第97期 #15

スズメガ

 男がわかめうどんを注文して数分がすぎた。
 客は男のほかに尼が一人だけ。古さびた狭い店内には湯の沸く音、麺をすする音、何処からかやってきたスズメガの飛来する羽音が響いていた。店主は拳を腰にあててだし汁をじっと見つめていた。男は手持ち無沙汰から頬杖をついた。
 尼は花柄の厚いスカーフで頭から肩までを蕾のように覆い隠していた。その花弁の隙間から細長い腕を伸ばして器をつかみ、箸を持つ手を祈りのように動かして、うどんを熱心にすすっていた。香りを纏った湯気が薄暗い蛍光灯の下で立ちのぼっていた。ぶんぶんと高速で飛び回っていたスズメガは瓶にささったリンドウにとまり、輪になった口吻を反らすようにして花弁の隙間を窺っていた。
 通りに目を向けると、新参と思しき子連れの夫婦が数人のギャングに囲まれていた。尼も身体をひねってそちらに向けた。

 ギャング達はなにも言わなかった。父は黙って金を差し出した。ギャングはそれを当然のように受け取った。
 ギャングが母の鞄を指差した。母は怯えながら首を横に振った。ギャングの手が鞄に掛かると母は狂ったような悲鳴をあげた。ギャングが母を殴った。母はもんどりうって倒れた。転んだ拍子にスカートが捲れ上がり、肉の張った白い腿があらわになった。鼻が折れて付け根から曲がった。鼻血が噴き出した。
 子は下を向いていた。ギャングの一人が近寄り、挑発的にぱしぱしと平手打ちした。子はなにも反応するまいと口を結んで耐えていた。だが母の悲痛な呻き声を聞いて堰を切ったようにしゃくりあげた。ギャングが舌打ちして母を蹴り上げた。父は黙って見ていた。一人が母めがけて放尿し、数人がそれに続いた。尿に濡れた薄手の服が身体に張り付いて、隠された肉感的なカーヴを暗示した。ギャング達がはじめて笑い声を上げた。父は鞄をギャング達に差し出した。

 唐突にうどんが置かれ、振り向くと、店主は既に背を向けてだし汁に目を落としていた。男は器をつかみ上げて唇をすぼませ、いざ汁をすすろうと傾けた。その器めがけてスズメガが一直線に飛び込んだ。スズメガは羽をばたつかせて激しく汁を撒き散らし、こんな事体になってしまったことにスズメガ自身も驚いているようだった。
 尼は携帯をかざし、オーマイゴッドという表情で撮影していた。一枚撮るたびに軽快なエフェクト音が鳴り響いた。男は溺れたスズメガを箸でつまみ上げ、羽を毟りながら尼を観察した。



Copyright © 2010 高橋唯 / 編集: 短編