# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | 12時すぎのシンデレラ | 志崎 洋 | 1000 |
2 | まよなかのはなし | 笑珈仁子 | 917 |
3 | Good-bye | 聖華 | 999 |
4 | 残暑 | イエイツ | 1000 |
5 | 「クイズ棟方の統領は提灯鼻」 | 5or6 | 843 |
6 | 雨 | ほろほろ | 802 |
7 | 肉の日 | 香椎むく | 1000 |
8 | 死の舞踏 | 三浦 | 1000 |
9 | 熱闘関ヶ原 | さいたま わたる | 1000 |
10 | エルの終末 | アンデッド | 1000 |
11 | 錆 | 群青 | 999 |
12 | まぐろ | なゆら | 536 |
13 | 鼠 | わら | 1000 |
14 | 玩具 | 彼岸堂 | 1000 |
15 | 『3年2組の河野君』 | 石川楡井 | 1000 |
16 | 折合 | エム✝ありす | 1000 |
17 | ツヨイ、ネガイ | 謙悟 | 1000 |
18 | 夢の女 | yasu | 651 |
19 | 横っ面 | 金武マーサムネマサ | 263 |
20 | 喜びはいつも君のそばに | 葛野健次 | 335 |
21 | 文化祭 | クマの子 | 1000 |
22 | 小さなつめ | 高橋唯 | 1000 |
23 | エレベーターに乗る | 石川順一 | 998 |
24 | おかえり | euReka | 987 |
25 | 甘いか? レッスンは? | おひるねX | 1000 |
26 | 株式会社ネコに好かれたい | ハダシA | 995 |
27 | 最後の一葉を集めて | えぬじぃ | 1000 |
「おばあちゃん、この前のお話、ほら、かぼちゃの馬車でお城に行ってさ……」
「ああ、シンデレラのお話かい」
「あのね、不思議なことがあるの、魔法は12時を過ぎたらもとに戻ったんでしょ」
「そう、その通りじゃ」
「そこが、不思議なのよ」
「どうしてだい?」
「だって、ガラスの靴はもとに戻らなかったじゃない」
「アハハッそうじゃな。実はな、ガラスの靴は魔法使いのおばあさんが自分のふところから出して、シンデレラに履かせたのじゃ、わかったじゃろ」
「なあんだ、そうか……。ちょっと待って!」
おばあさんは、ぎくりとした。
「なぜ、おばあさんは、ガラスの靴だけ魔法を使わずに自分のふところから出したんだろう? ねえ、おばあちゃん不思議よねえ」
「ささっ、もう帰った、帰った。その話は、終わりだよ」
「ええっ、つまんないの。私もシンデレラみたいなお姫様になりたいなあ」
女の子はなごり惜しそうに帰っていった。
「まったく近頃の子はしょうがないねえ、お姫様になりたいなんて。お姫様なんて、それはつまらないもんさ……」
おばあさんは、そう独り言をつぶやくと静かにゆり椅子に腰を下ろした。そして、色の変わった古びた手紙を取り出すと、それを読み出した。
おばあさん、お元気ですか。私があの家での生活に疲れ果て、家を出ようとした時に出会ったんですよね。
びっくりしました。いきなり魔法を使って素敵なドレスを私に着させてくれたんですもの。あの夜のお城の舞踏会はとても楽しかったわ。でも、おばあさんからお借りしたガラスの靴、少し私には大きかったみたい。急いで階段をおりたものだから、途中で脱げてしまって……。
あれから私は遠くの町まで逃げて、やっと住むところも見つかりました。私は、今とても幸せです。相変わらず貧乏ですけれど、自由で気ままな生活を送っています。おばあさんもお体に気をつけて、いつまでもお元気で。
シンデレラより
おばあさんは手紙を読み終えると、また独り言をつぶやいた。
「あれから魔法をかけてシンデレラになりすまし、うまく事は運びよった。なにせ私の靴じゃからな、足にぴったりするはずじゃ……そして、あこがれのお姫様になれたのじゃが……、毎日がパーティやら晩餐会やらで自由で気ままな生活などありゃしない。いやつまらなかった……本当にシンデレラがうらやましいのう……」
「幸福。」
煙草を燻らせると、言葉は、夜の静寂を浮遊した。
「陳腐な言葉だね、実に下らない。」
ゆらゆらと漂う言葉を、唐突に彼が貫いた。
それは、肥大した風船が破裂するように弾けると、跡形もなく消滅してしまった。
「そう、かな。」
動揺していたのか分からない。僕は釈然としなかった。眼前の同級生である矢野は、限りなく無表情に近い面持ちで、僕を一瞥する。「そうさ。」彼は言った。「人間は、幸福に見向きもしない。」
「…どうしてだい。」
矢野は肩を竦める。
僕は続けた。
「僕らは常に幸福を追い求めているじゃないか。」
「常に?ああ、その通りだ。だから幸福を見落とす、いや、知っていながら知らない振りをする。」
「矢野、僕には分かり兼ねないよ。」
生暖かい風が吹いていた。
僕は自分の発した言葉に違和感を覚える。見透かした様に矢野が口元を吊り上げた。僕は狼狽えた。
「幸福は下らない。否、幸福を追い求める事自体が、下らないのだ。」
「それは欲だ。」
「そう、欲。誰よりも幸せになりたいという人間の、浅ましい欲。」
矢野は饒舌だった。辟易する。僕は力なく首を振った。
「僕らは汚いのだね。」
「なんだい、今に始まった事じゃない。」
「僕は、昔、テストで満点を取った事があるよ。」
「へえ。」
「僕は嬉しかった。クラスで満点を取ったのは、僕だけで、先生がクラスメイトにその事を伝えると、皆は口々に賞賛の言葉を発して、特別な瞳で僕を見たんだ。その時に感じた、あの言いようのない充実感は、紛れもない優越だった。僕は理解した、僕の中には汚なく、愚かな傲慢と下らない自尊心が黒々と渦巻いている事を。」
僕は知っていた。
「あの時、僕は実に幸福であった。」
「そうだろ、違うかい?」
「君はもう分かっているはずさ。」
「その“幸福”が僕達に何かをもたらす事はないんだ。」
「馬鹿馬鹿しい。」
「下らない。」
暗闇が僅かに震えていた。僕は望んでいるのだ。
「でも、ねぇ、君。」
「なんだい、まだ何かあるって言うのか。」
矢野が不機嫌そうに眉を潜めた。僕は知らない振りをして、俄かに開口した。
「それでも、僕は、きっと幸福を追い求めるよ。」
矢野は何も言わなかった。
夜は濃度を増して行く。
再び淡い色をした風船が膨らみかけていた。
「私の世界にもやっと色がついた。」
明美は大空を抱きしめるように両腕をめいいっぱい広げた。後ろから忠がそっと明美の首筋に腕を回しきつく抱きしめた。明美は振り返るとこぼれた笑顔を忠の痩せ細った腕にうずめた。
「突然現れてこんなに私の世界を照らしてくれた。」
あの蝶みたいに。蝶は吹き抜ける風に逆らい明美に近づくと耳の側で羽を休め、そしてハタハタと小さな音を立てた。次に二人の頭上に高度をあげて旋回し始めると、空と同じような深く青い色をした羽をひらつかせ、二人を上から魅了した。しかし蝶は風と共に飛び去った。
「いかないでね。」
「いかないよ。」
「1人にしないでね。」
「1人になんかしない。」
「恐いよ。」
大丈夫だよ、あの蝶のように飛んでいったりなんかしない。君はそういったよね?明美はあの大空の下に今日もいた。後ろからそっと抱きしめてくれていた忠はもういない。だから明美は崩れた。膝をついて地面を力いっぱいに殴りつけた。痛みは感じなかった。大地も揺れはしなかった。涙が明美の頬を伝った。この場所はなにも変わっていないのに。ここから見上げる空は宇宙のように広大なままなのに。忠と来たあの日のように溢れ出るような幸福感はどこにも沸いてはこない。
