# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | シンクロ | アンデッド | 971 |
2 | 『待ち人は望月の夜に』 | 石川楡井 | 1000 |
3 | 青春バカフライ | 猫田八兵衛 | 945 |
4 | 親指カノジョ | 成祖美邦 | 1000 |
5 | 流るる花は、水面に揺れて | 盲目ロイ | 904 |
6 | 地を這うものに翼は要らぬ | なゆら | 405 |
7 | スピード | リバー | 991 |
8 | たしかに、そこにある | 岩砂塵 | 999 |
9 | カラの世界 | 彼岸堂 | 1000 |
10 | おおきなかぶ | 長月夕子 | 999 |
11 | さよならの言葉 | のい | 892 |
12 | グリール | 葛野健次 | 797 |
13 | 開放 | 壱カヲル | 999 |
14 | 泡沫の夢 | 雪篠女 | 943 |
15 | 「踊るシンデレラ」 | てつげたmk2 | 619 |
16 | 天野さんは弱かった | 謙悟 | 986 |
17 | ボーイ・ミーツ・ガール | わら | 1000 |
18 | 毛の抜けた男 | エム✝ありす | 1000 |
19 | フェンキュラング | キリハラ | 997 |
20 | 蚕室 | でんでん | 1000 |
21 | 灰色の瞳 | 宇加谷 研一郎 | 1000 |
22 | コオロギ | 高橋唯 | 1000 |
23 | 天地無用 | クマの子 | 1000 |
24 | 君が死んだら、世界を殺して僕も死ぬから | euReka | 995 |
25 | 運命の分岐とその後 | 篤間仁 | 860 |
26 | それでも | くわず | 1000 |
27 | 音が聞こえる | おひるねX | 998 |
28 | リア充海岸 | コートドリアジュール | 965 |
雨上がりの午後、私は歩いていた。
見慣れた下校途中の風景。いつもと同じ。繰り返される日々の中、何も変わらない。
隣には、毎度お馴染みの友子がいる。
私と友子は親しい仲で、一緒に下校するのは日課だった。けれど心では、彼女のことを良く思っていなかった。
毎日歩く道は見慣れていたはずなのに、ふといつの間にか異質に映る。
――私は迷子だった。何も解らないまま、ただ何となくレールの上を歩いてる。
もし解ったとしても、道から外れて自由に進む勇気はあるのかな。
そんなことを考えながら地面を眺める。雨粒が集まった水溜まりに光が注がれて、キラキラと反射していた。
「ねえねえ」
「なに」鬱陶しい、と私は思った。
「ちょっとこれ見てよ、ねえ」
仕方なく友子の要求に応えてそちらへ視線を向ける。
「なによ」
友子の顔を見ると、彼女は自分の目を指差していた。
「ほら見て。見てよ」
「だからなんなのよ」
「ねえ、両目が同じ動きしてるでしょ」
確かに両方の目が同じ動きをしていた。それがなんだというのか。
尚も友子はまくし立てる。
「ほら、ほら、同じ動きしてるでしょ。全く同じ動き。ほら、同じように動く」
友子は、両の目を上下左右に繰り返し動かしていた。グルグルと回してみたり、縦横無尽に操っている。
――ハッキリ言って、気持ち悪い。
「はぁ。それがどうかしたの」
「だって、スゴいじゃん! 同じに動くんだよ? スゴいよコレ!」
呆れた……。
私は呆れて物が言えなくなった。
「あれ……。なんか怒った?」
私は無視して答えなかった。くだらないことを言い出した彼女が悪いんだから。
「……怒ってるんだ。変なことわめいてごめん……」
そのまましゅんとしてしまう友子。
その時、友子の両目がバラバラに動き始めた。カメレオンの目と同じで、別々に細かなステップを刻む。
余りに突然の出来事だったから、私は不覚にも驚いて飛び上がってしまった。
「あ! 由美も目! 両方とも同じになってる!」
「え?」
――どうやら私の両目も、彼女の様に同じ動きをしてるらしい。最初は気づかなかったけど、慣れたら自分でも段々解ってきた。
ふーん。これがそうなんだ。バカらしいね。
だけど何だか楽しくなったので、私は友子と一緒に大笑いした。
笑いながら何となく空を見上げると、棚引く雲の隙間から虹色の光が見えた気がした。
宙は晴れ、かの天體が麗しく輝く夜――。
遙か遠き天上の異星へと旅立つた、貴女。晴れた夜は貴女の事を思ひ出す。
此の地を發ち、片方に浮かぶ天體を目指し、青く黒き宇宙空間へ飛び去る後姿を、今も夜の帖の幻に見てしまふ。艷やかな垂髮。矢筋のやうに整つた翠眉、意志の強さうな眦。肌理は白絹の如く、雪の肌に咲く丹花の脣がよく目立つ。
引き止める事も叶はず、此の地でひつそりと貴女の歸りを待つ己の非力が恨めしくて仕方がなゐのです。かうして星宙を眺むれば、地上の寶玉なぞ煤けた石礫と大差もない。星を纏ひ、かの天體の發する光――侍女の話によれば、其れは太陽の光が照射してゐる所以のものだと云ふけれども、直黒の宙に照る御姿は、丸で此の詰らない日常に現れる貴女の姿のやうで……。
貴女が戻つてくる。其の傳聞は眞のことだらうか。
然し見上げる宙の片隅に、貴女の姿は見えやしなひ。動くものは屑星の瞬きと箒星の尾。庭に植わつ樹木の葉陰に、曉光は消え、夜が訪れる。宙の果てに在る瓦斯雲の話を覺えて居られるか。東の空に漂ふ雲は、星の群れと透明な氣體で作られた星雲と呼ばれる瓦斯雲ではないか。語りつゝ媾曵を交はした宿りの森も夏風に寢靜まらうとしてゐる。葉擦れ、竹の薫り、旗薄、紅葉、天の浮橋。此の京の、御宮の庭の、東の涸山水、西の小瀧、耳朶を打つ水簾の音、風流ある林泉、貴女は覺えて御出ででせうか。
霞色の薄闇に、過ぎた別れの長大息が逆卷く傍ら、掖庭より鳴る、暇を持て餘した帝の舞ひの音樂が一入侘びしめる。思ひ煩ふ葉月の夜に、貴女は矢張戻らない。
扇で頰を扇ぎつゝ、縁側で轉寢をしてしまつた事に氣がついて、何處からの歡聲に何事かと目蓋を開ければ、涸山水を照らす、天上からの光明に魂消て眼が眩む。宙船を降りて來るのは羽衣を纏つた遣ひの列。やをら立ち上がり、寢惚けて覺束ない足取りで群衆の肩を搔き分け驅寄ると、遣ひに導かれ、しづしづと出でる十二單の彩色豐かな風采。思はず頰が緩む。
貴女は此方の顏を見、嫣然として會釋する。雅な船を出、遣ひの隊列を潛り、面映く目を伏せ乍ら歩み寄る貴女の手を取り、久方振りの再會に熱淚下れば、如何にも氣恥づかしゐのです。貴女の歸還を奉迎するは、侍女の歡聲。
「よくぞ戻られた。かぐやよ」
抱擁し乍ら見上げた宙に、かの天體の碧い光。月の都の夜は更けゆく。
ベンチと鉄棒と砂場しかない、明らかに子供を対象として作られたと思われる団地郡の中にある公園に少し似つかわしくない学生服を着た坊主頭のチビとノッポのデコボコな2人組はいた。
彼らは手に金属バットを持ち素振りをしながら会話をしていた。
「スイングってこんな感じでいいかな?」
ノッポは下から上に掬い上げるようにバットを振った。
「いやもっと上から振り下ろした方がいいんじゃないかな」
見本を見せるかのようにチビは上から下にバットを振り下ろした。
「今、何時?」
ノッポは緊張しているのか少し声を震わせていた。
「もうすぐ11時」
それとは対照的にチビは、はっきりとした口調で答えた。
「ふぅー、もうすぐ時間か。大丈夫かな、ちゃんとバット振れるかなぁ」
「大丈夫、お前なら振れるよ」
チビの声が先程のノッポと同様にかすかに震えていた。
「智と一緒の病院でしかも病室も一緒だったらいいね」
ノッポがそう言うとチビはそうだなと言いながら微かに悲しみを含ませた笑みを浮かべた。
「あぁ、そういえば退学届け出したときの先生達の顔、面白かったね」
「俺とお前は学年でいつも上位の成績だったし部活もちゃんとやってたから辞める理由なんてないと思ったんだろ。俺達より智の方が遥かに上だったけど」
「そうだね、智、頭良かったよね野球部でもエースだったし」
「そういや智言ってたな馬鹿の一つ覚えみたいに甲子園行こうって、俺とお前がじゃあ電車乗って行こうって言ったらマジで怒ったよな」
