第97期 #8

 壁。壁。また壁。ここも壁。何処を彼処も壁だった。

 光は一切ない。男が瞳を開けても閉じても変わらない深い、深い闇。彼自身の姿も確認できない。
 目が覚めたとき、男は寝転がった状態でそこに居た。
 まずは姿勢を変え、這いつくばり、床に罠か、若しくは脱出口がないか慎重に調べた。何処に手を当ててもまっ平ら。おそらく四畳半もないだろう。狭い空間だった。
 今度は立って両手を前方に押し出し、おっかなびっくり歩き、四方を時計回りに触ってみた。どれもコンクリート特有の冷たく、人を突き放す感触。どうやら何処にも隙間のない壁に囲まれた部屋にいるようだと男は理解した。
 男は闇の中に更なる暗い闇を見た。心まで漆黒に染まり、身動きが取れない。
 しばらくの放心状態ののち、男は壁に背を預け、胡坐をかき、腕組みをする。
 男の脳裏の映像。目覚める前、夢の中で男は辺りに何の建造物もない広大な砂漠にも似た明るい荒野を歩いていた。そして、地平線の果てまで辿り着くと一つの扉を見つけ、開き、踏み入り、今があった。
 
 刹那の光。それとともに上から降るものがあった。軽い音が転がる。
 部屋の中央とおぼしきところに落ちたそれを手探りで掴み、手のひらでまさぐる。少し粘り気があり短い紐らしきものが端から出ている棒状のものと小さな四角い箱。箱のほうはスライドできて中に小さな棒が複数入っていた。これは蝋燭と燐寸だろう。
 慎重に燐寸を擦り、蝋燭に火を灯すとその大きさに不釣合いなほどの明かりが部屋全体を照らした。
 やはり四方は壁だった。見ればその壁にはびっしりと文字が刻まれていた。先ほど男が触れたときにはなかったものだ。それは見るからに人名だった。千は下らない数がある。
 男は釘が一本、足元に転がっているのを見つけると、力を込めて自分の名前を壁に削った。



Copyright © 2010 近江舞子 / 編集: 短編