# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | 玉葱 | アンデッド | 994 |
2 | 『魔の十三怪談』 | 石川楡井 | 1000 |
3 | そこの貴方に少しの安息を | 雪篠女 | 864 |
4 | 無からの生還 | 岩砂塵 | 986 |
5 | 天使ちゃん、愛してるから | あこ | 1000 |
6 | 八講 | 金武宗基 | 494 |
7 | 教育実習 | わら | 1000 |
8 | あまいくつ | 近江舞子 | 1000 |
9 | 扉の先には | レタクラウ | 860 |
10 | タイ焼き | 謙悟 | 994 |
11 | ワカレサセヤ | J | 702 |
12 | 善帝条件 | えぬじぃ | 1000 |
13 | 超亜空自転車少女オウデの軽やかなる一日 | 彼岸堂 | 1000 |
14 | ものおと | qbc | 1000 |
15 | タコの修復 | 宇加谷 研一郎 | 1000 |
16 | 信なくんば立たず | クマの子 | 1000 |
17 | 化石 | euReka | 988 |
18 | 愛のしるし | 高橋唯 | 992 |
19 | 妄想日記 | おひるねX | 960 |
「今日は玉葱が安いよ!」
八百屋の店頭で野菜を眺める節子に、店主が声をかけた。
玉葱の中から良さそうな物を手に取ってみる。
「今日のは品もいいですよー」
店主の声を余所に見定める。芽や根は出ていない。表面の皮に傷はなく艶もある。
「じゃハンバーグにでもしようかしら」
主婦歴も二十年、節子の中で判断が下された。固く重みがある玉葱を選んで店主に渡す。
「毎度!」
金を払いビニール袋を受け取ると、節子は次に肉屋へと向かった。
帰宅した節子は夕食の準備を始めていた。紺色のエプロンを着てキッチンと向き合う。袋からミンチのパックと玉葱の一つを取り出した。
玉葱のかさかさした淡褐色の衣を手で剥く。姿を現したのは、白みがかった綺麗な中身。
直ぐに薄皮を剥いてまな板の上に玉葱を乗せる。包丁で余分な上下をスパッと切り落とした。
そして玉葱の中心を見据えて包丁を縦に入れると、一気に刃を落とす。
ザクンッ。
音がした後、玉葱はほぼ均等に両断されていた。
だが、玉葱を切る事で発生した硫化アリルが、節子の目と鼻の粘膜に容赦なく刺激を与える。目と鼻がムズムズして、少し涙が出た。節子はエプロンで両目を拭う。
涙も止まり、一息付いた、――その時。
まな板の上にある玉葱を見ると、断面に小さな何かがくっ付いているのに気づいた。
焦げ茶色で長さは五センチ程。細長い身をよじらせて断面から這い出ようとしている。
玉葱から這い出すとそのまま板の上に落ちた。うにうにと蠢いてムカデにもミミズにも見えた。
奇妙な蟲は節子の方に頭らしき部分を向ける。身体を震わせると、足の様な――触手の様な――黒い物体が無数に生えてきた。それが働いて、不気味にも半身が持ち上がる。
この生物には目と言える部位はない。それでも半身を持ち上げた蟲は、節子を見ている様だった。
しかし次の瞬間、節子は包丁を降り下ろしていた。
降り下ろされた刃は蟲に直撃、嫌な音を立て真っ二つにする。半分になった蟲は緑色の体液を垂れ流していた。
節子は気にもせずティッシュで拭き取り、ゴミ箱へ投げ捨てる。まな板を洗い流した後、玉葱をまじまじと見つめた。
蟲が這い出してきた所に少し穴が開いている。
節子は生ゴミ用の三角コーナーに玉葱を放り込んだ。何事もなかった様に袋から別の玉葱を出して、微塵切りを始める。
それが終わると、節子はパックからミンチ肉を引きずり出した。
一段目。
とある女子の机の中で、死んだ蛙が見つかったのは掃除の時間。誰かの悲鳴が輪唱になって、彼女はそれ以来狂ったように飛び跳ね続け、いつの間にか学校を退めた。
二段目。
人一倍、シャイな彼。それを知ってる担任は、授業中、余計に彼を指導棒で指した。
先端恐怖症だということを知ったのは、彼がシャープペンで瞳を潰した朝のこと。
三段目。
階段を上りきってすぐそこに教室はあった。転校初日、緊張しながらドアを開けると、そこに僕の席はなく、クラスの皆がせせら笑う。
四段目。
休み時間中、とある男子が大事にしていた一枚のトレカがなくなって、探しに出たまま、その子はずっと戻ってこない。
五段目。
机上の花瓶は割られてる。萎びた百合は床の上。
六段目。
生徒が持ち込んだ真刃のナイフが仇となり、やがて血の海、紅い海。
七段目。
クラスの誰もが知っていた。優しい先生は教室を、出てった途端に悪魔の顔つき、夜半に何をしてるかは誰も知らない。
行方不明の女生徒以外は。
八段目。
掲示板の罵詈雑言。誰かの名前が書いてあったが、消されることなく教室の一部と成り果てましたとさ。
九段目。
体育の時間にあの子とあの娘。着替えもしないで、何してる。暗い教室の中央で、二人は口づけ交わしてる。清掃用具入れの中から、“彼”が見ていることも知らずに。
十段目。
モンスターペアレンツ来襲。袋叩きにあったのは三階の端、六年二組。
十一段目。
六年二組の担任は、密かにそれを眺めつつ、血反吐にまみれた親を見て、自分の母だと知りました。
十二段目。
魔の十三階段の噂を聞いて、数えに行った、一、二、三……十二段目を踏んだ時、目の前にはドア一枚。開けると皆が待っていた。厭らしそうにほくそ笑んで。
やっぱり僕の座席はそこにはない。
十三段目。
僕はすべてを白状します。
女子の机に蛙を入れて、トレカを盗み、花瓶を倒して、ナイフを持ち込み、掲示板に名前を書き込んだのは僕。母校に戻ったのち、嫌がらせに生徒を指して、清掃用具入れにカメラを仕込み、女生徒と関係を持ち、僕の犯行に気付いた母親を生徒たちに暴行させたのも、担任である僕の仕業です。
それもこれもかつて苛めたクラスメイトと転校ばかりさせた親が悪い。とはいえ罪を償います。
十三階段上りきり、また新たな学び舎へ。けれどもやっぱり、そこに僕の座席はなくて、あるのは一本のロープの輪。
ふと、泣きたくなる事はありませんか?