「あったね、そんなこと。確か次の日、部室に目指せ甲子園って書いた自作のでっかい紙が貼ってあったよね」
「そうそう。甲子園なんて行ける訳ないのにな。同じブロックにドラフト掛かりそうな奴いるんだぞ、無理に決まってるだろ。まぁ、でも少しは乗ってやってもよかったかな」
「そうだね、・・・・・・あのさ一つ聞きたいことあるんだけどいい?」
「いいよ、何?」
「人をバットで殴るってどんな感じだろ、やっぱり感触とかあるのかな」
「そりゃ、あるだろ。奴らはその感触を何度も感じながら智を殴りつけたんだ」
チビは地面に金属バットを振り下ろした。
「ゴメン」
「いいよ謝んなよ、そろそろ」
「だね」
チビとノッポはカモフラージュに用意したグローブを持つとこの公園から200メートル程先にある高校へと向かった。
親指サイズの少女が主人公であるということ以外に、その物語についてはまるで知識も興味も無かった。軟弱であっても男は男なので、その類の物語に触れる機会はあまり無かった。
聡はどちらかといえば、アンデルセンよりイソップ派だった。
ネットで調べた。チューリップから生まれた極小の少女。そうか、と納得し、でもな、と思いとどまる。人魚の例然り、ああいった物語の内容が直接彼女達の生い立ちや生態を表わしているとは限らない。聡は逡巡し、部屋を出る。
しばらくして戻ってきた聡の手には数株のヒヤシンス。
「チューリップをください」
「ありません」
「じゃあなにか似たものを」
店員に渡されたのは真っ赤なヒヤシンスの花だった。赤いヒヤシンスを見たのは生まれて初めてのような気がして聡は満足した。共通部分が「科目」であったことには少し不満足だった。けれども赤いヒヤシンスはきれいだったのでやはり聡は満足した。
店員に言われた通りプランターに水はけの良い砂を足し、ヒヤシンスを移した。持ってきた時よりも張りが出て、生き生きしているように見えた。炭化した親指姫を右から二番目と左から三番目のヒヤシンスの間に埋めた。
聡がサッカー解説番組を見ながら動かしていた手を止め、フライパンに目を遣った時には既に、七本の粗挽ウインナーの中心で親指姫は溶けたフリース生地の中で炭化し、油まみれになっていた。しかし本当のことをいえば、聡はまだその時点では親指姫に降りかかった悲劇にも、黒ずんだ八本目のウインナーの正体にも気づいてはいなかった。
「親指姫さん、準備できたよ」
聡はそう言いながら、少しおかしいなと思った。いつもなら気配を察して声など掛けなくても出てくるのに。ふと嫌な予感がした。胸ポケットを覗いた。ソーセージが一本多いことに気づいた。一パック七本入りのウインナー。盛られた八本のウインナー。ペッタンコの胸ポケット。
親指姫さんのために切り刻んだウインナーが本物だったのがせめてもの救いだった。とその時思った。
聡は「はははは」と笑った。自分は頭がおかしいのかもしれないと思った。そうだ警察に自首をしよう。自分は人を殺したのだ。けれども真っ黒に焦げた親指姫を見るとその望みは絶望的なものに感じられた。
窓を開けた。深く深い藍色の中に月が出ていた。ひんやりとした空気が聡の頬を撫でた。夜露が一粒、ヒヤシンスからポロリと落ちた。聡の目からも夜露がポロリと落ちた。
不意に身を寄せられて言葉に詰まる。
私はこの女には見合うまい。凛としつんと尖り、なのにふわふわと柔らかい。
鼻先に香る色香は、濡れた妖しい花弁にも似て。
「お待ち申し上げておりました」
「私をか」
「はい」
私の目に映る女はにこりと一つ微笑み、私の鎖骨にその純白い指先を添えた。何と甘やかな行為だろうか。歯止めが利かなくなりそうで怖くなる。
「どうして私なのか」
「さて、それは私にも分かりませぬ」
「分からぬのに、身を委ねるのか」
「はい、想いに理屈は要りませぬ故」
何とも素直な女だ。こういう極上の女を手にしたいと思うが、如何せん私は所詮ゴロツキの類。
女の凛とした清純さや漂う色香には見合わぬのだ。だがそれでも、と女は身を寄せる。何とも愛い女だと吐息が漏れた。
「貴方様は私がお嫌いですか」
「何を言うか」
「お答え下さい」
「それを私に言わせるか。私は悪党、お前はお嬢、それでもか」
「はい」
言葉に詰まり視線を背ける。言葉にしてしまえば、きっとこの女は迷いもなく全てを捨てるだろう。それだけ想われていると知っている。だからこそ、告げてはならぬ想いがある。
「身分の違いに何ぞ意味がありましょうや。私は女、そして貴方は男。それが真理ではございませぬか」
女の声が小さく震えた。思わず女を見詰めると、女は瞳に涙を溜めて俯いていた。その表情の美しさはきっと私にしか知り得ぬ。いや、決して他の誰かになんぞ知られとうないのだ。
「それが真理なら、お前は家すら捨てると言うか」
「とうに覚悟は決めております」
鼻先をくすぐる色香。それは少しずつ私の心を侵食していく。私の葛藤なんぞ、この女は考えてもおらぬ。
この女は、私に愛されることが全てだとあっさり言い切るのだ。
何と強く儚い愛の形だろうか。相手に身も心も委ねるという、あまりにも無防備な愛し方。
「愛しております」
女の指先は鎖骨から胸元へついと走り、更に私に身を委ねた。つん、と汗の香りがした。何と甘い、そして何と官能的な香りか。
顔を見ると、そこには純粋で妖しい女が蛇のように哂っていた。
私は女の魅力に囚われたのだと悟った。
女は花、水面にふわふわ揺れながら、私の手元に流れた。
働け。
もっとたくさん仕事をしなければ、それこそが僕が生まれた理由で、仕事をしないならば、僕などいないほうがいい。
仕事を終えて家路に着く時、月曜日の朝の目覚めのけだるさの中で、僕はそう思う。
同僚の中には、ほとんど働かない奴もいる。
上司の目を盗んでは、公園のベンチの上で寝転がったり、コンビニエンストアに入ってはぼうとしたりしてさぼっている奴がいる。
彼は言う、
「そんなに真剣になって働く意味がわからない俺ひとりいくら働いたって何にも変わらないもっと楽になれよ」
僕もそう思うだけど、働き続けていれば、すべてをそのためにかけてもいい、そう思える瞬間がある。こうして一生懸命働いた結果がそこに繋がっている、と確信している。
なんというかそれは遺伝子に組み込まれているような気がする。
顔を上げる。
ああ、ここから遠く、何万匹もの黒い仲間の向こう、女王が羽を広げ、飛び立つ、その羽音の向こうにある太陽の、光。
朝。いつもと同じように家を出たおれは通学路の途中でUFOにさらわれて中にいたウシ型の宇宙人に改造され、気がつけば屋上に1人、体中からは緑色の粘液がドロドロと流れ出ている。突然の出来事に頭が真っ白になって大声をあげた、つもりが何を言っても「ブクブク」と泡の出る音しか聞こえない。あ、もうおれ、人間じゃない。緑色の粘液を出す人っぽいの何かだ。なんだよ畜生。あのウシ型。まだキスもしたことないのに。どうすりゃいいんだよ。
たぶん、どうにもならない。体中ぬるぬるだし、しゃべれないし、それよりなにより、こうしてる今も人間が喰いたくて仕方がない。耳の穴から取り出したばかりの新鮮な脳みそをさっと湯でくぐらせた後、おろしポン酢でおいしくいただきたい衝動を抑えることが難しい。今はまだある程度理性保ってられるから、何とか白子ポン酢で我慢できそうだけど、何時間かしたらきっと完全に理性を失って本能の赴くままに殺戮を繰り返すマシーンと化し、何人も殺しておいしくいただいた挙句とっ捕まって、隅々まで研究材料にされ、軍事利用、途上国における代理戦争に用いられて、100万都市がまるごと緑色のぬるぬるだらけになるのが映画とかでよくあるパターンなので、なんとか阻止しなければならない。いっそ死ぬか。
よし、死のう!2秒で決断。即断即決、一度決めたら曲げないのがおれの忍道。飛び降り自殺を選択すべくフェンスを乗り越えようと試みるが、粘液がぬるぬるでフェンスを上手く登ることができない。なんだよ畜生!一瞬心が折れかけたがよく見るとおれの触ったところだけフェンスが春雨みたいにパリパリ。強く押してみたら簡単に崩れ落ちた。すげーな粘液!この粘液、頭皮に丸く塗ったあと上に髪の毛ひっぱったら頭「パカッ」って開いて、脳みそ取り出すのに使えそう。粘液案外機能的。やるじゃん、ウシ型!