「お別れを言う準備はできたかな?」
涙で頬がぐしょ濡れの明美の肩を母は抱いた。明美はそっと頷くと、白い粉が入った小瓶を受け取った。明美と空の距離が体一つ分縮んだ。小瓶の蓋に添えられた指は、開けるのをためらっている。開けるということは本当の別れを意味していた。明美は目をつぶり風の音を聞いた。ヒューっと吹き抜ける風は明美の塗れた頬を少しずつ乾かしていた。
明美は小瓶を空けた。風の吹く向きに体を向けると、白い粉を包んでいた両手をそっと開いた。
「彼の行きたいところへ、できれば幸せな場所へ、連れて行ってあげて。」
白い粉は風に乗り様々な方向へ広がっていき、そして消えていった。もう戻ってはこない。空っぽになった小瓶が明美の手のひらからすべり落ちた。母が倒れる明美を両腕で抱きかかえた。吹き荒れる風よりも大きな声で鳴く娘を強く抱きしめた。二人は侵食されてできた大きな大地のかたまりの上で分け合った。痛みを、悲しみを、もう二度と帰らぬ人の、太陽の陽だまりのように暖かな記憶を。泣いていた明美は吹き続ける風の中に聞き覚えのあるような音を聞いた。何か小さな羽が、ひらひらとはためくような音。
球児らの声が聞こえる夏の庭
きたる年のヒーローめざして
部員たちがグラウンドを走っている。
健二はベンチに座り込んで、何気なく後輩たちの動きを眺めていたが、ゆらゆら揺れる陽炎が、人の姿をぼやけて見せていた。
8月も残りわずか。そろそろ秋の気配が見えてもよさそうなものだが、今年の夏はしつこく日本にへばりついていた。
夏の大会まではこの暑さも、気持ちと身体を心地よく燃焼させてくれたが、しばらく身体を動かしていない健二には、慣れた練習グラウンドのベンチにじっと座っているのも苦痛に思えた。
今年の野球部は例年以上に期待されていた。
健二自身もエースとして、手応えを感じていたが、結局3回戦で、昨年の県大会優勝チームにコールド負けを喫した。
甲子園も視野に入っていただけに、プライドもろとも健二は打ち砕かれた。
好投手とは言え、プロからお呼びがかかるほどの体格と素質もない。大学の野球部からのお呼びもいくつかはあるが、どこも強豪とは言えず、将来的にも不安がある。
むしろ野球は趣味程度にとどめて、勉強に専念しようかとも思うが、これで現役ともサヨナラかと思うと、やはり喪失感は大きかった。
「久しぶり」
振り向くと、キャッチャーの隆が彼の性格をよく表す明るい笑顔を浮かべていた。
試合で窮地に立たされた時も、何度この笑顔に救われたことか。
体操着の隆の手には長く健二が的にしていた、黒ずんだミットがあった。
「どうしたよ、ミットなんか持って」
「いや、受験勉強なんかしてっと、身体がなまってさ。あいつらの練習につきあおうかと思って」
「おまえらしいな」
「おまえもグラブ持てよ。ここに来てるってことは、やっぱりやりたいんだろ? どうだ。久しぶりに投げてみないか」
隆がミットをはめて、真ん中を叩いてみせた。
こいつ、さすが俺の女房だ。俺がどんな気持ちでいるのかわかってやがる。
「そうだな。たまにはいいか」
隆が予備のグラブを投げてよこした。
ブルペンのマウンドに立つと、後輩たちが遠巻きにこちらを見ているのを感じた。
ボールを握ると、しっくり右手になじんで、まだその感触が失せてはいないことが感じられた。
何球かの練習ののち、隆を座らせて、振りかぶって投げてみた。
「ナイスピッチン!」
隆がボールを投げて返す。
もう一球。そしてもう一球。
汗が滴り落ちた。
暑いな。
でも、気持ちがいい。
もう一球。
やっぱり、野球、やりたいな。
健二は何か吹っ切れたものを感じていた。
バイオティックコスメティックエキゾチックサロン推奨!
クイズ〜
棟方の統領は提灯鼻〜!
ワァ〜!
(劇場内拍手)
チャラチャラチャラ〜
(オープニングテーマby.テイ・トウワ)
ハッハッハ〜
(手を振りながら中央から歩いてくる)
キャ〜!
(そのまま観客の頭を踏み付けていった)
ピタッ!
(増井時三郎、齢82歳の頭の上で止まった)
オォ〜
(場内ためいき)
プルプルプル〜
(時三郎耐えてる)
ハッハッハ〜!お爺ちゃ〜んお名前は〜?
(マイクを時三郎に向けた)
「む゛〜‥と…時三郎でっす!」
ワァ〜!
(場内大興奮)
モジモジ〜
(時三郎照れてる)
さぁ〜時三郎の頭の上から始まりましたクイズ!
棟方の統領は提灯鼻!
司会はもちろん想定の範囲内の〜
大ちゃんで〜す!
キャ〜!大ちゃ〜ん!
(ネカマ達が時三郎の廻りに集まった)
ハッハッハ〜
あんまり見ないで下さ〜い!時三郎をいじらないで下さ〜い!ハッハッハ〜
モジモジ〜
(時三郎照れてる)
さぁいきますよ〜
トオゥ!
クルクルクル〜
シュタ!
(舞台に戻った)
OK、ミュージックカモン!
ドギュ〜ンッッ!
(爆音ギターがマーシャルアンプから炸裂)
バァ〜ン!バァ〜ン!
(アンプ前の観客の頭が破裂した)
キャ〜!
(観客大パニック)
プシュ〜
(首だけの体から飛び散る血しぶき)
サワサワサワ〜
(ボンボン持ったチアガール達が舞台に集まった)
それ〜
D〜I〜E〜大ちゃん!
オーエス!オーエス!大ちゃん!ハイハイ!オーエス!オーエス!大ちゃん!ハイハイ!
おい!おい!おい!おい!イッちゃうよ〜イッちゃうよ〜ハッハッハ〜
第一問!
ピタッ!
…
(場内静まる)
…
…
コテン…
(時三郎死亡)
と…時三郎〜!!!
(マイク絶叫)
バッ!ヌギヌギ〜
(マイクを捨てて脱ぎだした)
日本国万歳〜!
(観客通路に走っていく)
大ちゃ〜んもうすぐよ!
(観客の一人が叫んだ)
サライ〜の空は〜
(BGM.サライ)
ハァハァ…今まで机に入れたままだった〜コッペパン!
コッペパン!
(場内大合唱)
クイズ〜棟方の統領は提灯鼻〜また来週〜
バタンッ!
(非常口から飛び出してった)
完ッ!
僕は雨が嫌いだ。
服は濡れるし、ジメジメしていて、どこか陰気な感じがするから。
ある日、僕は捨て犬に出会った。
そして、無意識の内に自分の住むアパートに連れ込んでいた。
特に動物が好きという訳でもないし、
アパートはペット禁止だ。
だから、バレたら面倒な事になる。
後々になってやっぱり拾わなければよかったと、そう思った。
そして...その日は雨だった。
だが、適当に付けた「ポチ」という在り来たりな名前をとても気に入った捨て犬は、より一層僕に懐いた。
そしてそんなポチを見て、僕のポチを見る目も次第にではあったが、優しいものとなっていった。
結局大家さんにポチの事がバレた為、家賃は高くなったがペット可の部屋に住む事にした。ポチと一緒ならば何処でも良かった。
休日は公園で一緒に遊び、平日は一緒にご飯を食べて一緒に寝た。
このまま、ポチと一緒にいられれば何もいらない。
そう思える程、僕はポチを気に入った。
雨はやはり嫌いだったが、"ポチに出会えた"、その事実が僕の考えを少しずつではあったが変えつつあった。
朝起きた時、ポチが死んでいた。
「ポチ、朝だよ」
「ほら、朝ごはんだよ、ポチ」
「寝過ぎは良くないぞ、ポチ」
「今週の休日はまた公園に行って遊ぼうか、ポチ」
何度も、何度も...僕はポチに語り続けた。
もしかしたら、また、嬉しそうに尻尾を振って返事をしてくれるかもしれない...そんな事を考えていた。
ようやくポチがもう僕の言葉に反応してくれない事を悟った時、
家の中なのに...雨が、降った。
どうにも雨は止みそうになく、ただただ、床にちっちゃな水溜まりが出来ていった...
