第91期 #4
気がつくとそこは狭い空間だった。自分の顔から目の前の壁まで30センチもない。白い壁紙には所どころ画びょうであけられたような穴がある。天井の方から降りてくる光に目がくらみ、体中がいうことを聞かないような感覚に陥っている。
ここはどこだろうか。そもそも、自分は何なのか思い出せない。かろうじて動く眼球をぐるりとまわし、捉えたのは自分のものであろう腕と足。そうか、これは腕と足というのだ。両の腕はそれぞれ同じ位置にある足の上に置かれている。では他の自分を形作るものはどうだろうか。腹は視界のちょうど真下に映っている。そしてその下には男性を象徴するもの、ぼんやりとしているが鼻らしきものも見える。
自分にはちゃんと体があるらしい。しかしながら、思うように動かすことができない。いや、そもそもこれらは動くのか。そんな疑問さえ頭をよぎる。右腕に力を入れてみる。肘の辺りがぴくりと反応する。それにともなって手がぶるっと震えた。思い出した。この体は動いていた。しかもごく最近まで。ではどうやって動かしていたのだろう。動いていた頃は動かし方なんて気にもとめなかった。それが今、壊れたおもちゃを前にして初めて取扱説明書を開く子供のように必死になっている。肘に力を入れるより、手のひらに力を入れ、手が自分の視界の真ん中に来るようにイメージしてみる。弱弱しく手が宙に浮かび、ゆっくりと視界の中心に入ってくる。ぼんやりしていた手がはっきりと映し出された。だが起床したばかりのように力が十分に入らず、小指の方から抜けていく。その時、人指し指が勝手にまっすぐ伸びた。小刻みに震えているが、おかげで人指し指だけに集中できる。
「こいつを曲げてやる。」
まるでスプーンを超能力で曲げるかのように人指し指に念力を送る。グッと集中して、人指し指全体に力をこめる。が、逆に鋼鉄のように硬い一本の太い棒になってしまう。第一関節から先が微妙に曲がり、感じたこのない痛みがピリピリと走る。だめだ、このままではだめだ。再び腕全体の力を抜く。手が一瞬で視界から消えると同時に、足に腕の重みが痛みを伴って覆いかぶさってきた。
――痛い――
その瞬間、一気に覚醒を迎える。自分を形成する全ての感覚が音を立てて動き出した。腕も足も、顔も何もかもが思い通りに動く。そして自分が今トイレで座っていることを思い出した。体と心が離れた、そんな一瞬。