第97期 #11

煙が目にしみる

 今夜はこの冬いちばんの寒さらしい。僕は草臥れたコートの襟を立て、薄暗い街灯に照らされながら帰宅の途についていた。あの路地を曲がれば、自宅まではほんの数十歩で辿り着けるはずだった。
「おい」
 背後から人の気配はしていたけれど、いつの間にこんな近くまで来ていたのだろうか。ややドスのきいた声が鮮明に耳まで届いた。
「何か御用ですか……」
 振り向いた僕は思わず固唾を飲んだ。後ろから声をかけてきた男の右手には、鋭く先の尖った刃物が握られていたのだ。
 殺される――。僕は咄嗟に瞼を閉じた。治安の悪化が叫ばれて久しい。この辺りでも数日前に強盗殺人があったばかりだった。
「煙草を出せ」
「煙草?? ですか?」
「早くしろ!」
 一瞬男が何を言っているのか理解に苦しんだのだけれど、男を怒らせてはなるまいと僕は手早く鞄から愛用の黄色いシガレットケースを取り出してそのまま差し出した。男はそれを強引に奪い取ると、あっという間に闇に吸い込まれていった。
「助かった……」
 極度の緊張から解き放たれた安堵感からか、僕はその場にしゃがみこんだ。
 思えば、人身事故の影響で電車が遅れたいらいらもあったのだろう、普段は滅多に外では吸わないのだけれど、駅の喫煙所で一服してしまったのがいけなかった。男は駅からずっと後を追ってきたはずだ。僕が煙草を持っているのを知っていたのだから――。
 もう何度目になるのだろうか。度重なる値上げによって、煙草は庶民が気軽に一服できる代物ではなくなっていた。それによって喫煙率は飛躍的に低下したけれども、僕のようにどうしても止めることができない愛煙家は少からずいるのだ。
「はあ……」
 僕はため息をひとつ吐いたあと、コートの内ポケットに忍ばせていたなけなしの一本に火を付けた。



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