やっぱり、雨は嫌いだ。
これから、この思いは変わらないだろう。
だけど...
雨がもたらした、僕にとっては大きな幸せ。
それだけは、感謝したいな。
僕はそう思う事が出来た。
そして...
やっぱりその日も、雨だった―――
―終―
仕事場に近いその定食屋に入ると、いつものように店主が忙しく立ち働いていた。
入口付近の席に座ると、「いらっしゃい、何にします?」と店主自らが注文をとりにきた。
ふと壁の方を振り向くと、黄ばんだ壁に貼られた新しい貼り紙が目についた。
「肉の日?」
貼り紙には“肉の日”と大きく書かれており、それ以外の情報はなかった。
「はい、毎月二十九日は」
小太りの店主がにこにこしながら言った。肉料理が安くなるのだろうか。
「牛にします?豚にします?」
まだ肉にするとも言っていないのに、店主はそんなことを尋ねてくる。僕は仕方ないなと思いながら、「牛にします」と答えた。
しばらくして、美味しそうなステーキ定食が運ばれてきた。「おまちどおさま」という店主の声に顔を上げると、そこには牛が二本足で立っている。
僕は、店主が“肉の日”のパフォーマンスをしているのだと考えた。かわいい豚みたいな体型だとは常々思っていたが、まさか牛の着ぐるみがこんなに似合うなんてねえ。
しかしどうやらそれは着ぐるみではないらしいのだった。茶色の丸々と太った牛の姿は、毛の一本一本までがリアルだ。声は店主の声そのものだけれど。
着ぐるみではないと確実にわかったのは、その牛の肋骨が剥き出しになっていたのを見たからである。血生臭さを今更感じる。痛くないのだろうか、ということより、このステーキはそこから取られた肉なのだろうかということが気になってしまった。
「あれ、召し上がらないんですか?」
店主はまだこの場を去らず、僕を促す。いや、牛か。牛になってしまった店主。それとももともと牛だったのだろうか。
机上のステーキが目の前の牛のものだと思うと、急に食べる気が失せてしまった。
それにしても、自分の体の一部が食べられようとしているのに、なぜこの牛はニヤついているのだろう。
不気味さの正体。僕はフライドチキンの広告を思い出した。デフォルメされた鶏のイラストがかわいく踊っている。あるいは、ハムのパッケージ。ピンク色の豚のキャラクターがこっちを見つめて上機嫌にしている。おい、今から食われるのに、なに笑ってやがる。
しきりに自らの肉をすすめる牛の店主に、僕はそれらと似た不気味さを感じた。
「全部食べきって下さいね」
牛の店主は、ますます人の好い笑みを強くする。自分が食べる側なのに、こちらが取って食われるかのような心地だ。僕の額に脂汗が浮かんだ。
菱形プールに張られた爪先にかかるくらいの水面には、桜の枝を凧糸でくくって作った十字架が夥しい数、浮かんでいた。
「懐かしいでしょ」ヒヤシンスの首に順々に鋏を入れていきながら院長は言った。
「僕はこの実習が一番嫌いだったんですよ。ちっとも浮かせられなかった」大量の房を桶に放り込みながら鋏を錆びさせてやろうと試みてみたが、美しい旋律を従えたあの言葉の連なりが集中を妨げてやはり発現域には達しなかった。「子供たちは」
「町の学校で普通の子たちと一緒に学んでるわ」首狩りのペースを落とす気はないようだ。「放課後ここを訪ねてくれる子もたくさんいるのよ」
「全施設の閉鎖が決定しました」と僕は努めて職員らしく告げた――日は陰り庭はヒヤシンスの首無し死体で埋め尽くされていた。
「では失礼します」と僕は言った。
「今も聞こえるのか」とエミールがソファに盛大にこぼしたビールを舐めとりながら言った。
「ああ」お互いにひどく酔っていた。
「いい曲なんだろ」
「天国にいるみたいだぜ」
「でも歌詞が最悪ってか」
「地獄だな」
「どんな言葉なんだ」
「たいした言葉じゃない」僕は自分の脳味噌を素手で掻き回すような気分で説明する語句を探した。「でも言葉にできない」
僕はずっとヒヤシンスの房をいじっていた。すると切り口から茎が数センチ盛り上がり葉らしきものがほんの少し姿を現した。「おいおい、いいのか」
「トレーニングだと報告するさ」と呟いてエミールは豪勢に笑った。「人の頭を砕いたり手足を吹き飛ばしたりするより意義深いだろ」
「酷いのか」
「ハンバーガーが食えなくなってな」心底無念そうだった。「十時間後にはまたパンなしハンバーガーの世界だ」
エミールの葬儀の帰り、僕はハンバーガーショップに立ち寄った。僕の食欲は旺盛だった。僕は今の生活に満足していた。頭の――内的宇宙のどこかで鳴り続けている、天国を望みながら魔王に苛まれるようなこの歌を取り除いてもらうのは簡単なことだった。しかし、エミールのように<テクニック>で人を殺すマシンになるのは御免だった。僕はエミールを軽蔑していた。それと同時に敬服してもいた。エミールもそうだろう。僕らは親友だったのだ。それがただの言葉でしかなくても。
院長が死んだ。自分の首にあの鋏を入れて――人はどうしてあらゆる方法を使って死んでいくのだろう。待っていても死は迎えにきてくれるのに。
僕はこの生活に満足している。
九月十五日。プレゼン資料の締切日だが、取引先での陰口を聞いてしまって以来、あれだけ充足感を覚えていた仕事が急につまらなくなった「あの担当者じゃこのプロジェクト前に進まないだろ。あそこと組むならべつの部署とコンタクトした方が」幻聴を消すためラジオに手を伸ばす。
小早川初球を引っ掛けゲッツー追加点なりません。解説の織田さん「西軍は打線がまるで線になりません」初回の石田のタイムリー宇喜多のツーラン以降点が取れませ
こんな時間に野球か。
最終回東軍は一番からの好打順。宇喜多も球数百五十球を超え気力を振り絞ってのピッチングこのまま逃げ切れるかキャッチャー石田ナインに檄を飛ばします。東軍もこれまで二桁安打を放ちながら無得点「徳川ジュニアの欠場が悔やまれますね」初球加藤打ったああサード長宗我部これをファンブル!1塁セーフ。2番黒田、か、簡単に打ち上げたレフト吉川ゆっくりとこれをおおーっとグラブに当て落球!1,2塁ノーアウト。池田福島山内のクリーンナップを迎え野手マウンド集合します。石田ベンチを見ますが毛利監督微動だにせず続投のようです。池田打ったーセカンドの右を抜け、っと抜けない抜けない大谷ファインプレー一塁アウトワンナウト二三塁四番福島ああ〜っとここで敬遠!福島怒り心頭兜を叩きつけたぁー「満塁策ですね」ここで徳川監督自ら山内を除けバットを持って登場、でたあ『代打拙者』満塁一発出ればもちろんサヨナラのチャンスです「チャンスですね」バットをスタンドあいやセンター小早川に向け打席へ。ボールボールストライクボール「よく球がみえています」次のバッターに好調藤堂押し出しは避けたいところ第五球打った―センターへ一直線小早川の前に、落ちたヒットヒットヒット加藤ホームイン黒田も三塁を回あああっと小早川トンネルぅしかも球を追わないーレフト吉川ライト脇坂も微動だにせずセカンド大谷が必死の形相バックアップ走る走るこの間に一塁走者福島ホームイン同点っ徳川も巨体を揺らしながらサードコーチ本多ぐるぐる手を回す大谷小西へ中継バックホームキャッチャー石田ブロック体勢を取った徳川根こそぎすべてを吹っ飛ばすーサヨナラサヨナラ代打サヨナラ逆転満塁ランニングホームラーン「劇的な幕切れでした」東軍歓喜の輪の中胴上げが始まりますまず徳川宙に舞った続いて福島黒田加藤そして小早川あー
