第87期全作品一覧

# 題名 作者 文字数
1 夏の終わりのクリムソン 三毛猫 澪 1000
2 巨乳娘と貧乳娘 アンデッド 960
3 九十八番に刺されて キリハラ 1000
4 人形の涙 近江舞子 1000
5 ついカッとなってやった、今は反省している。 リバー 946
6 手紙 尚文産商堂 1000
7 硝煙を思う 菊尾 867
8 『悲しい話』と朝焼けの炎 二階堂てい 708
9 或る心地好く耐え難き話 くわず 1000
10 今夜の彼女は A- 757
11 負われ追われて終われ 西都シン 980
12 はじまりにむけて 金武宗基 963
13 溜息望星 おひるねX 1000
14 すみません私が犯人です。 藻朱 995
15 ストロベリーキャンディ 笹乃 901
16 茜色ノスタルジー かやこ 982
17 祝福?何それ食べれるの? のい 966
18 桜の少女 圧散 631
19 告白 借る刊 1000
20 サンタさんへ 高橋唯 999
21 とちかん 謙悟 823
22 レシート 狩馬映太郎 1000
23 雪、死、 みうら 1000
24 青ずきんちゃん 笹帽子 1000
25 不条理な邸宅 クマの子 1000
26 見えない眼 彼岸堂 1000
27 ネコムラサキ 庭師の守護 1000
28 『代わりに、小鳩を』 石川楡井 1000
29 愛国上空 朝野十字 1000
30 幸福独占禁止法 中崎 信幸 837
31 群青色と黄緑色のマフラー 宇加谷 研一郎 1000
32 都市へ euReka 994
33 一度きりの花 えぬじぃ 1000
34 ライカ るるるぶ☆どっぐちゃん 1000
35 僕と妹 初瀬真 1000

#1

夏の終わりのクリムソン

 軽音楽部のリョウヤが、新しい楽器を買いに行くから次の土曜日つきあってくれと誘ってきた。
 リョウヤの“つきあってくれ”が微妙な含みのある抑揚だったので、私はどう答えていいのか迷った。迷ったあげく迂闊にも首を縦に振ってしまった。
 商店街は土曜日だというのに人通りも疎らで、ほとんどの店がシャッターを閉ざし閑散としていた。なのに足元のカラー舗装は妙に鮮やかで。そのアンバランスさが御伽の国を思わせ、浮かれた私は楽器屋のショーウインドーの前でクルリと素敵なターンをしてみせた。
 楽器屋には様々な楽器が展示されていた。なかには使い方さえ解らない不思議な形をしたものも並んでいた。
「なにを買うの」
「打楽器がいいんだ。楽章の最後に一度だけ打つんだ。心に響くよう」
「これなんてどう」私は銀色をした先の尖った長い棒を手に取ってみせた。
 リョウヤが隣に来る。肩が触れる。リョウヤの温もりが制服越しに伝わってくる。男子ってあったかいんだなと、胸の奥がとくんと鳴った。
「投げ槍って書いてあるぜ」
「ねえ。どうやって使うの」
「解んねえけど、カッコいいからこれに決めた」
「そんなんで決めていいの」心配になったけど横顔がとても嬉しそうだったので、運命に出会えたんだなって思った。
「お礼に何か買ってやるから好きなの選べよ」
 せっかくだから私は長い竹に弦が張られた楽器を選んだ。もちろん割勘で。
「取扱説明書に『けっして人に向けて使用しないで下さい』って書いてあるよ」
「大人ってヤツは、楽しいことほど『やってはいけない』って言うもんさ」
 店を出た私は音色を確かめてみたくなり弦を弾いた。一本しかない長い弦は緩やかに震え悲しげな音色を奏でた。
 私が立ち止まったことに気付かず歩きつづけていたリョウヤが十メートルほど先で振り返った。目が合う。リョウヤの視線は幾万の言葉を尽くしたよりも熱く語っていた。私の瞳もそうだったに違いない。
 私は弦に矢をつがえリョウヤを見据える。
 リョウヤは投擲の姿勢をとった。
 ばらばらだったふたつの呼吸は、やがてひとつに調律され、ふたつの楽器が寒空を振るわせた。それは瞬きすれば消えてしまいそうなほど短いひとときであり、また悠久とも思えるひとときだった。
 確かに響いた。私の心に。きっとリョウヤの胸にも同じように響いたに違いない。
 ふたつの横たわる影の下、カラー舗装はもうひとつの色を追加され夏の残響を見送った。


#2

巨乳娘と貧乳娘

 麗らかな木漏れ日の中。

「おっぱいがデカい女ってムカつかね?」

 オープンカフェで時を過ごしていた私の耳に、女の声が飛び込んできた。歩道にせり出して置かれているテーブル席に座っていた私は、声のした方を見る。
 同じ様なテーブルの一つに女の子二人組が座っていた。

「私は羨ましいよ」

 胸元がまな板の様な子がそう言うと、

「脱いだら垂れてるって」

 推定Bカップの貧乳娘が反論した。話のテーマは胸の大きさか。

「ごめんね? でかくて」

 彼女達の隣テーブルに座っていた二人組の一人、推定Gカップの巨乳娘が突然笑い声をあげた。

「はぁ? 普通が一番じゃね」

 Bが負けじと反論した。BとGの間で火花が散り論争が始まる。

「私AAカップです」

 Gと一緒に座っていた子も会話に乱入。まな板の表情が変わる。

「私も。太らない代わりに胸も太らない」
「太らないけど女として悲しいですよね」

 まな板とAAが共感した模様。貧乳が巨乳がと罵り合うBとGの口論を余所に、貧乳話で盛り上がっている。

「うん、悲しい。食べても太らないの羨ましいとか言われるけど、それは自分で我慢すればいい。胸は頑張っても無理」
「夏も嫌ですよね、可愛い服着てもハンガーに干してるみたい。最近のキャミ胸元△△になってるし。お互い大変ですね」
「解る。貧相に見えるの嫌だから最近はふわふわしたシフォンの着てる。上手くやって可愛く着れる様に頑張ろ!」
「はい、何かAAでも勇気出ました!」

 片やBとGの口論が続いていたその時、

「乳輪が大きい人は嫌です」

 スーツの男が立ち止まり突如として意見を挟む。

「あ、すんません」

 Gが笑いながら返すと、男はさっさと歩き去った。

「ムカつく。寝る」

 Bはそう言ってそのままテーブルに突っ伏してしまった。

「何でむかつくのか気になる」とG。
 男の人の興味の行き方からしても、それはやはり嫉妬じゃない?

 伏せていたBが顔を上げた。

「我慢してたけど眠れない。一人でムカついてごめんなさい」

 Gは笑顔でBの頭を撫でていた。どうやら和解した様だ。
 私の隣テーブルでふと声がした。

「体に合わせると胸が入らず、胸に合わせると体がブカブカ。伸縮するのでも胸を締め付けて胸下は汗だらけ。ブラも可愛くない」

 見ると太った娘がボソボソ呟いている。
 私は自分のEカップを見て胸を撫で下ろした。


#3

九十八番に刺されて

 廊下を走ってはいけない。そう校則の第二条に書いてある。理由は蜂達が興奮するからで、彼らが生徒を刺せば事故になる。けれど様々な理由から廊下を走る生徒は絶えず、時折悲鳴が校舎に轟き、或いは慌てて教師に取り押さえられる。
 刺された相手が八十番台のスズメバチまでなら保健室に血清が置いてある。でも、九十番台、森を支配するムクドリバチの物だけは何故か存在せず、刺されれば大抵死ぬ。ムクドリの名を冠した彼らは大きく、鋭利な顎と針で静かに人間を威嚇しているように見える。
「イタル」
 僕は幼馴染に名を呼ばれ、我に返った。
「円」
「あのさ」円は声を潜め言葉を継ぐ。「九十八番に刺されると九十九番になるって知ってる?」
 九十八番はオオムクドリバチ、九十九番とは、何にも分類されていない漆黒の蜂を指す。最近、九十八番に刺されるとその黒い蜂に生まれ変わるという噂が流れている。
 ムクドリバチがどうして森から出て来たのかは誰も知らない。森には蜂の王がいて財宝を貯め込んでいるという風説を真に受けた人達が森に押し入り、蜂達と戦争をし、そして負けた。それが今の状況を生み出したと聞くけど、定かじゃない。実際、鉢の王の存在は確認されていない。九十九番も単なる変種かもしれない。
 とにかく九十番台を極力避けることが町で生きる人間の常識になっている。
「蜂と喋ったことないから分からないよ」僕は困りつつ答えた。
「うん」円は頷く。「でも、この間ミキが九十八番に刺されてさ、それから妙に私の傍をうろつく九十九番がいるんだ。何か私の周り飛び回ったり、目の前で止まったりして」
「恐いね」
 小さく被りを振る円。「ううん、怖くない。不思議……」言葉を切り、一瞬躊躇った後、懇願するように囁く。「イタルは、もし私が九十九番になったら怖がらないでくれる?」
 僕は答えられず、チャイムが鳴って彼女は自分の席へ戻った。
 翌週、円は友達を庇って九十八番に刺され、病院に搬送されたが結局死んでしまった。
 間もなくして教室に九十九番が一匹増え、僕の周りを飛ぶようになった。円が言った通り、目の前で何かを訴えるようにホバリングすることもある。
 円と最後に言葉を交わした時、彼女は九十九番に情を感じていたような気がする。それは今の僕にはよく分かる。ただ、僕が九十八番に刺されることを好しとするか、結果彼女の元へ行けるのか、それは幸せなことなのか。答えはまだ出ていない。


#4

人形の涙

 彼女は涙を流した。
 この恋は成就しないとわかってしまったから。
 それは、遠くからそっと見守るだけの、しかし、熱い片思いだった。
 男とは中学生の時分に初めて出逢った。とにかくやさしい男で、誰にでも分け隔てなく接するところに彼女は惹かれた。彼女は自分の容姿が醜いことを卑下していた。だが、そんなことを気にすることなく、いつも微笑んで話しかけてくれる男を、彼女は大好きになっていた。
 それから大学を卒業するまで、一緒の学校に通ったが、ついに深い関係を築けずに終わってしまった。顔を合わせば声をかけるが、挨拶程度でおしまい。彼女はどこまでも晩熟だった。卒業後、人伝に知ったのだが、男には恋人がいたらしい。それも中学校の頃から付き合っていて、それから大学を卒業して間もなく結婚した、と。
 彼女の恋はとうとう叶わなかった。心の弱い彼女は絶望の余り断崖から身を投げ、自ら命を放り捨てた。
 彼女は涙を流した。
 神様は彼女を見ていた。かわいそうな彼女を憐れんで、生き返らせてあげようとした。しかし、肉体の損傷が激しく、それは不可能なことだった。その代わりに、彼女が大事にしていた青い瞳の人形を魂の容器にして、彼女を生き返らせた。もう一度、彼に会えるかもしれない。彼女は神様に感謝した。
 彼女の両親は、彼女の思い出の品を親しい人々に引き取ってもらった。それが、彼女への供養となると思って。
 中でも青い瞳の人形――彼女――は、一番仲良くしていた女の子の手に渡った。その女の子というのが、彼女の恋する相手の妻だった。
 彼女は涙を流した。
 ようやく彼のそばに行けたが、彼女のほうを向いてはくれない。妻に恋をしている彼を見るのは苦しかった。他人の幸せが彼女の不幸せだった。祝福できない自分を彼女は呪った。
 神様は彼女の味方だった。ある日、悲しみにくれる彼女を見かねて、男の妻を事故で殺してしまった。残されたのは男と、彼の妻が大切にしていた青い瞳の人形。そう、彼女だった。
 彼女は涙を流した。
 ようやく彼と一緒になれたのだから。恋をしていた男と。
 これからはずっと二人きりだ。
 神様はそれを見届けると眠ってしまった。
 男は涙を流した。妻を失い、ひとりぼっちになってしまった。葬儀でも気丈に振舞っていたが、人のいないところで泣いていた。
 そして男は、妻が大切にしていた青い瞳の人形を、妻の棺桶に入れて埋葬した。
 彼女は涙を流した。