でも今のおれには関係ない。おれは死ぬのだ。死なねばならぬ。さよなら人生。大好きだったあのこ。大嫌いだった英語の長文読解とも今日でおさらば。アイキャンフライ!おれは飛び降りる。吹き抜ける風を頬で感じ、過去の思い出が走馬灯のように巡り、気がつくとまたおれはUFOの中、ウシ型のあいつが「驚かせてごめんなさい実はあなたたち人類に他人を思いやる博愛の心があるのか試したのです人類はは合格しました」とか言ってるエーうっそーマジ信じらんなーい地面。
押上駅B3出口を出ると、目の前に真っ白なパーテーションが現れた。どうやら工事中のようだ。自由への衝動を押さえ込むように、白いパーテーションは私の歩く方向を無理やり導いている。風もなく、ギラギラとした日差しに思わず息が漏れる。
そんな時、背後にとてつもない気配を感じた。重く、深い。音で表すなら「ずん」という感じだ。歩幅が狭くなり、やがて私は立ち止まった。周りにいた人々も同じだった。気がつくと、みんな空を見上げている。
「ゴクリ…。」
粘りのある唾液がゆっくりと喉を通り過ぎる。振り返り、気配の主を探る。白く、とてつもなく長い鉄柱が何本も絡み合い、中心の柱に芯の強さを与えている。こんな近くに根を下ろしていたのだ。スカイツリーが。未完成ながらも、その存在感は他を圧倒している。太陽の光さえもこの塔の前には、ただの照明でしかない。白くぼやけた輪郭がそれを神秘的な物へと昇華させている。
駅前通を右へ曲がり、交番の前へ行くと、より多くの人々が携帯カメラを空へ突き出し、しきりにシャッター音を奏でていた。みな一様に「凄い」の一言を発している。私はその「凄い」音に囲まれながら、白き存在に背を向けて近くの川沿いを歩いた。
風が水面を駆け抜け、草木を揺らし、私の髪さえも遊びの標的にする。やわらかな湿気が、夏の訪れを感じさせる。目の前に何棟も連なる公共住宅地が広がっていた。コンクリートの壁が黒く汚れ、私よりもずっと年上であることを感じさせた。道沿いの部屋のベランダには、何年も前から吊るされているような風鈴が微かに風の声を響かせている。ふと前を向くと老夫婦が目に映った。車椅子に腰掛けた妻、肩にそっと手を置く夫。特に会話をするでもなく、ただその場所に立ち止まり、じっと遠くを眺めていた。年月が過ぎても決して色あせないもの。そんな存在の一片を垣間見たような気がした。
しばらく歩くと、また白いパーテーションに出くわした。その奥には空き地が広がっている。ここにはマンションかデパートか、とにかく大きい何かが建つのだろう。あのツリーのおかげで昔ながらの人の営みを感じさせるこの場所も、数年後にはがらりと変わってしまうだろう。人も増え、活気に溢れる素敵な街。未来はすぐそこまできている。
ふと空き地の片隅に咲く一輪の花を見つけた。風に揺れながらも凛とした姿で根を張っている。その美しさに、私はカメラのシャッターを押した。
緋色の羊水。
伝う心音。
暗闇の向こう、怨嗟の慟哭。
夢の果てで、私は覚めない夢を見る。
そこが、開かれたとき――
「こんにちは」
「おはよう」
それが私とソラコの出会い。
機械の山と、一軒の家と、うねうねした木と、真っ白な砂浜と、真っ青な海。そこが私とソラコの世界。
この島だけが青空の下にあり、青の海に包まれている。水平の果てには黒が広がり、時折雷鳴に似た音が響いてくる。
ソラコは私を『箱』から出してくれた。
「カラはどこから来たの?」
カラは私の名前だ。ソラコが付けた。私の入っていた箱が私以外空っぽだったからだそうだ。
「よくわかんない。多分、怖いところ」
「そっか」
ソラコと私は極自然に親友となり家族となった。無限の日常。私達は可愛らしい煙突のついた家で、点かない暖炉の前でぼーっとしては、砂浜に寝転がってぼーっとしていた。
悠久の会話。私達は何度も何度もお互いを想像し合った。
「カラはきっと遠い国のお姫様だったのよ」
「じゃあソラコは王子様?」
「私もお姫様がいいな」
「じゃあソラコは女王様?」
幾千億もの夜を越えても尚、私達はずっとソラコでカラだった。私達二人の意識が溶けることなく、私達は常に孤独ではなかった。距離が、私達の魂を知覚させる。
手を握る、その心のもどかしさが私達を守っていた。
ある日、黒い雨が世界を包んだ。
荒れ狂う海に機械の死骸が降り注ぐ。
世界中の悲鳴が、ついにメビウスを破壊したのだ。
また、私は失おうとしている。
「カラ。怖いよ。死にたくないよ」
ソラコが私にあらん限りの力で抱きついている。その細腕から流れる血もまた黒い。
「カラ、カラ! 怖いよ! 死にたくないっ! 真っ暗は嫌、消えるのは嫌、忘れたくないよぉっ!」
「私も怖い」
ソラコを抱きしめる。
世界は黒の雨で塗りつぶされていく。
あの可愛らしい家も最早、ただの汚物だ。
私はソラコの手を引いてかつての砂浜へと走った。そして、予想通りのものがそこにあった。
箱には、緋色の液体が満ちている。
私はソラコを無理やりそこに押し込めた。
「やだ、やめて! 嫌っ!」
私は黒い涙を流す。泣き叫ぶソラコを箱につめ、乱暴にその蓋を閉じる。
そして、後に残されたのは。唯一人の恐怖。
――メビウスの足音が聞こえる。
緋色の羊水。
伝う心音。
暗闇の向こう、怨嗟の慟哭。
夢の果てで、私は覚めない夢を見る。
そこが、開かれたとき――
小さな村におじいさんとおばあさんと孫娘と、犬と猫とねずみが住んでおりました。おじいさんの一人息子であるお父さんとお母さんも一緒にこの小さな村で暮らしていたのですが、お父さんは都会で一旗揚げたいといって一人で村を出て行きました。お母さんは小さな村に退屈して、金髪の青い目をした男の人とどこかへ行ってしまいました。
おじいさんは古くからの農家で、いくつかの畑を耕し、たくさんのおいしい作物を育てていました。あるとき、都会へ行ったお父さんが、どうしてもお金が必要なんだ何とかしてくれとおじいさんに手紙をよこしました。息子の願いは何でもかなえてあげたいのが親心、畑を一つ売って息子にお金を送りました。そうして何度となく息子の願いをかなえていると、おじいさんの畑は一つもなくなってしまい、猫の額ほどの庭と小さな家だけが残りました。おじいさんは庭を耕し、家族が暮らしていける分だけの作物を何とか育てていましたが、一度でいいからおなかいっぱい食べさせてやりたいと努力を重ね、びっくりするほどの大きなカブをこしらえました。窓からわさわさしたカブの大きな葉が見えたとき、おじいさんの胸は躍りました。むろんおばあさんも孫娘も犬も猫もねずみも。皆で大きなカブを引っこ抜きました。大きなカブの話はあっという間に広がりました。世界のいろんなところからいろんな人たちがやってきて、家族がしばらく暮らしていけるほど謝礼を置いていきました。すると、しばらく音信不通だったお父さんが帰ってきて、また何とか言いながら、その謝礼とそれからカブの種とその権利を持っていってしまいました。
さてお父さんはシステマタイズされた広大な農場で、大きなカブを栽培しました。大きなカブは農場いっぱいゴロゴロと育ちました。ところが世間の人たちはとても飽きやすいので、大きなカブがそんなにゴロゴロとある光景を珍しがることもなく、誰も見向きもしません。お父さんは「くそ!いまいましい!」と怒鳴って腐りかけたカブを蹴飛ばしました。するとぐしゃりと崩れたカブはお父さんを飲み込み、お父さんも腐ったカブのようになってしまいました。
それからおじいさんはどうしているかと言いますと、いつものように畑を耕し、おばあさんは繕い物をし、孫娘は家事をして、犬はワンワンと吠え、猫はにゃあにゃあと鳴き、ねずみはチュウと言いまして、今日もお日様がきらきらしているのでした。
僕は子供を産むことが出来ない、身体の中に子宮なんてものは組み込まれていないから。彼の事が大好きだけど恋人になることは出来ない、僕の身体と彼の身体の器官は一緒だから……。
