第96期 #2

まよなかのはなし

「幸福。」
煙草を燻らせると、言葉は、夜の静寂を浮遊した。
「陳腐な言葉だね、実に下らない。」
ゆらゆらと漂う言葉を、唐突に彼が貫いた。
それは、肥大した風船が破裂するように弾けると、跡形もなく消滅してしまった。
「そう、かな。」
動揺していたのか分からない。僕は釈然としなかった。眼前の同級生である矢野は、限りなく無表情に近い面持ちで、僕を一瞥する。「そうさ。」彼は言った。「人間は、幸福に見向きもしない。」
「…どうしてだい。」
矢野は肩を竦める。
僕は続けた。
「僕らは常に幸福を追い求めているじゃないか。」
「常に?ああ、その通りだ。だから幸福を見落とす、いや、知っていながら知らない振りをする。」
「矢野、僕には分かり兼ねないよ。」
生暖かい風が吹いていた。
僕は自分の発した言葉に違和感を覚える。見透かした様に矢野が口元を吊り上げた。僕は狼狽えた。
「幸福は下らない。否、幸福を追い求める事自体が、下らないのだ。」
「それは欲だ。」
「そう、欲。誰よりも幸せになりたいという人間の、浅ましい欲。」
矢野は饒舌だった。辟易する。僕は力なく首を振った。
「僕らは汚いのだね。」
「なんだい、今に始まった事じゃない。」
「僕は、昔、テストで満点を取った事があるよ。」
「へえ。」
「僕は嬉しかった。クラスで満点を取ったのは、僕だけで、先生がクラスメイトにその事を伝えると、皆は口々に賞賛の言葉を発して、特別な瞳で僕を見たんだ。その時に感じた、あの言いようのない充実感は、紛れもない優越だった。僕は理解した、僕の中には汚なく、愚かな傲慢と下らない自尊心が黒々と渦巻いている事を。」
僕は知っていた。
「あの時、僕は実に幸福であった。」
「そうだろ、違うかい?」
「君はもう分かっているはずさ。」
「その“幸福”が僕達に何かをもたらす事はないんだ。」
「馬鹿馬鹿しい。」
「下らない。」
暗闇が僅かに震えていた。僕は望んでいるのだ。
「でも、ねぇ、君。」
「なんだい、まだ何かあるって言うのか。」
矢野が不機嫌そうに眉を潜めた。僕は知らない振りをして、俄かに開口した。
「それでも、僕は、きっと幸福を追い求めるよ。」
矢野は何も言わなかった。
夜は濃度を増して行く。
再び淡い色をした風船が膨らみかけていた。



Copyright © 2010 笑珈仁子 / 編集: 短編