第93期 #8
「であるからして、諸速度Vは――」
濛々たる熱気が充満する夏の教室で、武田先生の声は必要以上に明瞭だった。
運動場からは生徒の透明な声がはしゃぎ声が聞こえ、蝉の声と共に夏らしいBGMを演出している。僕は汗を腕で拭い、シャーペンの先を親指に押し当て、暑さから逃れるよう窓に目をやった。
そして、僕は目を疑った。
遠くに見ゆるマンションの丁度真上で、巨大な黄金の十字架が浮遊しているのだ! 周りの建物から推測するに、高さは優に20mは有る。
「おい、お前、あれ見ろよ」前の席の若野に声を掛けた。
「ああ、あれがどうした?」面倒臭そうに若野が答える。
「どうした、じゃないだろ。浮いてるだろ?」
「そりゃそうだろ」
僕は絶句した。若野はどうかしてしまったのだろうか。
「おい、三浦。うるさいぞ」と先生に注意され、僕は立ち上がり「先生、あれ」と飛行十字架を指差した。
一瞬の完全なる間ができた。蝉の声のみが無音を渡る。
先生は確かにそれを見た。しかし信じられようか、にも関わらず彼は、「さ、授業するぞ」と言って黒板に向き直ったのだ。
おかしい。何かがおかしい。
狂気的な暑さを肌身に感じながら、今日は異常気象だとテレビが言っていたのを思い出した。
アスファルトが陽炎のように揺れる中、帰り道も相変わらず飛行物体は存在し続け、僕もまたそれを見続けた。
道行く人々はその存在を何とも思わないようで、単調に歩数を稼いでいる。
横断歩道を渡っていた少女が「あ、あれ」と怯えた顔を隣の母親に向け、「太陽が、ま、真っ黒」と言い、震える指で空を指す。
太陽が黒いのは当たり前じゃないか。
濁流し続けるビル群を見る。飛行機と月はやはり暗転した。幼女は驚愕の顔でそれら1つ1つを指差し、阿呆のように口を開ける。
少女と目が合った。僕はにこりと微笑んだ。
今日は、過去最高温度を記録したらしい。