# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | 覚醒 | アンデッド | 960 |
2 | シェア | 山羊 | 994 |
3 | 生徒会の秘密 | へげぞ | 608 |
4 | 夜のハーメルンの雪散りの恋 | カニメス錠 | 997 |
5 | 和蕎麦エレジー | 朝野十字 | 1000 |
6 | WORLD SCRUTCH | キムヒョジュン | 324 |
7 | アクロバチコ・アクロバチカ | くわず | 1000 |
8 | 雪の雨 | 橋元狐守 | 1000 |
9 | 新年、新月、凍て夜に | おひるねX | 1000 |
10 | 家庭の事情 | 彼岸堂 | 1000 |
11 | 集中、ひらめき、愛、覚醒 | 戦場ガ原蛇足ノ助 | 993 |
12 | 夜を説く | 笹帽子 | 1000 |
13 | カマンベイベー | 森下萬依 | 1000 |
14 | 冬の放課後 | 西直 | 1000 |
15 | ARK | 高橋唯 | 997 |
16 | スナック | 借る刊 | 923 |
17 | あなたは閉じ込められている | えぬじぃ | 1000 |
18 | 評 | 三毛猫 澪 | 1000 |
19 | 天国 と 地獄 | 中崎 信幸 | 757 |
20 | 未だだ。 | 交野幻 | 818 |
21 | 見えない線 | (あ) | 1000 |
22 | 夢 | みうら | 1000 |
23 | パターンB | qbc | 1000 |
24 | 繋恋橋 | クマの子 | 1000 |
25 | 女がウサギになるまで | 宇加谷 研一郎 | 1000 |
26 | デジタルデバイド | 黒田皐月 | 1000 |
27 | ヒデとマサの話 | 鼻 | 920 |
28 | 日だまりの詩 | euReka | 962 |
29 | 削除されました。 | 謙悟 | 1000 |
30 | エンドレストラック | 壱倉柊 | 1000 |
31 | ウェルドイット! | キリハラ | 1000 |
目が覚めると、僕はどこかの部屋にいた。
はわわ――。
そうだ、ここは僕の部屋だ。気が付くと、そこは僕の部屋だった事を思い出した。
誰もが自分の部屋を思い浮かべた時、最初に浮かんでくる様な、そんな部屋だ。
なぜ僕は自分の部屋にいるんだろう。解らないね。
そうか。昨日あれがあれして、アレだったんだった。
誰もがアレと聞いた時、真っ先に思い浮かんでくる様な事。それがアレだった。
アレのあれは、あの後どうなったんだろう。
僕はアレの事が気になった。
「ニャア」
うわ!
驚いた。
ああ、なんだ。
猫か。
その猫は、誰もが猫と聞いた時真っ先に思い出す様な、そんな猫だった。
なぜ猫が僕の部屋にいるんだろう。気がつくと、僕の家は猫を飼っていた事を思い出した。
そうだ。皆が自分の小説で猫を書きたくなるぐらい、皆猫が好きなんだった。
だからうちもこうして猫を飼っているんだ。
「ニャア」
可愛いなぁ。
猫って。
可愛いなぁ。
そうしている内に、時間が過ぎていった――。
「夕飯用意出来たよー! 早く降りて来なさいー!」
誰だ!
目を覚ますと、僕を呼ぶ母親の大声がした。
そうだ、母親だった。気がつくと、僕には母親がいる事を思い出した。
誰もが母親と聞いて思い出す時、すぐに思い浮かんでくる様な、そんな母親だった。
気がつくと、もう夕飯の時間になっていた。
時が過ぎるのは早いもんだぁー。
「ニャア」
うわ!
可愛いなぁ。
そうして、また時間が過ぎていった――。
「ご飯早く食べないと冷めるよ! もう片付けるよ!」
誰だ!
目を覚ますと、夕飯の時間だった事を思い出した。
僕はその言葉に従って、ご飯を食べに降りて行った。
――誰もが夕食を思い浮かべた時、最初に浮かんでくる様なご飯のメニュー。
そんな夕飯を食べ終わり部屋に戻ってくると、突然アレのことを思い出した。
そうして僕はまた寝床についた。
――僕は、目を覚ました。
気がつくと、僕はどこかの部屋にいた。
僕は自分が目を覚ました事に気づくと、そうして目を覚ます事に気づく自分に、初めて気がついた。
そうやって目を覚ました事に気づいた僕は、自分が目を覚ました事に気づいた旨が書いてある、小説の書き出しを読んでいる事に気づいた。
だって、これを読んでいる君もそうだろう?
「ニャア」
誰だ!
私、谷崎可憐には3ヶ月ほど前からお付き合いしている彼がいます。
私は彼に、週に一度手作りのお弁当をお差し入れしています。
彼は月々のご両親の仕送りでアパートを借りて、そこで細々と暮らしています。
私と彼は別々の大学に通っていますが、彼は日々の食事代にも頭を抱える苦学生です。
今日も彼にお差し入れをしにいきます。
「こんばんは」
「あ、可憐ちゃん。いらっしゃーい。ちょー腹へってたんだ。さ、入って入って」
彼に促されるままお家に入って、食卓につきました。
「お勉強、お疲れ様です」
彼にお弁当箱を差し出すと、いつもこうしているのに彼は凄く喜んでくれて、おいしそうに全部食べてくれます。
私は彼の食べる姿を見ていられればそれだけでお腹いっぱいです。
「ごちそーさま!」と言ったあと、彼は深刻な顔をしてしまいました。
なにかを言いたそうだけど言いにくい、そんな顔です。
私は「可憐、あのさ……」と彼の話が本題に入る前に「はい。これ」とお金の入った封筒を差し出します。
彼の考えてることなら、全部わかるようになりたいから。
「いつも……悪いな」
「ううん、いいの。それより……」
私も彼に言いたいことがあります。
「私と……」
「え?」
思い切って……。
「私と、同棲しませんか?」
※
俺、森繁瀬名には付き合っている彼女がいる。
彼女とは一年くらい前から、俺の家で同棲している。
バイトもしていない俺は色々頼らないと生きていけない。彼女もそれを理解したうえで同棲している。
俺の家で彼女はテレビを観ていた。暑いせいかタンクトップを着ていて、白い肩が露出している。
「なあ」
後ろから声をかけて、俺は彼女の肩を揉んだ。
「なあに?」
「……しようぜ?」
「やぁだよ暑いしー」
俺は嫌がる彼女を無視して、揉んでいる手を肩から胸へとシフトした。
「どうせ汗かくんならさぁ」
恋仲である以上、これもある種、日課のようなものだ。彼女も妥協してくれた。
「べ、別にいいけど、もう夕方だよ?」
「すぐに済ませば大丈夫だって」
そのあとに用事を控えていたが、目先の欲望に終始した。
チャイムが鳴ったのは、丁度行為を終えたころだった。
「やべぇっ! もうきたのか!?」
「だ、だから言ったでしょー!?」
慌てて服を着る俺と彼女。
タイミング的にはギリギリだったが、いつものように彼女は押し入れの中に身を隠した。