ふと、沈んでしまう時はありませんか?
安息。そんな言葉を求めている自分に気がつかないフリをして、生きてきた。
安息。求めても手に入らないものだと、感じていた。
「あなたが死んだら親御さんがどれだけ悲しむとおもっているの?」
小学校の先生が言いました。
「いい?人は誰にだって一つ位、良いところがあるのです。それを皆で見つけあって、助け合っていく事が大切なのです」
中学校の先生が言いました。
「人は一人では生きていけません。ですから、助け合い、協力する事が大切です。それこそ調和というものであり、規律(ルール)を守ってこそ、調和、そして協力が生まれ、一つ一つの絆を皆で大切にしていくことが人間らしい生き方をするために必要であり、正しいことなのです」
高校の先生が言いました。
仕事が終わって、疲れた体で電車に揺られて、家に帰ってビールを一口。何時もの事なのに今日は、何故か変なことを思い出してしまった。
一人で上京して、ただ一人目的も見つけられず唯々、黙々と働いて、何一つ取りえの見当たらない私は人間らしくないのでしょうか?
母は電話のたびに、
「そろそろ結婚を考えたら?誰か相手はいないの?」
そんな事ばかりを言う。
世間体が何だというんだ。
安息か…。結婚をしたら手に入るのかな?
ニュースや新聞を見る限りとてもそうは思えないけど。
そんなことを考える頭をつまみにビールを一口。のどを潤す。
ふと、泣きたくなる自分がいる。
涙をつまみにビールをもう一口。
ふと、気分が沈む。
気分を持ち上げるために、ビールを飲み干す。
大丈夫。私はまだ生きていける。
涙も沈んだ気分もつまみにできるのだから…。
さぁ、たぶん代わり映えのしない明日に…
乾杯!
きっと、何かいいことあるさ。
私は、新しくあけたビールをぐっと飲み干した。
残暑の中、開けた窓から涼やかな風が一凪ぎ。
月でウサギが踊っていた。
私は笑う。静かに、穏やかに。
すこしだけ、安らげた気がした。
気がつくとそこは狭い空間だった。自分の顔から目の前の壁まで30センチもない。白い壁紙には所どころ画びょうであけられたような穴がある。天井の方から降りてくる光に目がくらみ、体中がいうことを聞かないような感覚に陥っている。
ここはどこだろうか。そもそも、自分は何なのか思い出せない。かろうじて動く眼球をぐるりとまわし、捉えたのは自分のものであろう腕と足。そうか、これは腕と足というのだ。両の腕はそれぞれ同じ位置にある足の上に置かれている。では他の自分を形作るものはどうだろうか。腹は視界のちょうど真下に映っている。そしてその下には男性を象徴するもの、ぼんやりとしているが鼻らしきものも見える。
自分にはちゃんと体があるらしい。しかしながら、思うように動かすことができない。いや、そもそもこれらは動くのか。そんな疑問さえ頭をよぎる。右腕に力を入れてみる。肘の辺りがぴくりと反応する。それにともなって手がぶるっと震えた。思い出した。この体は動いていた。しかもごく最近まで。ではどうやって動かしていたのだろう。動いていた頃は動かし方なんて気にもとめなかった。それが今、壊れたおもちゃを前にして初めて取扱説明書を開く子供のように必死になっている。肘に力を入れるより、手のひらに力を入れ、手が自分の視界の真ん中に来るようにイメージしてみる。弱弱しく手が宙に浮かび、ゆっくりと視界の中心に入ってくる。ぼんやりしていた手がはっきりと映し出された。だが起床したばかりのように力が十分に入らず、小指の方から抜けていく。その時、人指し指が勝手にまっすぐ伸びた。小刻みに震えているが、おかげで人指し指だけに集中できる。
「こいつを曲げてやる。」
まるでスプーンを超能力で曲げるかのように人指し指に念力を送る。グッと集中して、人指し指全体に力をこめる。が、逆に鋼鉄のように硬い一本の太い棒になってしまう。第一関節から先が微妙に曲がり、感じたこのない痛みがピリピリと走る。だめだ、このままではだめだ。再び腕全体の力を抜く。手が一瞬で視界から消えると同時に、足に腕の重みが痛みを伴って覆いかぶさってきた。
――痛い――
その瞬間、一気に覚醒を迎える。自分を形成する全ての感覚が音を立てて動き出した。腕も足も、顔も何もかもが思い通りに動く。そして自分が今トイレで座っていることを思い出した。体と心が離れた、そんな一瞬。
後悔先に立たずって、知ってる?
