第96期 #3

Good-bye

「私の世界にもやっと色がついた。」
明美は大空を抱きしめるように両腕をめいいっぱい広げた。後ろから忠がそっと明美の首筋に腕を回しきつく抱きしめた。明美は振り返るとこぼれた笑顔を忠の痩せ細った腕にうずめた。
「突然現れてこんなに私の世界を照らしてくれた。」
あの蝶みたいに。蝶は吹き抜ける風に逆らい明美に近づくと耳の側で羽を休め、そしてハタハタと小さな音を立てた。次に二人の頭上に高度をあげて旋回し始めると、空と同じような深く青い色をした羽をひらつかせ、二人を上から魅了した。しかし蝶は風と共に飛び去った。
「いかないでね。」
「いかないよ。」
「1人にしないでね。」
「1人になんかしない。」
「恐いよ。」
大丈夫だよ、あの蝶のように飛んでいったりなんかしない。君はそういったよね?明美はあの大空の下に今日もいた。後ろからそっと抱きしめてくれていた忠はもういない。だから明美は崩れた。膝をついて地面を力いっぱいに殴りつけた。痛みは感じなかった。大地も揺れはしなかった。涙が明美の頬を伝った。この場所はなにも変わっていないのに。ここから見上げる空は宇宙のように広大なままなのに。忠と来たあの日のように溢れ出るような幸福感はどこにも沸いてはこない。
「お別れを言う準備はできたかな?」
涙で頬がぐしょ濡れの明美の肩を母は抱いた。明美はそっと頷くと、白い粉が入った小瓶を受け取った。明美と空の距離が体一つ分縮んだ。小瓶の蓋に添えられた指は、開けるのをためらっている。開けるということは本当の別れを意味していた。明美は目をつぶり風の音を聞いた。ヒューっと吹き抜ける風は明美の塗れた頬を少しずつ乾かしていた。
明美は小瓶を空けた。風の吹く向きに体を向けると、白い粉を包んでいた両手をそっと開いた。
「彼の行きたいところへ、できれば幸せな場所へ、連れて行ってあげて。」
白い粉は風に乗り様々な方向へ広がっていき、そして消えていった。もう戻ってはこない。空っぽになった小瓶が明美の手のひらからすべり落ちた。母が倒れる明美を両腕で抱きかかえた。吹き荒れる風よりも大きな声で鳴く娘を強く抱きしめた。二人は侵食されてできた大きな大地のかたまりの上で分け合った。痛みを、悲しみを、もう二度と帰らぬ人の、太陽の陽だまりのように暖かな記憶を。泣いていた明美は吹き続ける風の中に聞き覚えのあるような音を聞いた。何か小さな羽が、ひらひらとはためくような音。



Copyright © 2010 聖華 / 編集: 短編