俺も玄関にある女物の靴を下駄箱に入れ、独り身のフリをしてドアを開けた。
「こんばんは」
「今度の生徒会役員は、美女を任命することにする。生徒会役員は顔で選ぶ」
生徒会担当の教師は全校生徒の前でいった。みんな、動揺して、大騒ぎだった。中には喧嘩したやつらもいるらしい。
そして、美少女五人による生徒会がつくられた。
生徒会の就任演説の前に、生徒会担当教師が美少女五人を呼び出して、秘密の会議を開いた。生徒会副会長になった佐々木はこんな担当教師なんか、殺してしまおうと、本気で怒っていた。生徒会役員を顔で選ぶ? 冗談じゃないよ。確かに、顔でわたしが選ばれたのは不思議よ。わたしって、そんなに美人だったっけ。でも、美少女五人に学校の生徒会を任せるような、民主主義でない生徒会など、許さない。顔で生徒会を選んだ担当教師を殺してやる。本当にそう思っていた。
短い秘密会議の中で、担当教師がいった。
「公には、今回の生徒会は顔で選んだといってあるが、実は性格で選んだ。このことを絶対に秘密にするように。おまえたち五人がこの学校で最も性格のいい五人だ」
ひとことで、意識がふっとびました。
マジ泣きだったんです。生徒会の秘密がそんなものだったことに。
殺したいほど、憎んでいた相手が、正体が大善人だったことに。
だから、わたしは生徒会の仕事を本気で頑張ったんです。会長には絶対服従でした。あの人が、確かにかわいいファンクラブまであるあの子が、この学校でいちばん性格のいい女の子だったなんて。逆らえるわけなかったんです。
摩天楼と摩天楼を繋いで縄を張り、ハーメルンと呼ばれる道化者たちが綱渡りを披露する。
道化は孤児の少女ばかり、華奢な体に無数の折り紙を貼り付けたような衣装を身に纏い、摩天楼の人々へ芸を見せて食料をせびる生活を集団で続けていた。
楽器とは呼べぬ楽器で音楽を打ち鳴らし、いくらその音楽が優れていようとも、私たちのお腹を満たさねばあなたたちに安眠はないのよという脅しとし、音が鳴れば女はうんざりと食料を運び、不埒な男は少女を下から眺めて情を起こし女を抱き、産まれた子供の何人かはハーメルンに堕ちる。
摩天楼はハーメルンの音楽と嬌声に彩られて循環している。
屋上緑地から始まった摩天楼の緑地化はすでに建物全体を緑化するに至り、摩天楼群が緑に覆われた未開の深い山ならば、ハーメルンが張った一本の夜綱は登山家が最高峰に立てる国旗だった。
ハーメルンの夜は皆で体を寄せ合い、千羽鶴を折って綱渡りの無事を祈る。そして恋の話に花を咲かせる。それは寒さや外敵から身を守るためと、空腹に負けて体を売ってしまわぬよう厳しく戒めるためだった。
けれどもその弊害として、狼に襲われたハーメルンの一人が我が身を哀れみ自死を決めた。
ハーメルンは誰一人として諌めず、秘伝の楽器を打ち鳴らしては言葉には代えがたい悲壮なメロディを奏で始めた。
「あそこのベランダに男の子がいるでしょう? どういうわけでか罰せられて、一晩中ベランダに追われてて、いつもあたしたちを見てるの」
血と汗と涙と脂と埃が染み込んだハーメルンの夜綱を少女は軽やかに歩む。
「あの子の生命力溢れる強い目が好きでした。」
なのに少女は夜綱から我が身を投げ出し、落下した。
鋭い落下の中、少女はベランダの男の子に微笑みかけた。
一瞬のことではあったが、男の子は腰掛けていた室外機を蹴飛ばし少女へ手を伸ばした。
夜のハーメルンは想い人と結ばれて地上で暮らすことを夢に見る。
摩天楼の人々からすれば地上とは見果てぬビル間の暗い底を意味したが、ハーメルンからすれば地上とは緑に覆われた摩天楼だった。
地上へと落下する者たちへ、ハーメルンは幸せを願った千羽の祈り鶴を捧ぐ。
折鶴と落下する少女の衣装が飛び散る儚い様は、雪のようだとされる。
しかし摩天楼の人々は本当の雪を知らない。知っているのは夜のハーメルンだけだ。
なぜならば、楽器も含め夜のハーメルン全てが雪だからだ。
毎日蕎麦を食っていた。蕎麦好きという自覚はあった。
異変に気づいたのは、子供が蕎麦アレルギーになり、妻が家の中で蕎麦を茹でることを禁じたときだった。たまたま近くの蕎麦屋が休みで、我慢できずにスーパーで蕎麦を買ってくると、妻は蕎麦を取り上げゴミ箱に捨ててしまった。私はいつになく苛々して大声で怒鳴り始め、そこで記憶が途絶え、気づいたら病院にいた。
「あなたは極度の蕎麦依存症です。蕎麦が切れたため激烈な禁断症状が出たのです」
「そんな病気があるのですか?」
「セックス依存症で入院したデヴィッド・ドゥカブニーをご存知ですか? ギャンブル中毒に買い物依存症など、高度で複雑な人間ならでは、どのようなおかしなものにも執着しうるのです。そして執着が嵩じると体にも症状が出ます」
「どうすれば直るんですか?」
「今のところ治療法はありません。毎日蕎麦を食うしかないでしょう。さもないと、再びショック症状が出て命の危険がありますよ」
貿易会社に勤める私にサウジアラビアへの出張辞令が出た。
私の持病を心配してくれた上司に、私はきっぱり答えた。
「大丈夫です。ぜひ行かせてください」
今回の商談を成功させれば昇進まちがいない。私は鞄に蕎麦を詰め中東に旅立った。
アクシデントはすぐにやってきた。ガイドに雇った男が蕎麦を持ち逃げしたのだ。私が肌身離さず持っていたため勘違いしたらしい。
私はガイド男の足跡を追ってダウンタウンを巡り、地元のマフィアと交渉し、ガイド男と交換に収監されていたマフィアのボスを脱獄させ、地元警察と銃撃戦、CIAの女スパイとのひとときの情事、さらには国際陰謀の鍵となる秘密情報を囮捜査で盗み出した。
24時間後、砂漠の真ん中で、私はようやく鞄を取り戻した。が、一足遅く、鞄を開け捨てられた蕎麦を傍のラクダが全部食ってしまった。
必要なのは蕎麦の成分だ。それは今このラクダの腹の中にある――。
妻と子供の顔を思い浮かべ、ここで死んでたまるかと私は強く思った。
そのとき、にぎやかな祭囃子を流しながら大型バスが通りかかり、中から水着姿の美女たちが降りてきた。
「私たちは2009年ミス・蕎麦です。日本の蕎麦のすばらしさを伝えるため世界中をキャンペーンして回ってます。よろしければ車内で蕎麦を試食しませんか?」
「よかった、地獄に仏だ!」
私は感激して叫んだ。
「みんなで手分けしてこのラクダを押さえてくれ。今からこいつに浣腸するから!」
IN THE MORNING.
DREAMING FOR THE WENT TO THE MEXICO.
MOST BEUTIFUL PLACE.AT VILLADGE THAT RUN AWAY TO AMERCAなTHAT PEOPLE NO MONEY NO JOB.
HI HANNE.
YOUer.THE FLOWER OF GUATEMALA.
CUBA COSTALICA
WAS BORN ApRIL 9.