例えば勢いで大学を辞めて就活で地獄を見たり。小学生の頃好きだったサッちゃんのハンカチを盗んだままで、しかも俺はこれから自殺をするから、後悔したまま一生返せないってのもそれだ。つーわけで「どうぞ自殺して下さい」って言ってるような陰気臭い雑居ビルから飛び降りようと、俺は薄暗くて汚ねぇ階段を登ってる。
あっさり屋上に着くと、流石場末のウンコビル。先客だ。そいつも俺に気づいて振り返ってきたけど、おい、お前は死んじゃダメってな位、国宝級の美人だろ。何でこんなとこに?と思った瞬間、至福の天使な声で俺に話しかけてきた。
「貴方もでしょ?すぐ死ぬから。」
「おい待て。」
折角の美人が台無しだぜ?一先ず自分の事は棚に上げて、この天使の自殺は阻止しようと、俺は最後の努力をする事に決めた。後悔先に立たず。
「何?」
「お前、人生幾らでもやり直せるツラしてんだろ。鏡見ろ。」
「美人が必ずしも得って訳じゃない。」
「あー、レイプか?それとも枕営業でも強要されたか?」
「されたわね。」
「まぁな、お前の顔とその体じゃ、男なら誰でもヤリてぇよ。」
「汚れたから死にたいの。」
オッケーよく判った。説得モード、オン。
「判ったよ。でも死ぬ前に、一つお願いしたい事がある。」
「何?死ぬ前にヌいてとかはお断りよ。」
「ちげーよ。俺はな、単にタバコを吸いに屋上にきただけなの。」
「で?」
「自殺志願者が居ると。いいぜ?ブスなら。でも俺アンタに一目惚れ。死なれたら一生後悔する。お前、その重荷を俺に一生背負わせんのか?」
「随分自己中ね?」
「俺の為に死ぬのを辞めろ。愛してる。死んだら呪う。」
「は?」
「三十分寄越せ。話聞いてやる。つか誰かに似てんな。芸能人?」
「随分上から目線ね。違うわよ。一般人。」
「何が悪い?俺が死ぬなつったら死ぬな。」
「もういいわ。うざい。今日は辞める。」
「随分あっさりだな。お茶でもしようぜ。」
予想以上に呆気無く説得に成功して、俺達は階段を降りる。
「天使ちゃん。名前なんつーの?」
「サチコ。安藤祥子。」
「え?佐野小に居たサッちゃん?」
「そうだけど。あれ、ひょっとしてサトシ君?」
後悔先に立たず。これ最初で最後のチャンスタイムって奴?一先ず、俺も自殺、やめ。ここらで一番美味しい喫茶店へ、彼女を誘う事にした。あの時の綺麗なハンカチのように、俺がその汚れとやらを拭いてやる。もう後悔したくねぇ。
脳に8葉あり
頭葉、
右脳、左脳 4bai4
右思考 4通り
掛ける 左思考4
4の2乗、 の2乗、 の2乗、 の2乗、、、(続く)
8クロス。視床下部、脳下垂体域、小脳部位にて左右反転、クロスする。
右脳→左半身
対部位
目 1×1
鼻
耳
眉
肺
手足
睾丸、卵巣
等、距離感はかる
右脳左脳
冷静情熱
生死(此岸、彼岸)
起寝
男女
矛盾を矛盾しないように統合する(4×4)2乗(出来うる限り2乗が続く)
相反するものが矛盾でなく存在できる
8とはメビウスの輪であり
無限(∞)である
大八車、ほとんど円(八角形)。
円満具足、八葉蓮華。
蓮の華は実と花を同時に持つ。
八は開く。
顔論(2対部)
立場論
人種論
大まか4種×4種
の2乗 の2乗の、、(する限り2乗される)
60兆部(細胞)
、人口
とか論。論は以上にて、
リア(具)王(充)求む。パソコン脳。
スパコン並み統合作業。
実務。目に濡れタオル。
[目鼻奥、交感神経あり。パソコン等刺激、頭脳作業、→
目の温度高い→
副鼻腔、涙官、中耳腔、詰まる。
声が高い。(緊張系、鼻腔の内積減)
交感↑体温下がる→(末梢の冷え)
身体使わない。
頭痛、耳鳴り、鼻づまり。免疫疾患との類似(目鼻奥にリンパあり)]
朝の教室に男子が一人。平岡崇、十四歳。ホームルーム前の談笑に加わることもなく、彼は顔の前で両手を握り合わせ祈るような格好で思案していた。あれは、担当するクラス順に並んでいたのか。それとも単に五十音順なのか。
先ほどの全校朝礼。ステージに教育実習生が並んでいた。彼らの一人がこの後やってくるはずだった。
――かしわぎれいこさんは、何組なのか……
要するに崇は実習生のお姉さんに一目惚れしたのだ。
ガラガラとドアが開いて担任が入ってくる。普段は授業中でも姦しい教室が、今日に限ってはシンと静まり返った。関心を寄せているのは崇一人ではない。果たして続いて入ってきたのは……、
――神よ!
