第91期 #16
四月の夜の公園をツゲは走っていた。照明の下の桜は満開だった。ポケットには家の鍵とケータイが入っていた。
きょうで、プロジェクトを協働で進めてきたカエデからの連絡が来なくなって三日が経った。ツゲはきょう一日、明日のプレゼンの準備に追われていた。信じるべきは何か。一人でもプレゼンは自分の力で間に合うと想定できた。ツゲは目の前の仕事に集中することを第一とした。
正午を回ったところで一区切りつけると、同じフロアにある、もう一人の同僚のヤナギがいるシマに向かった。
「ヤナギはどこに行ったかな」
「さっき一年生の子たちを連れて外に食べに行きました」
「そうか」
喫煙室の扉を開けるとソファーに腰掛けて一服した。階下の食堂で昼食をとる気にもなれなかった。
喫煙室のガラス越しにオフィスの様子が見える。休憩の時間になっても働いている人。食事に出て今はいない人。ガラス一枚隔てて見ると、自分の干渉しない世界の色が一様に見える。一様な色の中にも差異はある。しかし差異はいくつかの種類に収まる。それがその会社の持つ文化だとツゲは思った。
食事に行かない人。食事に行った人。その集合体である会社は日々仕事をこなしていく。それでいい、それがいいのだとツゲは思った。
ヤナギが新入社員を連れて帰ってきた。喫煙室の扉を開き、ツゲの隣に腰掛けた。
「カエデと喧嘩したんだって?」
ヤナギは顔をツゲの顔に寄せた。彼の持つ切れ長の目と薄く引き出された唇は、相対した人間に親しみやすさと薄っぺらい印象を与えた。
「大丈夫うまくいく。今日中には連絡が来るさ。仲間を信じろよ」
「うるせえなぁ」
……
ツゲは走りながらカエデとの会話を思い出していた。思い返すにつれて段々と胃に膨らんでくるものを感じた。息する合間からつい言葉にして漏らした。
「信じろよだと、フザケるな。連絡が来なかったら俺がちゃんと信じてなかったってことになるのか? 冗談じゃない。信じたらうまくいく。信じられていないからうまくいかない。そんな道理があるか……!」
今からすれば、口角から泡でも飛ばしてあいつの顔にそう言ってやればよかったと、そう思えて仕様がない。
走り出して五十分が経った。夜は明日につながっていた。プレゼンの準備はあれでできたと言えるのだろうか。何が万全か。ツゲは不安を感じていた。まだケータイは鳴らない。十分息は上がっていたが、足を止める気にはなれなかった。