第97期 #16
右足がびしょ濡れだ。靴の裏をのぞけばとうとうすり切れて穴があいていた。耳を澄ます。一日中だらだら降りつづき今になって強くなってきた雨があらゆる気配を鈍らせていた――逃げられた。
自宅まで歩く気力がなく、事務所に帰った。シャワーを浴び、ローリングロックに手をかけたが、思いとどまってコーヒーを淹れた。午前八時。二時間後には善良な市民であるご夫人に大切なワンちゃんの死を告げなければならない。そっちの世界に入る前にまずこっちの世界にけりをつけておくべく資料を一枚一枚焼いていった。
電話が鳴った。嫌なタイミングだ。煙草に火をつけ、マッチを灰皿に捨てると、深く吸い込み、ほそく長く吐いた。
「ジーザス探偵事務所」
「下でかけてるの。これから伺うわね」と女の声がし、切れた。
俺は残った資料にインクをぶちまけ屑かごにつっこむと、ソファからデスクに移り、ひきだしに拳銃があるのを確かめてからゆったり腰掛けた。
ひかえめなノックがした。
「どうぞ」
がたがたドアが揺れ、そして止まった。
「開いてないみたいだけど」
「……失礼」
ドアを開けると、極上の女が立っていた。
「人を捜してほしいの」
「誰です」営業時間外だが何も言わないでおいた。
「わたしよ!」と女は叫び、走り去った。まだ眠気をはらんだ路地を甲高い笑い声が遠ざかっていく。
ドアを閉め、カギをしっかりかけると、ローリングロックを空け、ソファに横になった。酒はまたたく間に全身にまわった。そういえば一昨日の夜からなにも食べていない。夕方まで寝てやろうと目をとじた。
凶暴なノックの音と犬のきゃんきゃんいう鳴き声におこされた。くそ。まだ朝の九時だ。寝覚めが悪いが、ドアを壊されたら修理代が払えない。足がふらつく。
「寝ていたか」
俺は言葉を失った。マーカス上院議員! 俺がつい二時間前まで必死に追いかけていた男を一匹の兵隊蟻とするなら、この老人は庭につくった蟻塚を眺めながらレミーマルタンを飼犬に舐めさせている上院議員だ!
「これだけ言いに来た――わしは、すべてを白日の下にさらす。では、失礼するよ」
「この犬は?」
「知らん」
議員が去り、俺はコート掛けに腰をふっている犬を蹴飛ばした。うるんだ目でこちらを見ているその片方の耳の先が二つに割れている――ジーザス! まちがいない、あのばあさんの犬だ!
くそっ、毎回こうだ! 俺は一度だって、自分の力で事件を解決したことがない!