#5

ついカッとなってやった、今は反省している。

格子のはまったワゴン車は、月明かりの下、ごとごと走る。
囚人たちは、みな沈痛な面持ちだ。
噂によると、この車の行き先は、この国でいちばん悪いやつらが集まるところ。
一度入ったら最後、二度と生きては出られない、巨大な墓場。
生きているのが嫌になるような、とびきりの地獄がまっているらしい。
おれは震えが止まらなかった。

沈黙に耐えかねて、隣の男に話しかける。
「あんたは何をやったんだ?」
隣の男はにやにやと笑いながら答えた。
「無実の罪で捕らえられたんだ」
「映画の見過ぎじゃないのか?冗談はいいから本当のことを言ってくれよ」
「やっていないことを数えた方が早いぐらい、たくさんの悪いこと」
思わずためいきがでた。男の目は嘘を言っていない。どうやら噂は本当らしい。
「そうか、あんた大物なんだな。おれは怖くてたまらない、どんな地獄が待ち受けているのやら」
「大丈夫、少しも心配することないさ」
「なぜそう言い切れる?あんたも噂にきいてるだろう、あそこは恐ろしいところだって」
「知っているよ。だからいいのさ。」
男は笑顔のまま答えた。
「おれは生きていくためにたくさんの人を傷つけてきたんだ。心が痛んだけれど仕方がなかった。
この車の向かう先には、おれみたいなろくでなしばかり。
毎日傷つけたり傷つけられたりしているんだろう?そんなことはへっちゃらなのさ。
いちばん辛いのは、生きていくために善良な誰かを傷つけることだ、良心の痛みだ。
ろくでなしばかりがいるところで、傷つけても傷つけられても、おれの心は痛まない。
おれはこれから、きっと生まれて初めて、心の平穏が得られるはずさ」

明け方ごろ、目的地に着いた。
施設の中は意外なほど清潔で、おれはかなり拍子抜けした。
高圧的な看守もいない。みんな穏やかな表情をしている。

一通り身体検査を終わらせてから、施設で一番えらいひとがやってきて、説明を受けた。
おれたちは今から手術を受ける。脳を少しばかりいじくって、真人間にしてもらえるそうだ。
そのあとは、空調のきいた快適な空間で、自由に過ごせばいいらしい。





三日も経たないうちにあいつは死んだ。本当にずいぶんと悪いことをしてきたみたいだ。





おれは平気だった、なぜならばおれは無実の罪で捕らえられたから。
もしもそんな風に言えたらどれだけよかっただろうと思う。


#6

手紙

君がこの手紙を読む頃、俺は死んでいるだろう。

君と会った時、俺の心に一つのオアシスが生まれた。18歳の春、君と初めて出会った場所は陸軍兵学校だった。見た瞬間に俺は君に一目ぼれをした。学校一のマドンナと評判だったな。
20歳までに、君には男が群れていたが、誰一人として相手をしていなかった。君は知らないだろうが、男の中には、君と付き合った人に対して金を出すというやつもいたほどだ。
22歳になるころには、そんな君に誰も手を出すことはなくなっていた。そんなとき、俺は思いきって君に告白をした。すんなり「良いよ」って言ってくれた時の気持ちは、今なお色あせることがない。
少しはにかむ君の写真を、この手紙を書いている最中も見つめている。横にいるやつが少しばかしうらやましそうに見ているのは、公然の秘密だ。
この写真を撮った直後、俺たちは陸軍砲兵隊へ配属された。今なお覚えてる、あの硝煙の煙、におい、模擬弾戦で勝った時の高揚感…そのすべてが、俺と君の記憶の中にあるんだ。

それから5年と経たない間に戦争が始まってしまった。俺たちはどこまでも一緒にいていた。野戦、市街戦、遭遇戦…数々の戦いの中でも、俺たちの腕は磨かれる一方だった。あのころが、俺にとって、一番幸せな時だった。君にとってどうかは知らないが、あの顔を見る限り、俺と同じような気持ちだったんじゃないのかな。
俺は、君といること自体が、一番安らぐ時間だと気づいていた。上司もそれを知っていたからこそ、俺たちを引き離すことをせず、さらには砲術士官として二人とも重用してくれた。
しかし、戦争とは別れることが基本。そんな俺たちにも別れが訪れた。たった1枚しかないその手紙が、俺たちの生死すら分けた。君はその手紙を持って本土へ帰って行った。俺はその場に残り続け、司令長官参謀として活躍を続けた。
さらに半年が過ぎたころ、俺たちの軍は相手と一進一退を続けていた。長官もいよいよ最期を覚悟しての突撃をかけるべきかどうかを大本営と調整を続けている。その時、本土が爆撃を受けたことを知った。君がいるはずの町が、君が避難するはずの場所が、襲われた時のショックは、計り知れないものがある。

翌日、最後の大攻勢に掛けることを長官に具申した。俺ももうすぐ全員と道をともにするつもりだ。

最後になったが、君には感謝している。

少しの間だったが、一緒にいてくれて、本当にありがとう。
そして、さようなら。


#7

硝煙を思う

仕方のない人が仕方ない顔してやってきた昼下がり、君は安心してベンチで寛いだ。仕方のない人は手持ち無沙汰を紛らわせようと煙草に火を着けて白い煙をフーッと秋空へ散らした。君はそれを見て運動会を連想した。
君は運動会で先生達が持っていた小さな鉄砲が鳴らす乾いた銃声のその後に僅かばかりに立ち上る硝煙、それを眺めるのが好きだった。クネクネとした細身の煙だが存在感がしっかりとしていたからだ。その存在感は硝煙そのものだけで形作られているものではないと暫くして君は気が付いた。
あの銃声の後にゆらりと立ち昇る事に静と動を感じていたんだと当時を振り返る。銃声が鳴る前の緊迫感は静だったし、その後に巻き起こる周囲の歓声は動だった。表裏一体である静と動に私は魅了されていたんだ。と君は思った。
仕方のない人は「なんだか寒くなってきたもんだねぇ」と相変わらず言っても仕方のない事を口にして二本目の煙草の煙を先ほどと同じように吐き出していた。君は再び思った。「この人自身は静だけどこの煙草の煙の吐き出し方。フーフー言ってるこの吐き出し方は動だ」仕方のない人は黙々と吐き出している。
君は聞いた。「なにをそんなに焦っているかのような吐き出し方なのよ」仕方のない人は言った。「早く暖かくなるようにね、こうやってフーッ。吹き飛ばそうとしているんだよ、季節を」君はそれは難しいよねと内心思いながら「でも早く寒くなりそうですね。冷ましてるみたいだもの。そのフーッていうの。熱い季節を冷ましてる感じ」と答えた。仕方のない人は「なるほど。確かにそうかも。じゃあ冷ますだけ冷ましたら、次はハァ〜だな」と顔が綻んだ。

ハァ〜もフーッも実は温度的には一緒なんだけどな。と君は思ったが、それは野暮だなと思い口にはしなかった。「ハァ〜か。だからため息が増えるのかこの季節は」仕方のない人はなんだか勝手に納得したらしい。君はその呟きを眺め、手元にある煙草の煙に目を向けた。細長く立ち昇り続けるその煙よりかは硝煙の方が、匂いも含めてなんだか風流なんだよなと改めて硝煙を思った。


#8

『悲しい話』と朝焼けの炎

 私とて『悲しい』話は好きではない。でも惹きつけられてしまうから、私が瞬きをした瞬間に、私の右手が『悲しい話』に伸びてしまっているのだろう。
 私はおかしいのではないか、と思っても、その心内を明かせる人間は誰一人としていない。それはつまり、私が誰にも心を開いてこなかった結果であり、また私に誰も心を開かなかった、という結果でもあるのかもしれない。答えはわからない。正直、わかりたくもない。
 わかりたくないのなら、その部分に触れなければいい。
 だけど心の奥底では、本当は、いつも薄暗い炎が燃え滾っているから、だから右手が『悲しい話』に伸びて行くんだ。きっと。
 
 朝焼けが本の中に染み込む。
 私が先月から読み続けていた『悲しい話』が、朝焼けに塗らされて、キラキラと輝いているようだ。
 私の内側は普段より遥かに燃え滾り、薄暗さは消えていた。しかしその代わりとでもいうのか、炎は暗黒であった。
 何か、抑え切れない衝動があった。今から始まる『日常』を、全て燃やし尽くしてしまいたいという願望があった。
 私は頭を振った。そんなことはダメだ。
 しかし私の目に映る朝焼けは、もはや漆黒であった。しかもその黒が、私の目の前で、永遠に佇むのではないかとさえ、思えた。
 私は動き出さなくちゃいけないんだ、と思った。
 
 彼はそれからスカートを履いて、化粧をして、女になった。
 彼の心内にいつも燻っていた漆黒の炎は、彼が彼女になった瞬間、呆気なく消えた。
 彼は、自分自身を、彼女になることで、見つけ出したのであった。
 彼女の前ではもはや、朝焼けは無限大の希望である。
 『悲しい話』を『楽しい話』に生まれ変わらせ、彼女は今日も、笑顔で化粧をする。