ラジオを切る。なんとか、なりそうな気がしてきた。
気狂いのエル。奇妙な機械人形。普通の機械人形とは違う哀れな娘。だから見放された。仲間からは気狂いのエルと呼ばれている。
荒廃したビル群の中にある道路を、一人の少女が素足でひたひたと歩いていた。雲間から注がれる陽光を柔肌に浴び、短めの髪と似合いの白いワンピースとを靡かせて。
エルという名の少女は、歩きながらもきょろきょろと辺りを見回している。特に誰かを探している訳でもないが、彼女の爛々とした紅い瞳は常に渇いた好奇心で満ちていた。
――人気のない廃墟の街は未だ過去の残像を色濃く残している。まだ平和だった時代、人と機械が共存し文明を築いていた頃の。
人は機械に心を与え、自由を奪った。そして戦争が起きて、世界は変わった。今では人も機械も僅か程――。
ふとエルの足が止まる。彼女の前には機能を停止した地下鉄へと続く入口があった。
エルは駆け寄ると、興味津々で入口を覗き込む。仄暗い闇へと続く生気のない階段。時折吹く風で塵が舞う。
エルは手摺に触れながら、一歩ずつゆっくり階段を降り始めた。少し降りた所で、何か落ちているのに気づく。
それは回転式の拳銃だった。エルは紅い目を輝かせながら、細い手で銃を拾う。瞬間、エルの中で電気が弾けた音と血流が逆行する様な感覚が湧き起こる。
エルの眼前に、男の幻影があった。
兵士の格好をした男は、心底疲れ果てたという面持ちで階段にへたり込んでいた。男は懐から煙草の箱を取り出す。残っているのは一本。男は最後の煙草に火を付けた。深く吸い込み、煙を吐く。
煙草を咥えたまま、男はホルスターから銃を抜いた。エルが先程見つけた拳銃の銃口を、自分のこめかみに押し当てる。
数瞬してから、男は引き金を引いた。
エルの大きな紅い瞳に、人の脳漿と変色後の黒い血が映り込む。
――ビジョンはそこで終わりを告げた。
エルの過去を見る力こそ、彼女が同類達から気狂いと呼ばれる由縁だった。機械の体を持つ者には到底起こりえない忌まわしき現象。その力は彼女の知能にも影響を与えていた。
我に戻ったエルは、手の中にある銃を見つめた。優しく撫でた後、銃口を自分のこめかみに向ける。
エルはそのまま引き金を引いた。
――破裂音はしなかった。
彼女は不満げに頬を膨らませ、弾切れの拳銃を元の場所に置いた。それから階段を駆け上がって外へ出る。
エルは眩しそうに微笑みを浮かべると、楽しげにスキップをした。
去年の暮から、私の右腕は錆び始めた。
これは誇張でも比喩でもなく、文字通りに錆び始めたのだ。肘の部分から徐々に、しかし確実にそれは進行した。
最初は何かで擦り剥いて、その傷が治りかけているものだと思っていたが、傷は治るどころか日々増える。痛みは無く、腕の可動にも問題はないが、兎に角人目に付くし、食事にパラパラと錆びが落ちる。特に問題なのは、風呂に入ると湯が茶色く変色し、錆びの匂いがひどく鼻につくことだった。
日々増加する錆びの面積を不思議に思い、そして心配になり、医学に詳しい友人に相談してみた。
「成程。其れは君、身から出た錆だよ」
友人の言葉には嫌が応でも「うむ、そうか」と頷かせられる神秘的な威厳と説得力が秘められていた。
ただ、私のそれが「身から出た錆」だったするのはいいとして、私には錆びる理由がわからなかった。
というのは、私はそれまで善人一点張りとでも言えるような性質だったし、思い返してみても腕の錆に苛まれるようなことになる程の珍行愚行悪行とは無縁であったからである。人から「自業自得だ」となじられることもなかったし、むしろ私は人から「才色兼備だ」とひと匙の世辞を交えた称賛を受ける側の人間だった。そんな私であったから、心に驕りがあったのかもしれないが、驕りの一つや二つで腕が錆びてしまうようでは、世の中皆錆び錆びとなってしまう。
悶々と思考に思考を重ねたが解答を得られなかったので例の友人を訪ねてみた。
「悪行でないことが善行であるとは限らないのだよ。善行がどういうものであるか、悪行がどのいうものであるか、決定しているのは我々人間なのだから、人間を超越した者の価値観からすると、善であることが悪であるかもしれない。そして恐らく君は、人間を超越した者による人類善悪価値観更生の最初の対象になったのだよ。君はこれから我々の価値観からする珍行愚行悪行を行うべきだ。積極的に行うべきだ。そして成るべく周りの人間を巻き込むべきだ。善悪の価値観の転換という君の使命を理解してくれる同志を集うのもいいだろう。そして皆で珍行愚行悪行をするのだ。それを只管続けていれば天から我々を見下ろす人間を超越した者は君を善とみなし、錆びから解放してくれるだろう」
とりあえず私は最初の悪行として、「うるせぇ」と吐き捨て、友人の頬を錆びでざりざりした。
かくして、私と人間を超越した者との闘いの幕が切って落とされた。
夕刻、駅にマグロが走ってくる。
切符は事前に手に持っていて、それを迷うことなく投入し改札口を通り抜けたマグロは大変急いでいる様子だった。
誰も声こそかけなかったが、周りの客は無遠慮にじろじろと見た。
当然である、時価にして300万はするであろう立派な黒マグロだった。
ある人は唖然とし、ある人は腰を抜かし、ある人はよだれを垂らした。よだれはだらだらと真下に垂れて大きな水たまりを作った。少し気の早い一番星がゆらゆらと映った。
マグロはそれら視線を全く気にする様子もなく、まだ帰宅ラッシュ前の人もまばらなプラットフォームで電車をしばらく待っていた。
ハイキング帰りといった装いの親子が通りかかり、女の子がマグロを指差し「おかあさん、ほら、大きな魚介類!」と叫ぶと、途端に頬を、赤身よりも赤く染めた。
マグロだと認識されなかった自分を恥じたのだろうか。
あるいはいくぶん魚顔の女の子が、初恋のマグロに似ていて、マグロがとびきりのシャイボーイだったのだろうか。
あるいはただ夕焼けの加減でそう見えただけだろうか。
ふいに、マグロは跳ね上がり、さっきから流れ続けているよだれの水たまり、いやもはや池と呼べるほど広がった中に飛び込んでしぶきを上げ、深く深く潜っていった。
二度と浮き上がることはなかった。
慶長四年九月。伏見城の地下牢で一人の忍者が縛られていた。「伊賀の上忍、百地三太夫の息子」という触れ込みでまんまと石田三成に取り入った百地四太夫と名乗るその忍者は、諜報活動のため伏見城に潜入したものの、すぐに捕まった。実際のところ口がうまいだけの小物なのだから当然だった。
――フン、百地三太夫の息子、四太夫を舐めるなよ
真偽はともかく大物気取りの四太夫は、米を溶かした液体を指先で縄に染みこませた。
――こうすれば鼠が縄を囓ってくれるのだ。どうだ参ったか!
