第95期 #18

『それ』は……

父は仕事で疲れて帰ってきても、いつも笑顔を絶やさない穏やかな人だった。
母は料理上手でおだて上手で、時々怒るけどそれでもとても優しい人だった。
姉はわがままで一直線な性格だけど、いつでも僕の手を引っ張ってくれる、そんな頼れる人だった。
この愛すべき人たちは、今はもうどこにもいない。

僕が『それ』を知ったのは雨の降る夜。
近所に住む従妹の女の子と一緒に荷物の整理をしている時だった。
父の書斎を片付けていた従妹が一通の封筒を持ってきて「ごめん」と言いながら僕に差し出した。
何の事かも分からずに僕はそれを受け取り、そして『それ』を知った。
初めは理解できなくて、理解しても『それ』を信じることはできなかった。
混乱する頭が一瞬フッと空っぽになって、外に響く雨音が耳に入り僕を現実へと引き戻す。
頬を伝う涙に気付いた。いつの間にか跪いている自分に気付いた。そして、目の前にしゃがみ込み、僕の手を握ってくれている少女に気付いた。
温かい、姉の『それ』とよく似たとても温かい手が、僕の心を支えてくれていることに気付いた。
封筒と、そこに入っていた一枚の紙は、今は床に落ちてその悲しい事実を晒していた。

戸籍謄本というものがある。『それ』は、僕に悲しみをもたらした。
家族を失い、絆という思い出に縋る僕から、血の絆を『それ』は奪い去った。
後になって気付いたのは、家族を失った事よりも、僕だけが本当の家族ではなかった事の方が何倍も悲しかったという事。
僕はそれだけ家族を愛していたし、多分、愛されていた。
だからこそ、その事実は僕に大きな悲しみをもたらした。
だけど、僕は知った。血の絆よりも大切なものを。
温かい手の少女が『それ』を僕に教えてくれた。そして『それ』は、やがて子という名の絆を僕にもたらしてくれた。
子はかすがい。
昔の僕が、あの愛すべき人たちの『それ』であれたのなら、僕にとってこの上ない幸せである。



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