「結婚しよう」なんて言葉は当たり前になく、今の所「特別」が最高の言葉。別に結婚がしたいわけではないけれど、一生出来ないとなると憧れるところがあったりする。
「子供を育てよう」彼が言った、恋人ではなかった、正式な彼女がいたから、けれど確かに言ったのだ。
「俺にとってはお前も特別。」素直に嬉しいと思った「好き」とか「愛してる」みたいに嘘を言われるよりもずっと……けど、今回はそれを遥かに越える嬉しさがあった、どうやって?なんて考える時間も惜しくて「うん」と答えた。
「子作り」はそれから二日後の土曜日に開始された。
僕らの「子作り」に性的な行為は全くなく、紙と鉛筆、それから色鉛筆だけでいい、しかも十ヶ月十日待つこともない。
二人に似るように女の赤ちゃんを描いた、やはり美術大学へ進んだ彼はとても絵が上手い。
「二ヶ月毎に成長した姿を描くよ」完成した「子供」を愛しそうに見ながらそう約束してくれた。
「子供」の絵が12枚になったころ、彼の彼女が身ごもり、17枚目を描いてもらって一週間ほどで赤ちゃんが産まれた、その頃には彼女は奥さんになっていた。
奥さんは二人の邪魔をした僕を邪険になど扱ったことはなくむしろ、「私の先輩ね」といって電話をくれる程だった。けれどとてもじゃないが、赤ちゃんに会いに行こうとは思えなかった。
本物の子供が出来たら、偽物の「子供」なんて育てなくなると思っていたのにちゃんと18枚目の絵は届いた、さらに大きくなった「我が子」になんだか涙が出た。
彼に会わなければ行けないと「子供」が言っている気がした。
僕は彼に会いに行った、ベビーベットには僕らの「子供」にも少しだけ似た赤ちゃんが寝息をたてていた、愛しそうに見つめる彼は最初の絵が完成したときの顔よりも嬉しそうで、父親の顔になっていた。
「可愛いだろ」と言う彼に、僕は小さな声で「先生、おめでとう」と、祝福の言葉にさよならの意味を込めた。
ミセスグリールのドレスは目もくらむような虹色である。大体の女がトリノで奇跡を祈る様にミセスグリールも例外ではない。上質な黒砂糖を神(三本足の)に捧げて奇跡と許しを乞うのだ。指の足りない炭鉱夫はそれを見ながらフォークミュージックを奏でる。
ド、シ、ド、ソ、ラ。
犬が欲しかったんです。とびきりおとなしくて、吠えなくて、求めなくて、変わらない。でも変わってしまった。僕らはハイになってしまった。
おい、なんだこのドロドロした海は。
ようやく抜け出した先には三本の塔と無数の小麦畑があった。そこでは一万人の村人がかくれんぼをしている。かくれんぼをしながら三本の塔に祈る。どうか変わりませんように、どうか救われますように。
「最後の一人になったら?」
「そいつが四本目さ」
そいつが四本目だ。
「昔ぷよぷよってゲームがあったじゃない?」
「ああ」
「あれ、私凄く弱かった」
「ああ」
「そういえば、あのぷよぷよしたのって、集まったら消えるじゃない」
「ああ」
「もうこの世界から消えてなくなってしまうのかしら」
「ああ」
「一つになるって、そういうこと?」
「ああ」
そして女は男の白い肩を舐める。黒砂糖の味のする、白い肩を舐める。
三本足の神様が講釈を垂れるために幼稚園児になり、ミセスグリールに勉強を教わる。
「み、せ、す、ぐ、り、い、る」
「そう、上手よ」
「み、せ、す、ぐ、り、い、る」
「その調子」
「ミセ、ス、グ、リイ、ル」
「ミセス、グリイル」
「ミセ、ス、グリ、イル」
「ミセス、グリイル」
「ミセス、グリイル」
「あら上手になったわね」
「ミセス、グリイル」
「それはそうと、あなたはなぜ三本足なのかしら」
「ミセス、グリイル」
「ひょっとしてあなたは神様なのかしら?」
「ミセス、グリイル」
「もしあなたが神様なら、聞きたいことがあるわ」
「ミセス、グリイル」
「一つになるって、どういうこと?」
ミセスグリール、消えてなくなるってことさ。
ムハハ。我ながら笑える。ここ近年の小生は彼女という存在以前に女の匂いが一切しない、原始人並みの体臭を漂わせている。何故彼女ができないのか、何故女を作る気になれないのか、そもそも女とは小生にとって必要な物なのか、改めて考える機会を今回得たのだが、考えた所で元々興味のない物には例えキーボードの上にコーヒーをこぼしたとしても微動だにしない肝の据わった小生にとって、今さら女なんてどうでもいい事なのだ。そんな折、三年前に片思いを押し付けた結果音信不通となった女から連絡があった。なにを今さら。小生は一度切れた縁など修復しようとも思わない、したくもないという強い志をもって頑なに自分の殻を三日間だけ守った。運命などという言葉を使いたくないが、三日後に返信したメールは返ってくることはなかった。小生のタイミングが悪かったかもしれないが、期待させる様なことをする女も悪い、と自分に言い聞かせてはいるのだが一カ月経った今も女々しく返信を待ちわびている小生の心は、波平の一本毛のように波打ち今にもサラッと飛んで行きそうなくらい不安定である。デジャヴの様な失恋により悶々とした日々を過ごす程、三九になる小生は青くない。夜桜舞い散る月の下、小生はフェラーリと名付けた自転車で颯爽と風を切る。淡い恋を探求しろという天使の囁きと帰宅した所を強引に行けという悪魔の囁きには耳も貸さず、小生は幼き日トイレを我慢できず公衆の面前で便を漏らしてしまったことを思い返しては、記憶をすり替えようと必死に妄想していた。気がつけば女の家の前に来ていた。ここでばったり再会してしまっては、こっそり夜道で尾行しようと履いてきた新品のスニーカーや黒めのスウェット、眼深帽子、マスクなどが意味をなさない。我ながら完璧だと三十分経った時に目の前にパトカーが止まった時まで思っていた。パトカーで連行される路中、女が帰路についていた。会わなくてよかったという安堵感と出来るとこなら会って話したい、そして匂いを嗅ぎたいという衝動にかられ、車内で号泣してしまった小生が、警察官の目にはひどく反省していると映ったようで、「実家に寄らせてくれ」という小生の懇願に快く承諾してくれた。小生にとってはまったく知らない家の前で停めてもらい、すぐにとんずれた。家に帰って愛猫に嫌がられながらも、癒してもらいながら小生は思ったのである。
次はロングコート一枚で行こう、と。
今日も、何時もの様に残業をして、疲れた。実に疲れた……
“もういっそ辞めてやろうかな”
そんな思いを頭の中で呟き、酔っ払いと空席の電車に揺られ、暇なので、そこそこ好きな作家の本を流し読みする。家に着いた頃には、そんな思いは消えていた。
“そこだ! そこだ! あー惜しいぃ” “今のは、マジで惜しかったよなぁ”
家に入ると、良く知らない隣人とその友人の声が壁の向こうから響いてくる。
五月蝿いなとか何かあったっけとぼやきながら、冷蔵庫からビールを一本取り出しながら思ったが、テレビのリモコンを行儀悪く、足で操作して、疑問が晴れた。
“あぁ、サッカーで盛り上がってるんだったっけ……”
開けたビールを一気に流し込んだ後、もう一本を持ち、スーツの上着を椅子に投げ出し、ベッドに転がる。
シャワーを浴びるのも面倒くさければ、着替えるのも面倒くさい。割とどうでもいい事を頭の中でぶつくさ呟きながら、それも一気飲みして空になった缶をぶらぶら遊ばせながら横目でテレビを眺めていた。
興味はないが、変えるのが面倒だし。
気がつけば、目が閉じていた。何となく目を開けた時には、ベッドにうつ伏せで転がっていたはずなのにあお向けで、心地の良いぬるま湯の中をただ沈んでいた。
そっと息を吐くと、まんまるな泡が一つ、浮かんでいった。
あぁ、心地がいい、このまま沈んでいってしまいたい。沈んでいけば、どこへ行くのだろうかと考えるが、答えは出なかったし、何だかどうでも良かくなった。
心地がいい、それだけで十分ではないだろうか?