#9

或る心地好く耐え難き話

 伴うは最早野良猫のみという夜闇の帰り道で、前方に呆と照っているのはコンビニエンスストアの灯りである。
 ガラスに貼り付く様にして若者が二人、店内で雑誌を読み耽っていた。それはむしろ、居所の無い住まいから誘われ出でて、雑誌に顔を喰い付かれているかの如くである。彼らは一様に輪郭を失しながら、全くの匿名な形をしていた。
 この冷え々々とした灯りの下、三つ並んだ塵箱の脇に、それは在った。否、嘗て無かった事を在らしめた様に、無いものが在った事を無くしながら在った。
 鞄の底を弄って鍵を取り、扉を開けた。妻はどんなに帰りが遅くなろうとも、起きて待っている女であった。
 いつもの茶碗に僅かに盛った冷飯に熱い茶を注いでいると、妻が冷蔵庫から漬物を取り出して卓の上に置いた。人参と山芋であった。
「そこにさ、無いものが在ったよ」
 妻は小首を傾げたまま山芋を一切れ摘み、唯黙って前歯を忙しなく動かしながら食していた。
 翌朝、扉を開け陽光を浴びて漸く、塵箱の脇に在った昨夜のそれを思い出した。思い出して、それまで忘れていた事が靴底に滲んだ。駅までの路上に、暗い足跡が一つずつ染みて行く様であった。
 昼、街の角々に陣取った弁当屋に、人々が屯していた。無い在るものが無からしめられて行くその風景に、一つの情景が重なる。木製椅子の軋みと人肌の臭い、直ぐに弾けて消える囁き声、記憶の片隅に在った無いものを嘗て在らしめた事が確かに在ったのであった。
 Yの姿が在った。その情景の中でYは、在る無いものの隣の席に座っていた筈であった。殆ど口を利いた事の無かった男である。が、同窓名簿を調べ、Yに連絡を取った。
「はあ、わからないなあ。悪いね、力になれなくて」
 無いものが在ったという記憶がYの中に在った事が無からしめられているのであろうか。そうであれば、無いものが在るという事が嘗て在った事が、記憶の中に確かに在る無いものとして在る様に思えた。
 あの時、Yは隣で笑っていた。それは在る無いものの中で、無い事を在らしめながら無からしめられていく事によってのみ在る何かであった。

「この間言った無いもの、もう在ることを無くしてしまってたよ」
 茶漬けを啜り、向かい合って座る妻に、そう言った。妻は茄子の漬物を額の高さまで持ち上げ、だらりと下がったそれを口から迎えに行って喰った。
「漬かって無い」
 そう呟く妻は、白目の無い眼球で正面を見据えていた。


#10

今夜の彼女は

 どうも初めまして、織姫(おりひめ)でーす。あっ、可愛い名前だなんて、お世辞ありがとうございまーす。うふふ。**大学の四回生です。友達はここで言ったらきりがない位いて、それでも全員の誕生日は覚えてるの。それで毎回素敵なプレゼントを渡すのよ。そのお陰で、街中ですれ違ったら声をかけてくれる子が後を絶たなくってね、返事をするのが遅れちゃう……っていうのが憧れでーす。あくまでも憧れだからね、間違っても妄想とか言わないで〜。あ、そうそう。本名は大畑っていいます。
 中学時代は、テニスコートでひたすらボールを追いかけ汗を流してたわ。……え? テニス部でレギュラーになれたのかって? いやいや、三年間球拾いですから……。テニス部での思い出っていったら、……そうねー。お蝶夫人に憧れて髪を金髪に染めたら、美輪明宏みたいって不評だったことね〜。……もっと他の思い出? ああ、放課後になったらいっつも呼び出されてたわ〜、職員室に。煙草も吸ったことないのに、金髪の所為で不良扱いされちゃってね。あの頃は内申悪かったな〜。うふふっ、今はもう黒に戻したけど。でね〜。うちの学校に宗方様に似たの人がいてさー! うんうん、宗方コーチ……じゃないない。宗方勝巳さんよ、知らないの? もうー、『水戸黄門』とか『必殺仕事人』見てないの? ……ああ、そりゃ見てないわね、ごめんごめん。え? 私が『水戸黄門』とか見るわけ無いじゃないの。聞き間違いよ……きっと。
 でね〜……ああ、もう誰も聞いてない。また無視か……。サークル仲間の合コンでシカトされたの何回目だろう。今日も入れて、そうねー、二十回ね。まあいいわ、もう慣れたもの。それに私には生ビールという親友がついてるじゃないの! 店員さん、生ビールお代わりぃー! 今日も一人で盛り上がりますかぁ……。


#11

負われ追われて終われ

私とにかく急いでいるの。
時刻は昼下がりでお腹がゴロゴロ鳴り出す頃。早く食事を済ませなきゃって思うと文字通りファーストフードに入るしかないね。
ファミレスでパフェなんか食べたいけどそんな悠長な時間はないよ。店に入るとハンバーガー一つを注文。
本当ならテイクアウトにするべきだけど、そこは少しでも外食してる感じを味わいたい気持ちなの。
それはそれでいいけどハンバーガー一つでお腹が満たされるのかって?だって時間と一緒に体重まで削減できちゃうんだから、
急いでいる私にとって一石二鳥、または一挙両得な考えだと思わない?
それと水の注文を忘れずに。水くらいだったら何処の店もタダで出してくれるのだから、貰わない手はないよ。
席に着くと水をひと飲みして呼吸を整える。いくら焦っていても周りにはそれとなく普通に振る舞わなきゃ変でしょ。
ハンバーガーの包みを開けると最初にすることはピクルスを取ること。これはいくら急いでいたって必ず抜くね。注文の時に抜いておけばいいのかもしれないけど、
ほら、さっきも言ったように世の中には得体の知れない「世間体」なんて言葉があるじゃない。周りに気づかれないようにそっとね。
で、このピクルスなんだけど、これ誰が最初に入れようと思ったのかしら。いわゆる西洋風の漬け物らしいけど、絶対にミスマッチだと思うな。
別にたくあんを入れろとは言わないけどさ。
それでようやく食べ物に有りつけたわけ。もうこの時点で若干タイムオーバーになってしまいそうだけれど、ゆっくり味を噛み締めなきゃ損でしょ。せっかくの一人外食なんですもの。
ところで不思議なことに世の中には一人でファーストフードに入るのを拒む人もいるわけ。いくら「世間体」を気にする私でもその価値観は共有できないな。
ピクルス一つに気を遣う奴が何を言う、なんて思っているかも知れないけど、これが私のちょっとした非日常なの。
人間いつも日常じゃつまらなくて、たまには味の利いたスパイスなんか降りかけてやると、グッと生活にメリハリがつくんだから。
主婦同士でやる井戸端会議も好きだけど、一人でできる息抜きを持っていると寂しくないと思わない?
とか考えていたらもうこんな時間。帰りは三倍速で歩かないと。そのためにちゃんとスニーカー履いてきたんだから。
それで何故そんなに急いでいるかって?
私家事に追われているの。夕飯の支度をしなくちゃ。


#12

はじまりにむけて

その時僕は明らかに分裂していて
くったくなく笑う人の神経が
理解できなかった

「この人に矛盾はない」

能面の顔をした人も逆の根っこで
気持ちわるすぎる
分裂の無さが明らかに分裂を表していた

チヂに引き裂かれる身
浮揚感と不安感

「三千の役割」  「三千の顔」

豊かな高揚は 同時に 豊かな不安だ
多重人格の研究といっても、、、
皆三千重人格なのだから

今まで見た来た顔はいくつだろう、、そして別の顔すらしらなかったりする ステレオタイプに知ってる


思えば今まで何千何万と産まれ変わってきた
海や陸や空中や土中や水中や
オスや命主や
胎内で変化の劇を 今生では一つの使命を
五○億では百年さえやっとひとつだ。しかし、一つの使命とは命をつなぐことでしかない ただ已の 只今六○億、六○憶、
かけるの三千、かけるの五○億かけるの、

何色に見える?その色は
もう、、ね。
うつくしいモザイクだろうな
黒山の蟻じゃないんだよ?でも色んな色がまざって、
漆黒にしか見えないかもなァ
波がざわめくんだろうなあ
美しいなぁ、 漆黒、、

君は、いや、僕は、とっても負けず嫌いだね
負けたフリすればいいじゃん、負けたが勝ちでしょ?
でも勝ちたい、強欲だね
いいよ。今は。
そんなには続かない
でも自分を失ってシンプルになるんだろう?

五十年、削ったら、自分の形が見えるって、儒家
あの削られたひとはとっても美しかった
それでもまだ?いや五十年、生きるか生きないか、だな
早い燃焼だ

うらやましいんでしょう?

、、ハイ、でも、幸せになりたい

そんな覚悟でなれるワケないでしょ
幸せになりますダ。楽しんでいるかい?

しんどい。でもたのしい。成功する率はない。
でも幸せになる率は百パーみたいだ。
だから失敗をおそれずに。失敗を友達に

死神はいつも思ってるよ

「生きろ」

死ぬことさえも生きる事
生きる為のこと

おさえられない!
ムズムズする。がまんして、
出すべき所で出すよ
どうやって?
どの様に?

あの光の下で堂々と!

あの光はどこ?
あなたにとって、
大切な場所、大切なひと、

本当に大切に思ってる!?

馬鹿だア、ウソだア、

消費してるだけでしょう?

馬鹿に気づけてよかったね。はじまりにむけて。

   20091118

大切にされてこなかったんダなア、なんておもったり

いや、大切にしていきたいんだ、という決意だったり、

いや、決意なら「大切にします!」だ。自も、他も!


#13

溜息望星

尾玉科甲は住宅街への道を歩いていた、車がやっと通るくらいの裏道には銀行やビルばかりの駅前から、蕎麦屋レストラン、やがて、飲み屋、裏ぶれたサービスの看板と移りゆき、パタと普通の家が始まるようになる。周りがすこし静かになったように感じると胸のつかえを飲み込むように夜空を見上げた。星がきれいだった。
風が強く寒い。月がない夜空にひとつ、強く輝いてる星がニュースでいっていた超新星だろう。
その強い光のようなことがあったのだ。課長に呼ばれ会議室に行ってみたら人事部長が待っていた。
「雰囲気が停滞しているんじゃないか」
いきなり挨拶もなく言い放った。まるで二人して叱責されるようであった。課長がははぁッとかしこまった。科甲は大きく頭を下げた。そのまま、下を向いているしかなかった。
「いやいや、難しいことをいってるんじゃない誰が悪いといってるわけじゃないんだよ」
部長が手の平を返したように愛想良く話を続ける。
「どうだろう? すこし人員を入れ替えたらまたいくらかしゃきっとするじゃなかろうか?」
「はッ、そうです。まさに職場に活気が溢れること間違いありません」課長がもみ手をしながら賛成する。
科甲は頭を下げたまんまだ。
「じつは、な、相談があるんだ。ほらほら、頭を上げてこっちへ来て座ってくれ」
「ははぁッ」課長がすっ飛んで行き、科甲もあとを追った。
「ま、ほかには聞かれたくない話なのよ」
秘密めかしてたのまれたことは、退職社員を決めろということだった。五人位退職してもらいたい。そして、四人か五人を新たに雇う。
たしかにそんな話は聞かれたくないだろう。
科甲だって聞きたくない話だ。
「ぜひ、わたしにおまかせください」課長が言った。「そりゃ、いいアイデアです」
「彼は若いし抜擢されれば全身全霊で仕事に打ち込むでしょう」
「はい! ぜひやらせてください」
結局、科甲はこの一言だけである。

