第94期 #2

『待ち人は望月の夜に』

 宙は晴れ、かの天體が麗しく輝く夜――。
 遙か遠き天上の異星へと旅立つた、貴女。晴れた夜は貴女の事を思ひ出す。
 此の地を發ち、片方に浮かぶ天體を目指し、青く黒き宇宙空間へ飛び去る後姿を、今も夜の帖の幻に見てしまふ。艷やかな垂髮。矢筋のやうに整つた翠眉、意志の強さうな眦。肌理は白絹の如く、雪の肌に咲く丹花の脣がよく目立つ。
 引き止める事も叶はず、此の地でひつそりと貴女の歸りを待つ己の非力が恨めしくて仕方がなゐのです。かうして星宙を眺むれば、地上の寶玉なぞ煤けた石礫と大差もない。星を纏ひ、かの天體の發する光――侍女の話によれば、其れは太陽の光が照射してゐる所以のものだと云ふけれども、直黒の宙に照る御姿は、丸で此の詰らない日常に現れる貴女の姿のやうで……。

 貴女が戻つてくる。其の傳聞は眞のことだらうか。
 然し見上げる宙の片隅に、貴女の姿は見えやしなひ。動くものは屑星の瞬きと箒星の尾。庭に植わつ樹木の葉陰に、曉光は消え、夜が訪れる。宙の果てに在る瓦斯雲の話を覺えて居られるか。東の空に漂ふ雲は、星の群れと透明な氣體で作られた星雲と呼ばれる瓦斯雲ではないか。語りつゝ媾曵を交はした宿りの森も夏風に寢靜まらうとしてゐる。葉擦れ、竹の薫り、旗薄、紅葉、天の浮橋。此の京の、御宮の庭の、東の涸山水、西の小瀧、耳朶を打つ水簾の音、風流ある林泉、貴女は覺えて御出ででせうか。
 霞色の薄闇に、過ぎた別れの長大息が逆卷く傍ら、掖庭より鳴る、暇を持て餘した帝の舞ひの音樂が一入侘びしめる。思ひ煩ふ葉月の夜に、貴女は矢張戻らない。

 扇で頰を扇ぎつゝ、縁側で轉寢をしてしまつた事に氣がついて、何處からの歡聲に何事かと目蓋を開ければ、涸山水を照らす、天上からの光明に魂消て眼が眩む。宙船を降りて來るのは羽衣を纏つた遣ひの列。やをら立ち上がり、寢惚けて覺束ない足取りで群衆の肩を搔き分け驅寄ると、遣ひに導かれ、しづしづと出でる十二單の彩色豐かな風采。思はず頰が緩む。
 貴女は此方の顏を見、嫣然として會釋する。雅な船を出、遣ひの隊列を潛り、面映く目を伏せ乍ら歩み寄る貴女の手を取り、久方振りの再會に熱淚下れば、如何にも氣恥づかしゐのです。貴女の歸還を奉迎するは、侍女の歡聲。
「よくぞ戻られた。かぐやよ」
 抱擁し乍ら見上げた宙に、かの天體の碧い光。月の都の夜は更けゆく。



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