第95期 #7

セオリー

 駅前で繰り広げられていたエコロジーミーツファンタスティックな思想を唱える新興宗教の勧誘をすり抜け辿り着いた喫茶店でコーヒーを啜りつつ窓の外に行き交う人々を眺める俺二十二歳は今日も人間観察に没頭していたのだが席一つはさんで右手に座った同じくフリーター風の男子推定童貞の手元のノートブックから紡ぎだされるエンターキーであろう過剰な打鍵音によってその作業を阻害されていた。
 その他の打鍵音も一定の間隔でリズミカルに響いているが、許容の範囲である。ともすればミニマルミュージックの如き安定したリズムに混じって挿入されるエンターキーの無秩序ぶりからこのフリーター風の男スラム育ちと推定。恵まれぬ環境で懸命にバイトを続けようやく手に入れた憧れの神器ノートブック、それは彼にとって現代的ブルジョワジーの証であり知性の象徴であった。興奮抑えられぬ彼は親にクレジットカードを借り即座にイーモバイルへ加入、一秒間に約二百キロバイトの転送量を生かしユーチューブで面白動画を見付けてはほくそえむ日常を送っていたが、迫りくる将来の不安を完全に払拭することは出来ず、むしろノートブックを買うために働いてた自分の方が輝いてたのではないかという本末転倒な疑問を抱えながらも手に入れた神器に魅入られ、腐葉土に群がる幼虫が如く無線ラン標準装備のこの喫茶店でユーチューブを貪っているのであった。恐らくニコニコ動画に羽化するのも時間の問題、燻る感覚をエンターキーに打ち付け己の中指を酷使することが彼なりの自己嫌悪の表現といった所か。
 彼の鬱屈した熱量は手元のカップの氷をみるみる解かし琥珀色に輝いていたカフィの色合いはさながら隠し芸の如く褪せ最終的にマチャーキの様相を呈していたが、これが俺流の一流ギャグだと、正月はBIG3ゴルフ原理主義の彼には理解できまい。
 そんな俺のユーモアを尻目に彼の打鍵スピードは勢いを増しエンターキーの間隔もドンドングングンズイズイ狭まるタンタンタンタンタンタンタンカン! タンタンタンタンタンタンタンカン! タンカン! タンタンカン! ミニマルを通り越しパンクに着陸したそれはノーエフエックスの存在を俺に再確認させたが、そんな事よりも一瞬挟まれたタンカン! というサウンドによって俺の心に湧き出たダンカン今何してんだ映画撮ってるかちゃんと飯食ってるかという暖かな気持ちを大切に育てていきたいと、今は思う。



Copyright © 2010 葛野健次 / 編集: 短編