人事課自分の机に戻る途中、課長は
「よろしく頼むよ」と、すべて科甲に押し付けてきた。
どうでもいいような行方の定まらない気持ちが胸に渦巻くばかりだった。借り上げの社宅マンションは住み心地が良かったし、自分は対象じゃないんだから気が楽だ。
郵便受けを覗くと裁判所からの事務連絡が入っていた。
そうだったな、裁判員になればめんどうな仕事から離れていられるな。
エレベーターの扉が開く瞬間ちらっとそんな風のよう想いが吹き込んだが、まったく意識されることなくきえた。


#14

すみません私が犯人です。

 昨日、世の中というものに決別をくれてやった。エコとかいう前向きな響きがなんとも胡散臭く感じたからだ。最後に世の中は「社会常識が」なんて他愛もないこと言うもんだから、ぼくは幾千もの恩寵と慈しみをこめて、大統領席のすぐ脇にあるボタンを押してやった。
 そういえば世界は2012年にきれいさっぱり滅びるのだそうでマヤの預言書だかなんだか知らないけれど、それをほのめかすことがいろいろと書いてあるそうのだそうで。
しかし、本当に申し訳ないんだがそれを書き直してもらわないといけなくなりそうで。
なぜなら、昨日僕が最後のボタンを押しちゃったからなんだ。ただ誤解しないでほしいのは、僕は何も意図などしていなかったってこと。
別に僕は、悪気があったわけでもなく、世の中を変えてやる!みたいなチェさんやマインホフさん的崇高な意思や、信念があったわけでもなくて、あんまり世の中が、能率能率いうもんだから、そんで社会常識とか、エコだとかしょうもないことばっかり言うもんだから、ついついかぁぁっとなって、押しちゃったんだよねボタン。それに今考えると、あのボタンとても魅力的だったんだ。見ているうちに、なんかもわぁぁっとなっちゃって、むにって押し込みたくなっちゃうんだよねあのボタン。これ、押したら気持ちいいんだろうなって。それで迷わず。押し込んじゃった。ごめん。
 今閻魔さまの尋問受けたところなんだけど、僕は嘘なんか言ってないのに、「嘘つけ!動機はなんだ!」とかいわれて、舌抜かれちゃった。やっぱり舌がないとうまく喋れないないもんで、喋れないからこうやって手紙かいてるんだけど、マヤさんにとどくかなぁ。あと、同じ職場のAさんとB部長には、一度謝っておかないといけないよな。お子さん生まれたばっかだったんだもんな、悪いことしたな。でもしょうがないか、みんな消し飛んじゃったんだから。償えっていったところでできるわけないし。
 さっき大統領脇にあるボタンって言ったんだけど実はどこにあるか本当はわかりません。僕は自宅のServerからinternetでPentagonのコンピュータにFuckしてただけなんです。
だから僕が押したのも大統領席のボタンでなくてPCのEnterキーだったんけどそしたらなんかISDNだかICBMだか偉そうなミサイルが飛んできちゃって、世の中消えちゃった。
やれやれ世の中はえらく便利になったもんだ。


#15

ストロベリーキャンディ

 たよりなさそうなカラスの鳴き声。木々を揺らす強い風。そんな風に押され動く雲。そんなものが僕の上、大きな空に広がっていた。ふと見上げたら、淡く半分の月が見えたことを今でも覚えてる。
「ヒカルくんにあげたいものがあるの」
 いつもならそっけなく「さようなら」を言う場面で、君はうつむき気味に言った。僕は、「う、うん、うん」って、何度も何度もかんでしまって、上手く返事を言えなかったけど。
 早く来ないかな。僕の心は軽く弾む。瞳を動かせば隣のブランコで幼稚園児が遊んでいた。そういえば昔、僕もこの公園でよく遊んでた。君はそれを覚えていたのかな。一緒にこのブランコで遊んでいた事。
「ヒカルくん!」
 後ろから息を切らして君は、一生懸命そうに叫んだ。右手には小さな紙袋が揺れている。
「大丈夫?」
 僕がそう尋ねると、「うん」といってくれた。よかった、元気みたいだ。
「あのね、ヒカル君に、伝えたいこと、あったから」
 荒い息をつきながら、途切れ途切れに君は声を発した。
「伝えたい事?」
 君は精一杯にたくさんうなずく。
「私ね……明日、引っ越すの。友達にも言ってないんだ。お母さんが、言っちゃダメって。でもね、ヒカル君には言いたかったの。なんか遠い所で、もうヒカルくんと会えなくなるから……」
 ヒッコス? 引っ越すってどこに? どうして? 幼い僕の頭の中に、次々に疑問が浮かんだ。そんな僕の事は気にせず、君は続ける。
「それに、これ、渡したかったから」
 そういうと、手に握っていた紙袋を突き出した。中身が気になりあわて気味にがさがさと音を立て中
身を出すと、それはキャンディだった。可愛い柄の紙にリボンの形に一つ一つ包まれている。
「わたしの、気持ちだから。……さよなら!」
 そういうと君は後ろを向き走り出した。僕にさよならも言わせてくれなかった。僕に何かを考える間さえ与えてくれなかった。僕は包みの中から一つそれを取り出すと、口の中に入れてみた。入れた瞬間、口いっぱいに広がる、イチゴのおいしさ。
 走り去った君の後ろ姿はもうかすれてしまっているけど、今でもぼくはまだ、あの味を覚えてるよ。あの時くれたキャンディの、甘酸っぱい恋の味。


#16

茜色ノスタルジー

 透明な空の向こう、高いところで、冷たい風が吹いている。
 歩を進めるたびに、かさりかさりと足の下に崩れる枯れ草が心地良い。
 遠い山の端には、落ちたばかりの太陽の残滓が、水彩画のような透明感で、見事なグラデーションを描いている。
 覆いかかるススキを掻き分けながら、前を揺れる背中に声をかける。
「おい、」
「んー?」
 茜が振り向く。細い肩越しに、大きな瞳がこちらを見る。
「まだ?」
「もうちょっと」
「日が暮れるよ」
「わかってる」
 小さな掌でススキを掻き分け、かさりかさりと進む背中をついていく。
 秋に染まる空気を、虫の声が満たしていた。何かが頭上をかすめる気配に驚いて、足元に落ちていた視線を上げて目を開く。
 濃さを増した空の薄明かりの下を、いっぱいにトンボが満たしていた。少し飛んでは止まり、また少し飛んでは止まりを繰り返す者、一心不乱に仲間を掻き分けて飛ぶ者、それらが空のキャンバスの上で砂鉄のように蠢いている光景は、少し気持ち悪いものだった。
「茜、あれ」
 呼び止めると、茜はちょっと振り向き、小さな頭をかくん、と後ろに倒して空を見上げる。
「あー…」
「あれ、なに」
「アキアカネ」
「アカネ?」
「ばか」
 しばらくそうやって、二人でトンボを見続けた。
「すげえな、数」
「近くに池があるから。小さいけど」
「池があると、なに?」
「そこに卵を産む」
「へー…」
 縦に二匹繋がって飛んでいるトンボがいた。前のトンボがオス、後ろのトンボがメス。オスのお尻の先端にはカギがついていて、それでメスを捕まえる。捕まえられたメスは、連結したまま水辺へ行って産卵するのだと、茜は淡々と教えてくれた。
「…こわくないのかな」
 ぽつりと、茜が最後に落とした言葉に振り返る。
 茜は、最初に首を傾けた姿勢のままで、じっと上を見ている。
「…こわいよね」
 顔は見えなかった。でも肩が細い。首も細い。全身が細い。
 何も言えなかった。どうして、とも、あいつら虫だし、とも、大丈夫だよ、とも。
 …大丈夫、なんて。
 だから黙って、砂鉄のように蠢くトンボをずっと、見つめていた。
「…でもさ、」
 ひっそりと、茜が呟く。
「卵、産むしね」
「…ん」
「だからさ、きっと、いいんだ」
 さやさやと風が吹く。冷たい風。近づく冬と夜のにおい。
 いつしか、トンボは減っていた。
「行こうか」
「うん」
 かさり、かさりと、枯れ草を踏んで歩いていく。


#17

祝福?何それ食べれるの?

 あの……私なんかしたっけ?私はただ、貴方が大好きだっただけなんだけどな。

 「でさ、祐樹は女の子と並んでても引けをとらないくらい可愛いなって思ってさぁ」
「いや、まぁ……否定はしないよ、お兄ちゃん可愛いし」でも普通元彼女に、しかも現在彼氏の妹に惚気にくる?!
お兄ちゃんがホモなのもいいわよ別に!
元彼氏がホモでもいいわよ!
付き合ったって当人同士が良いならそれでいいわよ、お兄ちゃんは私ばっかり優先してたし……良い傾向だとも思うわ、でも!

 「祐樹ってばさぁ、キスもまだ馴れないみたいでさぁ」
何が悲しくて、お兄ちゃんのそーゆう話聞かなきゃいけないの?
「なぁ、聞いてる?」
「ん?ごめん帰る」
「えぇ!こっからいいとこなのによぉ」

 私は貴方が本当に好きだった、だからいつかは振り向いてくれるって信じてたの、好きな人が居るって言われても、諦められなくて……それでも、良いから付き合ってって言ったのは私だった。
 でも、私の家に来てお兄ちゃんの顔を見た貴方の目がキラキラしてて、そこからは貴方に好かれるようにって頑張って、でも駄目だった。

 だって最初から好きなのは私のお兄ちゃんだった、彼氏がホモなのにもショックだったけど、同じ血が流れてるはずなのに、なにが違うんだろうって正直嫉妬して……

 お兄ちゃんに会いたくない、のに「もう、家……」でも嬉しいんだ、毎日毎日お兄ちゃんすごく嬉しそうだから。
 「あれ?莉子、帰ってたんなら声かけてくれれば良いのに」
「うん、ただいま」可愛いなぁお兄ちゃん、あんなに一途に想って、今なんかクリスマスケーキの練習してる。

 「ねぇ莉子、僕はこのままでいいのかな……莉子の幸せを壊してまで、その……」
「駄目、って言ったって、亮介が今好きなのはお兄ちゃんなんだもん、しょうがないよ」

 今は素直に喜べない、でも心から祝福してるのは本当。
「ふふっ健気で可愛いでしょう?私」
「うん、とっても可愛い、自慢の妹だよ」
「お兄ちゃんに言われてもうれしくなーいー」
 ちょっとふくれて言ってみれば、眉毛を八の字にしてごめんって言うお兄ちゃんがいて、私は笑ってしまった。
 こりゃ、亮介が惚れるのも仕方ないかぁなんてね。

 しばらくは二人の惚気聞いてあげてもいいかな、私位しか惚気る相手も相談する相手もいないんだろうから。


「私って優しいなぁ、なんてね」


#18

桜の少女

世界は、綺麗だろうか?

