第97期 #9

蜜蜂

 男は、女の蜜蜂に目を奪われていた。それは、血管が透けてみえそうな肌理の細かい白肌や、浮き上がった鎖骨や、滑らかな首筋を横に置いてまで、その一点にライトを集中させるほど見事なできばえの蜜蜂だった。女の左乳房には、今にも飛び立ちそうな蜜蜂の刺青が小さくとまっている。

「俺、子供の頃、蜂にさされたことあるから苦手なんだよな」
 男は、女の蜜蜂をそっと指で撫でながら言う。煙草の火を水におしつけたときのようなジュッという音が聞こえたかと思うほど、一瞬にして昂っていた気持ちが萎えていくのを男は感じていた。欲求が蜜蜂に吸い取られていくような感覚。
「それはきっと蜜蜂じゃなくて雀蜂じゃない? 蜜蜂は針が一本しかなくて、刺すとその針がとれちゃうから、余程のことがない限り刺したりしないのよ」
 ふぅんと肯きながらも、男は女の蜜蜂から目を離すことができないでいる。
「これ、まるで私の蜜を吸いにきてるみたいでしょ?」
「うん、でもさ……、こういう場所に彫ってもらうのって恥ずかしくないの?」
「知り合いだから」
 知り合いという言葉を聞いて、男は、その知り合いはただの知り合いではないだろうという気持ちでいっぱいになっていった。顔のない男が女の胸に蜜蜂の刺青を彫っているところを想像すると、萎えていた気持ちが仄暗いところから突然目覚め、カッと熱くなる。
 
 男は、女の身体と同化してしまってもいいかのように埋もれていく。その絶頂に達する瞬間、尻のあたりに鈍痛が走る。
「いっ」
 何かに刺されたような痛み。
 女は笑っているのか泣いているのかよく分からないような曖昧な表情で、戸惑う男の顔を下から覗き込むようにして言った。
「まただわ、私が男の人と関係するたびに刺すの。私を守ろうとしているみたい、ごめんね」
 男は黙ったまま、蜜蜂の痕跡が跡形もなくなっている女の左乳房をぼんやり見つめる。
「また彫ってもらいに行かなくちゃ」
「知り合いにかい?」
「そう、知り合いに」
 男は、その知り合いの彫物師がどんな気持ちで女に蜜蜂を彫るのかを想像する。女の肌と対極な浅黒い肌した器用な右手が、女の左胸に蜜蜂を彫っていく。左手は、女の右乳房を掴んでいるに違いない。痛みの声なのか喜びの声なのか、判別できないような女の呻く声が、こもった空間に響く。男が確かめるよう尻に手をやると、小さな突起物が指に触れた。つまみとると、それは、蜜蜂の残した一本の針だった。



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