第89期 #20
凧は安堵感の中で漂っているようだった。穏やかな風に吹かれて、晴れた空の下で飛んでいた。
町は風花が舞っていた。小さな公園で飛ぶ凧は糸をのばして昇っていった。
空は柵にも見える電線によって四角く囲まれている。凧を飛ばす人は気を付けていたが、大きな風に吹かれて、凧は電線に絡まった。
夜の住宅地を上る坂道を、風が駆け抜けていった。坂を歩くはたちの女の子は、マフラーの中に顔を沈めた。
どこからか女の人の声が聞こえた。抑揚があって、音程があって、歌声と気付いた。前を歩く、パンツのスーツ姿の人が歌っていると気が付いた。
それはいつか流行した歌のようにも聴こえたし、洋楽のようにも聴こえた。しかし後ろを歩くその子には、はっきりとは分からなかった。
彼女は家に戻ると、さっき前を歩く人が風の中で歌を歌っていたよと、彼に話をした。
男は彼女の腕の中で、彼女の胸襟に耳を当てている。とくん、とくんという振動が聞こえる。しかし彼女の心音なのか、彼自身の耳の中を流れる血液の音なのかははっきりしない。
聞いてる? と訊いてきた彼女に、彼は聴いてるよと答えた。
二人は駅で待ち合わせていた。一人は新曲のインプレと云って、一枚の紙を相手の男に見せた。折り目のついた白い紙だった。
忘れられたこえが聴こえる 人々はパレードをやめて
きえ逝く心音 すくいあげて 夜露のシズク
……らしくないね。
友達が泣いてたんだ。
友達って誰のこと。
君は知らない子なんだ。
返そうとした手を制すので、男は紙を財布の中にしまった。紙をくわえた財布は、少し膨れて尻のポケットに収まった。
昼下がりの街角の喫茶店のラジオは、ヘンドリックスの「エヴァ・マリア」を流していた。柱時計の向こうに、三人組の学生が腰掛けていた。
カプチーノを届けたマスターはカウンターに納まると一つの絵に見える。空調が静かに回っている。外の日差しは、もう春のもののように暖かく見えた。
これムースがハートの形してて可愛いね。
でも甘くないんだよ。
旅行のパンフに見てほしいところがあるんだけど。
おしぼりあるけど要る。
うん、いいや。
サトコ、フラれたね。
うん。
え、なんで。
おしぼりもらってもらえなくて。
おしぼりがフラれたの。
あ、ケータイ拭きたいから。ちょうだい。
はい、どうぞ。
ねぇ、遺跡探索と足つぼマッサージ、今の私たちにどっちが必要だと思う。……