もう一度そっと息を吐くとまたまんまるな泡が浮かんでいき、私の体はぬるま湯の中をただただ沈んでいく。
泡を吐いても、その音すら聞こえない程に静かで、空虚なのに、居心地が良かった。目を閉じてもっとこの心地よさを感じたかった……のだけれど……
―ピピピピッ
不快なベルの音。閉じた目を開けると、ベッドにうつ伏せに転がっていて、空き缶が床に転がっている。テレビからは、ニュースで日本が勝った事を告げていた。
何だ、ただの夢か。目覚ましを止めて、頭の中で呟いて溜息を吐くが、泡はでなかった。
夢から覚めたら現実で、頭をぼりぼりと?きながら、私は夢とは違う、何の変哲もない今日を始める事にした。
屋根裏部屋で片方だけになった「ガラスの靴」を眺めてシンデレラは心躍らせていた
お城の舞踏会での出来事を思い出し……
白いドレスを身にまといガラスの靴を履き憧れの王子様と踊ったあの瞬間を――そして愛おしい王子様のぬくもりを……
あれから幾夜目の午前十二時の鐘の音を聞いたのだろうか?
辛く厳しい継母と姉からの苛めにもあの瞬間を思い出すだけでシンデレラは耐えて心を躍らすことができた
そして、とうとう鐘の音が「福音」になるときがきたのだ
何処までも澄んだ青い空……太陽が緩やかに西に傾き始めた頃――
シンデレラが住む家の木戸が訪問者によってノックされた
恐る恐る木戸を開けるとそこには巷で噂になっている「ガラスの靴」の持ち主を探す城からの使者が立って――居なかった。
立っていたのは郵便配達員で右手には「ガラスの靴」ではなく一通の「封筒」を携えていた
配達員はシンデレラに封筒を渡すと足早に去っていった
一人残されたシンデレラは受け取った封筒の差出人が「魔法使い」であることに気がついた
「魔法使い」――その名前にシンデレラは興奮し心躍らせた
「夢の続き……」そんな言葉を呟きながら封筒を開け中の手紙に目をやった次の瞬間――シンデレラは膝から崩れ落ちた。
震える手に握り締められた手紙には「ガラスの靴他レンタル一式代請求書」と書かれていたのだった
正に文字通りシンデレラは「踊った」のだ――「魔法使い」の手のひらの上でクルクルと……。
単刀直入に言うと、私の初恋の人は小学校で同級生だった天野さんでした。長い黒髪をサラリと流し、廊下を歩いている姿を見たとき、つい一目ぼれしてしまいました。後日、彼女の名前が天野さんだということを知りました。クラス替えのときは、すぐに自分のクラス名簿から彼女の名前がないかと探したもので、出席番号1番に彼女の名前を確認したときには、内心飛び上がって喜んでいました。
飛び上がって喜んだものでしたが、一緒のクラスになって初めて、彼女が少々異様であることに気付きました。
どこが異様だったか、ということなのですが。とにかく彼女は、人とは違うことを言おうとするのです。クラス全体で係などを決めるときや、クラス会の出し物をどうするかなどのクラス全体での話し合いのときにはいつでも、彼女はなにかと異論を唱え続けて、正直話をややこしくしていました。
そのため一部のクラスメート、特に男子からは煙たがれることも珍しくはなく、それが高じて彼女はクラス内で孤立してしまっているほどでした。以前からの彼女のクラスメートに聞くと、前のクラスでもずっとそうだったようです。それでも彼女は一切歩み寄ることはなく、クラス会議では事あるごとに異議を唱え続けていました。
ある日、私は勇気を持って彼女に聞いてみました。どうしてそこまで頑なに人とは違うことを言おうとするのか、と。勇気とはいっても別に、好きな人と話しかけようとするときのものではなく、単に聞きづらいことを聞くという意味で。そのときにはすでに、好きだという感情よりも、疑問や心配の感情のほうが上回っていました。
そして、そのときに返された言葉は、正直覚えてはいません。いませんが、その返答から、彼女の内包的な弱さを感じ取ったのだけはなんとなく覚えています。
さて、話は少し変わりますが、この間クラスの同窓会に行ってきました。彼女も来ていました。もう『天野さん』ではなくなっていましたが。結婚して子供が生まれても、就職した会社でバリバリ働きながら子育てをしていたりと、以前と比べてずいぶん逞しくなっていました。あのとき垣間見えた弱さは見えず、すでに消え去っているようでした。
そのときに、ふと思ったのです。彼女はもう天野さんじゃなくなったし、弱くもなくなったんだと。『天野弱』じゃなくなったんだと。
名は体を表すという格言は、結構信じるほうです。
中学時代の僕は、教室の隅で変な本ばかり読んでいた。そんな奴でも恋はする。だがそんな奴の恋は待っていても進展しないのが世の常で、卒業したらお粗末な妄想しか残らない。だから天体観測に誘うことにした。
「今夜裏山のてっぺんに来てくれへん?」
そこは僕が見つけた穴場だった。星を見るには最適だし、たとえ彼女が大声を出したところで以下略。
「えー、なんでー?」
彼女は眩しい笑顔で問い返してきた。途端に天体観測なんて甘ったるい響きと我が下半身が恥ずかしくなり、僕は小声でデタラメを言った。
「徳川の埋蔵金が埋まっとるかもしれんのや」
「ほんまに!?」
彼女の目が一段と美しく輝いたものだから、僕はデタラメにデタラメを重ねて話を長引かせた。もったいないことに、あまりその綺麗な瞳を見て話せなかった。
「ごめんなー、待った?」
約束通りに彼女は来てくれた。だがやたらひらひらしたスカートを履いているのはどういうわけなのか。
「あったー?」
五分おきに彼女は土がかからないように遠くから尋ねた。
「ないな」
僕は汗だくで穴を掘った。「汗だく」で「穴」を「ホる」とかなんとか考えていたが、彼女の声がすると、デタラメも下半身も穴に埋めて、後でちゃんと目を見て告白しようと思った。
上がるのに苦労するほど掘ったあたりで、ようやく彼女は飽きてくれた。一息つくとレジャーシートに並んで横たわり、夜空を見上げた。
「あれがデネブ、アルタイル、ベガ」
物知りアピールというより沈黙と緊張に耐えられなくて、僕は星空に三角形を描いた。
「え、どれ?」
「あの大きい十字わかる?」
「ていうか私、目ぇ悪いねん。ぼんやり光ってるなーくらいしかわからんねん」
そう言うと彼女は起き上がり、僕の顔を見下ろして、言葉をかける暇も与えずに鼻先が触れそうな距離まで顔を近づけた。心臓が破裂するほど脈打ち、僕は死を覚悟した。
「案外男前なんやね」
彼女は笑ったが、顔を離す気配がない。
――ニュー司、セラヴィ、い・か・せ・て……
国道沿いに乱立するラブホテルの看板が頭の中をぐるぐる回る。だがそもそもここは彼女が大声を出したところで以下略。
この先を話すことは残念ながらできない。邪推されても困るが、紙幅の都合だ。尻すぼみで申し訳ないから一つ打ち明けよう。ここは大阪ではないし、僕は彼女に出会ってからエセ関西弁を使い始めた。だが彼女が関西から来たという話は聞いたことがない。
氷の国にある火山の多くは、千年も前から噴火を、順番付けられているごとく、続けている。国は極圏に近いが火山島である事も手伝って、大して寒くはならないが、冬は一面の氷に覆われる。
「ラキ」娘が呼び掛ける。鳳凰の娘である。美しいかんばせを持ち、人の姿をとった乙女である彼女は、ベッドの端で横になっている。
「カトラ」少年が言う。カトラを鏡映しにしたような少年であり、氷の息子でもある。彼もベッドの端、カトラと反対の位置に寝転がっている。
二人はいつも、互いのかんばせを見て過ごす。
カトラ火山は最も多くの噴火を経験した、国の象徴と呼ばれる峰で、火口付近には常に大量の灰が層を作っている。その中から鳳凰が生まれる。鳳凰は噴火が終わる度に飛び立ち、極地へと渡り、死骸となって国の砂浜に流れ着く。人々は炎の鳥を、丁重に葬る。
ラキ火山は長きに渡って沈黙を守り続ける休火山。頂上近くから、季節によっては麓までが氷に包まれる。それが溶ける度生まれる氷の息子は、火山の熱に溶けて死ぬ。彼らもまた、祭司によって墓へ埋められる。
「ねえ、ラキ。あなたは私の鏡のよう」
「僕は、君の鏡」
数十度の噴火を経て、灰の中から人間の姿をし、炎の血を持つ娘が生まれた。祭司は彼女をカトラと名付けた。
