第89期 #4

『月下』

 美しいものを美しいと呼ぶ……たった其れだけのことを否定したまま事切れた彼女に今は何も言うまい。
 春は曙、夏は夜とて、彼女が好む晩夏の十六夜を、私は幾度か伴って過ごしたが、其の元来の美しさ、風流、侘び寂びさえも彼女は気にさえしていなかったのだろう。
 出会った頃の上弦の月めいた輪郭は最近めっきり月見団子になってきていて、それとなく指摘すれば、綺麗なぞと言ってはいられぬ。そんなことばかし言う様になって、暇なく氷菓子やらパン菓子やら口にする年中御八つ刻を信条とし始めたからには私も倣って、好きな様に生きたらいいと突き放した長月の夜。
 流石に幼児の世話を放った頃には生活の終が見えたので、末期の祈り宜しく彼女の頬を二発平手打ちした。目さえ覚めてくれば良かったのだが、逆上して流しの包丁を持ち出してきた時には、アアもう終わりだと悟った。
 正当防衛なぞと自己弁護するつもりはない。一度命の涯てまで愛そうと誓った女である。彼女を気狂いにさせたのは愛足りぬ私の罪だ。一粒種は健やかに育っている。母の顔は覚えていないだろうが、新たな乳母を招く余裕はない。男手一つ、妻の手筈の分まで息子を育てよう。
 彼も一端に美意識を携えている。流石、私の血を引いているのだ。首もとから紅蓮たる動脈血を垂れ流して、腹まで染めた母の豊満な乳房に、其の輪に、吸い付いた彼だ。
 噎せる妻の寝間着をはだけさせて、両乳を露にさせると、よちゝゝ歩きをした息子は悦んで乳首をしゃぶった。元気な子だ。半身を紅に染めた妻の裸体だが、其れは性の塊だった。血糊で固められた彫刻のような鎖骨、無造作に放られた二つの乳房、唾液と吐血が塗られた唇、ぱっくりと開いた喉の傷から顔を出している妻の肉……。
 其れらが窓から差し込む月光に照射され、邪教の女神の来迎を感じさせた。其の神秘が、私をまるで赤子同然にさせ、息子と魂を分かち合い、他方の乳房に吸い付かせる。お前の味、美しき美美美美美慟哭……。
 傷口に生暖かい聖水を求め、指を挿入する。堪え兼ねて。私は私は私は息子の目の前で其の生殖の儀を。月夜に脈打つ某を妻の開いた傷口に挿入し、果て、血花を辺りに振り撒き、紅と純白を綯い交ぜにする、恍惚かな、夏の夜更け。幼児は満腹で眠ってしまった。
 其の傍らで数年を経て愛を食らい合う私たち、妻よ、女羊よ、妻であったが又妻となった妻よ、美しい、開いた花弁は血に濡れて花鳥風月。



Copyright © 2010 石川楡井 / 編集: 短編