第94期 #26

それでも

 帰宅し、三和土でピンヒールを脱ぐと、ヒールの裏で天道虫が潰れて死んでいた。その夜私は、髪を洗った。
 地下鉄に乗り込む瞬間に、十年は会っていない高校の同級生から突然電話がかかってきた。姦しい挨拶を交わした後、相手が何か本題を切り出そうとした時、携帯電話の電波が途切れた。以来、その人物からの着信は無かった。その夜私は、髪を洗った。
 何度通し直しても紙に皺が寄るので、コピー機の修理業者を呼んだ。ややあってオフィスに姿を現わした男は、黙って一頻りコピー機を撫で回すと、駄目だねこれは、と呟いて、はち切れそうな鞄を抱えて帰っていった。その夜私は、髪を洗った。
 信号待ちの車中で、隆から突然プロポーズされた。返答に窮していると、後続車のクラクションが響いた。隆はバックミラーを一睨みし、重い舌打ちをして車を発進させた。その夜私は、髪を洗った。
 腎炎で入院した叔母の見舞いで、従兄の嫁という女性を紹介された。どこかで遇ったような気がしたので、どこかでお遇いしませんでしたか、と尋ねると、その女性は、そうかも知れませんね、と静かに微笑んだ。その夜私は、髪を洗った。
 体育の時間が大っ嫌いなの。どうして。だっていっつも逆上がりができないんだもん。逆上がりなんてすぐできるようになるよ。できないよう。人はね、できると思えばなんだってできるんだよ。その夜私は、髪を洗った。
 出勤しようと表へ出ると、アパートの前の側溝を掃除していた大家に話しかけられた。昨晩は大変だったわね。何がですか。だって部屋から男の人が大きな声で。昨日はずっと独りでしたけど。あらあらあら。大家が忙しなく両掌を前掛けで拭うと、真っ白な布が鼠の様な形に汚れた。その夜私は、髪を洗った。
 同じ課の佐々木さんが定年を迎えた。課一同で贈った花束を抱えて、佐々木さんは照れ臭そうに頭を下げ、会社を去っていった。佐々木さんの机の抽斗には、小さなサイコロが一つ残されていた。その夜私は、髪を洗った。
 いつだったか、私は父に手を引かれ、夜の街を歩いていた。父は前を向いたまま頻りに、泣いたらいかん、泣いたらいかん、と言っていた。私は首が痛くなるほど父を見上げて、泣いてない、泣いてない、と返した。だがそれは声にならず、そのことが悔しくて悔しくて、泣いた。男は泣いたらいかんと言うが、女だって泣いたらいかんぞ。泣いてないよ、泣いてないよ。その夜私は、髪を洗った。



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