同じくして、ラキ火山では鳳凰の娘に瓜二つの氷の息子が生まれた。王は何かの縁があると考え、二人を城に招いた。
毎日、何も口にせず、二人は見つめ合っている。
「ラキ」
「カトラ」
「私はあなたの鏡でしょうか」
「僕が君の鏡なら、きっと」
「ずっと一緒にいられますか」
「氷の息子は長生き出来ないと聞く」
「ならば、溶け合う事は」
「それならば、きっと」
手を繋ぐ二人。
「ねえ、ラキ。あなたを抱き締めたら、溶けてしまうかしら」
「そうだね、カトラ。僕は君の鏡。抱かれたら、壊れるだろう」
「許してくれますか」
「ああ、カトラ。僕が鏡であるのは、君のために存在するから」
ラキは、やがて、カトラを自分の元へ抱き寄せ、炎の唇に氷のそれを重ねる。彼の姿は炎に溶かされ段々と形を失って行き、とうとう灰色の水になる。
カトラは、彼を何度も手の平に掬い、飲み干して行く。そうすると彼女の姿はラキかカトラか分からなくなる。炎の血は熱を失う。カトラの、ラキの、鏡同士の交わりは、水の娘を生む。
カトラはその後、ラキと名を変え、火山が並ぶ島の中心へ入り、二度と姿を見せなかった。
そのウェブサイトに並んだ女たちの写真が小学生の頃理科の実験で見た蚕の飼育箱に似ているのは当然のことで、格子状の仕切り板で縦三センチ横四センチに区切られた蚕室と同様、整然と並んだ写真もまたそれぞれが独立した部屋であり女たちはその奥で繭のように息をひそめ客を待っているからなのだが、あいにく写真の大半は口元までしか映っておらず、今は三十七枚が表示され半数は客が入室中であることを示す赤い枠線で囲まれたそれらの写真を見分けることは僕にはできず、あてずっぽうに青い枠線の写真の一つをクリックすると部屋で待機している女のライブ映像が表示され、白く埃っぽいワンピースを着たその女と一度だけ話したことがあるのに気づき、映像の下に表示された「入室」ボタンをクリックすると同時に相手の方から、この時間になると来る常連がいるの、その人かと思っちゃった、と話しかけてくるのへ僕の指は即座に返信をタイプ打ちし、《俺みたいな変態が他にもいるのかwww》、僕が会話に使う手段は書き言葉だけで映像と音声は女の側からだけ送信され女は僕の顔も声も知らないのだが、中には自分の姿を進んで相手にさらす客もまた大勢いて、女はちょうど今そんな客たちの一人について話し始め、その人はカメラを持ってて映してくれるんだけどいつも最初は誰もいないの、ただ部屋の中央のテーブルだけが映ってその上にガラスのコップが乗ってるのよ、それから五分くらいしてその人が来るの、首から下しか見えなくてぶよぶよしてる、全裸なの、《それを黙って見てるわけかww》、そう見られるのが好きな人と話してると落ち着くのよね、それからその人はコップを手にとって底を上に置きなおしてハンマーで叩き割るの、ガラスが水しぶきみたいに飛び散って、机の上に大きな破片が残るから手頃なのを一つ手にとって先の尖った方でむちむちした胸の乳首の上あたりをなぞっていくと蜜のように粘り気のある黒い血が染み出てきて忍び笑いにもすすり泣きにも聞こえる声が漏れ足でゆっくり破片を踏みつけ皮膚を破って足の甲の側に突き出した先端を見つめながら自分の性器をまさぐり始める頃から声はもう人間の声ではなくなってねえ聞いてる? 聞こえてるの? 最後の声は僕の指が女の部屋を閉じた後で聞こえ、聞こえるよと呟く僕の声も少し遅れて聞こえ、その間に僕が握りしめているマウスのカーソルは、青枠で囲まれた別の部屋を物色し始める。
席についた男は罰を受けたように静止する。テーブルの珈琲も冷めきってるであろうに、空間の一点を眺め続けている。きまって午後六時に店に現れる彼はいつも珈琲を注文して「ポカーン」と宙をみつめる。固まったままきっちり二時間。一息に飲み干すと店を出て行く。カカシに似ている。
街の同業者二、三人から、カカシが他店にも出没していることを聞いた。「カカシみたいだよな」「おまえもそう思うの」「あたしもみたよ」カカシはなかなか有名だった。彼が朝夕新聞を配達しているのを目撃したことも話題になった。(カカシが新聞配達?)なんだか俺はカカシのことが憎めなくなってくる。
俺の親父も、新聞配達をしていたそうだ。祖父は戦争で亡くなって母一人子一人だったから、小学生の頃から自分の食いぶちは稼いでいたよ、と子供の俺に言うのだった。親父はトラック運転手で家にめったに帰ってこなかったが、会うと俺を新聞配達員にさせようとした。俺は強い親父が好きだった。
荒くれ親父となぜか結ばれた母は、科学者だった。若いときはドイツの研究所にいたそうで、日本に帰るつもりはなかったそうだ。それが親類の不幸があって戻ってきたときに親父にナンパされて、科学をやめてしまったらしい。その母親が俺に新聞配達を許してくれなかった。母が科学者だったのも最近知った。
学校をでた俺は三年程新聞記者として働いた。親父はトラックで全国を走りまわっていたが、俺は社会部に入って、一日中街を歩きまわっていた。頭のない俺の特技といえば、夜討ち朝駆けで、それこそ真夜中まで粘り、朝一番に取材対象者に迫った。俺の記事は何度か全国版に取り入れられた。仕事が好きだった。
俺が交通事故に会った日、保守派の上司にウンザリで俺はヤケ酒、みごとにトラックにはねられた。ひき逃げだ。犯人は見つからず、俺の左脚は切断された。記者の仕事を辞め、義足で何ができると考えて喫茶店を始めたのだ。だからカカシというのは本当は俺のことなのかもしれない。俺は死ぬほど働いたよ。
カカシが今日も来る。俺はあいつが気味悪い。あの灰色の目は常連にもいい迷惑だ。だがあいつも新聞を配達して疲れてきたんだろう。町内をバイクで走りまわり新聞を配達しつづける姿を想像してみる。俺もヤケで酒を飲んでいるときはあんな目をしているかもしれない。働くとはそういうことなんだ。
午後六時。カカシの瞳は今日も灰色に濁っている。
彼は女に呼び出されるがまま、その胸に情欲をたぎらせ、熱と光線とにあぶられて目玉のやけつくような灼熱の中を渡っていた。彼が目指す女の暮らすマンションは、ブロックを縦に置いただけのようないかにも味けない建物で、マンションというよりは収容所であった。女はその牢獄で歳の離れた弟と暮らしている。
収容所内はカビの死骸が匂い立ち、彼は、汗の引く日陰の涼しさに生き返った心地がした。彼の足元に黒い虫が飛び出し、それを反射的に踏み潰す。だが靴の裏のつぶれた死骸はどうみてもコオロギだった。灰色の床にひきずった体液が染みて、そこに残された後足は我此処に在りといわんばかりに屹立し、鉤爪をたけだけしく天にかざしていた。
彼は呼び鈴を押した。だが扉が開かれる様子はない。見上げた電気メーターには《ばかがみる》と書かれたメモが貼られ、その裏でギアは胎児のように力づよく回転していた。
彼は腰をかがめて新聞受けを覗いた。室内に立ち込めた冷気が彼の目玉をかすめた。ひんやりとした空気はまるで澄んだ朝のそれのようで、彼は網膜に――曙に眺むる地平線、その大地の鮮やかな輪郭――を描いた。その夜明けの太陽の位置で女は弟に激しく組み敷かれ、二人はたちのぼる陽炎の中でゆらいでいた。女が彼を見た。女はたがが外れたように悶えはじめた。女は弟に首を絞めさせ、下から凄まじい勢いで腰を突き上げた。彼は目まいを覚えて扉にもたれた。
扉に鍵などはじめからかかっていなかった。
彼は飲みかけの酒瓶を手に取り、絶命した女にいまだ腰を打ち据える弟の後頭部をひっぱたいた。透き通った音がひんやりとした室内に甲高く響いた。弟は姉の死に怯え、狂ったように泣きじゃくり、突然ゲボを吐いた。女が絶頂となにを永遠としたかはひとまず。彼は女との間に立つ神に采配を取らせるべく蘇生措置にかかった。女の舌から弟の味がした。
ほどなくして女は息を吹き返し、激しい快感を抑えるような甘みを帯びた息をついた。彼は道理にしたがって、きちんと運命の淵をさまよわせるべく酒瓶を振り上げる。女は素早く身を起こし、止まって見えるといわんばかりにそれを白刃取りした――奪い取った酒瓶をたけだけしく天に振りかざす!
