第94期 #21

灰色の瞳

 席についた男は罰を受けたように静止する。テーブルの珈琲も冷めきってるであろうに、空間の一点を眺め続けている。きまって午後六時に店に現れる彼はいつも珈琲を注文して「ポカーン」と宙をみつめる。固まったままきっちり二時間。一息に飲み干すと店を出て行く。カカシに似ている。
 街の同業者二、三人から、カカシが他店にも出没していることを聞いた。「カカシみたいだよな」「おまえもそう思うの」「あたしもみたよ」カカシはなかなか有名だった。彼が朝夕新聞を配達しているのを目撃したことも話題になった。(カカシが新聞配達?)なんだか俺はカカシのことが憎めなくなってくる。
 俺の親父も、新聞配達をしていたそうだ。祖父は戦争で亡くなって母一人子一人だったから、小学生の頃から自分の食いぶちは稼いでいたよ、と子供の俺に言うのだった。親父はトラック運転手で家にめったに帰ってこなかったが、会うと俺を新聞配達員にさせようとした。俺は強い親父が好きだった。
 荒くれ親父となぜか結ばれた母は、科学者だった。若いときはドイツの研究所にいたそうで、日本に帰るつもりはなかったそうだ。それが親類の不幸があって戻ってきたときに親父にナンパされて、科学をやめてしまったらしい。その母親が俺に新聞配達を許してくれなかった。母が科学者だったのも最近知った。
 学校をでた俺は三年程新聞記者として働いた。親父はトラックで全国を走りまわっていたが、俺は社会部に入って、一日中街を歩きまわっていた。頭のない俺の特技といえば、夜討ち朝駆けで、それこそ真夜中まで粘り、朝一番に取材対象者に迫った。俺の記事は何度か全国版に取り入れられた。仕事が好きだった。
 俺が交通事故に会った日、保守派の上司にウンザリで俺はヤケ酒、みごとにトラックにはねられた。ひき逃げだ。犯人は見つからず、俺の左脚は切断された。記者の仕事を辞め、義足で何ができると考えて喫茶店を始めたのだ。だからカカシというのは本当は俺のことなのかもしれない。俺は死ぬほど働いたよ。
 カカシが今日も来る。俺はあいつが気味悪い。あの灰色の目は常連にもいい迷惑だ。だがあいつも新聞を配達して疲れてきたんだろう。町内をバイクで走りまわり新聞を配達しつづける姿を想像してみる。俺もヤケで酒を飲んでいるときはあんな目をしているかもしれない。働くとはそういうことなんだ。

 午後六時。カカシの瞳は今日も灰色に濁っている。



Copyright © 2010 宇加谷 研一郎 / 編集: 短編