元の体勢のまま崇は本当に祈った。緊張の面差しで、しかし口元に微笑を浮かべて、入ってきたのは柏木玲子。崇の思い人だ。クラスが色めき立つ。主に男子が色めき立つ。
担任の紹介を受けて、彼女は挨拶を始めた。
「○×大学から来ました、柏木玲子です。数学を担当します。これから三週間……」
崇の進路が決まった。年の差など恋する男には関係ない。だが困ったことに数学は苦手だった。
――だけど今日かられいこさんと恋の二次方程式を
とかなんとか考えるくらい苦手だった。
「先生、彼氏いるんですか?」
挨拶が終わると、手を挙げて女子が言った。
「こら、お前……」
「いいじゃん」
「しかしなぁ……」
なめられた担任は無力だった。
「先生彼氏は?」
再び聞かれて、玲子は苦笑とともに答えた。
「いません」
響めく教室。高鳴る崇の心臓。
「はーい、静かに。出席取りますよ。いいかな?」
担任の時とは真逆に、生徒達は素直に従った。玲子は出欠簿をすらすらと読み上げ、いつもより元気のいい返事が続く。崇は思う。ここは勝負所だ。どう返事するかで僕らの未来が決まるのだ。
名前と返事がテンポよく繰り返され、崇に順番が近づく。そうだ、一か八かあの手で行こう。
崇が決意を固めた時だった。凛とした思い人の声は、有らぬ名前を呼んだ。
「平岡、タタリくん」
一瞬の間を置いて、教室は爆笑に包まれた。
――祟?
呆気に取られる崇に、まるで祟り神にでもそうするように玲子は手を合わせた。
「あ、ごめんなさい。ええと、ソウくん?」
再び爆笑。強烈な第一印象は残せたが、直後から崇のあだ名は「タタリ」になり、目聡い女子が「好きな人にタタリって呼ばれるなんて」と笑い出し、崇の三十分の恋は冷めた。
ピンヒール、ロングブーツ、サンダル、スニーカー、ミュール、果てはロッキンホース等々。靴に種類はいろいろあるけれど、中でもわたしはバレエシューズが一等好き。
お店の棚にずらりと色とりどりに並べられている、丸いつま先のぺたんこのあの靴たちを見るとうっとりする。ちょこんとリボンが付いているとなおいいかな。あまく光るM&M'sチョコレートみたいで、ひとつひとつ手のひらに乗せて輝きを楽しむと、舌にその味が伝わってくるよう。
はあ。いつも思わずため息が出る。そのときのわたしの表情は相当だらしないから、人には見せられないだろうな。ああ、みっともない。
ただし、わたしの場合、バレエに使う本物のじゃなくて、正確には外履き用のバレエシューズ風のパンプス。幼いころ、バレエ教室に通う友だちが見せびらかすように履いているのがうらやましかった。いいなあって。わたしの家では、習い事といったら実用的なそろばんや習字しかやらせてもらえなかった。ちっとも女の子らしくないから、嫌だったけれど親に文句は言えなかった。
働く今になって財力がついても、買えやしない。昔からの渇きを潤すように、ただ眺めて心を満たしている。
というのも、わたしは背が低いくせに足ばかり大きくて、サイズの合うかわいいバレエシューズが滅多に見つからないから。それに、もし入るのがあって試し履きをしても、このわたしにはかわいいものが似合わないし……。なによりわたしに履かれたら、靴のほうがかわいそうだと思っちゃう。だから、外に出かけるたびにお気に入りのお店に飾られたものを眺めては、心を癒している。これが履けたらいいのにな。そう思ったことは数限りない。
たまに友だちと一緒にショッピングに行くと、「そんなことないよ」、「似合ってるよ」と言ってもらえるけれど、お世辞だとしか受け取れない。卑屈で矮小な性格。きっとその精神によってバレエシューズのほうからわたしを拒んでいるのだ。
いつも飾られた靴に挨拶するだけで、連れては帰れない。喜びに溢れるほんのわずかな短い出会いのあとには、悲しい別れが待っている。
「はじめまして」
今日も新しいバレエシューズが仲間入りしている。彼女は嬉しそうに笑っていた。張り切る新人のように初々しい。つられてわたしも顔がほころぶ。
でもね、ごめんね。あなたとは一緒には居られないんだ。
「さようなら」
どうか似合う人の足元へ行ってね。
平凡な日常を、僕は常々嫌と感じていた。
ある日、ついに平凡であることからの退屈さを堪えることが出来ず、まだ開けることを許されていない扉をこじ開けた。これで、きっと何かが変わる。そう信じて。
しかし、そこには前と何の変わり映えもない世界が広がっていた。無表情で無愛想。平和で閑散。異臭だが無味。地面にはカラフルなメッキで、あちこちに塗装が施されている。
僕は憤慨して、半ばやけくそ気味に別の扉の処に行った。それも、ここの世界では開扉をすることを禁じられているのだろうが、なに、構うものか。
その扉は鍵が掛っていた。
僕は近くに落ちていたガラクタを拾い、それを力いっぱい鍵に打ちつけた。何度かやっている内に、意図も簡単にそれは壊れて外れてしまった。
扉を開けて中に入る。
さっきよりも酷い悪臭が鼻を突いた。暗くてよく前が見えない。
ようやく目が暗闇に慣れて、それに気付く。
僕は目を見開き、それを見た。背筋に悪寒が走る。恐怖で身体が、がたがたと震える。
そこには悪魔がいた。
絶好の獲物を見つけたというしたり顔で、僕を狡猾そうな鋭どい両眼で見つめていた。キシキシ笑い、醜い顔を歪め、涎を垂らしている。
僕は、ぎょっとして、急いで前の部屋へ逃げ戻ろうとした。入ってきた扉まで走り、ドアノブを回す。
が、開かなかった。まるで、僕のことを元の世界が拒絶しているかのように扉は固く閉ざされたままだった。
後ろを振り返ると、悪魔がもう、すぐそこまで迫っていた。恐ろしい形相で襲いかかってくる。――逃げられない。僕は恐怖で金縛りにあったように動くことが出来なかった。そして、悪魔の魔の手が僕の顔を掴み取る。僕は絶叫した。
「もったいないことしたなァ小僧」
最後に悪魔の裂けた口から喜々とした声が聞こえた。
気が付くと、僕は何もない処にいた。壁もなく地もなく扉もない。さっきの悪魔もいなかった。ここは何処なのだろう。周りを見回す。声を出してみる。しかし、声は出なかった。あれ? 自分を見る。そこには何もない。そうか僕も。
いないのだった。
小さなころの私は本当に無垢でした。暇さえあれば近くの山や河などに遊びに行き、飽きることなく自然と戯れていました。
