第94期 #8

たしかに、そこにある

押上駅B3出口を出ると、目の前に真っ白なパーテーションが現れた。どうやら工事中のようだ。自由への衝動を押さえ込むように、白いパーテーションは私の歩く方向を無理やり導いている。風もなく、ギラギラとした日差しに思わず息が漏れる。
そんな時、背後にとてつもない気配を感じた。重く、深い。音で表すなら「ずん」という感じだ。歩幅が狭くなり、やがて私は立ち止まった。周りにいた人々も同じだった。気がつくと、みんな空を見上げている。
「ゴクリ…。」
粘りのある唾液がゆっくりと喉を通り過ぎる。振り返り、気配の主を探る。白く、とてつもなく長い鉄柱が何本も絡み合い、中心の柱に芯の強さを与えている。こんな近くに根を下ろしていたのだ。スカイツリーが。未完成ながらも、その存在感は他を圧倒している。太陽の光さえもこの塔の前には、ただの照明でしかない。白くぼやけた輪郭がそれを神秘的な物へと昇華させている。
 駅前通を右へ曲がり、交番の前へ行くと、より多くの人々が携帯カメラを空へ突き出し、しきりにシャッター音を奏でていた。みな一様に「凄い」の一言を発している。私はその「凄い」音に囲まれながら、白き存在に背を向けて近くの川沿いを歩いた。

 風が水面を駆け抜け、草木を揺らし、私の髪さえも遊びの標的にする。やわらかな湿気が、夏の訪れを感じさせる。目の前に何棟も連なる公共住宅地が広がっていた。コンクリートの壁が黒く汚れ、私よりもずっと年上であることを感じさせた。道沿いの部屋のベランダには、何年も前から吊るされているような風鈴が微かに風の声を響かせている。ふと前を向くと老夫婦が目に映った。車椅子に腰掛けた妻、肩にそっと手を置く夫。特に会話をするでもなく、ただその場所に立ち止まり、じっと遠くを眺めていた。年月が過ぎても決して色あせないもの。そんな存在の一片を垣間見たような気がした。

 しばらく歩くと、また白いパーテーションに出くわした。その奥には空き地が広がっている。ここにはマンションかデパートか、とにかく大きい何かが建つのだろう。あのツリーのおかげで昔ながらの人の営みを感じさせるこの場所も、数年後にはがらりと変わってしまうだろう。人も増え、活気に溢れる素敵な街。未来はすぐそこまできている。
 ふと空き地の片隅に咲く一輪の花を見つけた。風に揺れながらも凛とした姿で根を張っている。その美しさに、私はカメラのシャッターを押した。



Copyright © 2010 岩砂塵 / 編集: 短編