女を幾度かの恍惚へと導く子宮への道すがら、彼は女の肉を五官で味わい、押し拡げられ弛緩しながらもやわらかく寄り添うひだに包まれ、つかの間の優越に浸った。
そして女は妊娠した。
誰カガチャント、見テテクレルカラ--。
遠い遠い雲の向こうから、やおら構えた男は静かに覗く。ファインダーを覗く。指を掛けたシャッター。小さな世界。小さな箱の中。甘い甘いみつ豆の世界。
ピントを合わす。浅い被写体深度。ぼやけた空間。輪郭線の浮かび上がる。甘垂れたシロップの中、寒天が泳ぐ。ナタデココが泳ぐ。茶色の小さなまあるい豆は、裸の僕ら、膝を抱えた「人間」だった。
梅雨日の空は曇天だった。歩く赤子。伴う赤犬。ふたりを繋ぐ緑のロープ=さくらんぼ。
小糠雨で煙る視界。霧とコンクリの道路に挟まれた。低空靄がさまよい歩く。
犬は地面に鼻着け歩く。腰を丸める。赤子ポッケからビニール袋を取り出す。袋の中には紙。紙は広告。犬がしたそれをほやんと包む。雨広告に滲みていく。袋に入れて一回転させ口を結ぶ。
雨が強くなった。急いで帰る。軒の下、濡れた丸い足をぬぐう。青いポリバケツのゴミ箱あけて、持って帰った袋を捨てた。
そこはサラリーマン達が歩く場所。地面が動く。地面が揺れる。カラス飛び交う。交わす鳴き声。ゴミの溢れる色彩豊かな街。ソラがアいた。空がひらいて、黒いあんこ落ちてきた。
世界は混沌、一つの場所に数多の物。一方向の道を逝く。これは私のカネだから。これは私のカネだから。
流れる地面。踊るパフォーマー。ダンスで全てを攪拌する。桃。パイナップル。蜜柑もいっしょでいい。目深にかぶったシルクハット。ラジカセから音楽。
「ハラへった。ハラへったよ。
ぼくの愛を、五つ食べられるかい?
ほかのじゃやあよ。ほかのじゃやあよ。ふたりのあんみつがいいよ」
ピピッ(レリーズ)―――。
……音が消えた。暗闇。なにも見えない聞こえない――。
遠くから、かすかに、乾いた音が、聞こえてくる。壁に共鳴する。ハイヒールを履く、女の足音。
女は階段を下りる。手には白いエクスペリア。肘からヴィトン下げてツイッターを覗く。タッチパネルを撫でる。誤感知して画面が下へ一気にスクロールする。
女はそこに激しく回るスロットを見た。女そこに巡り回るルーレットを見た。無数のつぶやき。甘いゴミ屑の波が押し寄せる。
不意に足取られる。ぐるり世界が回る。天地無常。化粧品飛び交う。階段の角眼前に迫る。
ピピッ(レリーズ)―――パシャッ。
・・・君モ、ゴミ箱ノ中ダト思ッテタ?
ダイジョウブ。ドンナ結末ニナロウトモ、最後マデボクラ、看ラレテンダ。
ある夏休み、僕は怪物と出会った。
「はあーん、ブふふーん!」
二億年の眠りから目覚めた怪物のミーちゃんは、肺に溜まったカビを吐き出しながら、死ぬほどまぶしい青空や、水平線を白く支配する入道雲を5万カラットの瞳でキラキラと眺めていた。
「ねえミーちゃん、今から海へ行こうぜ!」
「いいよ、ケンちゃん!」
海水浴場へ着くなり、僕はTシャツを脱ぎ捨て海へ飛び込んだ。しかしミーちゃんは水際で、ポツンと海を眺めるばかり。
「こわくない、こわくない」
ミーちゃんは心を決めてプルルと海に入ると、背中の穴から潮を吹き上げた。
「すごい! 虹だ!」
ミーちゃんは周りの海水浴客を激しく殴打しながら、バタバタと不器用に泳ぎ始めた。水辺にはミーちゃんのバタバタで犠牲になった人々の死体が、プカプカと浮かび上がった。
「ケンちゃん、助けて!」
僕は急いで軍用ヘリに乗りこむと、劣化ウラン弾をミーちゃんめがけて撃ち込んだ。
「もっと優しくして」
ミーちゃんはパニックを起こしたのか、逃げ惑う人々をフライドチキンみたいにムシャムシャと食べていた。暴走したミーちゃんは砂浜に上陸すると、そのまま都市を破壊し始めた。
「もう、どこへも戻れなくなる」
僕は沖合いの巡洋艦に回線を繋ぎ、トマホークミサイルの発射を命じた。しかし、ミーちゃんは攻撃をもろともせず、夏の空に向かって悲しく雄叫びを上げながら、世界貿易センタービルや六本木ヒルズなどを破壊し続けた。
「ねえ、こんど虫採りに行こうよ!」
僕は空軍を回線で呼び出し、非核兵器の中では最高の破壊力と残虐性を持つバンカーバスターという大量破壊兵器の投下を命じた。
「でも虫って、すぐに死んじゃうでしょ」
……事件から200年後、僕は死刑囚専用の独房で死を待っていた。ミーちゃんの暴走を止めるために都市を壊滅させ、無辜の市民を600万人も虐殺してしまったことで国際軍事裁判にかけられた僕は、「平和に対する罪」で死刑判決を受けたのだった。
ミーちゃんは暴走後、強度の疲労で休眠状態に入り、そのまま地下深くに封印されたのだという。
「あのとき、どうして核ミサイルのボタンを押さなかったの?」
「毎晩、夢の中で押してるよ」
ある寝苦しい夏の夜、僕は突然目を覚ました。
「君にまた、会いたいな」
刑務所中のサイレンが狂ったように鳴り響き、独房の壁や天井がバリバリと破壊されていく。
「夢の続きを、始めましょ」
人生には幾つか重要な分岐が存在しているらしい。
その時選んだ行動や言葉、ものの考え方なんかはその後の自分自身の未来に大きな影響を残すものだそうだ。
そんな大事なものであるにも関わらずその分岐自体は大体の場合大した物ではない。
例えば『今朝は余裕があるからコンビニでも寄っていくか、それとも真直ぐ通勤するか』とかそんなものだ。この場合コンビニに寄っていくと強盗に遭ったりしたり、逆に直行すると交通事故に遭ったりとかする。
正直完全に運不運の問題にしか思えないがそういった事態になったとき当人は考えるはずだ。あの時別の選択をしていれば、と。
だが人生はゲームじゃない。
前の選択肢に戻るとかセーブ・ロードなんて甘いことは出来ないのだ。
ゆえに本当に思い通りの自分にとって良い人生を送りたいのならば、日々のあらゆる出来事に対して真剣に悩み考え行動しなければならない。
そうでなければ必ずいつか後悔することになるのだ。
そして俺は今その後悔の只中にいた。
目の前には【完売】の二文字が壮絶な自己主張をしている張り紙。
そしてその下は何も置かれていない──いやおそらくは俺が欲しかったものが置かれていたであろう商品棚がある。
こうなる事はわかっていた。
今回販売される商品は限定生産品で出荷本数が非常に少ないにも関わらず、何を思ったかメーカーの方で発売前の予約を禁止して当日の販売に全てを回してしまっていた。
だからほんの少しでも販売店舗にたどり着くのが遅くなれば入手不可能な事態になることはわかっていたのだ。
でも仕方ないだろう。誰だって、道端に五百円硬貨が落ちていたら拾ってしまうじゃないか。拾わずに通り過ぎるなんて選択をする奴は普通いないはずだ。
そう仕方ない。
それに、俺はそこから数百メートルも戻ってちゃんと駐在の兄ちゃんに落し物として預けてきたじゃないか。
そうだ、俺は人として正しいことをしたのだ。
だから何も後悔することなんて無い。そう自分に強く言い聞かせ硬く右拳を握った。
が、何故か涙は止まってはくれなかった
帰宅し、三和土でピンヒールを脱ぐと、ヒールの裏で天道虫が潰れて死んでいた。その夜私は、髪を洗った。