そのためでしょうか、昔の私は生きていたものを食べるということが信じられなくて、魚や肉が食卓に出てきた日には、異常なくらいの拒否反応を示していたものです。さらに言うならば、材料に生き物が一切使われていない、タイ焼きのような生き物を模した食べ物ですら、目の前に出された瞬間、この場から逃げ出したくなる衝動に駆られたりもしました。自分を食べようとしている人間に向かって、恨みつらみを込めたような眼で睨みつけているんじゃないかと思うと、生き物ですらないタイ焼きであろうと目の部分を見るのが怖くて仕方なく、どうしても直視することができなかったのです。そんな自分を、母が苦笑しながらも優しげな眼で見てくれていたことを、私は今でもはっきりと覚えています。
そのような幼少期を歩んできた私。自然が大好きで、生き物と触れ合うことが大好きだった私。今あらためて振り返ってみても、幸せな幼少期を過ごしてきたものだなと実感しています。
ですが、ここでふと気づいたことがあるのです。本当の私は自然や生き物が大好きだったというわけではなく、自然や生き物が大好きである私自身のことが大好きだったのではないか、ということに。
あれから長い月日が経ちました。私も友達も、みんな大人になりました。汚い大人になりました。社会の波にもまれ、たび重なる理不尽に耐えつつ、その中で汚れながらもたくましく成長していったなと思っています。
そして今の私は、私自身のことが大好きというわけでは決してありません。自然が大好きで、生き物が大好きだった私はもうここにはいないからです。
汚い大人になりました、本当に汚い大人になりました。
今の私の大好物は、どれもこれも魚や肉が使われています。目の前に出されても、逃げ出すどころか喜んで口にしてしまっています。生き物を大事にしていたあのときの自分の姿は、もうここにはありません。すでに、過去の遺物と化してしまいました。
……ああ、いや。そういえば少しだけ、幼少期の名残があります。
私はタイ焼きを食べるとき、いつも最初はタイ焼きをろくに見ないまま、一番に頭の部分から食べています。
タイ焼きが自分のことを、恨みつらみを込めた眼で睨んでいるんじゃないだろうかと、今でも思うからです。
「愛してるわ。」
「俺もだよ。」
「昨日ちゃんと話したの。ようやく納得してくれたわ。」
「そう。大丈夫だった?」
「ええ。私も落ち着いて話せたし。あの人もやっと諦めてくれたみたい。」
「そうか。良かった。」
そう、良かった。これでやっと任務完了だ。同意書に判子を押すまでは、まだ気が抜けないが、今までの経験から、ここまでくればあとは時間の問題だ。気持ちは完全に俺に向いてるからな。
「別れさせ屋」という職業については、倫理的な問題から、様々なバッシングをくらっている。俺だってたまにそう思うことはある。人を騙して金を貰うわけだからな。
でも、需要があるから供給するビジネスが成り立つ。皆勝手な事を言うが、所詮自分では解決出来ない輩ばかりだ。自分のケツも自分で拭けないんだな。そして、面白いことに、依頼者の多くが、こういった倫理の問題を取り上げるような奴らばかりだ。
今回の依頼主の弁護士も、そうだ。自分で勝手に好きにさせておいて、自分じゃ別れられないんだから世話はない。まぁ、「別れたくない」なんて言い張った演技力だけは認めるが。
まぁ、そんな事はどうでも良い。別れさせて、金を貰う。俺の仕事はそれだけだ。
「ねぇ、何考えてるの?」
「これからやっと二人の生活が始まると思ってさ。最初に堂々と、どこに行こうかと思ってたんだよ。」
「そうね。でもまだ気が早いわ。次はあなたの番よ。」
「え?」
「私、うまく別れるために探偵を頼んだのよ。そのついでにあなたの事も調べさせてもらったわ。」
「なるほどね。。。」
「でも、大丈夫よ、安心して。あなたの彼女はもうすぐ別れるって言い出すわ。」
「今頃、『別れさせ屋』が最後の説得をしてるところだから。」
私が姿を見せたら、皇帝陛下はびっくりされてました。故郷の東方では私も有名なんですが、ここじゃランプの魔人なんてまだ噂にもなってないようですな。
呼び出された私はいつもの口上、さあご主人様あなたの願いを叶えますと言ったら、陛下はすぐさま「死ぬことなく生き続けるのが望みだ」と仰った。
しかしこれは無理な話。不死は神々だけの特権、欲しいなら神になるしかない。そう答えたら物凄く嫌そうな顔をされましてね。なんでも陛下の父君は「可哀想な俺、神になってしまう」と言って死んだそうです。そのとおり死後は神として祀られたそうですから、陛下にとっては人として生きてなきゃ無意味なんでしょうな。
そこで私は別案を出した。不死ではないが、寿命を尽きさせない方法がある。それは徳による延命だと。
つまりは民に慕われたという徳を集め、それを寿命に注ぎ込む。一人の民が世に感謝した日を送れば皇帝の寿命は一日伸び、世を恨んだ日を送れば一日減ります。民衆の過半数が幸せな日を送り続ければ、陛下はずっと寿命が尽きないわけです。
この提案に陛下は喜び、すぐ契約成立となったわけですが……いや、それからが大変。
なにしろ世間から不評を買ってはいけない。陛下の恋人が民衆の嫌われ者だとわかると、最愛の人とも別れてしまう始末。まあ、命がかかってますから。
だけど気を使っても不幸は訪れるもの。火山が噴火して、地方都市が丸ごと一つ壊滅したんですよ。住民達は死ぬ間際さぞや世の中を呪ったでしょうな。陛下は真っ青になりながら、難民救済に駈けずり回ってました。
それが終わったら、次は都で大火事が。またもや陛下は罹災者のため寝る間も惜しんで尽くしていました。
さて救護もやり遂げたと思ったら、疫病が発生したとの知らせが……それを聞いた陛下は倒れて、そのまま――
「――兄上は常日頃から『良い事をなにもしないのは、一日を損している』と言ってたが、それは文字通りの意味だったのか」
帝位を継いだ新皇帝は、ランプの魔人を半眼で睨みながらそう呟いた。
魔人は、そうですあれは運が悪かっただけ今度は大丈夫です新しい陛下もぜひどうですか、などと揉み手で語ってくる。
「だが俺にはいらぬ気苦労のせいとしか思えん。永久に外面を気にする善帝になるくらいなら、俺は短命な悪帝でいい」
そう言って新皇帝はランプを河に投げ捨てる。魔人はランプもろとも沈み、すぐに姿を消した。
オウデちゃんは超亜空自転車少女だ!