狙い通り、鼠が一匹寄ってきた。だが鼠は縄を囓らず、染みこんだ液体をぺろぺろと舐めた。
「おい、お前何やってんの!」
四太夫は怒鳴ったが鼠は歯を使ってくれない。やがて味がしなくなると行ってしまった。
「お、俺を舐めるなと……」
鼠にまで文字通りに舐められた四太夫は惨めだった。だがもう一度試みると、次に来た鼠は縄を囓ってくれた。両手が自由になった四太夫は、方々に先ほどの液体をぶちまけた。どこからともなく無数の鼠が出てきた。
「たいへんだー! ぺすとだー!」
四太夫は大声で叫んだ。宣教師にでも聞いたのか、彼は鼠が大量発生すると「ぺすと」なる死病の前触れだということを知っていた。叫んでいると番兵が目をこすりながらやってきた。
「見てよ、こんなに鼠が! ぺすとだよ、みんな死んじゃうよ!」
「ぺすと?」
「恐ろしい流行り病なんだ! 早く何とかしないと。俺に考えがあるから鍵を!」
番兵は寝惚けていたのだろう、四太夫に乗せられて牢の鍵を渡すと逃げ出した。何のためにそんなに持ってきたのか、四太夫は脱出の際に城の至る所に液体を撒いた。一夜にして伏見城は鼠に占拠された。
徳川家康はこんな鼠の城には住みたくなかった。だが伏見城に住むことは秀吉の遺命であり簡単に背けない。家康は件の脱走した曲者を利用することにした。曲者を暗殺者ということにして強引に大坂城に入り、前田利長ら有力者を暗殺の首謀者にでっち上げて統制下に置いた。
食事の時、家康の前を鼠が横切った。気づいた小姓が捕らえようとすると、家康はそれを制した。
「よいよい、行かせてやれ」
家康は不敵に笑った。関ヶ原の合戦まで、あと一年である。
ところで、四太夫は三成の元には帰らなかった。三成没後、伊達家に仕官しようとした百地五太夫と名乗る浪人が門前払いを食らい、その夜まだ新築の仙台城に鼠が大発生したとのこと。
栄転に次ぐ栄転がもたらしたのは、堕落だった。
「おじちゃんは何を売ってる人?」
旧時代の文明に頼って生き残っているような孤島。その砂浜で俺は無意味に風呂敷を広げていた。
素晴らしい兵器を国家や組織に売り払っていたのが嘘のようだ。上は何を思って俺をこんな場所に寄越したのか。これじゃクビと変わらん。自暴自棄になるのが当然だ。
「ねぇ、おじちゃんは何を売ってるの?」
ガキとボケ老人は同じことしか言わないってか。
あぁ、海の向こうのドンパチが恋しい。
「聞いてる?」
うるせぇガキだな。平和面しやがって。
向こうのガキは四則算よりも先に殺しを覚えるんだぞ。お前の年頃じゃ大量殺戮はザラだ。なのにお前は何だよ、死んだ目で裸同然のボロ服着やがって。二十三世紀に生きてこの様か。
「具合悪いの?」
「気分が悪いだけだ」
仕方なく応えるとガキは表情を明るくした。
もう、全てがどうでもよくなった。
「ねぇ、おじちゃんは何を売ってる人?」
「夢をかなえる道具さ」
「えっ、本当?」
咄嗟に『夢をかなえる』と口にした自分のセンスに呆れた。
俺は風呂敷の上に並べていたものから一番強力なものを手に取る。
「これがそうなの?」
震えるガキの手を取り、しっかりと握らせる。
「海の向こうに向けろ」
「こう?」
偶然取った構えは、なかなか様になっていた。
「そしたら、この部分を指でカチッとするんだ」
「うん」
引金が引かれた瞬間、ぱすっという音が響き、水平線の向こうで巨大な爆発が巻き起こる。
天地が揺れ、膨大な閃光で目が眩む。まるでもう一つ太陽ができたみたいだ。
俺はかすかに見えるガキの呆けた表情と圧倒的な暴力のコントラストに腹を抱えて笑っていた。初めて『引金を引いた者』がこんなガキになったのがたまらなくおかしい。
ざまぁみろ。
このまま泣き崩れるガキと一緒に死ぬのも悪くないな。
そう思い、ガキから玩具を奪おうとする。
が。
「……夢が、かなった」
引金をカチリ。
いい笑顔。
閃光爆発。
「夢がかなった!」
カチリカチリカチリカチリ。
巨大な爆発が幾つも水平線の向こうで起きる。
その度に轟音と閃光で全てが失われていく。
カチリカチリカチリカチリ。
開いた口が塞がらない。
それはまるで物語のような非現実感。
音と光で感覚が無くなっていく。
よくわからない感動と後悔を覚えながら俺は少女に土下座をした。
しなければならない気がした。
けれど彼は卒業アルバムに載っていない。僕のせいだ。
僕と河野君は親友だった。その出会いは覚えてない。どちらから話しかけたか、何をきっかけに仲良くなったのか、丸ごと忘れてしまっていて、いつの間にか親友になっていたという気分だ。そう、僕が怒りに乗じて、彼の秘密を明かしてしまうまでは。
偶さか河野君の答案を盗み見ようとして覗き込んだら、河野君は答案を隠してそれを防いだ。見せてくれてもいいじゃん、と口を尖らす僕に向かって、河野君はもっと尖った口でカァと啼いた。河野君は頭が良かった。成績ではずっと敵わなかった。秀才の上にいい子ぶろうとしてる。締りが悪くなった僕はつい言ってしまったのだ。
ちきしょう、河童のくせにっ。
教室中に響き渡った。先生もクラスメイトも騒ぎ出して、何処からかスーツ姿の男たちが現れると、河野君は連れて行かれた。結局河野君は戻ってこなかった。卒業アルバムにも載っていない。元からいないことになっていた。
そんな河野君が再び僕の前に現れたのは、つい三日前のことだ。冷たい雨が降る晩に、一人暮らしのアパートのドアを叩く者がいて、開けるとずぶ濡れになった河野君が立っていた。もう二人、すっかり大人になっている。あの一件が心の澱になっていた僕は彼を門前払いにすることは出来ず、部屋に入れるしかなかった。
河野君は事情を話そうとはしなかった。喜ぶだろうと思って胡瓜の一本漬けを出したが、手も伸ばさない。正座をし、肩で息をしながら怯えていた。ふとゴールデンタイム後のニュースで、町に河童が逃げ出したという報道が為された。河童は人の記憶を操る虞がありますのでくれぐれもご注意ください。
きっと河野君は研究所で何かされたのだろう。彼はもう昔の彼じゃない。見た目は河童と程遠い、人間そっくりになっていた。水かきも頭頂部の皿もない。尖った口も整形され、髪はぼさぼさで歳の若いホームレスのようだ。
これからどうする。僕は訊いた。河野君は首を横に振った。
逃げよう、手伝うから。
逃亡に必要なものをメモに書かせた。ニット帽、色眼鏡、ウェットティッシュ、ジェル、胡瓜、折畳み式の釣竿。尻子玉と書こうとしたので止めた。河野君は照れるように頭を掻いて、ぱりんと快い音を出しながら胡瓜を頬張る。河野君の手に触れると、思った以上に濡れていた。