冬の寒い日のことだ。
高校生である僕は公園に足を運んでいた。嫌なことがあると、まるで逃げるかのように、僕はその公園に行く。

その公園には一本の木がある。遊具がある方からは離れ、忘れさられているような木が。
その木に寄り掛かると、少しは気分が晴れるんだが…今日は晴れなかった。おかしいな、いつもなら不思議なほど晴れたのに。

「こんにちわ」

と、いつのまにか僕の前に女の子がいた。
多分、小学校低学年…2年生くらいの長い髪の女の子は、僕と遊ぼうと言ってくる。

僕は誰からも必要とされていない。そんな悩みをかかえていた僕を、必要とする存在が現れた。

僕は彼女と話した。
来る日も、来る日も。

女の子と過ごして、疑問に思うことがあった。

彼女は木の下から出ようとしないのだ。
当然、理由を聞いた。

「貴方はいつも苦しんでいた。…だから、私は助けたかった」

瞬間、僕の目の前が真っ白になる。何も見えないはずなのに、その光は美しかった。
汚い世界に、輝いていた。

…その後、僕は彼女を見なくなった。今では幻かとも思う。

けれど。その木は桜で、春になると綺麗な花を咲かせていた。

彼女の心のように綺麗な花は、彼女がいた木の下に散っていく。
消えた女の子の存在を埋めるように、されども消えたことを明らかにするように…。

僕はその桜の下に行く。
そして、息を吸って言う。


「この世界は…綺麗だ」


優しい彼女のように…
僕は、そっと呟いた。

きっと彼女は桜だった。
…これは奇跡の話だ。
桜が見せた、一つの奇跡の。


#19

告白

寝不足だったんだ。
苦労して仕上げたレポートを教授に見せたら、要点が纏ってないって言われて突き返されて、徹夜して書き直したから。ヤバい位眠かったけど、電車の中で寝れるって思ってたから頑張ったよ。
最寄りの駅が、めっちゃ人が乗ってくる駅のひとつ手前だからいつも席には余裕があったし、実際その日もすんなり席には座れた。後は終点まで一本だから、小一時間は仮眠取れる筈だったんだよ。
でもその席は最悪だった。
俺の右隣は座席の端で、そこには化粧の濃い女が座ってた。こいつが途中の駅で降りたら移動しようと思ってそこに座ったんだけど、それが全く見当外れで、その女は全然電車を降りなかった。おまけに俺がうとうとしてちょっと凭れかかっただけで睨んできたし、挙句の果てには肘を張って二の腕を攻撃してきたんだ。何だこの女って思ったね。結局少しも眠れずに、終点の一つ手前まで起きてた。女はそこでやっと電車を降りたよ。死ねクソ女って背中を思いっきり睨んだな。
ドアが閉まった後、女の座ってた座席を見たら、そこに黒いキャリーケースが置きっぱなしになってた。ほら、A4ノートとかが入るぐらいの、プラスチックの奴。すぐにあの女が忘れたんだって分かった。
その後俺はそのキャリーケースをどうしたと思う?捨てたんだよ、終点の駅のゴミ箱に。眠いままだったけど、苛々は少し治まった。

直したレポートも教授に認めてもらえたし、講義が休講になったから、直ぐ帰れることにもなった。俺はすっかり浮かれた気分で駅に向かって、改札をくぐったんだ。
そしたらさ、忘れ物センターあるだろ?そこに、朝の女がいたんだよ。吃驚した。手前の駅で降りた筈なのに何でこんなとこいるんだよって。
俺なんか怖くなってさ。キャリーケース、捨てたことがばれるんじゃねえかと思って、急いでホームに降りたんだ。そしたら、あのゴミ箱が俺の目の前で口を開けて立っていた。

「どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう、」

女が、俺の横を通り過ぎて、ゴミ箱の横も通り過ぎて、自販機の横に立った。
泣いてたんだ。化粧がぐずぐずになってた。一人でずぅっとどうしようどうしようって呟いてるんだ。周りの奴らが気にしてちらちら女を見てた。


次の日も忘れ物センターでその女を見た。
俺はいつも通りホームに降りて、ゴミ箱を何となく覗いた。勿論キャリーケースは無かったよ。


吃驚した。こんなことで人間って、死にたくなるんだな。


#20

サンタさんへ

 おれの名前は山田ヨハンゼルマリオといって、家族四人が相談した結果、誰も妥協しなかったためにつけられたものだ。だいたい山田さんかヨハンで呼ばれている。目も見えなくなって久しく、おれは特にすることもないので、居間の隅に丸まって頭の中に次々と浮かぶに任せた物思いに耽っていた。
 たとえば三丁目のllwyは田中さん家のハナにぞっこんで、絶対に子を産ませると意気揚々だったのは去年の話。あのあとどうなったのかなとか。序列最上位に君臨する長女の加奈子はまだ高校生で、この若さでもう三度中絶し、そのたびに俺に泣きながら謝る。それがちょうど一年前のことで、加奈子はその後すぐに消息を絶ち、たまにふらりとやってきては弟のケン太に二言三言して立ち去っていく。ケン太は部屋から出ることもなく去年与えられたPSPに興じていて、風の噂ではその筋では名のある狩人に成長したらしい。そもそもおれが飼われたのは父の借金と不倫旅行とが発覚して母が手首を切るという嵐のような混沌のなか、子犬を飼おうという加奈子の提案によるものだ。感情の爆発もやがて収まったが、母は父を心の底のどこかでは許してはいないようだった。台所のほうでは母が料理を作っているらしく、食器などがカチャカチャと擦れあって小気味よい。うまそうな香りも漂ってきた。父はここでは居心地の悪そうな様子だがあれ以来、帰宅時間は早まり、何かと家族のことを気にしているようだった。おれは少しむせった。






 やがて玄関が騒がしくなり、面白いことに父姉弟が揃っての登場。おかえりなさい、と言いながら母は手早くテーブルに料理を並べる。弟はケンタッキーのバレルを、父はよく冷えていそうなシャンパンを、姉はたぶんいくつかのプレゼントの箱を持っていた。あまりのことに動揺してしまって、目を開いても薄ぼんやりとしか見えなくて、立ち上がろうにも力が入らない。加奈子が近付いてきて、おれはマフラーでぐるぐる巻きにされとんがり帽子を被せられてしまった。「恋をしたんだ。内緒だよ」加奈子は前髪を短く切っていて、唇に指をあてそう言った。ケン太は「俺リーダーになったんだ」と衣を剥き取ったチキンを俺の前におき、好意を無下にするわけにもいかないからひとくちだけかじる。

 こんなにいいことが続くとなんだかおれもう死んでしまうのかなとか思うんだけど、まだ死ぬつもりはないのでもうちょっとだけここにいさせてください。


#21

とちかん

 あなたには「とちかん」がありますか?
 あなたの住んでいる街についての「とちかん」持ってますか? 道に迷ったことはないですか、方向感覚はちゃんとしていますか?
 この世の中には「かちとん」というものがあったりなかったりします。「かちとん」はあったらあったで「とちかん」並に便利だったりするのです。
 しかし「ちかとん」はどうでしょう。
 あったらあったで便利かもしれません。ですが、「とちかん」や「かちとん」と違って「ちかとん」は持ち歩くことができないのです。
 何故なら「ちかとん」なので。なにやら地面の下を移動するのには欠かせなさそうなので。

 さて、このあたりでそろそろ皆さんも「とんちか」の存在について、考え始めた頃でしょう。
 おしょうさんも期待しています。なにかうまいことを言って、幾多の危機を乗り越えることを期待しています。
 もし「とんちか」を持っているのであれば、おしょうさんの期待にも見事に応えることができるでしょう。

 「とんかち」は、そのまんまです。

 ああ、そうでした。「かとちん」についての説明がまだでしたね。
 8時だよと叫んだら全員集合しそうですけど、しません。
 ペッとか、ババンババンバンバンとか言いそうですけど、言いません。
 あなたのお父さんお母さんが大爆笑していたそんな時代に、加藤さんの影に隠れつつ、微妙ながらもひっそりと存在していたのが「かとちん」なのです。

 さあ、いろいろ説明してきましたが、皆さん、どうでしょうか? この不思議な存在たちについて。
 興味を惹かれたのであれば、ぜひとも皆さんの手で、この不思議な存在を探究してみてはいかがでしょう。ひょっとしたら、新たな発見があるかもしれません。

 最後にひとつ。

 すでに「とちかん」「ちかとん」「とんかち」の存在は、この世界での存在が確認されています。まずはそれらを解明することで、他の不思議な存在の解明にも、また一歩近づけるのではないでしょうか。
 私はそう、信じています。


#22

レシート

 堀辰雄百円、川端康成百円、芥川龍之介百円。
 大型古書店が近所に開店してからというもの、枕元には百円本が並ぶ。
 一体いつからだろう。古書店の開店が先か、派遣切りが先かなどと考えつつ、本の山から今夜の一冊を手にとる。太宰治百円。


 ここ数か月、疲れが足らないせいか、眠気まで満たされていない。視界の端では、世間がしらじらしく明けていく。
 ふと、左手で残りの厚みを確かめつつ太宰を捲っていくと、巻末の辺りに何かが挟まっているのに気がついた。左手の指だけで感触を確かめる。しおりとは違う薄い手触り。またレシートか。
 他人のレシートには、人の生活を覗き見る楽しみがある。今までにも何度か、古本の中のレシートでニヤついたことはあったが。結末の後の結末にわくわくし、読み終えてここぞと捲ると、やはりそこにはカタカナが並ぶ一枚のレシートが挟まっていた。

 サケ、ツマミ、グラス――酒? 太宰は赤ら顔で笑った。
 ノート、チズ――地図? 太宰は旅に出た。
 レンタン――煉炭? 太宰が。
 私は、灯りを消した。


 翌日。午後。私は久し振りに車で出掛けた。
 今どきツマミから練炭まで売る店などあるのだろうか。何かの悪戯だろう。だが郊外の大型店ならあり得るか。悪戯を悪戯にすべく、私は太宰を伴い西へ向かった。
 大型店を片っ端から覗く。何でも揃うと豪語する店に何度も舌打ちし、いつしかレンタン、レンタンと口ずさみながらさらに西へ。彷徨った果てに、食品売り場と同じフロアで練炭を売る店を見つけた。
 買い物カゴにレシート通りの品物を入れ、レジ係にレシート通りに品物を渡し、受け取ったレシートを見比べる。このレシートを、あの本屋の太宰に挟んでやる。誰かがまた思い悩もうがどうでもよい。この悪戯だけが、その悪戯を悪戯にさせる。そうしたかった。

 久し振りの疲れを味わいながら夕暮れの国道を戻る。東へ折れる信号は赤だった。本屋の閉店にはもう間に合いそうもない。私は左折のウインカーを一旦戻し、FMのボリュームを上げた。U2のくどいリフが懐かしい。助手席の太宰を捲ると、巻頭写真の彼は私を覗き見、そしてニヤついた。――西へ?


