第95期 #25
ゆみなりのつきのひ。
少女は黒い大樹の下で服を着た大きな兎と言霊を重ねていた。真夏の夜の熱が汗として結ばれ、吐息が血風と共に流れていく。少女の細い指が兎の汗ばんだ体毛と体表をなぞり、爛々と輝く真っ赤な眼球へ何かを伝えようと伸びていく。兎の口からむせ返る様な呼気が放たれる。
おお、白き月の魔女よ。汝の望みはどこにある。
少女の首筋に放たれる兎の言霊。ほんのりと血の赤を帯びた彼女の背筋に、兎の汗が落ちる。
おぉ、なんという。
少女は呟く。もう全てがどうでもいいのだと。もう全てがお伽噺だと。つまり、彼女はとうに願いを告げていたのだ。全てから見放され、全てを憎む少女はゆみなりのつきのひに最後の夢を見にきたのだ。
あぁ、あぁ。なんということだ。
兎の暖かく大きな手が少女の手に添えられる。少女の瞳に揺れる赤が重なる。黒い影は少女の体を包み、月明かりは大樹に遮られ、熱気を帯びた風だけが少女を慰める。
私の主よ。美しき月の魔女よ。この哀れな兎に慈悲を。
少女の乳房に影が重なる。少女の唇に悲哀が潜む。
美しき我等が月の魔女よ。虚ろなその呪いをこの身に。大いなる暴魔の意志とその力を私に。あなたのために私は魔笛を鳴らしましょう。無垢なる世界に歌を聞かせましょう。あなたこそがこの世界を統べる実存であれ。
兎の瞳が、少女の背中を眺める。
原始の痛みが少女に新たな芽を宿す。聖なるものとは邪なる神と紙一重であることを少女は知る。大樹のざらついた表皮に両の手をあて、失った全てに別れをつげる。影が少女の全身を包む。少女はゆみなりに。
兎の声だけが少女を確かにしていた。何もかもが幻のように霞んで溶けるなかで、兎の言葉だけが憎悪を確かにしていた。少女は大樹に爪痕を残す。
白き月の魔女。私が憎いですか。
その兎の言葉に少女が応えることはない。
音は止み、影が夜を包み、二つの吐息が熱を帯びる大樹の元で、少女は全てを統べる夢を探る。
ゆみなりのつきのひ。
白き月の魔女は穢れた兎の魔笛を慈しむ。
影が消え朱が差し、冷たい風が訪れを告げる。闇にゆらり蠢く赤。幾百もの魔の眷属が少女に寄り添う。
少女を乳白色の石の玉座に乗せ、兎は自ら顔の皮を剥ぎ少女に与える。
大樹は枯れ、穢れの権化たる虫々の醜悪な足音が響く。
少女は残酷で可憐な夢を携えて、昨日までの自分に別れを告げた。
ゆみなりのつきのひのことである。