第94期 #4

親指カノジョ

親指サイズの少女が主人公であるということ以外に、その物語についてはまるで知識も興味も無かった。軟弱であっても男は男なので、その類の物語に触れる機会はあまり無かった。
聡はどちらかといえば、アンデルセンよりイソップ派だった。
ネットで調べた。チューリップから生まれた極小の少女。そうか、と納得し、でもな、と思いとどまる。人魚の例然り、ああいった物語の内容が直接彼女達の生い立ちや生態を表わしているとは限らない。聡は逡巡し、部屋を出る。
しばらくして戻ってきた聡の手には数株のヒヤシンス。
「チューリップをください」
「ありません」
「じゃあなにか似たものを」
店員に渡されたのは真っ赤なヒヤシンスの花だった。赤いヒヤシンスを見たのは生まれて初めてのような気がして聡は満足した。共通部分が「科目」であったことには少し不満足だった。けれども赤いヒヤシンスはきれいだったのでやはり聡は満足した。
店員に言われた通りプランターに水はけの良い砂を足し、ヒヤシンスを移した。持ってきた時よりも張りが出て、生き生きしているように見えた。炭化した親指姫を右から二番目と左から三番目のヒヤシンスの間に埋めた。
聡がサッカー解説番組を見ながら動かしていた手を止め、フライパンに目を遣った時には既に、七本の粗挽ウインナーの中心で親指姫は溶けたフリース生地の中で炭化し、油まみれになっていた。しかし本当のことをいえば、聡はまだその時点では親指姫に降りかかった悲劇にも、黒ずんだ八本目のウインナーの正体にも気づいてはいなかった。
「親指姫さん、準備できたよ」
聡はそう言いながら、少しおかしいなと思った。いつもなら気配を察して声など掛けなくても出てくるのに。ふと嫌な予感がした。胸ポケットを覗いた。ソーセージが一本多いことに気づいた。一パック七本入りのウインナー。盛られた八本のウインナー。ペッタンコの胸ポケット。
親指姫さんのために切り刻んだウインナーが本物だったのがせめてもの救いだった。とその時思った。
聡は「はははは」と笑った。自分は頭がおかしいのかもしれないと思った。そうだ警察に自首をしよう。自分は人を殺したのだ。けれども真っ黒に焦げた親指姫を見るとその望みは絶望的なものに感じられた。
窓を開けた。深く深い藍色の中に月が出ていた。ひんやりとした空気が聡の頬を撫でた。夜露が一粒、ヒヤシンスからポロリと落ちた。聡の目からも夜露がポロリと落ちた。



Copyright © 2010 成祖美邦 / 編集: 短編