互いを知ろうとする理由が好奇心だけでないのは、僕らが大人になった証拠だ。
最近のロボット技術には凄まじさすら感じる。ロボットにしてほしいことを願うだけで、その脳波を読み取り、実行に移してくれるロボットがあるらしいのだ。噂が本当ならば、大まかな家事等ならほとんどこなしてくれるだろう。
妻と離婚し、四十代後半に差し掛かった独り身の自分にとっては、そのロボットは喉から手が出るほどに欲しいものだった。仕事の辛さに加え、帰宅してもあらゆる家事を自分だけでせざるを得なくなっていたために、身体がもうもたなくなってきていたのだ。
もちろん、決して安い買い物ではなかった。しかし、今後のことを考えるとそう高い買い物でもないと感じたので、どうにか費用を捻出し、思い切ってそのロボットを購入しようと決断した。
申し込んでから一週間ほどで、ようやくロボットが届けられた。見た目は何の変哲もない、まさにイメージ通りの人型ロボットである。だがこのロボットは、耳に小型の器具を装着するだけで、その器具が脳波を読み取って、自分が願った通りに動いてくれるというのだ。
いざ実物を目の前にすると、本当に思い通りに動いてくれるのか心配になり、実際に試してみようと思った。
まずはロボットに家の情報を記憶させる必要がある。こればかりは面倒だと、最初は思っていた。
しかし、最新技術というのは流石の一言に尽きる。このロボットは、非常に覚えが早い。一日で必要な情報の大半をインプットしきり、その後はケースバイケースで多少付け足すだけで事足りた。
さらには、遠隔操作もできた。
ロボットとの距離が遠くなると、普段より強く願う必要があるが、うまく使えば家に帰る頃には食事がもう出来ているようにしたり、風呂に湯を張らせることも可能だった。
思い切った甲斐があった。想像以上だった。
ロボットが家に来てしばらくたったある日、何年もかけて進められていた会社の命運を懸けたプロジェクトが、大失敗に終わった。そして私は、責任逃れをしようとした上司に、全ての責任を負わされてしまった。
しばらくたっても、突然の理不尽に対して呆然とする他はなかった。
そのとき、室前の廊下の辺りがなにやら騒がしくなったと思えば、何者かが自分のいる部所に押しかけてきた。
その正体は、自分がよく知っているロボットだった。手には鈍器が握られていた。
あのとき、上司に対して非常に強い殺意を抱いたことに気付いたのは、それからもう少し後のことであった。
男は困り果てていた。いつからか毎晩夢の中に同じ女が現れ、あんなこともこんなことも、口に出すことさえ憚れるあらゆることをされてしまうのだ。
おかげで毎朝目覚めは悪く、あろうことか酷く体力を消耗してしまっていた。「このままでは、あの女に殺されてしまう……」。
男は女の正体を突き止め、夢に現れないように仕向けようと、あらゆる手を使って女を探し回った。
灯台もと暗しとはこのことを言うのだろう。女は、あろうことか同じ会社の庶務課にいたのだ。しかし、どうすれば夢に現れないようにできるものか……。
男は言葉巧みに女を誘い出すと、出来る限りの手段をこうじて女と結婚することに成功した。女と結婚することによって、毎日顔を合わせるようになれば、次第に飽きてしまい夢に現れることはなくなるだろうと踏んだのだ。
男の目論見どおり、結婚してからは夢に女が現れることはなくなり、いつしか一姫二太郎の子宝にも恵まれ平穏な日々が訪れていた。しかし、何故女は男の夢に現れるようになったのだろうか?
あるとき、男は何気なく女にこれまでの経緯を話してみせた。すると、女は意外なことを口にする。
「それ、アタシの作戦だったのよ。アナタの部署の前を通るときは、いつもよりブラウスのボタンを多めに外して、スカートの丈も短くしていたの。けれども、あまりアナタとすれ違う機会がなくて……。ほんの数回だけだったから、余計に印象に残ったんじゃないかしら? でも、アナタがそんな夢を見ていたなんて思わなかったわ。今となっては、正夢になっているけれど」
「こちらが中国からのアイドル、アグネスチャンちゃんです!」
ちゃーん!!
ちゃんちゃんいうな!なんだ!?
ちゃーん!
ああ、そのとうり。
ちゃーん!
いやいや、はっはっは、まったく大五郎は、おませよのう。
ちゃーん!!
そうだな、ちゃんちゃらおかしいわいな。
しかして大五郎、おまえはタラちゃんではないか?
バブー?
やはりな、、、
ハイー!
困った、、、
なにかおこまりですか?
うわ!!あ、奥さん、タラちゃんの、
バーブー
困ったな、、、もう、、収拾つかねぇ、、、「あしたあわぁ、どおちだぁああぁ、、、」
(便利なフレーズ集#6)
セレナーデ? セレネード? そんなことはどうでもいい。耳をつんざくサイレンの音で住人は目を覚ます。部屋の中にはぎゅうぎゅうに詰められた罪人と、野菜がある。
軍服を着た米兵が手榴弾を炸裂させ、たくさんの血が、たくさんの言葉が飛び散る。五車線ある車道を慎ましく走り去る言葉を、農夫たちが手で掴む。
そこから三キロ程離れたところにあるダム、水の枯れたダムに行こう。そこに穴を掘って暮らそう。いつまでも暮らそう。そしてベッドで本を読もう、簡単な本を、人が死なない本を、君が笑うような、くだらない本を。
おおきな子供が生まれるまで。
あ。
乾いた。
「首もとだけ白いのはなぜ?」
「よだれかけのせい」
戦場を這う赤ちゃん、どうか汚されませんように。喜びはいつも君のそばに。
あなたが間違っていて、私が正しかったことをここに証明する。
二学期に入り文化祭の準備が始まった。あなたはクラスの責任者だった。私はあなたをサポートする仲間の一人だった。
女学校なんて派閥を詰め込んだ手提げ袋だ。窓側の席でいつもイヤホンをしているのは佐伯さんといった。彼女が話しているのを段々と見なくなって、二学期になってからは彼女の声を聞いてない。私は話し掛けてみた。
「何を聴いてるの」
佐伯さんはイヤホンを外して私を見た。私はもう一度同じことを尋ねた。
「ベートーヴェンの『運命』」
「それって、ガガガガーンってやつ?」
「そう。でも『運命』って勝利する者の曲なのよ」
「クラシックが好きなの」
「ジャズも好きかな」
佐伯さんともう一人クラスに浮く子がいた。一番背の低い子だった。彼女が使う自転車はサドルがズタズタになっていた。
その子のことは何も思わない。あの子には特別な感情を抱かない。だけど近い将来、佐伯さんも同じことをされると思うと私は辛くなる。ねぇ、あなたの本心では二人のことをどう思っていた?