 闇と光が、南の空で境い目なく妥協している。Bonoがやっと歌いだした。
 I want run――
 ――通りの名前なんて知るかよ。

 私は、私のレシートを私の太宰に挟み、その曖昧な境界線に沿って直進した。名も知らぬ国道を南へ。


#23

雪、死、

 足跡が、
 おれをつけてくる。

 おれの足跡が、
 おれをつけてくる。

 さも美しそうに
 ふる、
 雪。
 なにもかもが、
 はじめから
 そんなものなどなかったかのように――

 雪、
 の上に
 雪。雪
 の
 上に
 雪、
 が。

 雪が、
 さも美しそうに、
 ふる。
 おれの足跡が
 きえていく。

 はじめから、
 そんなものなどなかったかのように――

 はじめから、
 そんなものなど
 なかったかのように――

 死んだ魂、
 のように
 ふる、
 雪。
 美しく、
 白く
 つもる、
 骸。

 死、
 の上に
 死が。死
 の
 上に、
 死が。

 死の膜
 が、
 地の口
 を
 ふさぐ。
 赤子の口に
 濡れそぼった白いハンカチを
 おく、
 ように。

 おれの、
 死んだ赤子。

 おれの、

 白い、
 小さな
 赤子。
 雪
 のように、
 白い
 赤子。

 おれの、
 死んだ
 赤子。

 白い、
 死。
 雪
 のように
 白い、
 死。

 死
 のように
 白い、
 おれの
 赤子。

 さも美しそうに
 ふる、
 死。

 さも美しそうに
 ふる、
 死。

 なにもかもが、

 はじめから、
 そんなものなど、

 なかったかのように――

 おれの足跡が、
 足跡が

 きえていく。

 おれの跡を
 つけてくる。


Snow,Dies,(1947)















あとがき


 2008年米国で出版されたThomas Leeの遺稿集『Snow,Dies,』(ここに収録されている詩文はすべて、28冊の手帳に雑事のメモと並んで書き込まれていたものだという)から、表題作を訳出した。
 作者のトーマス・リー(1917-1971)は、ミネソタ州ミネアポリスに生まれ、ミネソタ大学在学中に出征、42年に戦争から戻ると父親の紹介で地元郵便局に勤め始め、通勤中のバス車内で起きた発砲事件で亡くなるその日まで一日も欠勤することがなかった。また、週末の細やかなギャンブルも生涯欠かさなかった。44年に妻レイチェルと結婚。三児を儲けている(第一子は流産している)。『Snow,Dies,』の出版にも携わった次女で詩人のキャサリン・ホワイトによれば、父トーマス・リーは「いつもにこにこしてましたね。でも冗談を云うのを見たことがないんです」という人物であったようだ。出征の一ヶ月前に自費出版した詩集『My Words』(1939)が、生前唯一の刊行物である。
 最後に、私が好きな『家』という題の短い一編を紹介して筆をおくことにする。


  音叉を鳴らす子どもたち。



二〇〇九年十二月八日  訳 者


#24

青ずきんちゃん

「こんにちは、おばあさん」


 いつも青いずきんをかぶっている青ずきんという女の子が、森の中のおばあさんの家を訪ねました。


「出かけているのかしら……?」


 ところが急に戸が開き、大きな大きな恐ろしい狼が出てきます。

「げへへ、ババアはまあまあだったが、若いムスメのデザートつき。こりゃあたまらん」

 なんということでしょう。青ずきんは驚いて転び、そこへ狼がどんどん迫ってきます。片目があらぬ方向を向き、口からはヨダレを垂らして。

「うひぃウマそうなムスメだあぁ」

 しかし、青ずきんは何とか落ち着きを取り戻し、きと結伽趺坐で座し瞑目します。すると頭にかぶった青い天鵞絨のずきんから鋭い光線があふれ出し、狼の目に直撃。たちまち狼は青ずきんの姿が見えなくなりました。

「小娘ァ! 何処に隠れおったあくわせふじこおぅぁあ!」

 青ずきんの美味なる少女芳香は未だ消えず、狼は気も狂わんばかりに辺りを探し走り回りますが、青ずきんの眼前を何度も通っているのに、見つけられません。


 一晩中走り続けて狼はへとへと。やがて暁鐘の鳴る頃、青ずきんは姿を現して、
「狼さん、私を食べないの」

「一晩中そこに」

「ええ、こうして座ってたわ」

 狼はつっぷしてわあっと泣き出し、
「ボクはダメな狼だ……人を喰うのが止められない……死んだ方が良い……」

「あら、それって健全なオトコノコなら普通の事じゃない? けど」

 すと立ち上がった少女の背丈の高きに狼は妙に感じ入って声も出ずに。

「人の肉を食べるのなんかよりもっと気持ち良いこと、してあげようか?」

 少し持ち上げられた口の端とふふんと見下す眉にごくりと。

「おねだりできたら、してあげる」


 ずきん。




 青ずきんは狼を平らかな石の上に座らせ、青染のずきんを脱いで被せてやり、歌います。

「川のおもてにお月様、松風のワルツ眺めて、終わらないこの長い夜、清らかな宵……」

「それ、なんだい」

「考えるのよ、この詩の意味を……わかったら、ステキなごほうびをあげる……」

 そうして青ずきんは行ってしまいました。




 森の人喰い狼の噂はいつしか忘れられます。

 けれど狼は今でも青いずきんをかぶって石の上。ごほうびに杖で打ってもらえるのをうずうずしながら待っています。時々、彼の呟く声を聞いたと言う動物もいるのです。

「……川のおもてにお月様、松風のワルツ眺めて、終わらないこの長い夜、清らかな宵……」



 青ずきんは、まだ戻ってきません。


#25

不条理な邸宅

 藍暗い空気の中、音は無く、不釣合いなシャンデリアのぶら下がった、小さな洋館の体を為す四角い空間に、一人立っていた。灯かりは無く、窓からの冷たい月明かりによって、四方を壁に囲まれる部屋の様子が浮かび上がっていた。
 僕の向く先に、低いコントラストの視界に、唯一浮かび上がった赤いカーペットの、雛壇の如く敷かれた階段が在り、頭上の大きなシャンデリア――、そして四方それぞれに一つずつ、頭上の高い壁に貼り付いた、四つの扉がこちらを観下ろしていた。階段は、そのうちの正面の扉のもとへと繋がっていた。
 自分の服の擦れ合う音と、コツコツと、靴の大理石を叩く冷たい音の中、正面の階段に向かって歩き、そして赤い階段を上ると、そこには天井を押し上げんとする、観音開きの思った以上に大きな扉。鍵穴を覗き込むと、オルゴールがどこからか聞こえて来て、二体一対で踊るガラス細工の人形が見えてくる。しかし人形と思ったそれは、実はしなやかに踊る老夫婦で、彼らは真っ暗な鍵穴の中で「ワルツ」を踊っているのだった。


 キーンコオーン キーンコオーン
 湿った空気と画一的な音の響く中で風を押し進める様に重いごおごおとした音が聞こえてきた。切れかけた照明。ここは無人の地下鉄の駅のホームだった。
 トンネルから轟いてくる音が近づいて来たと思うと頭上どこからかアナウンスが鳴った。誰も居ないと思っていたホームに笛を銜えた駅員が一人立っていた。レールの上を銀色の車体が滑り込んで来た。するとホームに在った階段から大勢の人が下りてきて、下りてきた人達はいっぱいになって電車の中に全て納まった。
 駅員が笛を吹くと扉は閉まり、人をいっぱいにした地下鉄は奥の黒い穴の中へと去って行った。僕は電車の発ったホームに一人取り残されていると知らぬ間に駅員は消えていて、唯一初めに聞こえた画一的な音だけが響いていた。また、誰も居ない駅のホームだった。


 藍暗い空気の中、ぼんやりと様子の浮かび上がったここは、どうやら三つの壁に囲まれた小さな洋館。微かだが、耳を澄ますと、森々と雪の降る音が聞こえてくる。頭上には、圧迫感を覚える程のシャンデリアが一つ、音も発てずにぶら下がっている。月明かりの差し込む窓の外には、雪が降っていた。頭上の壁には、三つの扉が貼り付いており、目の前の赤い階段は、観音開き扉のもとへと誘(いざな)う。僕は階段を上り、暗い鍵穴の中を覗き込む――。


#26

見えない眼

   
 巷では「電話お化け」なるものが流行っているらしい。
 なんでも、いるはずのない人間が電話をかけてきて意味不明な事を受話器の向こうから言ってくるとか。全くもってオリジナリティのない怪談である。
 そのあまりの下らなさがツボだったので、アヤコとの電話のネタに利用することにした。今日のバイトが急になくなった暇を潰すには丁度いいだろう。
 それにアヤコなら確実にこの話が載っていた雑誌を読んでいるはず。 

『はーい、もしもし』

 これから起こる恐怖など知りようもない、アヤコの能天気な声が受話器から響く。

「ひゅー、お化けだぞー」

 俺の迫真の声。そして沈黙。

『ちょ、何やってんのあんた』
「お化けだぞ。先週飲み会で端数を奢ってやったお化けだぞ」
『もしかしてそれ、電話お化け?』

 すでに爆笑寸前の気配を放つアヤコ。予想通りあの雑誌を読んでいたようだ。

「何だよ知ってたのか」
『っていうかあたしが知っているとわかってて電話したんでしょ』

 特徴的な高音の笑い声が響いてくる。
 どうやらかなりアヤコのツボにきたようだ。その声量は受話器にクワンクワンと音を残す程である。

「お前笑いすぎだって」
『だって、くだらないんだもん』

 三流都市伝説はネタとしては一流らしい。
 その後アヤコが落ち着くまで大分時間がかかった。

『っていうかミツルさー、卒論の方は大丈夫なの?』
「大丈夫じゃねーよ、今もヒーヒー言ってるっての」
『バカだな。こんな下らない電話かけてる暇あったら進めなよ。今日は折角バイトもないんだからさぁ』
「うるせぇな、爆笑してたくせに。面白かったからいいだろ?」
『まぁね』


 結局そのまま長電話をしてしまう俺達。
 いつもより鋭いアヤコに、俺の卒論のピンチっぷりはバレバレだった。全くとんでもない女である。まぁこういう所がいいわけだが。

 その後電話を切るキッカケとなったのは。俺の突然の空腹感だった。

「ワリ、ちょっとメシ作ってくるわ。チーズと豚肉処理しねーと」
『それ腐ってるよ』
「腐ってねーよ」

 笑いながら俺は電話を切る。
 そして、1分もしないうちに電話がかかってきた。
 画面表示、アヤコ。
 その予期せぬフライングが俺のツボにはまり、一頻り笑ってから受話ボタンを押す。

「ちょ、お前電話かけんの早すぎ」
『ぎゃおー、お化けだぞー』
「……え?」
『あれ? 面白くなかった? ミツルなら知ってると思ったんだけど』




 チーズの異臭が、鼻についた。


#27

ネコムラサキ

 あの頃の僕らには何ら語る程の物語はなく、それでも過ぎていく時間を有るがままに享受し続ける、そんな図書館のように揺るぎない生活がそこにあった。ただ、僕が彼女に出会ったあの夏の日は、例え向こう十年分の物語をあさったとて、そこに既視感を得られることはないだろう。
 彼女の愛称はネコムラサキ、本名は猫田紫。どこにでもいる転校生で、卒業を間近に控えた僕らにとっては別段重要なイベントではなかったにしても、特段かまわずには居られないそんな存在だった。