JUST A TOuCHな TaNX YOU.
eSMUSICA ALL AROUND THE WORLD
BENNEFIT TIMES PLACE EVERY.. EVERY PEOPLE
SOMEDAY ILL BE SOON
世の如何な動きも見通す眼力を持つ仏眼仏母が二千億光年彼方から地球をぼおぉと見遣っていると、何の変哲も無い西風にふわり舞った砂の一粒に驚き胡坐を浮かした。痺れた脚を引き摺って駆け込んだ先は、神仏界広しと言えど弟子を想う心絶類抜群と謳われた地蔵菩薩の家。ちょ、宋元の骨が粒になって地球に落ちてまっせ、と息も絶え々々言った仏眼仏母の胸倉を掴んで、そらどういうことやねんキリキリ説明せんかいボケェ、と地蔵菩薩は詰め寄った。宋元とは地蔵菩薩が大層目をかけておった人間の弟子であったが、何の因果かエジプトの女神ヘケトに誑かされてイイ仲になってしまった。で、御仏へのお務めもほったらかして睦言を交わしてる所、事ある毎ヘケトに言い寄っていた闘いの神モントゥに見つかり、われひとの女に手ェ出してただですむと思とんちゃうやろなカスゥ、てことで神人呪うこと超軼絶塵と評判の邪神アポピスの手で生きながらにしてあの世送り、地獄のジャッカルに全身を齧られ続ける破目となった。何とか救済を目論んだ地蔵菩薩であったが、エジプトの罪はエジプトの法で裁くんが道理でっせ、と言われてはグゥの音も出んかった。韋駄天に取りに行って貰お、ということで馳せ参じた神仏最速の男。地球て遠いわぁ参るわぁ言いながらも気炎万丈義気凛然、いざクラウチングと屈んだ瞬間、あ、あかんわ。何があかんのん。何があかんて、俺が走ってった風圧であなな砂粒どっかへ飛んでってまうで。そこで仏眼仏母が膝を打って、阿弥陀如来はんに時空間を歪めてもろて引き寄せてもろたら。と今度は地蔵菩薩が膝を打ち、なるほど仏眼仏母も眼以外使うことがあるもんやなと感心し、早速時間空間の七擒七縦自在な阿弥陀如来に二千億光年の時空をすぱぁと切り取ってくれるようお願いした。誰さんも簡単に言うてくれまっけどなぁとブツクサ言い々々、阿弥陀如来は二千億光年の時空間をすぱぁと切り取ってみせ、地蔵菩薩は宋元の骨粒を掴むことができた。地蔵菩薩は右の鼻穴から糞を穿り出し、骨粒を核にぐるりと団子をつくるとたちまち表面を波打たせてむくむくと形を成し、宋元となった。掌の上で何事かと吃驚仰天茫然自失の宗元に地蔵菩薩が心配しとったんやでと言うに応じた宋元の話は、ざっくりこんな感じであった。いやぁあの後モントゥはんにはすぐに許してもろたんでっけど、戻った途端、なんやセルシオ言うのん、轢かれてもて、わやですわ。
クリスマスだからだと、高校二年にもなって今更バイトを始めて、なんとか五万円貯めた。
決意したのは十一月の半ばで、それまでの俺はただ彼女と一緒に帰り道を歩いて、ときどきコンビニで買い物する程度。
確かに毎日は楽しかったけれど、どこかが足りない気がしていた。そんな時にネットや雑誌を見ると、やっぱりカッコイイ洋服やアクセサリーは必須だと思えた。
だけれど俺がバイトまで初めてまで変わりたいと思った理由はそれじゃない。
「あのね緑くん、来週のどようびに私の部活の試合があるんだ。見にきて、くれる……?」
「しょうがねえなあ。しっかり活躍してくれよ?」土曜日は俺も部活だけど、彼女と一緒に居たいから笑いながらこんな会話をしてる。高校生といえば華やかな物の代名詞のはずなのに、ここで話しているのは我ながらとても平凡なただの田舎のカップルだった。
だからそこから抜け出したいと思った。週に三日バイトを入れコンビニで知らない人に頭を下げながら金を貰う。
それで俺は彼女をもっと幸せにしてやるつもりだった。華やかに、学校の中で俺たちだけがやれる最高のデートをするつもりだった。
彼女のためのクリスマスには、普段よりワンランク上の、ワインが要らないギリギリの料理屋に連れて行ってやるつもりだった。
ああ、彼女はその為にがんばる俺をすごく冷ややかに見ていたらしい。別れ際に凄く純粋で綺麗な涙を眼球から零しながらもはっきりと緑くんは私よりも先にオトナの世界へいっちゃった。私は、まだ子供でいたいんだ。
なんて言われて、俺がデートの為に貯めた金をサイフごと握りつぶせない訳は無かった。二つ折りのサイフが軋む。皮の擦れる嫌な感触が手の中一杯に広がり、俺を痛めつけていた、だが金本体を切り裂けない自分。誰も知らない間に確かにもう大人に変わってた。
ああ、彼女が遠い。「大人」は伝染病なんかじゃない! 俺に子供を思い出させてくれよ! ……なぁ。
彼女を驚かせようとコッソリ作っていたデートプランはクラスで恋して青春をしている男にプレゼントしてやった。予算キビシいなぁ。とか言っても目は輝いてたなあアイツ。
バイト終わった十時過ぎ、星を見ようと見上げた空は曇っていて、そのくせ雨も雪も降っておらずに星も当然見えなかった。
十万近く入っている財布を最初で最後だから、と思い切り地面にに叩きつけ踏みつけた後、俺はその財布を拾って親と友達へのプレゼントを考え始めた。
新年の闇夜星が降るように輝き、寒さは肌を裂くようにきびしい。
都会の夜空はいつものように地上の明るさが汚れた空気を白っぽくさせて夜空になにか抗議しているような気持ちにさせる。オレがそう思うからだろうか。それでも、今日の空は星がきれいだ。
話題になった新星がひときわ強く光っている、まるでまだ明るい夕方に見るいちばん星のように光っているのは小さな月のようだ。
古来、新星の爆発は吉兆、あるいは凶兆と云われ預言者のかたりの種になってきた。現代、とくに預言者はでてこないが人々はすこしは賢明になったのだろうか。
そう、世の中よくなったのだと思うが、さて、
はたして良くなったのはどんな字がふさわしいのだろうか? 好い、善い、良い、まあ、良いがいちばんふさわしいだろう。わたしは今の世を好きではない。戦争、公害、核兵器、こんな世は善いはずがない。悪でも、嫌世でも良いのだ。そう云うしかないのかも知れない。それだったら、人々が賢明になろうと愚鈍であろうとどうでもいいことになる。大事な事は今日生きていて、もうすぐ明日が来るということなのかもしれない。
凍てつく夜に思うことが、恨みごと、ではなくてまるで、悩み事を探しているようなのは、ちょっと間が抜けている。自分の間抜けを楽しんでいるのならそりゃ、いいことで世の中よいのかもしれない。
夜明けが来る前に眠気がさしてくる。無理していれば夜明け過ぎすっかり日が昇ってお天道様がかんかんいって照らすようになったころ白河夜船で勤めにも行かず夜まで寝てる。
そんなバカな想い出がある。してみると、こういう人間はいなくてもいいのかもしれない。
オレに限らずいなくてもいい人間というのはあんがいいるのではないだろうか?
ひとさまに向かってあんた、いなくてもいいよ、とは、云うことではない。完全に礼を欠いている。
だからオレは云わない。云わないが考えてみればどんな人間でも存在価値があるという言葉は、多分になぐさめを含んでいるように思う。そう、やっぱりオレに限らずいなくてもいい人間はいるんじゃなかろうか?
