴へと吸い込まれていった。サーチライトがぼくらを照らすと、耳を通り越して、頭に直接声が聞こえてくる。オマエラハチキュージンカ、オロカナチキュージン、コノホシ、アトニジカンデホロボスゾ……。円盤は霞のように姿を消した。
「見た! 空飛ぶマタドール見たわっ。あなたの勝ちねっ」
リリーがぼくの頬にキスをした。あのマタドールは何だったのか。それよりもっと大事なことがある気もしたけど、頬の熱りでどうでもよくなった。ぼくはリリーと手を繋ぎながら、明日悔しがるメイスの顔を思い浮かべて家路を辿る。