学校に行った最後の日。あなたは私を廊下に突き出した。皆でやろうとしてるのにあなたは仲間外れを作りたいの、と。周りの皆も私を酷いと言った。
皆のことを考えていたのに。善意と欲とは何なのだろう。
私は自分の正しさを証明できないみたいだ。あなたの本心が解ればできたのかもしれない。なら今度は、私の有様を見て。
部屋にこもってニキビを一つずつ潰しては、ティッシュで拭き取る。
時々赤く汚れる。ティッシュの表面さえも、擦れると細い痛みが走って鈍痛を招く。そうやって肌を傷付けては、母の部屋から持ってきた化粧水を塗って傷を癒そうとする。
ピンチはチャンスと言うけれど、それを活かせたかどうか解るのはずっと先で、今は何が正しいか知る術が無かった。
せっかく苦しんでいるのだから今の苦しみを無駄にしたくない。
将来の糧にしたい。
胸に刻んでおきたい。
それでも、今の私は救われない。
「大丈夫だよ」と手を差し伸べてくれる人がいても払い退けてしまう。
ここに居たほうが良いと解っているのに、私は駆け出して谷底へ身を投げてしまう。
だけど、その瞬間も私は誰かが助けてくれることを望んでしまう。
谷底に身を投げても、着地して生き残ってしまって。
光の届かない暗闇の中で人の気配を感じると、ついすがり付いてしまいたくなるんだ。
美香は、携帯をいじってばかりいる田村の素っ気ない態度にもめげず、さも楽しそうに話し掛けるサキのいじらしい姿を見ていた。そのサキの肩越しに、拳にタコのあるジャージ姿の男が乱暴な気配を撒き散らしているのが見え、美香はサキから目を逸らして携帯をひらいた。
キーに置いた美香の親指の爪は、透明なマニキュアで滑らかにならされ、ぴかぴかに光ってとても綺麗に見えた。美香はサキの親指に目をはしらせた。サキはマニキュアを塗った爪の上に、小さくて色とりどりのストーンを形よく散りばめている。美香はサキに気取られないように親指を握り込んだ――美香の浅黒く焼けた肌はサキのふっくらとした白い肌と対称的だった。足の速さも力もサキに勝っていたが、サキの声や相槌、容姿をより良く見せる工夫に憧れを感じていた。
美香は相変わらず携帯をいじり続けている田村にメールを送った。
『いつまで携帯いじってるのよ』
それを見た田村は美香を一瞥し、薄く笑いながら再び携帯をいじり始めた。
『サキの気持ちに気付いてるんでしょ?』
田村はサキの肉体を通過する初めての男になるだろう、けれどもどうせすぐに懐かしい思い出に変化するのだ、それまでの役割を果たせ、と美香は思った。だが田村からの返信は『そういうのめんどう』という、あっさりとしたものだった。美香はテーブルに伏せて田村のスネを蹴飛ばした。サキが、その他大勢の一人に過ぎない田村に惹かれたことが、美香には理解できなかった。
美香の様子に何事かを感づいたサキは、目をひらいて微笑しながら美香を見つめた。美香はポテトをつまんでサキの口元に近付けた。サキが「あーん」と冗談めかして口を大きくひらくと、小さく整った歯並びの奥の、薄暗い咽頭のさらに奥深くに、ぬめって脈打つ内臓のひしめきを感じた。口元に伸ばした親指の爪が、腐ってしまった卵を割り捨てた後の濡れた指先と重なり、美香は慌てて目を伏せた。
「あ、美香のゆび」
サキはそう言ってマニキュアの塗られた美香の親指に触れた。
「美香の爪、つるつるしていてかわいいね」
サキのその言葉で美香は、この日はじめての笑顔を見せた。
美香の指をつまんで微笑むサキの姿を、拳ダコの男が見つめていた。男は先を噛み潰したストローを楊枝がわりにして歯をこそぎ、カップに残った氷を口にほうり込んでかみ砕いた。男が火のついた煙草をタコに当てると、肉が焦げて薄い煙が立ちのぼった。
私はイヤホンを耳に差し込んで、J-POPを聞いて居たので、母の言葉が聞こえなかった様だ。二階にある本屋までエレベーターの自動運転を無視してがしがし自分の足で昇ってから、週刊誌を読んで居る所で母が目の前に居て、私に話しかけて居るのに気が付いた。
「寿がきや(Sugakiya)で食べて行くよ」
と言う。
「だったら出入り口の所で言って頂きたかった」
と言う意味の事をぶっきらぼうに言う。寿がきやはスーパーの出入り口を入って直ぐ左を行くと直ぐの所にある。
「父がかく決め給(たま)う。私にあらず。いきなり決まりし事なり。あらかじめ決まって居た事にあらず。ゆえに車内で言う能(あた)わず。なんじに出入り口の所で言いしにかかわらず、なんじはずんずん行けり。止める能わず」
と言う意味の事を創作話を語る様に母は私に言う。
9月7日(火)16時頃、我々3人は、ピアゴ岩倉市八剣町長野店に来て居た。ここには火曜日に来る事が多い。午前中に来る事もあるがまれで、大抵は16時から17時にかけて来る事に決まって居た。
かく言う事情で、私は二階の本屋から一階の寿がきや(Sugakiya)へ引きずりおろされた。そう言えば前来た時も来て直ぐ、其処でクリームアンミツを食べたなと想起する。
「なんじは何を食べるや」
と言う意味の事をかなりぶっきらぼうに、私は母に言うと
「宇治金時」
と母。
しかし宇治金時を食べるのは父で母はクリームアンミツだった。私は父と同じ物を食べる羽目になって仕舞った。
急いで食べ終えると、手がべとべとして居る。
「私は本屋へ行きます。では」
と言う意味の事を普通に二人に告げて去る。自分の食べた後のグラスは返却しておきたかったが、母は我が手を制止してもう行けと言う。
私は再び二階にある本屋へ行く為、先程と同じエレベーターに乗る。先程と違って私の前に親子連れの三人が居た。先頭に幼い娘二人。その前に彼女らの母親らしき太った女が、バランスを失ったのか、単なる気まぐれか、片足を上げて元に戻した。と、ことんことんと塊の様な振動が足に伝わって来る。
二日前の試験へ行った時の地下鉄電車内での振動は同じ様な感じの振動がもうちょっと早いペースでことことと伝わって来た。
一週間前の金曜日アピタ一宮店の二階のヒャッキン(百円均一店)に居た時は、トレモロの様なさざ波の様な振動が。
私は本屋で立ち読みする前にトイレで手を洗った。
その不安定な粒子はぐるぐると円を描きながら、造形的に不可能な像を結び始めていた。
「例の土、ありますか?」
僕は仮にその像の内部領域をP、像を覆う外延をQ、そして任意の観測点をRと呼ぶことにする。
「例の土とはなんだね」
「例の、神がアダムを作ったときの」
骨董屋の老人は顔を上げ、手に持った虫眼鏡越しに僕を覗き込んだ。
「あんたは誰だ」
「僕は旅人です。遠路はるばるアダムの土を求め旅をしてきました」
老人は虫眼鏡を番台に置くと、湯飲みを持ち上げ茶をすすった。
「あれは、随分昔に売り切れたよ」
嘘だ。
「所詮、ただの土くれさ」
像の内部領域Pが無限大であるのに対し像の外部領域Sが有限であるとき、像の外延Qは無限かそれとも有限かという問いを観測点Rはふと思った。
「ねえお爺さん」
埃のかぶった骨董品の奥から、黒眼鏡を掛けた若い娘が現れた。
「この人、今晩泊めてあげたら?」
「そうだな。お前がそう言うのだったら」
黒眼鏡の娘は白い手を差し出すと、まるで花瓶を品定めするような手つきで僕の顔を撫でた。
「フフ、困った顔してる。観測点Rさん」
「君、目が悪いのか?」
「ええ、でも答えを知ってるわ」
「答え?」
僕は娘に手を引かれながら、今にも崩れそうな骨董品の山の中へ入っていった。
「アダムの土はきっと偽物よ」
「なぜ偽物だと?」
娘は僕を暗がりの中のソファに座らせると、僕の耳にそっと唇を押しつけた。
「この店にはね、本物なんて一つもないの」
時間Tは像の内部領域と外部領域において別々の、相対的に逆行しあう時間軸を持っているが、その関係はあくまでも相対的であり、各領域の時間軸が正進か逆進かを判別する手段は無く
「だけど問題の本質はね、二人がこの世界で出会えるかどうかなの。時間Tが有限であれば逆行しあう二つの時間はいつか出会える。でも時間が無限なら、二人は永遠に出会えない」
僕は娘の黒眼鏡をゆっくり外すと、闇に浮かぶ娘の白い顔にナイフを当てた。
「ところで、アダムはどこにいる?」
「死があり、出会いと別れがあるのはね、この世界が無限ではないという証拠なの」
でも人はみな一人で生まれ一人で死ぬ。
「あなたは孤独じゃない。ただ今のあなたには、孤独と欲望の区別が出来ないだけ」
僕はナイフを握り締め、娘の頬を一直線に切り裂いた。
「おかえり」
虚空を見つめながら、娘は僕の腕を掴む。
「あなたが、アダムよ」
「ナイスショット!