これは、どうかと思うのだが、死罪判決を免れた犯罪者にいっしょうかけて償いなさいと、裁判官がいう。
ただ生きることに意義があるなら、それで償いになる。ならば、誰も同じこと価値がある。
改まって云うことではないがどんな人間にも価値があるなら、ただ生きるだけで素晴らしい価値が有る。うん、そうだと思う。
台所の冷蔵庫には母の生首があった。
振り向くと父が鉈を持っていた。
そう言えば今日は祝日だった。
コンプレッサーの音が響いている。
「最初は確かに寒いわよね。でも、慣れてくるとどんどん快適になるわよ」
約十三時間程私より冷蔵庫暦の長い母が、ぼーっとしていた私に声をかける。
「だってここ、結局は春夏秋冬問わず涼しいじゃない? 一定の気候って重要よ。快適の要素だと思うの」
そりゃ母さんは快適だろうさ。隣にキムチがないんだから。
私は隣にキムチと納豆があるんだぞ。コンボだぞ。何も対策せずに食べたら間違いなくアウトだぞコンボ。母さんみたいに枯れた年頃じゃないんだぞ私。現役女子高校生なんだぞ十六歳。
次に父さんが冷蔵庫を開けたら納豆とキムチの位置を変えるように言わなきゃ。
「美紀は私にそっくりね」
「いきなり何?」
「どんな時でも能天気な顔しているところが、私の若い頃にそっくり」
「でもお父さんはそういう母さんが好きだったんでしょ?」
「うん」
母さんは話が長い。特に『私に似てる』系の話題は危険だ。こういうとき私はいつも父の思い出を引っ張り出して対処している。母は思い出に酔うタイプなのだ。
「あ、大変! 牛乳の賞味期限が切れそう! お父さんに早く飲むように言わなきゃ」
「でもうちで牛乳飲むの、私達だけだよ」
「あら、そうだったわ。どうしましょう」
全く、母は実に暢気だ。
自分の状況を理解しているのだろうかこの人は。
「ねえ、お母さん」
「なに?」
「お母さん、ちゃんとお父さんにお願いしたの? 『管理』」
「あ」
あぁ、やっぱり。母さんは今この幸せのせいで一番にやらなきゃいけないことを忘れてしまっていた。思わず溜息をつく私。
「そういう美紀はどうなの?」
「お父さんには冷蔵庫をもらったときから言ってあるもん」
「あらまぁ」
「お母さんの冷蔵庫、『管理』が難しいんじゃない?」
「うん。でも大丈夫よ。きっとお父さんはわかってくれているわ」
「本当にそうならいいんだけど」
私の冷蔵庫は1人だけだが、母の冷蔵庫は4人だ。もしお父さんが忘れてたら折角の愛情がパーだ。
あ、そう言えばあいつの隣に置いたケーキ、食べ忘れたな。どうしよう。
「ねぇ、美紀」
「ん?」
「私今、とっても幸せよ」
「……うん。私も」
母は長年の夢が叶ったことでまだ酔っているらしい。
私もこのキムチ納豆が無ければ酔っているところなのだが。人生世知辛いものだ。
部屋に入ったわたしがまず目にしたのは、彼女のまどろむ姿だった。彼女は確かにまどろんでいた、というのは窓辺でとろんとしていたというような軟弱な意味合いではなく、これから机の木目に沿って内側に染み込むところだから決して話しかけてはいけません決して、という固い意思を感じさせる体勢で突っ伏していた様をそういっているのだ。
それは幼少期における母親の愛情の不足を疑わせるに十分な過激さを備えてもいたので、わたしは彼女に近い窓を開けることにした。その窓は曲者で、まずすんなりとは開かない上に、盛りのついた猫のような音を立てるので、彼女は飛び起きて、わたしに不満気な顔を見せるはずだった。
どうしたことか、その日に限って窓はすっと開いた。夕立が迫っているらしく、空は一面(これはこれで綺麗な)グレーで、生暖かい風が目の前を横切っていった。わたしはしばし呆然とした。5-56の仕業だろうか、それともシリコンスプレーか。いずれにせよ666系の所業だと憤慨するわたしのすぐ側で、彼女の額はいよいよ木目を読み始めていた。
湿気とは無関係に瑞々しい髪が四方八方に拡がって、上から見ると外国の毒蜘蛛のようだった。一束つまんで持ち上げてみたが、たちまち指の間から滑り落ち、本体は微動だにしなかった。
だらりと垂れた右手の下には鞄があって、ジッパーのすき間からペットボトルが蓋を覗かせていた。開けて飲んでみたが、彼女の指先に力が戻ることはなかった。
母親が情の薄い人だったとは思わないが、わたしはそこで彼女を諦めて、隣の椅子に腰掛けた。誰かが置いていった文庫本を手にとっていたずらにページをめくっていると、視界の端から彼女の手がするすると伸びてペットボトルに迫った。わたしはそれを払いのけて、ぬるい紅茶を一口飲んだ。
彼女は蠢いて、突っ伏したままではあったものの顔の向きを少し変え、口を開いた。
「ひどい」
「ねえ」
「ひどい親だ」
「学校では先生と呼びなさい」
「ひどい教師だ」
「若い頃は熱心だったのに」
それを聞いて、ちょうど部屋に入ってきた若い教師が引きつった笑みを浮かべた。わたしは立ち上がって彼を迎えた。
「そんな嫌そうな顔しないでよ。やりにくいなあ、みたいな」
「してませんよ。勘弁してくださいよ」
「冗談よ」
はあ、と彼は溜め息とも返事ともとれる声を漏らした。
彼女はううん、と唸って、不満気な顔をこちらに向けた。
部屋に来てからすぐ、小夜は言いました。
「私作家になる」
眠そうな青い瞳がきれいです。
「小説を書くの」
既に二日という長い間、小夜は僕のアパートで暮らしています。明日を思うと恐ろしいですが、最近では考えないようにしています。未来のことを頭から追い出して、小夜に抱きしめてもらえば、僕も眠れるのです。それを覚えてから、逃げてばかりです。
午前三時に大学で現代性交概論の講義を聞いていましたが、流星群が酷くなってきました。老教授が、もうやめにするから帰りなさいと言いました。生徒は僕一人。金平糖の降る中、歩いて家に帰ると、小夜はラップトップをひざにのせ、くちびるをキーボードに押しあてています。
「いくら打ちやすいからってそれ汚いよ」
画面をのぞくと小説が天河のように広がっています。
「書いても書いても足りない」
小夜は顔を上げず、またキーボードにキスの雨を降らせました。吸い寄せられるようなそのうなじから常習者特有のにおいがして、僕は驚きました。一方未完成の小説は、エクセルの画面で窮屈そうに身をくねらせています。その無数の瞳の一つと目があったような気がしてなりません。小夜の肩にかかる髪をなでました。
「邪魔しないで」
小夜は眠りもせず書き続けました。自分のすべてを、小説で表現したいのだそうです。自分を表現しないために書く僕とは対照的で、皮肉ですね。僕はこうして文字を並べ、自分を守る壁を作ります。知られるのが怖いから。わかった顔をされたくないから。小夜は違います。自分が小説になろうとしているのです。読んでもらい、触れてもらおうとしているのです。僕は少し情けなくなりました。
四日後部屋に戻ると、小夜は消えていました。床で、衣服とラップトップだけが月光浴をしています。砂か水くらい落ちていてもいいと思いましたが、残らず小説の文字になってしまったようです。
「書けたでしょう」
確かに立派です。僕はジーンズや下着を脇に押しやって、Tシャツだけラップトップに着せてやりました。
「ちょっと変態っぽい」
だって硬い筐体をそのまま抱きしめるのは気が引けたのです。ベッドにもぐりこみ、小説のふわふわした胸に顔をうずめ、その指先のぬくもりを感じながら目を閉じました。今なら少しは、僕にも良い小夜が書けるかもしれない。抱かれているとそう思えるのです。
ああ。今夜は久しぶりに眠れそうです。あなたもそうじゃありませんか?