いつも二次元と三次元の境を超自転車グレイプニルで走行している! 今日は何と三次元世界の上空50メートルを軽やかに飛行しているぞ! きこきこ! きこきこ! これは自転車を漕ぐ音だ!
オウデちゃんは馬鹿でかい角を付けた兜がチャームポイントだ! いっつも角のせいでふらふらしているぞ! その角はなんと二百由旬内の全ての悲鳴を聞くことができるアンテナなのだ! 電波受信!
「堕猫。やかましい」
「しかしオウデちゃん。時代は前衛的なキャラクターを求めているんです。キャラ小説ってのがあるくらいですよ。もっと押し出すべきです」
「うるさい」
オウデちゃんは灰色の空をきこきこと軽やかに飛行する。遠くの工場地帯の煙が大気に混ざっているのか、変な化学臭がする。化学臭はオウデちゃんの飼い猫、スミス=ミスの造語だ。
オウデちゃんのサラサラの銀髪が汚れを孕んだ風で波打つ。セーラー服みたいな薄水色のユニフォームも心なしか黒ずんでいる。
雨の気配もする。
「堕猫、下を見ろ」
「ほい?」
「俯いている人間がいる」
オウデちゃんが顎で示した先に、ベンチで座ってはぁと溜息をつく若い青年がいた。クリーニングされたスーツをキッチリと着ている。
「あれは何だ」
「青春の悩みよりやや生産的で人生の苦悩よりやや切迫性を欠いたインスタントブルーの青年です」
「意味がわからん」
「彼の年齢は今年で二十三、つまりはそういうこと」
「よくわからんがそれ以上続けてはいけないことだけはわかった」
オウデちゃんは青年に何かをふりかけた。それは銀色の美しい雪となって青年に落ちる。しかしながら青年はそれに気づかない。見えていないのだ。
「ポリシーだ。スマートに救う」
「何かけたんです?」
「媚薬だ。非生産的なんだろ?」
「いや普通に逆だし重要なのはそこじゃないけど……まぁいいや」
「む、よくよく考えたら相手もいないのに処方をしてしまった」
「まぁいいんじゃないですかね。スッキリしたら賢者になりますよ」
きこきこ。
眼下で男が何か卑猥なことを叫びだす。
オウデちゃんはそれを確認してグレイプニルのギアをトップにいれた。
きこきこきこきこ。
鈍色の雲がどこまでも続いている。
もくもくと、陰鬱なそれを予感させる。
遠い海岸で赤潮が発生している。
オウデちゃんは軽やかに飛行を続ける。
スミス=ミスはもう寝た。
――それは新春の一風景。
譲二はまさしく流されるタコになっていた。最初は操る側だったはずで、しっかり凧糸を握り、風のタイミングを読んでいるつもりだったのに、いつしか譲二のタコ糸はきれていた。
閉じられたカーテンのすきまから洩れてくる光がクッキリと床を照らしている。オウムのゾーイは腹をへらして、元飼主の別れた恋人の口調で「ジョオジ、ジョオジ」と繰り返している。譲二はいっとき我にかえって、手元にあった自分の食べかけの白パンをちぎってゾーイに食わせてやり、再びPCの画面に視線を戻す。
譲二は人工知能と会話しているのである。
友人から開発中の人工知能の会話相手を頼まれた。主要言語が「絵」であるところが珍しい。何気に譲二が猿の写真をおもいつきで送信してみると、クマちゃんと名乗る人工知能は、なぜかその猿にスーツを着せて返信してきた。その脈絡のなさが可笑しく、譲二はその猿の口元にチョコレートを貼り付けて送ると、なぜか、丸首の赤いセーターにプリーツの入った黒いスカートの女性が、にっこりしながら机を何度も叩いている漫画が送られてきた。こういう感覚が、言語に束縛されている譲二の心をわしづかみにしたのだった。
或る日、譲二のアパートに、帽子をしっかりかぶってスーツにエレガントな白いブラウスを着た女がやってきた。いつも不安げな視線と憂いをもった表情が特徴の編集長・黄田緑である。日々6件のランチ取材も嫌がることなくこなし、写真の腕もそこそこよく、なにより経費が安くてすむ駆けだしライター譲二はこの不況下の小出版社には欠かせない。だが、場合によっては切るしかないと彼女は決心していたのだった。
黄田緑は無言であがりこむなり、部屋のちらかり具合から譲二の状況が深刻であると判断した。譲二としても当然仕事を失いたくないが、PC世界のクマちゃんが気になって仕方ないのである。
「完成された人工知能は実に美しいんだ。人間のように無駄な批判もしなければ疑ったりしない。数式によって導き出された結論をただ信じている。それに、かわいいんだぜ」
譲二の「クマちゃんが描いた」といって印刷した<猿が女を肩車している絵>というのをみせられた黄田緑は溜息をついた。だがマイナー誌といえども編集長としての彼女の直感がうずきはじめた。
(ランチ記事ではなく看板誌「うっとり」に連載を持たせてみようかしら?)
