第90期 #21

あのとき

 雪の結晶みたいな形だった。手に取ると空気みたいに重さを感じないのに、強く握るとそれは岩のように硬い。眺めるのにも飽きて軽く空に放り投げたら、それは風に乗ってふわふわ飛んだ。なんだか面白いので、僕はそれをたくさん拾って、たくさん空に投げた。
「まるで生きてるみたいね」と彼女は、空に舞う物体を眺めながら言った。「でも、いつか力を失って落ちる。すべてのものがそうなの」
 君はきっと神様を信じないタイプだなと僕が言うと、彼女は何かを思い出したように微笑した。
「そうでもないわ。きっとわたし弱い人間よ」
 空に投げた物体は、風の力を受け少しずつ空を昇って行った。それに形も雪の結晶みたいなものから、だんだん細長くて、だらしない棒のようなものへと変化していくのだった。まるで捨てられたゴムひもみたいな、あるいは、どうにもやるせない日曜の午後みたいな。
「今日は特別に退屈ね」
 彼女は上着のポケットに両手をつっこむと軽くうつむいてみせた。
「キスして」
 僕は雪の結晶を空へ放り続けた。そこら中にいくらでも転がっているのだ。
「ねえ、キスして」
 君も投げてごらんよと、僕はそっぽを向いて言った。
「下らないわ……そんなもの」
 僕は大袈裟に溜め息をつきながら彼女を抱き寄せると、死んだ魚の腹みたいな彼女の白いひたいに、長い長いキスをした……。

「ほんとはね」
 あるとき彼女と、こんな話をしたっけ。
「死にたいと思ってたの」
 僕は隣で、彼女の髪に顔をうずめていた。
「ねえ、どんな匂いがする?」
「君の匂いがする。まるで君に抱き締められてるような感じさ」
「わたし生まれる前から、ずっとあなたのこと抱き締めていた気がするの。それ知ってた?」
「知らなかったよ」
「馬鹿ね」
 僕はふと思い出した。
「ずっと昔、悲しくて一緒に泣いたことがあったよね」
「ええ」
「あのとき、何がそんなに悲しかったんだろう?」

 長いキスをやめ頭をあげると、高い空の上に巨大な模様が浮かんでいた。一つ一つの物体が鎖のように繋がりあって、地上を覆う重力の支配に戦いを挑んでいる。
「あのとき、悲しいことなんて何もなかったわ」と彼女は横顔で言った。「ほんとは何も、恐れるものなんてなかったのよ」
 でも恐いんだ。
「息をするたび、大切なものを一つ一つ奪われてる」
 彼女は雪の結晶を一つ拾い上げると、ひどく不器用な動作で空へ放り投げた。
「わたし、赤ちゃんができたの」


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