朝登校すると校門で生徒指導の体育教師椿原に止められた。
「校章は? 」
クリーニングから帰ってきた学ランを慌てて着たのでたまたま校章は忘れていたのだ。椿原は竹刀で僕の尻を軽く叩いた。その様子を好きな女子に見られた。笑われてしまった。
「キミ! ちょっと待ちなさい! 」
翌朝登校すると校門で椿原が真っ青になって走ってきた。
「その格好はなんだ! 」
僕はすかさず答えた。
「校則には『男女共に制服を着用』としか書いてません」
「しかし……」
椿原は目をむいた。
「キミ、それはセーラー服じゃないか! 」
そのまま僕は指導室に連れて行かれた。
「道徳的に問題がある! 男子が女子の格好をするなど人間的欠陥だ! 」
椿原が叫んで竹刀を振り回す。
「今お母さんを呼んだからな! 」
僕はあえて黙っていた。
「どこよー指導室はー」
けたたましい声がしてドアが開く。
「博ちゃん! 」
ママが叫んで走り、僕に抱きついた。椿原は唖然としていた。ママはピンクのミニスカートに網タイツにヒールといういでたちだ。しかもお店の女の子達を引き連れている。
「あの……」
椿原が遠慮がちに言った。
「お父様ですか? 」
「やーネェ見た目は男でも中身は女ですゥ」
僕のママはパパなのだ。後ろに引き連れている女の子達にも、付くべき物は付いている。
「先生さっきのことママたちに言えますか」
僕は口を開いた。
「道徳的に問題がある! 男子が女子の格好をするなど人間的欠陥だ! 」
椿原の口調を真似る。
「何ですってェ!? 」
「きいいい!! 許せないわ!! 」
「袋ダタキよ!! 」
「タマ袋ダタキよ!! 」
女の子達が叫んで椿原に飛び掛った。椿原は悲鳴を上げて逃げ回る。女の子達が髪を振り乱し、捕まえた椿原の唇を奪う。髭をこすりつける。触ってはいけないところを掴む。あっという間に阿鼻叫喚の騒ぎだ。
「おやめなさい!! 」
ママの野太い声が響く。
「あんたたち、お里が知れてよ」
女の子達がフン、と鼻息を漏らす。
「今日のところは勘弁したりゃあ」
「今度博ちゃんに目ェつけてみい」
「ケツからキーキー歌わしたるぞ!! 」
失神しそうな椿原を残し、僕達は校長室を出て行った。出るなりママのゲンコツを食らった。
「半端な気持ちでオネェやるんじゃないよッ!! 」
僕はうなだれる。
「明日から学ランにするよ」
仕方なく言った。
「博ちゃーん、ママー」
女の子の声に振り向くとカメラを構えていた。
「記念写真! はいっチーズ!! 」
委員会のある日は大抵一人で帰ることになる。人気のない廊下を歩いていると、閉めきった窓の向こうから風の音が聴こえてくる。私は微かな不安を誤魔化すために鼻歌を歌う。もっと不安になりそうな掠れた声で。
理科室の戸を開けると、電気がついていないのに人の気配がした。その瞬間は窓際にいた彼女に気づかなかったけれど、室温が少しだけ高い気がした。
黒縁の眼鏡をかけて、肩までの長さに切り揃えられた髪、スカートはやや長め。優等生な姿だったけれど、野暮ったい感じはしなかった。あとから考えると先入観があったのかもしれない。彼女は最近、私の友達が「いい」と言っていた男子とつき合い始めた。私はその友達の呪詛を真面目な顔して聞き流したりしていた。彼女と話したことはないけれど、隣のクラスで体育が合同なので顔は知っていた。
私はたぶん面倒そうな顔をしたんだろう。彼女が困ったように眉を寄せた。その表情につい口元で笑ってしまった。
何年か前までアトピーで首とか汚くて、小学生の頃は菌扱いもされた。だから今は触られるのが嬉しい。人の体温が嬉しい。だから気安く触ってくる男子にすぐ惚れてしまう。
要約するとそんなことを、彼女はもう少し詳しく、けれどあっさりに話した。
「みんながそうってわけじゃないけどね」
「うん」
「でもわたしはそうみたい」
「へえ」
「えっと、理科室、何か用だった?」
「ん……、煙草吸いに」
「あはは、不良だ」
「ストレスたまるんすよ、会議とか」
私はポケットに手を入れて小さな箱を触る。表面を撫でて、また外に手を出した。
「そっちは?」
「んー、暗い場所でぼーっとしたかった?」
「あー」
「わかる?」
「まあ」
「ふふ」
少し話しただけで仲良くはならない。私は彼女を置いて学校を出て駅に向かう。すぐ近くの信号で立ち止まる。広い通りの信号。吹きつける夕方の風が私の頬を冷やした。
まだ車道の信号は青だったけれど、ふいに車の行き来が途切れた。静かになった広い通りに、びゅうっと風の音が響いて、ひどくさみしい感じがした。
ふうっと息を吐いて、信号に背を向けた。学校の前を通り過ぎ、そのまま進むと商店街が見えてくる。その端にたこ焼き屋がある。たこ焼きは大抵熱かったり温かかったりするのだ。
彼女はまだ理科室にいるだろうか。暗い場所でたこ焼きをつつく場面が浮かんだ。恥ずくて、「何それ?」とも思いながら、私は二人分と、十個入りを注文した。
「さつきは今日からやよいなの」
あの日、やよいがベランダから落ちた。落ちたやよいの顔はひしゃげた蛙みたいになっていて、あれはきっとやよいじゃないんだと、そう思った。両手を広げて落ちたから、きっと天使のように空に飛んで行ったのだ。わたしは孫の手と薬缶を元に戻してからお父さんを呼びに行った。
それからお父さんが死体の服をめくって傷痕を確認し、さつきだとわかると舌打ちをして蹴飛ばした。
こうして死体はさつきとして処理され、わたしはやよいという双子の姉に成りすますことができた。
「可愛いのはやよいだけだよ」
お父さんはわたしの頭をよく撫でるようになった。お父さんの手が触れるたび、首筋の裏の深いところがぶるっと震えて身構えそうになるが、お父さんはそんなわたしに本当に気が付いていないようだった。お父さんはわたしを殴った手で、当たり前のようにわたしに優しく触れる。
ある晩、切れた電球を取り替えようとテーブルに椅子を重ねて登ったときのこと。なにかの気配を感じて見下ろすと、敷きっぱなしの布団の上にやよいが浮かんでいた。やよいは手を広げ、それがまるで呼んでいるようだったので、わたしはやよいの胸めがけて飛び降りた。胸に触れる寸前でやよいは消え去り、着地したわたしの踵はお父さんの枕を踏みつけていた。
それからやよいは鏡の中に現れるようになったが、いつも心苦しそうにうつむいていた。
ある日。お父さんは深酒をして眠り込んでいた。わたしはテーブルと椅子を積み上げ、その一番上から手をいっぱいに広げて飛び降りた。狙いは寸分違わず、お父さんの首を踵で踏み潰す確かな感触があった。わたしは服を脱ぎ捨てて痣と火傷痕を見せつけたが、お父さんは鼻血を出しながらいびきをかいていた。
わたしはお風呂で不安と涙と踵の汚れを洗い流し、ジュースを飲んでからお母さんに電話した。お父さんは既に息をしていなかった。
お父さんのことも事故として処理され、やがて、わたしはお母さんに引き取られた。お母さんは男の人と一緒に暮らしていて、わたしをうとましく思っているのがわかった。
ある晩、目を覚ますと、男の人が私の顔をまじまじと見つめていたので、わたしはいたずらっぽく男の人の布団に潜り込んだ。上に乗っても抵抗はなく、わたしはそっと下腹部に手を這わせた。
「やよいちゃん可愛いよ」
隣ではお母さんが寝息を立てていて、たまらなく悔しかった。
「めぐみさあん。」
声を掛ける。けれど彼女は振り返らない。きっとめぐみさんでは無いのだろう。
「スナックめぐみ」から出てきた中年の女性は、太った背中を丸めて隣に並んだ「スナックゆか」に入っていく。じゃあゆかさんだね。私達は勝手にそう決める。
