第96期 #12
夕刻、駅にマグロが走ってくる。
切符は事前に手に持っていて、それを迷うことなく投入し改札口を通り抜けたマグロは大変急いでいる様子だった。
誰も声こそかけなかったが、周りの客は無遠慮にじろじろと見た。
当然である、時価にして300万はするであろう立派な黒マグロだった。
ある人は唖然とし、ある人は腰を抜かし、ある人はよだれを垂らした。よだれはだらだらと真下に垂れて大きな水たまりを作った。少し気の早い一番星がゆらゆらと映った。
マグロはそれら視線を全く気にする様子もなく、まだ帰宅ラッシュ前の人もまばらなプラットフォームで電車をしばらく待っていた。
ハイキング帰りといった装いの親子が通りかかり、女の子がマグロを指差し「おかあさん、ほら、大きな魚介類!」と叫ぶと、途端に頬を、赤身よりも赤く染めた。
マグロだと認識されなかった自分を恥じたのだろうか。
あるいはいくぶん魚顔の女の子が、初恋のマグロに似ていて、マグロがとびきりのシャイボーイだったのだろうか。
あるいはただ夕焼けの加減でそう見えただけだろうか。
ふいに、マグロは跳ね上がり、さっきから流れ続けているよだれの水たまり、いやもはや池と呼べるほど広がった中に飛び込んでしぶきを上げ、深く深く潜っていった。
二度と浮き上がることはなかった。