黄田緑が再び譲二に強力な凧糸をくくりつけた瞬間である。
四月の夜の公園をツゲは走っていた。照明の下の桜は満開だった。ポケットには家の鍵とケータイが入っていた。
きょうで、プロジェクトを協働で進めてきたカエデからの連絡が来なくなって三日が経った。ツゲはきょう一日、明日のプレゼンの準備に追われていた。信じるべきは何か。一人でもプレゼンは自分の力で間に合うと想定できた。ツゲは目の前の仕事に集中することを第一とした。
正午を回ったところで一区切りつけると、同じフロアにある、もう一人の同僚のヤナギがいるシマに向かった。
「ヤナギはどこに行ったかな」
「さっき一年生の子たちを連れて外に食べに行きました」
「そうか」
喫煙室の扉を開けるとソファーに腰掛けて一服した。階下の食堂で昼食をとる気にもなれなかった。
喫煙室のガラス越しにオフィスの様子が見える。休憩の時間になっても働いている人。食事に出て今はいない人。ガラス一枚隔てて見ると、自分の干渉しない世界の色が一様に見える。一様な色の中にも差異はある。しかし差異はいくつかの種類に収まる。それがその会社の持つ文化だとツゲは思った。
食事に行かない人。食事に行った人。その集合体である会社は日々仕事をこなしていく。それでいい、それがいいのだとツゲは思った。
ヤナギが新入社員を連れて帰ってきた。喫煙室の扉を開き、ツゲの隣に腰掛けた。
「カエデと喧嘩したんだって?」
ヤナギは顔をツゲの顔に寄せた。彼の持つ切れ長の目と薄く引き出された唇は、相対した人間に親しみやすさと薄っぺらい印象を与えた。
「大丈夫うまくいく。今日中には連絡が来るさ。仲間を信じろよ」
「うるせえなぁ」
……
ツゲは走りながらカエデとの会話を思い出していた。思い返すにつれて段々と胃に膨らんでくるものを感じた。息する合間からつい言葉にして漏らした。
「信じろよだと、フザケるな。連絡が来なかったら俺がちゃんと信じてなかったってことになるのか? 冗談じゃない。信じたらうまくいく。信じられていないからうまくいかない。そんな道理があるか……!」
今からすれば、口角から泡でも飛ばしてあいつの顔にそう言ってやればよかったと、そう思えて仕様がない。
走り出して五十分が経った。夜は明日につながっていた。プレゼンの準備はあれでできたと言えるのだろうか。何が万全か。ツゲは不安を感じていた。まだケータイは鳴らない。十分息は上がっていたが、足を止める気にはなれなかった。
詩の朗読みたいに聞こえた。
「あなたの恋人と思われる化石が、二万年前の地層から発見されました」
電話の相手は確かにそう言っていた。
「身元確認のために、ぜひ現地までお越し願えないかと」
僕はさっそく会社に休みを取った。事情はなんとか理解してもらえたが、有給扱いにはしてもらえなかった。
「彼女の顔なんてもう思い出せないよ。わざわざ僕が現地まで行かなくても」
「皆さんそうおっしゃいます。あまりにも長い時間が経過した、不安だとね。でも実際に会ってみると、嘘みたいに記憶が蘇るという例も少なくありません」
僕は数日後、国際線の飛行機に乗った。初めての外国旅行だった。
「今から恋人に会いに行くんだ。気が遠くなるほど古い恋人にね」
客室乗務員の女は、浅黒くて唇の厚い南方系の顔立ちをしていた。
「チキンとお魚、どちらになさいますか?」
「ビールを一つ。飛行機ってなかなか慣れないよ」
南方系の女は何か言いたげに唇を開いた。しかし何を思ったのか両手でそっと僕の顔に触れると、母親が子供にするような格好で僕の鼻にキスをした。
「古い記憶というのは化石と同じで表面からは見えません。長い記憶の歴史から見れば人間はみな記憶喪失だと言えます」
「記憶喪失?」
「ええ。世界の記憶は、一つも失われることなく全て保存されています。私たちの活動の目的は、失われた世界の記憶と繋がるためのラインを構築することにあります」
僕は機内でビールを飲みながら、空港で買った現地の地図を広げた。その地図は、子供の頃に描いた空想の地図によく似ていた。
「化石の発掘は単なる記憶の収集ではありません。世界の記憶は人類の言語機能と繋がることで覚醒し、この世界の本当の意味を、世界自身の言葉によって現実化するのです」
「言ってることはよく分からないけど、協力はするよ」
「ありがとうございます」
「でも彼女は、僕のことを憶えているかな?」
「皆さんそうおっしゃいます」
「だけど僕は、彼女に会ったことすらないんだぞ」
「でも記憶の残像はある。一瞬だけ、心臓を掴まれたような」
「そうだ」
「お二人は確実に出会っています。記憶の中で」
機内放送が流れ、飛行機は着陸態勢に入った。僕は夢のように広げた地図を小さく折り畳んでポケットへしまった。
「やっぱり気付かなかったのね」