幼い頃、母から「あすこには行っちゃあいけませんよ。」と言われた場所に、私達は居る。六歳のころからずっと、二十歳になったら行こうと二人で決めていた場所だった。ここには沢山の大人が出入りを繰り返している。きっと子供をどの学校にやるかとか、どの先生を付けようかとか、どんな自転車を与えてやろうか、そんなことを相談する場所に違いない。六歳だった私達はそんな事を話しながらくつくつ笑った。
ある日、父が顔を真っ赤にしてふらふらしながら帰ってきたのを見て、泣き叫んだのを覚えている。けれどそんな私を母は横に押しやって、歩みもままならない父を大声で叱り始めた。
父も母もおかしくなってしまった!私は怖くなって縁側から隣の家の庭に逃げた。落ちていた松ぼっくりを握りしめ、汗で重くしぼんでいくのを待ってから、二階のちいちゃんの部屋の窓に向かって投げた。ちいちゃんが窓から顔を出して、「今行くよ。」と小さな声で言った。
「あの場所って何なんだろうねえ。」
ちいちゃんは抱えてきたラムネのビンを一本、私に渡してくれた。きんきんに冷えていて、おいしいラムネ。縁側でそれを、二人で飲んだ。
「お父さんがね、おかしくなっちゃった。あの場所から帰ってきたんだわきっと。」
「うちのパパもね、この間、あの場所に、知らない女の人と入っていったの。」
「何の話しあいしてるのかしら。」
「うちらの学校の話じゃないかな。」
私達はラムネのビンが空になってもずっと話し続けた。私の家から、怒鳴り声と物の割れる音がし出した。
私達は今、あの場所、にいる。
「ねえねえ、あんずさんが洗濯物干してるよ。」
「あんな換気扇の近くじゃあ、変な臭いしちゃうのにね。」
私達はあの場所を散策しながら、好き勝手お喋りした。
このスナックの中で、今度はどんな大人がどんな相談をしてるのかしら。
私とちいちゃんはもう二十歳になった。だからそこに入れるけれど、入ろっか、とはどっちも絶対に言わなかった。
ふと気がつくと、俺は狭くて薄暗い部屋の中にいた。
周りはすべて壁で囲まれており、出入り口のようなものは見つからない。
なぜ俺はこんなところにいるのだろう。今まで何をしていたのだろう。
思案するが、どうしても思い出すことが出来ない。
とりあえず考えるのをやめて、うろうろと周囲を探ってみる。だが出口は見つからず、部屋のあちこちから細く長い紐がいくつも垂れ下がっているのがわかっただけ。
俺はしばらくの間、壁のどこかに隙間がないか、あるいは壊せるようなところがないか調べ続けたが、まったくの徒労だった。おい誰かいるのか答えてくれ、と叫ぶも部屋の中で虚しく反響するばかり。
もしかして俺はずっと出られないのか。いったい誰が俺をここに閉じ込めたのだ。死ぬまでこのままなのだろうか。
不安と恐怖でたまらなくなり、衝動的に手近な紐を思いっきり引っ張る。
すると、どこかでなにかが動いた音がした。
驚いて動きを止め、黙ったままで様子をうかがう。どうやら音は部屋の外からしたようだ。もう一度紐を引いてみる。また音がした。おそらくこの紐はなにかの仕掛けにつながっているのだろう。
俺は別の紐を引っ張ってみる。さっきとは別の感じの音がした。もしかしたら、この紐のうちどれかを引けば、出口が開くのかもしれない。
期待をこめて別の紐を試した瞬間、強烈な光が射した。眩しさをこらえながら光の元を探すと、壁に小さな窓が現れている。
喜んで駆け寄るが、残念なことには開閉しない、はめごろしの窓だった。叩いてみるが分厚く頑丈で、とうてい割れそうにない。
せめて外の様子だけでも伺おうと窓の向こうを凝視する。すると分厚い窓越しのぼやけた景色の中に、二人の人影がいるのが見えた。
必死に窓を叩き、なんとか気付いてもらおうと大声を出したが、外の人影はまったく反応を示さない。
なにか俺の存在を伝える方法はないのか。垂れ下がっている紐を手当たり次第に引いてみると、なにかが動く音がして、あの人影も反応を見せた。
なんとしてでもここから抜け出してやる。そのためには外の人間と意思疎通する方法を見つけなければ。
俺は窓の外をしっかりと睨みながら、次はどの紐を引くかを考えていた。
若い二人の夫婦が、生まれてまもない我が子を微笑ましげに見つめている。
赤子が手足をぎこちなく振り回す様子はあどけなく、その瞳の奥にある想いには誰も気付かなかった。
「バンクーバーの金メダルはノブナリくんかなあ」私が問うと兄は「エバンじゃねえの。あのジャンプの切れと高さは日本人じゃ無理だろ」と反論してきた。解説者の言葉を訊いてもニュースを見ても、ノブナリくんの圧勝は揺るぎないと伝えているのに。
「みんな見る眼がねえんだよ。あの圧倒的スピード感。見ただろ」
兄はエバンだと頑として譲らない。
「でもノブナリくんの芸術性は完璧だったでしょ」
「わかってねえな。じゃあノブナリがエバンのスピードで演技できるか」
「そう言う問題じゃないと思うんだけど」
私の言葉を鼻で笑いながら、教授の顔で兄は言う。
「採点競技なんて所詮こんなもんだ。ある審査員は芸術点に重きを置きましょうと言い。ある審査員は、ジャンプは回転数を重視しますスピードは二の次で正確さを採点しましょうとね」
「でも同じ審査基準で戦うわけだから、条件は一緒じゃないの」
「その基準が曲者なんだ。より早く審査員のクセを察知し演技に取り入れたヤツが勝っちまう。シズカなんかがいい例だ」
「あのときの採点は、あからさまにおかしかったもんね」
「要は採点するヤツの胸先三寸で決まっちまうってことさ。演技の良し悪しによる真の勝者は誰なのか。採点競技に明確な勝ち負けを期待すること自体無理がある」
「うん。陸上だったらタイムや飛距離なんかで順位が決まるから誰が見ても納得できるもんね」
「テニスやゴルフの勝敗も単純明快だろ」
「それじゃ採点競技で表彰台に立った三人って甲乙つけがたいってことなのかなあ」
「だろうな。微妙な点数差なら、やってる本人はみな自分が一番だと思ってるはずさ」
「僅かな人数の審査員に任せてないで、競技してる選手も採点に参加させてあげたらいいのにね」
「そんなことしたら、みな自分が勝者だと主張してやまないだろ」
「そっかなあ」
「圧倒的な差があればともかくだが。演技構成自体、参加する誰もが『僕が勝って当たり前』と思うものを引っさげて参加してるわけだ。演技中に全てが語り尽くせなかったとしてもだな。演技者の脳内に蓄積したイメージは未熟な演技を美化して、自分は完璧なものを仕上げたのだと錯覚してしまうんだ」
「なんだか怖いね」
「だろだろ」
「だから短編は自薦禁止なんだあ」
「やっと解ったのかよ」
「……じゃあさあ。自薦してもいいけど、その場合三票を使い切らなきゃならないってことにしたらどうかな」
兄はやれやれという顔をし、首をすくめた。
「なあ、そろそろいいんじゃないか?」
「何言ってんだよ、おまえ!」
「俺も、いいかなって思う」
「おまえまで! 自分が何言ってるかわかってるんだろうな?」
「だってさ、もう隠す意味なんてないだろ」
「おまえら正気か? いったいどうしちまったんだよ!」
「だってさ、念願だったメジャーデビューは果たしたし、オリコン一位に、ミリオンセラーまで達成しちまったんだぜ。次はやっぱり武道館公演だろ?」
「ライヴがやりてえんだよ! 俺たち、ネットで何て言われてるか知ってるよな。本当は演奏なんかできない、実体のない覆面バンドだって思われてる。そんなの悔しくないのかよ!」
「もうやりたいことはやりつくしたさ。あとはライヴだけなんだよ。一回きりでもいい。たくさんのオーディエンスの前で思いっきり暴れてみたいんだ!」
「……いいんだな。これが最初で最後になるかもしれないけれど、本当にいいんだよな?」
「うむ。望むところだ」
「俺は、ぜったい後悔なんてしない」
「あいつらをあっと言わせてやろうじゃないか」
