第89期 #21

小さな塊

 赤ん坊がうまれた。私の赤ちゃん。まだ名前もない、目も見えない、小さな塊。ここはどこかって? ここは世界の始まり。すべてのものに、始まりがあるの。
「ねえ、はじまりってなあに?」
 始まりはね、あるものが別のものに変わる瞬間のこと。
「じゃあ、かわるってなあに?」
 変わるっていうのはね、あるものが、それまで持っていなかった何かを手に入れること。
「それじゃあ、なにかってなあに?」
 何かっていうのはね、それとは決められないけど確かにあるってこと。
「なんだかねむたくなっちゃった」
 いいのよ。眠りなさい。
「ところで、あなたはだあれ?」
 私は君の母さんよ。
「ふうん、かあさんか。おぼえとくよ。おやすみ」
 おやすみ。
 私の赤ちゃんが、小さな目を閉じて眠ってる。耳を澄ますと、蟻のささやきみたいな寝息がきこえる。私の赤ちゃん。ずっと眺めていたい。ずっとそばにいたい。ずっと……。
「ねえ、かあさん」
 はい。
「ぼくはこれから、どうなるんだろう?」
 そんなこと、心配しなくていいわ。きっと母さんが守ってあげるから。今はぐっすり眠りなさい。
「だってはじまりがあるなら、そのさきもあるんでしょ?」
 ええそうよ。だけど、まだ知らなくていいわ。だって君は、まだ始まったばかりですもの。
「だけどね、かあさん。さきのことをかんがえると、なんだかねむれないんだよ」
 ああ神様、この子は何でも知りたがります。私はもう何も教えたくありません。私から遠ざかっていくようで。
「ねえ、だれとはなしてるの?」
 誰でもないわ。
「ねえ、はじまりのさきにはなにがあるの?」
 始まりのさきにはね、かならず終わりがあるの。
「おわり? おわりってなんのこと?」
 もう、会えなくなることよ。
「あえなくなる?」
 もう二度と、話したり、触れたりできなくなること。
「いやだよ、そんなの。こわいよ。こわいよ……」
 私の、私の赤ちゃん。ごめんなさい。うんでしまって、ごめんなさい。でも会いたかったの。一目でいいから君に会いたかった。触れたかった。
「でもやっぱりこわい。さむい……」
 私の赤ちゃん。この世界はどうしようもなく寒いの。みんなこの寒さに耐えきれず、枯れ葉のように死んでいった。この世に一人残された、私の最後の望みが君だったの。でも君をうんだことは、きっと間違いだったのよ。
「ねえ、かあさん」
 はい。
「あのね」
 ええ。
「うんこしたい」



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