地下鉄に乗り込む瞬間に、十年は会っていない高校の同級生から突然電話がかかってきた。姦しい挨拶を交わした後、相手が何か本題を切り出そうとした時、携帯電話の電波が途切れた。以来、その人物からの着信は無かった。その夜私は、髪を洗った。
何度通し直しても紙に皺が寄るので、コピー機の修理業者を呼んだ。ややあってオフィスに姿を現わした男は、黙って一頻りコピー機を撫で回すと、駄目だねこれは、と呟いて、はち切れそうな鞄を抱えて帰っていった。その夜私は、髪を洗った。
信号待ちの車中で、隆から突然プロポーズされた。返答に窮していると、後続車のクラクションが響いた。隆はバックミラーを一睨みし、重い舌打ちをして車を発進させた。その夜私は、髪を洗った。
腎炎で入院した叔母の見舞いで、従兄の嫁という女性を紹介された。どこかで遇ったような気がしたので、どこかでお遇いしませんでしたか、と尋ねると、その女性は、そうかも知れませんね、と静かに微笑んだ。その夜私は、髪を洗った。
体育の時間が大っ嫌いなの。どうして。だっていっつも逆上がりができないんだもん。逆上がりなんてすぐできるようになるよ。できないよう。人はね、できると思えばなんだってできるんだよ。その夜私は、髪を洗った。
出勤しようと表へ出ると、アパートの前の側溝を掃除していた大家に話しかけられた。昨晩は大変だったわね。何がですか。だって部屋から男の人が大きな声で。昨日はずっと独りでしたけど。あらあらあら。大家が忙しなく両掌を前掛けで拭うと、真っ白な布が鼠の様な形に汚れた。その夜私は、髪を洗った。
同じ課の佐々木さんが定年を迎えた。課一同で贈った花束を抱えて、佐々木さんは照れ臭そうに頭を下げ、会社を去っていった。佐々木さんの机の抽斗には、小さなサイコロが一つ残されていた。その夜私は、髪を洗った。
いつだったか、私は父に手を引かれ、夜の街を歩いていた。父は前を向いたまま頻りに、泣いたらいかん、泣いたらいかん、と言っていた。私は首が痛くなるほど父を見上げて、泣いてない、泣いてない、と返した。だがそれは声にならず、そのことが悔しくて悔しくて、泣いた。男は泣いたらいかんと言うが、女だって泣いたらいかんぞ。泣いてないよ、泣いてないよ。その夜私は、髪を洗った。
時間が過ぎてゆく音が聞こえる。ごとんごとん、とか、ごろごろとか、ゴルフボールを入れるかごを重ねると、がしゃっ。
5秒間隔でドライバーを打つとバシ、バシ、バシっと過ぎてゆく。
ゴルフの練習というと意外と簡単に母親は小遣いをくれた。
驚いていたのも、始めのうちだけだった。
父親が様子を見に来て納得したあとは、週二回百発打ちペースでかよっている。
しかし、ここで打っているだけでゴルフがうまくなるとは、思っちゃいない、……といって、栄太も両親もどうしていいのか分っていないのだった。もっと基礎体力がいるのは分っているが、だからといってランニングやベンチワークで鍛えるような方向には行かない。まず、ゴルフクラブを使ってゴルフボールを打つのが練習だった。
そんなときに、気になる大人にであったのが、すこし前の夜の公園だった。がっしりとした大柄な酔っ払いは、栄太の担いだゴルフバックに目をつけたらしい。
アマゴルフ・チャンピオンだと自慢げにいい、ゴルフは受け取るものだといった。最後は、何か聞きたそうな顔をしてるなぁ……と朗らかに微笑むと、与えるのはゴルフじゃないのさ。
そんなこといいながら、アドバイスを拒否した。
聞くことさえ知らない栄太だから、なにを言ってる酔っ払いの癖にと、反発しただけだったが。
タツヤへの憤りに煮詰まって切羽詰った夜のガス抜きにはなっていた。栄太は気が付いていないが、酔っ払いと、担いでいたゴルフバックに助けられたのだ。
その後、試験は失敗、夏期講習はBクラスに振り分けられてしまった。
結局、タツヤとは距離を置き、少しずつ離れている。きっと、もっと離れていくだろう。
少年が無口になって、辺りの目線も気が付かない。夏はやってきてきっといつか去っていく。
「やあ、5秒打ちできるようになったね。今度は1分打ちに挑戦してみなよ」練習場のおじさんが言った。
「はい」
このおじさんの言うことは何か効き目があるので、栄太は大人っぽく答える。
「説明したとおり、まず、ボールを持つそのとき、時計の針が真上、十二時になるようにする。それから、ティーアップしてグリップ、肩、腰、足、と、ひとつひとつチェックする。そうだなぁ、こんどは、二十秒かな、……一発で一分百回で一時間四十分だ難しいかな?」
「はい、でも、やってみます」
「そうだ、挑戦してみなよ。ゴルフという勝負が見えてくるよ」
「はい」
なんか、子供らしさが消えてしまった。
クラブで出会った彼女は、いつの間にかホテルの中にいた。
「一緒に寝たいな」
「私、面倒くさい女なの」
「私ね、狭いところにいないと寝られないの。どこか不安なの」
「俺が抱きしめてやるよ。狭くて抜け出せない腕の中」
「よく、バスタブの中に入ってみるの。横向きに寝そべって耳をぴったりくっつけるの。そうすると音が聞こえるの」
「下のカップルがあんあんしてる声?」
「それが、分からないの。聞いてみてもらってもいい?」
「いいよ。一緒に聞こう」
そう言って俺はバスタブの中に彼女を入れた。僕は、そのまま寝かせようと手を添えたが、彼女はそれに逆らうように、排水溝が有る方に頭を向けた。僕は覆いかぶさるように横に寝そべった。背中が冷たく白い壁に触れて、僕はぬくもりを求めるように自由な左手で彼女の腰をなぞった。僕の体に温かさを伝え、僕はその温かさのおかげで生きているような気がした。
「どう、何か聞こえる?」
僕は彼女の繊細なうなじを守る少し長めのふわっとした髪を掻き分けながら囁いた。彼女は何も答えなかった。僕は右耳をぺたりとバスタブに付けた。
「冷たい!」
僕は叫んで彼女にぎゅっと抱きついた。
「私を失神させるまで抱いていられる?」
絞られた雑巾のような声だった。風呂場に響いたその声は、振動となって頭蓋骨を右耳から揺らした。
「そうできるように努力するよ」
「そうしたらね、そこの蛇口を両方とも目いっぱいひねって、とにかく入れるの。そうすると、私、浮かんでくるかな」
「私の死体を死ぬまで抱いていてくれる?」
「それは無理だな、物理的に」
「じゃあ、お腹が減って朝食を頼みたくなるまでなら、どう?」
「それも無理かな」
「どうして」
「会ってばかりだし」
「見かけによらず、真面目だね。最近はそんな子ばっかりだわ」
「不真面目ならよかった?」
「さあね、抱けると言われても私は冷たかったと思うわ」
「タイプじゃない?」
「私は、耳が聞こえないの。右耳が。クラブに行きすぎて、段々聞こえなくなってくのが、分かってたんだけどね」
僕はその時、たまらない居心地の悪さを感じた。僕は彼女の傍らで寝そべっているしかなかったが、三メートルくらい遠ざかったようだった。僕は何もできず、ただじっと右耳から伝わってくるものを感じていた。血管の流れる音。何も聞こえない時の音。冷たさ。遠くて何も聞こえなかった。