「わかった……。よしっ! 天国だろうと地獄だろうと、おまえらとなら何処までも行ってやるぜ」
“たった今入ってきたニュースをお伝えいたします。先ほど午後九時二十分頃、東京都千代田区北の丸公園の日本武道館で、コンサートを終えた人気バンドのメンバー全員が緊急逮捕されました。警察によりますと、このバンドはデビューしてからメンバーの素顔を一度も公開しておらず、プロフィールも明かされておりませんでしたが、今夜行われたコンサートでメンバーの顔を見た観客から、指名手配犯と顔が似ているという通報があり、コンサート終了後に任意で事情を聞いたところ犯行を認めたため逮捕に踏みきったもようです。メンバーは――
笠原が言った事は確かに本当だった。それでも俺には、窮屈な手段となるのは目に見えていた。そんな事を考えていた時にちらりと目に入った雀が、何かの欠片を運んで来た。咥えきれず落としたらしい。獲物の肉片だ。俺はそれを拾って、軽く砂を払って食べた。
「アシカよりは、うまい。」
感想を聞き届けて去って行った雀は、父親だったのか、子供だったのか。そんな事を考えていた時に、笠原がやって来た。よぉ、と軽く手を上げて、俺の横に座った。
「考えてくれたか。」
「未だだ。」
「早くしてくれよ、あまり寝かせておく話じゃあない。」
「分かっているさ。」
さっきの肉片が奥歯に挟まって、いらいらする。
「昼飯でも食いに行くか。」
「いいや、俺はもう済ませた。」
「またお前は、葉っぱばかり食っているんだろう。」
「そんな事ないさ。」
笠原はそのまま去って行った。
俺は笠原に何も利益を感じなくなっている事に気付いた。寧ろ削られた時間や、馴れ馴れしい声が俺を責めている気がした。
「約束を切ろう…。」
昔、師匠に良い言葉を教えて貰った気がする。しかし、覚えていない。爪楊枝が欲しい。俺は正確さより、現実の方が気になっていた。現実なのか、正確さなのか分からないものが、俺を更にいら立たせていた。
だから俺は、拳銃一銚携えてこの町を去った。見知らぬ町を歩いていて、俺は翼を得た気がした。体にずっしりとした重さと、何にも干渉されない解放感があった。重さは俺に「どいて」と訴えたが、それすらも清々しかった。もう、捨てるものすらないんだ。胃も、咽も、周囲も、俺に対して初めて閉塞的になった。もはや雀が飛んでも、それは俺の現在の事実じゃあなくなったのだ。
空を臨める場所で、ドシンと頭に弾を撃ち込んだ。俺は、自然の必至にも、人の煩わしさにも、レントゲンの影にも惑わされず、現実なのか、正確さなのか分からないものから逃げ切ったのだ。
おめでとう自分。既に俺すらともおさらば。
歳下の同居人が絵を描いている横で、私はゴルフ中継を見ている。彼女の周りにはカラフルな本が積まれている。それらは全て資料だ。日曜日、朝。私は発泡酒を飲む。
帽子をかぶったゴルファーが、パターから手を離すことなく身を屈めている。グリーン上、遠くにあるらしいカップを見つめている。大勢の観客に囲まれている中で堂々としている。さすがはプロだと思った。ここでカメラが切り替わり上空からの視点になった。ゴルファーとカップが画面の端と端、離れて映っている。やがて解説者がぼそぼそと語ると、画面上、ゴルファーとカップは白い緩やかな弧で結ばれた。このラインを取ればバーディーになると言う。
テレビの画面に仮想の線を描くというのはすごい技術なのだろうか。私は考える。こんなのはゲームだったらありふれている、そんな気もする。少なくとも違和感はない。
横目で彼女の様子をうかがった。ペンを握り、タブレットの上でそれを素早く往復させている。PCの中の人物の絵は完成に近づいているようだ。私には絵心はない。彼女の絵のクオリティの高さにしばらく見とれてしまう。でも度を超すと、気付かれてしまうと、彼女は描くのをやめてしまう。私はテレビに向き直る。
今度はゴルファーの背中が映る。よく見るとグリーンは水平ではない。白い弧を思い出して納得した。ゴルファーはさして気負った様子でもなくパターを振る。そして画面手前から奥へと球は転がっていく。解説者の予想した通りの軌跡を描き、球は引き寄せられているかのようにホールに向かい、ついに音を立てて穴に落ちた。わき起こる歓声がテレビから聞こえてくる。
彼女が手を止めてこちらを見ている。
「入ったの?」
「うん、入った。10m以上かな、長いロングパットが」
私は答える。
「すごかった?」
彼女がまた問う。言葉の重複についてはスルー。
「すごかった。何であんなことできるんだろう?」
私はそう答え、そしてふと気付いた。
「本当だね」
何気ない同意の一言を彼女はつぶやいた。そしてテレビを見やり一瞬ゴルファーの姿をとらえたようだ。次の瞬間、自分の描きかけの絵へと戻っていく。
再び動き出した彼女の手を見て確信した。彼女にもゴルファーにも『線』が見えている。種類こそ違うが。一方自分は、テレビに映ったラインを当たり前だと感じてしまっている。
私は発泡酒を飲んだ。それは生ぬるく、もはや金属の味しかしなかった。
会社の同僚とふたりで渓流釣りに行った。そいつは『釣りバカ日誌』の大ファンで(しかし漫画のほうは一度も読んだことがないらしい)、『男はつらいよ』の大ファンであるおれとはしょっちゅうどちらが松竹の代表シリーズかという議論を繰り広げるのであるが、盆休みを利用して、互いに歩み寄ろうということになり、一昨日はおれの柴又観光にあいつが付き合い、今日はあいつの渓流釣りにおれが付き合っているというわけなのだ。
釣りの「つ」の字もわからないおれは同僚に指示されるままミミズを釣針で貫いて渓流の中に放り込んだ。コツとかあるのか、と訊ねると、仕掛けを自然に底層で流せ、と呪文のようなことを呟いてさっさと上流のほうへ消えてしまった。
同僚のあの態度はおもしろくないが、柴又観光にさんざん付き合ってもらった手前、あいつが帰ると云い出すまではここを離れるわけにもいかないよな、と気を静めるように努めた。
具体的に何をすれば釣れるのかがわからないため水面に斜めに侵入している釣糸をただ茫然と眺めて過ごしていたが、案の定なんの反応もなく、いい加減退屈し切ってきたところで携帯でテレビでも見ようとしたが電波が入らなかった。同僚が戻ってくる気配がないのを確かめると、釣竿を石を集めて固定し、靴を脱いで裸足になり、その足を渓流に突っ込んで座り込んだ。
空は曇っていて暑さも凌ぎやすく、水の冷たさと足をつつむような流れ、そしてせせらぎが耳に心地よく、目を閉じて頬杖をついた。
「こんなとこにいちゃ駄目だぞー。おうちに帰んなさい」
いつの間にか眠っていたらしく聞き覚えのある声に目を覚ました。
見ると、渓流の対岸に十三年前に死んだ伯父さんがあの腹巻姿で立っていて、犬でも追い払うみたいにこちらに手を振りながら先程の言葉を繰り返していた。
夢だな、と醒めた気持ちで思い、どうせなら近くで伯父さんと話がしたいと思って川の中にずぶずぶ入っていった。
途端に伯父さんの声は悲鳴のようになり、するとその横に去年死に別れた恋人が現れ、おれはますます対岸へ急ごうとするが川の流れに阻まれて思うようにいかない。
川のちょうど真中で立往生していると、恋人の横に今度は一週間前に電話で話したばかりの妹が現れ、あれ、おまえ生きてるのに、と思わず声に出していた。
そうしている間にも両親小中高大の先生友人バイト友達ら元カノら等々が次々樹々の茂みから現れてすごい。
昔とある山間に湖の様に広がる河があった。
そこは深い霧に閉ざされた山奥で、他の地域との交流も行き届かない場所だった。
