第96期 #24

おかえり

 その不安定な粒子はぐるぐると円を描きながら、造形的に不可能な像を結び始めていた。
「例の土、ありますか?」
 僕は仮にその像の内部領域をP、像を覆う外延をQ、そして任意の観測点をRと呼ぶことにする。
「例の土とはなんだね」
「例の、神がアダムを作ったときの」
 骨董屋の老人は顔を上げ、手に持った虫眼鏡越しに僕を覗き込んだ。
「あんたは誰だ」
「僕は旅人です。遠路はるばるアダムの土を求め旅をしてきました」
 老人は虫眼鏡を番台に置くと、湯飲みを持ち上げ茶をすすった。
「あれは、随分昔に売り切れたよ」
 嘘だ。
「所詮、ただの土くれさ」
 像の内部領域Pが無限大であるのに対し像の外部領域Sが有限であるとき、像の外延Qは無限かそれとも有限かという問いを観測点Rはふと思った。
「ねえお爺さん」
 埃のかぶった骨董品の奥から、黒眼鏡を掛けた若い娘が現れた。
「この人、今晩泊めてあげたら?」
「そうだな。お前がそう言うのだったら」
 黒眼鏡の娘は白い手を差し出すと、まるで花瓶を品定めするような手つきで僕の顔を撫でた。
「フフ、困った顔してる。観測点Rさん」
「君、目が悪いのか?」
「ええ、でも答えを知ってるわ」
「答え?」
 僕は娘に手を引かれながら、今にも崩れそうな骨董品の山の中へ入っていった。
「アダムの土はきっと偽物よ」
「なぜ偽物だと?」
 娘は僕を暗がりの中のソファに座らせると、僕の耳にそっと唇を押しつけた。
「この店にはね、本物なんて一つもないの」
 時間Tは像の内部領域と外部領域において別々の、相対的に逆行しあう時間軸を持っているが、その関係はあくまでも相対的であり、各領域の時間軸が正進か逆進かを判別する手段は無く
「だけど問題の本質はね、二人がこの世界で出会えるかどうかなの。時間Tが有限であれば逆行しあう二つの時間はいつか出会える。でも時間が無限なら、二人は永遠に出会えない」
 僕は娘の黒眼鏡をゆっくり外すと、闇に浮かぶ娘の白い顔にナイフを当てた。
「ところで、アダムはどこにいる?」
「死があり、出会いと別れがあるのはね、この世界が無限ではないという証拠なの」
 でも人はみな一人で生まれ一人で死ぬ。
「あなたは孤独じゃない。ただ今のあなたには、孤独と欲望の区別が出来ないだけ」
 僕はナイフを握り締め、娘の頬を一直線に切り裂いた。
「おかえり」
 虚空を見つめながら、娘は僕の腕を掴む。
「あなたが、アダムよ」



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