第93期 #15
慶長二十年夏、大坂。
戦闘がおさまり、屍の転がる荒野を生ぬるい風がとろりと撫でた。
闇に紛れて徳川家康の本陣に影が迫っていた。霧隠才蔵。大坂方の武将、真田信繁が放った忍者である。
才蔵は家康が起居する屋敷に侵入した。屋根裏を移動して天井板に穴を開けると、まだ下には明かりがあった。
――チッ、狸の野郎、高枕で鼾をかいていると思いきや。
こちらに背を向けて何かを書いている人物は黒い袈裟に身を包み、丸坊主だった。家康ではないと察し、才蔵はその真上に移動して改めて穴を開けた。
その男は幕府の頭脳と呼ばれる天台宗の高僧、南光坊天海だった。
――坊さんがなぜ前線にまで来ている?
気になって書類を検めようと才蔵は目をこらした。天海は新しい紙を出すと、紙いっぱいに大きく書いた。
『わし、南光坊天海は、じつは明智光秀なのだ』
「ななななんだってー!!」
驚きのあまり才蔵は吹き飛んだ。屋根が破れて瓦が落ちた。
「くっ!」
才蔵は屋根にしがみつき、再び天海の真上に戻った。頭上の音に気づくそぶりもなく天海は続けていた。
『家康が豊臣を滅ぼした後、秀忠を操ってわしが天下を動かすのだ』
「ななななんだってー!!」
耐えきれずに才蔵は吹き飛んだ。先ほど開けた穴を通って遠く木津川に落ちた。
「フフフフ、もう徳川の勝利は確実。だが家康が生きているうちは好きに動けない。戦の間は死なせられんが、家康の寿命を縮めるのに使わせてもらおうか」
天海は天井を見上げて不敵な笑みを浮かべた。
翌日、才蔵はなんとか真田本陣にたどり着いた。もう戦闘は始まっている。出陣直前の信繁は報告を聞いた。
「ななななんだってー!!」
床几ごと信繁は飛んでいった。周りにいた兵士もみな飛んでいった。
「豊臣の最期だ。どれだけこの日を待ち焦がれたことか」
家康は醜く垂れ下がった顔の贅肉を振るわせて笑った。
その時、前方から何かが飛んできた。
「あれは何だ!!」
床几が激突して家康本陣の馬印が倒れた。真田の兵士が次々に徳川兵に激突した。信繁は家康を掠めて後方に墜落。信繁の兜で顔を切って、家康は恐怖のあまり失禁した。
「フフフ、これだけ恐ろしい目に遭えば家康は一年ももつまい。フハハハ!!」
離れて見守っていた南光坊天海、いや明智光秀は高らかに笑った。全てが彼の計算通りだったのだ。さらに計算通りに家康は翌年没し、三代将軍の代まで黒衣の宰相が江戸幕府に君臨するのだ!