さすがは滝音プロのお弟子さんだ。しかし、今日は勝たせませんよ。
まるで独り言のように、いいながら屋福さんもナイスショットを見せた。プロの技、打てて当たり前の滝音プロはニコニコ笑っている。
前進ティーから打った小雪さんに並ばれてしまったのには、心の底ではすこしがっかりした栄太。
セカンドは屋福さんがきれいにグリーンに寄せてプレッシャーをかける。
「ここはオーガスタの十五番ホールにそっくりなんだよ……飛ばないからオレは花道から、いいぞ、栄太はどうする?」
ナイス寄せで、御機嫌な屋福さんが聞いた。
どうすると? 聞かれてもわからない。
「残り二百六十ヤードグリーンの手前に池があります」とキャディさんがアドバイスしてくれる。……だが、そんなこといわれても、
「今日は初めてなんだから、短く刻んで攻めるのがいいでしょう」
滝音プロがアドバイスした。
手前に落とすなら三番アイアンですか。キャディさんがアイアンを差し出してくれる。
ああ、そうか、池の手前に落とすんだ。……。
練習場でやってきたことがパッと湧き上がってきた。ボールの後ろから見る。手前のマークを決める。ボールの横に立つ。マークとボールの作る直線。それを斬るようにアイアンをおろす。左手、右手とグリップ。
肩と膝を面にそろえる。両足に体重をかける。
自然に三番アイアンが後ろに巻き上がり、グイっと引き落としながらインパクトしていた。
「ナイスショット!」
スイングが格好よく決まり。声がかかった。しかし、飛んでいない。芯をはずして五十ヤードは短くなってしまった。
滝音プロはぐっと先のほうからツーオン狙いだ。
小雪さんがウッドを使って寄せ場に落とした。
スリーオン確実だ。
「イメージが大切だよ。どこへボールを落とすか。……だよ」
練習時間の流れ、同じに……ボールの後ろから見る。……景色がちがう。
どこまでボールが飛ぶか、目の前の自然が聞いているのだ。ドライバーなら二百五十ヤード、五番アイアンなら百二十ヤード、だいたいそんなことを考えてボールを打っていた。
そして、グリーンの前に池がある。その手前に第三打をとめる。……のか、池越えし、グリーンを狙って寄せパットを決めるのか? どっちにしたらいいのか? 栄太は気が付いていない。それさえ曖昧なのに。
そういうことを、理解するためのレッスン。
屋福や滝音プロ、キャディさんの助言で今日は、???楽しいゴルフになるのか……
株式会社ネコに好かれたい本社ビル2階。野良ネコに好かれたい部・野良ネコにもっとさわりたい課の面々は、目の前の仕事への集中力をなくしていた。ついさっきまでは、エアコンのちょうしが悪いことにも気づかず、汗だくになりながら部屋中を散らかしていたのに、今はすっかり虫の息だった。
とはいえ、野良ネコの胸の内を調べるためはじまった、野良ネコへのアンケート調査は段取りどおり進行中だった。全国各地の路地裏、公園の土管の中、コタツの中などから、野良ネコたちが回答したアンケート用紙は集められ、首尾よくダンボールに詰まり、宅急便で続々と、このエアコンがぶっ壊れた部屋へと集結済みで、あとは集計作業を残すのみとなっている。
Q1. 野良ネコのあなたに質問です。あなたは、人間が近付いて来たとき、どんな気持ちになりますか? 当てはまる番号に○をつけてください。
1. 嫌な気持ちになる
2. 嬉しい気持ちになる
3.その他:
集計作業は、予定よりも大幅に遅れていた。アンケート冒頭のQ1へのネコたちの回答は、一枚読み上げるごとに、課のみんなのやる気を少しずつ削いでいったのだった。
まず最初に、読み上げ係が根をあげた。
「嫌な気持ちになる」
「嫌な気持ちになる」
「その他:忙しいので邪魔をしないでほしい」
「嫌な気持ちになる」
……。
嫌な気持ちになる、嫌な気持ちになる、の連打、連打で、終わってみれば95%以上の野良ネコが「嫌な気持ちになる」 だった。
1時間もすれば、起き上がっているスタッフは一人もいなくなっていた。読み上げ係にいたっては、口には出さなかったものの、目がかすんでいた。
「野良ネコは寄ると逃げるけど、安全なところまで行くとこっちを振り返るじゃん、てっきりこっちに興味があるんだとばかり思っていたじゃん」と、もっと野良ネコに好かれたい課長は、後に当時の心境をそう語った。
Q2. 野良ネコのあなたに質問です。でも逆に、人間が近付いて来ないとしたら、どんな気持ちになりますか?
1.安心な気持ちになる
2.寂しい気持ちになる
3.その他
Q2の集計結果を読む声が聞こえ出したのは、それからしばらく後のことであった。
「寂しい気持ちになる」
「寂しい気持ちになる」
「寂しい気持ちになる」
……
Q2にとりかかった読み上げ係は、息を吹き返した。
90%以上のネコがこの問いに対して「寂しい気持ちになる」と答えていたのだった。
ある秋の朝。目覚めるとベッドの横にはもう先生がいた。そして若々しい顔に深い悲しみを浮かべてこう言ったのだ。
「今まで君に言わなかったことがある。君は命に関わる病気だ。残念ながら不治の病で、そう長くは持たないだろう」
「なんだ、そんなことですか」
私が明るい顔を見せたので、先生は不思議そうな声をあげた。
「死ぬのが怖くないか?」
「いいえ、ちっとも。それでいつ死ぬんです? あの葉が落ちる頃ですか?」
窓から見える蔦に残った最後の一葉を指差す。先生は首を横に振った。
「確実とは言い切れないが、そのくらいなら大丈夫だ」
「じゃああれは記念に取りましょう」
そう言って私は窓から手を伸ばし、最後の一葉をむしって分厚い百科事典に挟みこんだ。
「なにをしている?」
「記念にこれを、押し葉のしおりにするんです」
先生はそれを聞き、黙って頷いた。
季節は巡り、また秋になった。
「ちっとも身体の調子はおかしくなりませんね」
「徐々に進行する病気なんだ。去年よりも確実に悪くなっている」
先生は相変わらず悲しげな顔で言うが、私はまったく気にせず鼻歌を歌いながら、最後の一葉をむしりとる。
「今年もそれをするのか?」
「ええ、もちろん」
葉を百科事典に挟みながら私は頷いた。
月日は流れ、秋が来る。
「さすがに具合が悪くなってきたのがわかります」
「そうだろう。そして申し訳ないが、悪くなる一方だ」
「先生は毎日私のところに来ますが、うつったりしませんか?」
「伝染性はない」
「よかった」
微笑みながら、私は最後の一葉をむしる。
時は一瞬で過ぎ去り、秋が来た。
「……立ち上がるのも、もうやっとになってきました」
「すまない。できる限りの手は尽くしたが、いつ死んでもおかしくない」
「そんな顔をしないで下さい。いつも私より、先生の方が悲しそうにしていますよね」
よろよろとふらつく足取りで窓に近寄り、最後の一葉をむしった。
そして終わりの秋が訪れる。
「先生、葉を」
もうベッドから起き上がれないので、代わりに先生が最後の一葉をむしる。それを受け取った私は百科事典を開いた。
「喜んで下さい先生。ちょうどこれで……」
そこまで言って、私の手は力を失った。
取り落とされた事典は床にぶつかり、たちまち葉のしおりを撒き散らす。
「先生……」
百枚の葉が舞い飛ぶ中で、私はしわくちゃの手を伸ばす。
先生は百年前と変わらぬ若々しい顔に、深い悲しみを浮かべていた。