あの南方系の女が、首に巻いたスカーフをほどいて僕の隣に座った。
「でも、やっと会えた」
深夜二時、雨粒の尾は闇夜を細長く刻みながら硬質の地表を叩き濡れた鉄のように滑らかで鋭い光を反射させた。少女は名札が刺されたままのパーカーを引掛け傘と煙草を手にマンションの屋上へ上がった。暗闇に目を凝らし向かいのマンションの屋上に今夜も男性がいることを確認すると息を吐き、煙草に火を点けた。白煙を魂のように吐き出し、首から下げた鍵の、水分を含んだ紐に擦れたその首筋をさすった。向かいの男性は柵に手を掛けたまま静止していた。少女は母を想った。
父は死んだと母にそう教えられた。嘘だとわかっていた。あえて確かめるような真似はしなかった。ここのところ帰りが遅いこと、気分が明るくほのかに色づいた表情を見れば、母にとって今が『だいじなとき』なのだとわかっていた。
向かいの男性が緩慢に身を乗り出し倒れ込むように落下した。少女は身をすくめた。建物の陰に消えた男性の、固いアスファルトと肉体が衝突し骨が砕け内臓が破裂する終末の音を聞いた気がした。少女は急いで階段を降り男性の許へ向かった。
男性は照明を避けるような暗がりにいた。仰向けに倒れ潰れた顔には影がかかっていた。目蓋が僅かに痙攣している。少女は屈んで耳を澄ます。スカートの裾が水溜りに触れ泥水を吸い込んで茶色く汚れた。少女は雨音の中に微かな喘鳴を聞いた。まだ生きている、そう知るとどうしようもなく胸がときめいた。ひとつも見逃すことのないよう焼き付けるように目を見開く。すると視界の隅に人影を感じた。人影は半透明で、その顔は靄がかかったように薄ぼんやりとしていた。
――救急車を呼ぶのかい。
「よんだほうがいいの?」
――任せるよ。
「じゃあよばない。これはあたしのものよ」
――死んでから、救急車を呼んでくれないか。
少女は男性から目を離さない。呼吸は微弱になっていた。
――お駄賃をあげるから。私の財布にはお札が五枚入っている。一枚持っていっていいよ。
「それならやる」
――ありがとう……。
それきり人影は沈黙した。男性の呼吸が止まり、少女は溜め込んだ息を長く吐き出した。辺りにはもうあの人影はいなかった。百数え、確かに死んだという確信を得ると携帯電話で救急車を呼んだ。男性の懐には五万円入っており、少女は一枚抜いて元に戻した。
少女はこのお札を生涯の宝と決めたが、翌年、薄い花柄のパーカーを購入し、代わりに五円玉をパウチしてお守りとした。
気持ちは挫けて、肌寒い春の夜。栄太、ふり返ることができなかった。
怒りから
立ち出でてみれば
いつかとおなじ
春の夜桜
淡い桜が満開に咲き誇り、街灯のスポットライトを浴びていた。
サユリの春は本当に忙かったから、もう桜みたいにはらほら舞い落ちるように、喜びがこぼれている。それなのに、水を差す栄太の雰囲気に腹が立った。だから蹴っ飛ばした。まるで子供ような。それも幼稚園クラスのやることだ。まあ、春だからだろう。
栄太のひざの裏側あたりか、もっと下のふくらはぎ辺りを思いっきりけってその反動でくるり一回転そのまま、ささっと去っていった。
もろけられ
あわれうつむく桜はな
あしもとほのかに
白くちらし蒔き
もう一撃があるかと身をすくませ。サユリのことをののしりながら振り返らない栄太。
どうしていいのかわからない。なら、誰かの言うとおりにすれば良いのに。聞き分けが悪い。というか、聞く耳持たない。
こんなとき落語なんかでよくある。とんでもない相手に気持ちが向かってしまう。敵討ちに相談したり、税務署に脱税の相談したり。えーと、こんなのいいんでしょうか? 税金はゼロにしたいんですが。
そうすると相手が、税理士だったらああいいんですよ。あたしが判子衝いておけば後輩は何も調べませんから。とか、あれ、……?
こんな話しがあるから、ついつい、赤頭巾ちゃんは狼に相談してしまう。浮気の誤魔化しは相手のラブハーフに相談して。愛し合ってるんだからホント、よく気持ちがわかる。ああ、そうか、大丈夫なんだ。
凍りついた心で足は夢幽、矛遊、誘われるように憎い相手の家の前に立っていた。
がびがびの手で顔をこすったら痛かった。しっかり目をつぶっていても目の周りが痛い。見直しても、タツヤの家だ。
勝手知ったる。そっと忍び込んで……仲の良いときには用も無いのに夜中までやつの部屋にいたもんだ。
狼に相談す、よろしく。栄太は、これから殴るけど。と、あえて聞くつもり。なんと答えるか。そればかり考えている。いってみれば、
百獣の王はウサギを倒す。ときにも、全力で一撃で、しかも、直前に、ウガァーッと、警句発して吹っ飛ばすという。とか云いながら、ねずみには騙されたりするから、猫の王様にちがいがないのだろう。
「なにやってんだ?」
後ろから声をかけられた。タツヤに背後を取られてしまっていたのだ。