第96期 #11
去年の暮から、私の右腕は錆び始めた。
これは誇張でも比喩でもなく、文字通りに錆び始めたのだ。肘の部分から徐々に、しかし確実にそれは進行した。
最初は何かで擦り剥いて、その傷が治りかけているものだと思っていたが、傷は治るどころか日々増える。痛みは無く、腕の可動にも問題はないが、兎に角人目に付くし、食事にパラパラと錆びが落ちる。特に問題なのは、風呂に入ると湯が茶色く変色し、錆びの匂いがひどく鼻につくことだった。
日々増加する錆びの面積を不思議に思い、そして心配になり、医学に詳しい友人に相談してみた。
「成程。其れは君、身から出た錆だよ」
友人の言葉には嫌が応でも「うむ、そうか」と頷かせられる神秘的な威厳と説得力が秘められていた。
ただ、私のそれが「身から出た錆」だったするのはいいとして、私には錆びる理由がわからなかった。
というのは、私はそれまで善人一点張りとでも言えるような性質だったし、思い返してみても腕の錆に苛まれるようなことになる程の珍行愚行悪行とは無縁であったからである。人から「自業自得だ」となじられることもなかったし、むしろ私は人から「才色兼備だ」とひと匙の世辞を交えた称賛を受ける側の人間だった。そんな私であったから、心に驕りがあったのかもしれないが、驕りの一つや二つで腕が錆びてしまうようでは、世の中皆錆び錆びとなってしまう。
悶々と思考に思考を重ねたが解答を得られなかったので例の友人を訪ねてみた。
「悪行でないことが善行であるとは限らないのだよ。善行がどういうものであるか、悪行がどのいうものであるか、決定しているのは我々人間なのだから、人間を超越した者の価値観からすると、善であることが悪であるかもしれない。そして恐らく君は、人間を超越した者による人類善悪価値観更生の最初の対象になったのだよ。君はこれから我々の価値観からする珍行愚行悪行を行うべきだ。積極的に行うべきだ。そして成るべく周りの人間を巻き込むべきだ。善悪の価値観の転換という君の使命を理解してくれる同志を集うのもいいだろう。そして皆で珍行愚行悪行をするのだ。それを只管続けていれば天から我々を見下ろす人間を超越した者は君を善とみなし、錆びから解放してくれるだろう」
とりあえず私は最初の悪行として、「うるせぇ」と吐き捨て、友人の頬を錆びでざりざりした。
かくして、私と人間を超越した者との闘いの幕が切って落とされた。