第9期 #8
「アタシ?」
おれが声を掛けたのはいかにも場末のバーに相応しいはすっぱなハスキー・ボイスの女だった。大きな眼がくるくると落ち着きなくよく動く。
「誰かと間違えてるんじゃないの?」
そう言いつつも女の声は押し殺した確信に微かながら震えていた。おれは黙って女の隣に座った、そしてバーテンダーに言った。
「トマト・ジュースを」
「トマト・ジュース?」
女は呆れたように笑った。
「トマト・ジュースさ。おかしいかい?」
女は首を振った。香水の匂いがおれの鼻先を掠めた。
「三ヶ月前のことだ」
おれはぽつりと独り言のように言った。
「おれの友達がある女を捨てた」
「ずいぶん昔の話ね」
そう、ずいぶん昔の話だ。
「お友達はなぜそのヒトを捨てたの?」
「理由はない。よく女を捨てる奴なんだ」
「あらあら」
おれの前にバーテンダーがちりちりに冷えたトマト・ジュースを持って来た。トマトの赤は誰かを誠実に裏切るときの嘘に似ている。それをおれは一口だけ含んだ。
「美味しそうね」
「旨い」
おれはタンブラーを置いた。
「それでおれはそいつに頼まれて女を捜してるんだ。これを渡すためにね」
離婚届だった。
「あらあら」
女は愉快そうに笑った。そしてそこに書き入れられている名前を見た。
「これってアタシ?」
「そうだ。君の名前だ」
「お友達はアタシを捨てるだけじゃ物足りなくて、アタシに“捨てられた女”っていう烙印を背負わせたい訳ね?」
「まあ、そうなる」
女は酒臭い息を吐き出しながらまた笑った。
「お笑い種だわ。アタシに何もかも捨てろって言うの? あいつを苦しめる唯一の切り札さえも」
「君だって楽になれる」
「アタシは楽になんかなりたくないの!」
バーボンのグラスを握り締めた女の手が、滑稽なほどぶるぶると震えた。おれはそれを見ないようにした。
「アタシはずっとあいつの自由を奪ってやるの。アタシの自由の全部を賭けてね。アタシに信じられる正義はただそれだけなの」
「よく分かる」
おれはまたトマト・ジュースを飲んだ。
「でも君はまだ若い。君の自由を解放してあげるべきだ」
「ねえ」
女は一息にバーボンを飲み干してから、ふっと呟いた。
「アタシにもそのトマト・ジュースちょうだい」
おれはもちろん、というように手を広げるジェスチュアをした。女はゆっくりとタンブラーを傾けた。
「美味しい」
女は泣いた。
「だろう?」
おれは笑った。トマトの赤は行き場を失った愛に似ている。