 夏休み、僕らの住む町にはかくれんぼ山と呼ばれる大きな山があった。そこは広くて都合の良い遊び場所なのだが、熊が出没するという噂のせいで、僕らはピンと張られたロープの下をしゃがんで入らなければならなかった。

「まだぁぁぁ!」
 突然、鬼をしていた奴が叫んだ。かくれんぼだったので「まーだだよ」のことかと思ったが、それを鬼が呼ぶのは間違っている。加えてその声が尋常ではない響きを含んでいたのもあって、僕は隠れ家にしていた倒木の下から抜け出し、声の方を見た。
 熊だ。
 それも大人の背を軽がると越える巨体。黒く逆立つ毛皮を纏う理不尽の化身。
 その足元には、ぼろ屑のような体躯がひとつ。
 震えすら止まり、視線と姿勢を固定したまま僕は静止した。他のやつらも同じだろう。コマ送りのような時間が流れ、熊の姿が見えなくなって、やっと、僕らは泣く事を許された。
 一見して死んでいるように見えたそいつは、まだ腹でふっふっと息をしていた。それなのに、僕はどうしたらいいのか分からなくて、大人を呼んで来ようにもその間にこいつが死んでしまったらとか考え出して、結局動けないのだった。
「ねぇ、あなた達。秘密を守れる?」
 ネコムラサキだった。
「守れるのなら、あなた達全員を助けてあげられるかもしれない」
 正直言ってその時の僕らに、彼女の言葉を解するだけの余裕は無かっただろう。
「その代わり」
 だけどこの状況から助かるのであれば、と僕らは首を振ってお願いしていた。もう、最後まで聞いてなんていられない。
「わかった。じゃあ、目を閉じて」
 言われた通りに目を瞑った。すると。

 気が付けば二学期が始まっていた。卒業を間近に控えた僕らには何ら語る程の出来事は無く、山で熊に襲撃もされなければ、そもそもそんな山など存在しなかった。斜め前の席でネコの目が紫色に笑う。僕らはそんな誰にも語れない秘密を持っている。


#28

『代わりに、小鳩を』

 私を熱に浮かし、喉を潰し、そして声を奪った病は、今日も元気です。窓から見える宿り木の葉が散ったら、愈々死んでしまうのではないか。そんな気がしてなりません。それでも貴方と取り合う連絡が待ち遠しくて、心から死んでしまいたくないと、そう思います。
 最後に貴方が見舞いに来てくれたのは、二月ほど前になりますね。貴方も私と同じ病を持つ身、苦しみも悲しみも貴方が一番分かってくれました。先日届いた手紙を読んで頂けましたか。お返事がないので心配です。もし万一のことがあれば、私の耳にも届くはず。体力には自信があると話していた貴方の姿が忘れられません。
 今宵は聖夜。貴方はどのようにお過ごしになるのでしょう。イブを一緒に過ごすという約束は叶いませんでしたね。初雪を一緒に見るという約束も……こんな弱音を漏らせばまた貴方を困らせてしまいますね。ごめんなさい。
 聞いてほしいことがあるのです。冬の薫りを楽しもうと窓を開けていたら――もちろん母には内緒です。見つかったら叱られます――白い小鳩が一羽、窓枠に降り立ったのです。懐っこく、愛くるしい瞳は貴方の黒い瞳に似ております。もしや見舞いに来られない代わりに、小鳩を……そんな想像をして嬉しくなりました。そこで鳩の足に文を結わえて放してみることにしました。きっと貴方に届くかも。そう、会いに行けない代わりに、小鳩を、と。
 空は灰色にくすみ、吹雪いてきそうです。貴方の街は如何ですか。貴方の街にももうじき雪が降ると聞きました。どうか暖かくお過ごしになって下さいね。
 町の真ん中にトゥリーが立ちました。可愛らしくも大きい、綺麗な樅の木です。来年こそは一緒に見られるといいですね。

 イブのディナーの仕度を整えた後、母が娘の部屋の扉を開けたとき、娘は窓辺に腕を差し伸べたまま、冷たくなっていた。娘の笑んだ死に顔を見つけ、喉が潰れるまで泣き叫んだ後、暫く茫然とした母は、居間に戻り、医者に連絡を入れ、食卓に着いた。ディナーを前に、何も考えられなくなって、手をつける。貧しいながらも娘の為に拵えた、メインディッシュ。冷たくなった鳥肉は塩気が強い。到底七面鳥など準備できず、代わりに、小鳩を――庭先で休んでいた純白の小鳩を捕まえて焼いたのだ。
 降り積もる白い細雪が、硝子窓を覆っていく。屠殺してから気がついた娘の手紙を胸に押し当てながら、母は、窓の外で一際煌くトゥリーを見つめ続けた。


#29

愛国上空

日本の自主独立のため、国民はすべて地上100メートル以上に住むことが法律で義務化された。

高層ビルの100メートルより上の階を購入できない貧しい人たちはクレーンで100メートルの高さまで吊り上げられた。扶養家族を持つ世帯主は畳一畳分の板が支給された。その板をワイヤーで吊り上げ、家族でそこに住む。ぼくは独身なので五十センチ四方の板ひとつだった。

政治家と公務員は職務のため地上で生活することが特別に許可された。

「私たちも本当は地上100メートル以上で生活したいんです。そうしてこそ日本は真に独立したと言えるのです、けれども国際社会の現実の中で政治にはリアリズムが必要なんです」

ぼくたちは地上100メートルの高さに吊り上げられたまま、理念も矜持もなく地上をはいずる政治家どもを罵った。

「媚中政治家は地獄に落ちろ! アメリカのポチは今すぐ腹を切れ!」

売国政治家と汚職公務員のせいで地震と台風が起こり、世界中の反日組織が指差して嘲笑する中で多数のクレーンが倒れ大勢の無辜の草莽たちが死んだ。

ぼくを吊り上げていたクレーンも大きく揺れて、ぼくは空中に放り出された。放物線を描いて落ちる途中にたまたま別のクレーンに吊られている板の端になんとかしがみつくことができた。

畳一畳分の板の上には若い夫婦と子供二人が住んでいた。ぼくの体重が加わったせいで必要最低限の細いワイヤーが音を立てて軋んだ。

「うちにしがみつくのはやめてください」
「待て。ぼくが落ちたら愛国者がまた一人減るぞ。日本は移民に乗っ取られ外国に侵略されるぞ」
「でもあなたがそこにしがみついていると私たちみんな落ちちゃいますから」
「敵を見誤るな。在日外国人たちをまず追い出すべきだ。在日特権を撤廃して、北朝鮮を懲罰せよ。竹島は日本固有の領土」

ぼくは引きずり落としやすそうな子供の足を引っ張った。

「おいこら、やめろ。さっさと落ちやがれ」と夫が怒鳴った。

「まず君の奥さんが先に落ちるべきだ。なぜならば男と女では役割が違う。能力も違う。男女は生まれつき平等ではないのだ。真に国を愛するなら決断できるはずだ。そもそも地上100メートルで生活するのは母体に悪影響が……」

妻が耳打ちして夫がぼくの指を一本ずつ引き剥がそうとしはじめた。

ぼくは激しく抵抗し、板の端に必死にしがみついた。板全体が大きく揺れて子供たちが泣き出した。

「日本国万歳! 日本の独立万歳!」とぼくは叫んだ。


#30

幸福独占禁止法

「こんにちは」
「誰だよ、おまえ」
「死神と申します」
「死神?? ってことは、まさか……」
「はい。あなたの余命はあと半年ということになりましたので、お伝えに参りました」
「おいっ! 余命半年ってどういうことだよ!!」
「あなたは末期癌に侵されています。もう手遅れです、残念ですが諦めて下さい」
「何故だ!? なんで、俺がこんな目に遭わなきゃならないんだよ」
「あなたは幸せを独り占めしてしまったからです」
「幸せを……独り占め??」
「人間の幸せというのは、本来は平等でなくてはいけません。しかも、幸せになる回数というのは限られております。あなたは、安定した職業に就き、美しくすべてに完璧な奥様をもらい、お子さんを三人ももうけ、マイホームまで手に入れてしまった。そこまで一人で幸せを独占してしまうと、平等に割り振ることが困難になるのです」
「そんな滅茶苦茶な話があるかよ! 就職だって、結婚だって俺がどれだけ努力してきたと思ってんだ」
「しかし、同じように努力したけれど不幸なまま一生を終える人もいるわけですから」
「そんなこと知るか! 俺はまだまだやることが残っているんだ。死ぬわけにいかないんだよ」
「ですが、あなたが亡くなることによって、結婚できない不幸な方が奥様と再婚することができます。子宝に恵まれない不幸な方が、養子としてお子さんたちを引き取ることもできます。なかなか出世できなかった不幸な方が、あたなの抜けたポストに就くことができます。マイホームを手にできなかった不幸な方も……」
「わかったよ! わかった。だからといって、俺が死ぬしか方法はないのか?」
「それでは、お子さんたちが交通事故死、もしくは奥様が強姦され殺れるという選択肢もありますけれど……」
「頼む、それだけはやめてくれ! わかった、俺が死ねばいいんだろ? 死ぬよ、死んでやるよ」
「やっとおわかりいただけたようですね。亡くなられるまでは、あと半年猶予がございます。ご家族とよい思い出をつくってください。それでは失礼致します」


#31

群青色と黄緑色のマフラー

 青彦は営業車に乗って今日も舞子や垂水の住宅街に辞書を売りにまわりながら、ラジオを聴いていた。突撃電話プレゼントというのに当選したらしい女性がDJと話している。質問は好きな異性のタイプという平凡なものだった。
「透明な声をしていて、はだしでぴょんぴょん飛び跳ねてそうな人。それからあたしのためにクリームコロッケを揚げてくれる人……あと、首巻きを編める男子!」
 彼女のラジオネームは黄緑と言った。プレゼントに猿のシールをもらえるみたいだった。
(透明な声? ガラガラ声の自分は無理だ。それに裸足で飛び跳ねたりもしないし、料理もできない。だけど……マフラーなら編めるかもしれない)
 営業の成績は今日もビリで、このままでは山陰に飛ばされるのは間違いないと同僚にからかわれ、飲めない酒でも飲んでみるかと思ったが青彦は黙って帰宅した。辞書なんか今さら売れるわけはないのだ、とグチを言いたい気分を飲み込んで。
 ワンルームのベッドに寝転ぶと、なぜかラジオの黄緑さんのことを考えて(手紙書くのは嫌いじゃないし、文章なら俺も透明な声だせる)と思った。
 恋人どころか好きな相手もいなかった青彦は、翌日営業中に手芸ショップへ寄って、針やはさみ、それに毛糸を買ってきて編み始めた。色はもちろん黄緑だ。
(なつかしいな)
 青彦は学生のころ、恋人にもらったマフラーを電車に忘れたことがあった。必死に探したがみつからず、失くしたとも言いたくなかったので、同じ群青色の毛糸を買って姉貴に教えてもらって徹夜で編んだことがある。結局色使いでバレて、それが原因ではないだろうが彼女とは別れてしまったが、話がおもしろい子だった。青彦はいつも聞いてばかりいた。ラジオを聴くように。別れて十年たつけれど、彼女がくれたブローティガンの「愛のゆくえ」を青彦は大切にもっていて時々読み返す。ラジオの女に惹かれるのもそんな影響があるかもしれなかった。
 一週間かけてマフラーは編みあがり、それから青彦の次の課題はクリームコロッケを作れるようになることだった。いつもコンビニ弁当ですませていたが、包丁を握ってみるといい気晴らしにもなるし意外にコロッケは簡単なことがわかった。休日はダンススタジオに通いはじめた。裸足で飛ぶためにである。あとは手紙を書くだけなのだが、黄緑さんとは書けず、どうしても昔の恋人の名前を書いてしまいそうになって、結局一行も書けないでいる。


