第94期 #22

コオロギ

 彼は女に呼び出されるがまま、その胸に情欲をたぎらせ、熱と光線とにあぶられて目玉のやけつくような灼熱の中を渡っていた。彼が目指す女の暮らすマンションは、ブロックを縦に置いただけのようないかにも味けない建物で、マンションというよりは収容所であった。女はその牢獄で歳の離れた弟と暮らしている。
 収容所内はカビの死骸が匂い立ち、彼は、汗の引く日陰の涼しさに生き返った心地がした。彼の足元に黒い虫が飛び出し、それを反射的に踏み潰す。だが靴の裏のつぶれた死骸はどうみてもコオロギだった。灰色の床にひきずった体液が染みて、そこに残された後足は我此処に在りといわんばかりに屹立し、鉤爪をたけだけしく天にかざしていた。

 彼は呼び鈴を押した。だが扉が開かれる様子はない。見上げた電気メーターには《ばかがみる》と書かれたメモが貼られ、その裏でギアは胎児のように力づよく回転していた。
 彼は腰をかがめて新聞受けを覗いた。室内に立ち込めた冷気が彼の目玉をかすめた。ひんやりとした空気はまるで澄んだ朝のそれのようで、彼は網膜に――曙に眺むる地平線、その大地の鮮やかな輪郭――を描いた。その夜明けの太陽の位置で女は弟に激しく組み敷かれ、二人はたちのぼる陽炎の中でゆらいでいた。女が彼を見た。女はたがが外れたように悶えはじめた。女は弟に首を絞めさせ、下から凄まじい勢いで腰を突き上げた。彼は目まいを覚えて扉にもたれた。

 扉に鍵などはじめからかかっていなかった。
 彼は飲みかけの酒瓶を手に取り、絶命した女にいまだ腰を打ち据える弟の後頭部をひっぱたいた。透き通った音がひんやりとした室内に甲高く響いた。弟は姉の死に怯え、狂ったように泣きじゃくり、突然ゲボを吐いた。女が絶頂となにを永遠としたかはひとまず。彼は女との間に立つ神に采配を取らせるべく蘇生措置にかかった。女の舌から弟の味がした。
 ほどなくして女は息を吹き返し、激しい快感を抑えるような甘みを帯びた息をついた。彼は道理にしたがって、きちんと運命の淵をさまよわせるべく酒瓶を振り上げる。女は素早く身を起こし、止まって見えるといわんばかりにそれを白刃取りした――奪い取った酒瓶をたけだけしく天に振りかざす!

 女を幾度かの恍惚へと導く子宮への道すがら、彼は女の肉を五官で味わい、押し拡げられ弛緩しながらもやわらかく寄り添うひだに包まれ、つかの間の優越に浸った。
 そして女は妊娠した。



Copyright © 2010 高橋唯 / 編集: 短編