#32

都市へ

 まるで綱引きみたいだと私は思った。五、六人の裸の男達が、大きな蛇を運びながら私達の行く手を横切った。
「蛇はね、神様の贈り物なんですよ」と案内人の若者は私にいった。「いや、神の使いだったかな」
 たぶん何かのお祭りじゃないかしらと私がいうと、若者は「さあね、クリスマスのご馳走かも」といいながらパチリと写真を撮った。

 都市は間近に迫っていた。ジャングルを覆う木々の隙間から、摩天楼の先端がわずかに顔を覗かせていた。異様に手の長い猿が木の枝を器用に伝いながら、ときおり見下すように私達を眺めていた。
「あいつはジャングルの見張り役なんです」と若者はいいながらカメラを猿に向けた。「丸焼きにすると旨いんです。でも頭を棒で殴ったときの、あの猿の悲鳴が忘れられないな。それはまるで……」
「やめて」私は若者の言葉を遮った。「そんな話は聞きたくないの。あなたはただ案内をすればいいの。わかった?」

 若者はしばらく黙って歩いていたが、私をちらちら見ながら何かを考えている様子だった。
「ねえ先生」と若者はカメラを私に向けながらいった。「言語学の先生がなぜジャングルなんかに? あ、足元に気をつけて」
「ありがとう。でもカメラはやめて」
「すみません」
「私、ジャングルには興味ないの。主に都市の研究をしてるのよ」
「都市の研究……。こないだ案内した生物学の先生も同じことをいってたな……。いったい、都市に何があるというんです?」
 そんなこと、私にだって分からない……。
「都市にはきっと何も無いわ。だから人がたくさん集まってくるし、研究もしなきゃならない」
「なるほどね」

 私達は小川の近くで小休止することにした。大きな木の根元に腰掛けながら煙草を吸った。都市はもう目の前にあるような気がしていたのだが、ジャングルの深い静けさに包まれていると心まで迷子になりそうだった。
 ふいに、隣りに腰を下ろしていた若者が私の腰に手を回した。
「おびえなくていいんだよ、先生」
「えっ……」
「世界はいつか終わる。都市も、ジャングルも、夢も」
 若者は、私の唇から煙草を取り上げると私の唇にキスした。
「夢も?」
「ああ、夢もね」
 若者は私を地面に寝かせ、私の服をゆっくり脱がせた。
「愛もいつか終わるの?」
「何もかもね」
 私は地面に転がっていた若者のカメラを手に取ると、私の中に入ってくる彼にカメラを向けながら、シャッターを切り続けた。
 何度も。


#33

一度きりの花

 花の好きな男がいた。
 彼はずっと花を育てている。種から芽吹き、茎を伸ばして葉を茂らせ、見事に咲いた花を眺めては、満面の笑みを浮かべる。秋になれば散ってしまうが、彼は実った種を上手に採って、翌年にまったく同じような花を咲かせ続けた。
 そしてある年の春、男はいつものように種を植えた、しかしつぼみまではいつも通りだったのに、咲いたのは見たこともない美しい花だった。
 男はとても喜び、飽きることなく眺め続けた。それが咲いた幸運に感謝し、花を称えて日々を過ごした
 やがてその花も枯れた。男は残念に思いながらも採れた種を握り、来年を思って心を慰めた
 そしてまた春が訪れる。男はあの美しい花よもう一度と歌いながら種を植えた。
 けれど花が咲いたとき、彼は思わずジョウロを落とした。それは去年とは違う花だったのだ。
 そう、今年の花も美しい。だけどこれは別の花だ。あの美しさは戻ってこない
 男の目から涙が零れた。今年咲いたこいつにも、来年は会えないかと思うと、どうしても泣かずにはいられなかった。
 彼は種を採る花とは別に、一輪を押し花にした。美しさを何とか残したいとやったことだが、無駄なことだった。押し花もまた美しいが、やはり花とは違うものだ。
 男は毎年種を蒔き、あのときの花を望む。だけどなぜか咲くのは毎年違う花。同じ物は戻ってこない。
 押し花、ドライフラワー、スケッチ、写真。
 毎年いろいろな手段で美しさを残そうと試したが、できるの小奇麗な抜け殻だけだ。
 男は花が枯れるたびに悲しんだ。二度と戻らない美しさを惜しみ、冬になるたび泣き叫んだ
 そうしてある年、幾度となく泣いた男は病に倒れた。だが寝床の中からも未練がましく花を見つめ、枕を涙で湿らせる。
 ある夜、苦しさで目覚めた男は自分の最期を悟った。暗さで見えぬ花を求めたその時、彼は初めて気づいた。
 自分もただの花であったと。咲いて散るだけの花であったと。
 わずかな季節で枯れる花を憐れんでいたが、自分も残され続けるものではなかったということに。
 彼は最後にして、ようやく花のために泣かなくなった。
 男の死後、あの花は種を成さずに枯れた。残ったのは彼が花から作ったものだけ。
 それがあまりに綺麗だったので、誰かが勝手に美術館へと仕立て上げた。
 魂の残っていない花園。
 そこを訪れた人は誰もが感嘆の声をあげるが、なぜか心に悲しみが湧き、素直に笑顔を作れなかった。


#34

ライカ

 つまり爆弾って言葉は小説で多用される。
 少しだけ変えてみよう。子音と母音を工夫して。そうするとバクダン→アクマとなる。
 悪魔の爆弾。良いじゃあないか。そしてそれを誰かが映画館で見ている風に、三人称的に、映像の世紀、ライカのアメリカの爆弾。ああ間違ったアメリカ間違えた。でもアメリカ良いな。ライカの爆弾、アメリカの悪魔。あ、駄目だ。爆弾、ライカのアメリカの悪魔の。ああ駄目だ。どんどん駄目になるなあ。
 クリント・イーストウッドとジョニデとジミヘンが一緒に素晴らしく泣ける映画を作ったので、全人類が幸福になっていた。
 しかしわたしは。ジャック・バウアーがいきなり目の前に現れて、銃を突きつけられて「みかん以外のみ、かんを言え! はやく言え!」って言われたけれどもうなんていうかみかん以外のみかんってはっさくしか思いつかなくなってしまってでもみかん以外のみ、かんって言うくらいだからかんってつかなくちゃいけないんだろう? だいたいはっさくの名前のつけ方がおかしくてきっとはっさく地方だか八朔って名前から取られたんだろみ、かんにしないで。なんか信長の野望で出てきた気がするよ八朔って。武力64知力55くらいの感じの八朔なにがしって武将で。
 ジャックは5、4、とカウントダウンを始める。No……。3、2、No……1……No、Oh……God……Shit! GO! GO! Oh……GO! そういう感じで結局はジャック・バウアーは許してくれる。24Hって見たことないけどきっとそんな感じの映画なんだ。だからジャックなら大丈夫なんだ。ジョニデはどうだろう。シザーハンズよかったですね、なんて言ってしまったらきっと二度と心を開いてくれないに違いない。カウントダウンが始まったらきっと助けてくれない。
 だけれどシザーハンズ。機械だって、美しいよ。3Dポリゴンモデリングソフトでむちゃくちゃに作って、それを参考に彫刻をする作家だっているんだ。三原則。虹と花だけの景色を、ジャズとロボットが手を取り合っていく。自分はロボットは乗り込むタイプが好きだけれどな。つまり運転するやつだな。俺は駄目だな。でかいのは嘘臭くて。せいぜいボトムズまでだな許せるのは。乗り込むタイプはそれ以外だとさすがに嘘臭いよ。あたしは獣神ライガーが好きだな。少年がぬめぬめと取り込まれていくシーンが好きだな。いや、そういうことは聞いてないんだけどな。


#35

僕と妹

 妹から借りた西尾維新の本を片手に、僕は彼女の部屋へ行った。ドアを開けると、僕の位置から左斜め四十五度の辺りに、妹がいる。彼女はベッドの上に服を散らかしつつ、一人ファッションショーでもやっているようだ。妹がちらりとこちらを見た。
「ちょっと。部屋入るなら声かけてよ」
「いや、もう出掛けたのだと思って」
「これからなの」
 僕は妹の着替えに無関心を装いつつ、机の横にある本棚のところまで行った。作者順に並んでいる本棚の「に」の段を探し、本を元の場所へ戻す。
「本読んだ。ありがとう」
「んー。他のも読む?」
 妹はてろんとした生地のワンピースを頭からかぶって、もごもごと動いている。
「何冊か借りてく」
 僕は中身も見ないで、「な」の段から本を数冊抜き取った。
「あんまり夜遅くなるなよ」
「うん」
 妹は膝上の黒いワンピースにチェックのタイツを穿いて、着替えを完了したようだ。鏡の前で最終チェックをしている。新しい香水をつけているのか、少し甘い匂い。
「帰る前にメールするね」
 妹の明るい声を聞きつつ、ドアを閉めた。

 この頃、僕は考える。
 例えば、手元にある中原中也の『山羊の歌』。これは僕にとって、まだ読んだこともなく何の思い入れもないただの紙の集合体であるが、妹にとっては違うかもしれない。――恩師に戴いた宝物であったり、少ない小遣いを貯めて買った思い出の品であったり。
 つまり、僕は先程、妹が着替えをしている姿を見て、それと同じではないかと感じてしまったのである。
 久し振りに見た妹の体は、胸や腰の辺りが丸みを帯び、ふっくらと柔らかそうな体になっていた。まさに、女そのものであった。僕にとって「妹」でしかない彼女は、他の男にとっては「女」として性欲の対象に為り得るということだ。
 僕は中二の頃、性欲に目覚めた。勿論、それ以前から性に関しての知識は得ていたが、中学生になってから欲求を持て余すようになり、人と肉体的に触れ合う温かさを知りたくなった。ある夜、僕は眠っている妹の唇に、少しだけ自分の唇を重ねてみた。
 今になって思うのである。僕はどうして、あんなことを、してしまったのだろう。

 今日、おそらく妹は男と会うのだろう。僕と妹は、同じ「家族」という集合体で育ったが、個々人は独立体である。やはり、妹には妹の人生があって、僕には分からないところで、それは進んでいくのだと思う。寂しいことだが、当たり前のことなのである。


編集: 短編