河の中央には両端が宙で途切れたままの橋があった。橋は河幅に対して余りに小さく、舟が無ければ行けない所にあった。橋としての機能は無い。ただいつ造られたか定かでない為、岸辺の集落に住む人々の間では古の神仏による建造物だと云い伝えられており、宙で途切れたその両端はそれぞれ前世と来世に繋がっていると考えられていた。村では年に一度鎮魂祭が行われていた。崇められた存在ではあったが橋で将来を誓った恋人達は障害を越えて結ばれるという説話があり、それに由来してか「繋恋橋(ケイレンキョウ)」と呼ばれ人々に親しまれていた。波一つ立てずに水面に消える夕陽を見ようと、夕暮れ時になるとよく若い男女が舟を出して橋に出掛けていた。
ある夕暮れ時、集落は突然の嵐に見舞われた。雲が下がり一体は大きな霧の中に呑み込まれた。その宵、橋には三組の男女がいた。人々は助けに行こうとしたが橋どころか舟を降ろす事も出来なかった。荒れ狂う風、波、雷――。それでも橋の恋人達は取り乱す事無く不思議な安堵感の中で身を寄せ合っていた。翌日、村の漁師が舟に乗って助けにいった時には霧の中の橋の上に若者達の姿を見つける事は出来なかった。
……ある出版社のカメラマンが見た夢の話。
彼は出勤すると記者班のデスクに仲のよい女性ライターの姿を見つけた。唯の夢の話に大した興味も示さないと思いつつ彼は今朝見たその夢の話をしてみると、彼女は「私もそれ知ってる」と云って、彼以上にその地を探しに行こうと云い出した。
彼らは出張届けを出してその地を探しに出た。手元で得られる情報は限られており、人の噂を頼りに足で探し回った。
辿り着いたそこは人の訪れない観光地だった。今は湖となったその湖面の真ん中には、夢で見た通り木造の小さな橋が見えた。遠くから見たそれは水の中に建てられた鳥居の様にも見えた。
夕暮れ時に二人は舟に乗って橋まで連れて行ってもらった。近づくと意外に大きく、幾許の圧迫感も覚えた。水面に刺し込んだ橋を支える柱はまだまだしっかりしていた。
二人は橋の上から見える山間の残照を眺めた後、橋を抱く様にしてうつ伏せに大の字になった。女はここで縁を結んだ男女達に想いを馳せた。男は夢で見た、寄り添ったまま嵐の中に消えた恋人達の事を思った。
いつものように喫茶店で冷たいコーヒーを飲んでいた女の隣の席に、ウサギのぬいぐるみを抱いている男が座った。反射的に見てはいけないものを見てしまったような気持ちになった女であるが、不快感はなく、もう一度視線をやると、そのぬいぐるみは昔女が眠るときに抱いていたものだった。ぬいぐるみは耳が汚れていて、そんなところまで似ていた。
男は着ていたコートを脱いで向かいの椅子にかけたが、コートを脱いだ男は影のようにしんみりしていて、そのコートも男も、女にはさびしくみえた。唯一、ウサギのぬいぐるみだけが、生き生きとしているのだった。
まもなく男は、左手にウサギを右脇にコートを抱えて女より先に席を立ったけれど、そのあと床に一枚の紙が残されていた。好奇心にまけて女が拾い読みしてみると、それは小説のようで、猿が女を肩車して浅草へ行くという意味不明な話だった。
(へんなの)
そう思いながらも、その用紙を女は思わず、自分が読んでいた「十月号付録・御馳走ブック」に挟んで、店を出た。
女は雑誌の編集者であった。その日も午前中はライターの久保内象と打ち合わせがある。場所は六本木にある「オカズ」という店で、女が訪ねると久保内はすでに待っていた。この店は名前を裏切るような甘味の店で、今回取り上げるのは「マコマコ」という菓子である。マカロンを大きくしたものに、赤い飾りがついている。
「クボゾーさん、はやいわねえ」
「うん。僕はマコマコもいいけど、ここのワップル大好きなんだ」
早速マコマコの写真を撮り、久保内と文章の打ち合わせを終えた女は、今朝の喫茶店でみかけたウサギの男と猿が女を肩車する小説のことを話した。猿が肩車、と聞いた久保内は曇り空のような表情をした。こういう久保内を女は見たことがなかった。
「君が会ったのは昔、猿だった人なんだ」
「え?」
「今は猿じゃない」
「よくわからないわ」
「うん……時間、あるかい」
久保内は女を連れて、六本木のとあるビルへ向かった。<カラスの蝶ビル>につくと、久保内は鞄からゾウの付け鼻をとりだし、一時的にゾウになった。
「驚かせたね。でも人間としてだけで生きて行くには辛すぎるって人たちが、世の中にはいるんだよ」
久保内が剣豪めいた男に話すと、まもなくスカートを穿いた老人がきた。
「どの仮面を選ぶか。それも、君の生きかたなんだよ」
老人は女を二階のソファ席に案内した。女は兎の仮面を身につけた。
デジタル、それは認識の容易な情報。それは1か0か、有か無か、生か死か、あるいは勝ちか負けか。これを記号化することで、記録をすることができる。デジタル、そしてそれは演算の容易な情報。生成させる、消滅させる、反転させる、比較する。その繰り返しで、結論を得ることができる。結論もまたひとつの情報であり、それにさらに演算を加えることによって、演繹を重ねることができる。目の前にある情報に対して、必ずしも過程を知る必要はない。目の前にある選択に対して、必ずしも思案を行う必要はない。手にした結論は情報としてそこにあり、それ以外のことは必ずしも必要ではない。
デジタル演算装置の発達によって、人間はより高度な演算ができるようになった。そのために、より多くの現象が情報化され、演算されることとなった。そうして人間は、演算された結論を享受する者へと変貌した。デジタル演算に慣れた人間は、あらゆる現象をデジタル化しようとする。時間も、歴史も、戦争も、そして好悪までも。演算によって結論は明示され、その結論に沿って人間は活動する。そこには必ずしも思考回路は必要ない。必要なことは情報を演算装置に入力し、その結論に従うことだけである。
人間が人間以外のもの、仮にこれを環境と呼ぶ、に影響を及ぼすことは、人間も環境の中に存在しているのだから、明らかなことである。この環境もまた、近年デジタル化してきたようには見えないだろうか。旱魃による砂漠化、豪雨や海面上昇による水害、それから外来種の移動による生物種の減少。これらに中間がなくなっていることは、人間がデジタルを利用してあらゆる現象をデジタル化した影響では、ないのだろうか。デジタル化された環境を演算し、人間の都合の良い結論を得ることは、果たして可能であろうか。それを可能にしたとき、すべてはデジタル化され、すべてを演算によって操作できるようになるだろう。演算によって存在が許され、また消し去られ、あるいはそれ以前に生み出されるものも演算によって決定される、何者の意思も存在しない世界が、そこに現出するだろう。
私は恐れる。人間自身がデジタル化されることによって、その存在する意味を失ってしまうことを。そして何より、何らかの理由でゼロを掛ける演算が処理されたときに、すべてが消滅してしまうことを。その危惧を、私はこうしてデジタル演算装置の一種を用いて表明しているのである。
中学時、人柄の良さと適度な不良っぽさで学年性別を問わず人気があったヒデに対し、マサの方は、スクールカーストの下層付近で毎日もがき、燻ぶっていた。
二人は初めからこうだったわけではない。
ヒデとマサはいつも一緒だったのだ。
一緒に幼稚園に通い、一緒に小学校に上がり、一緒にアホなことをして、一緒に笑っているうちに中学生になったのである。
しかしそのバランスは、二人が思春期を迎えたころから少しずつ変化していった。
中学に上がるとヒデは、持ち前の要領の良さで次々と友人を増やしていき、なかなかクラスに馴染めずにいたマサが気付いた頃には、彼は学年の“リーダー”になっていた。
なにをもってリーダーなのか。
その定義はマサにも分からなかったが、いつもたくさんの友人達に囲まれている彼の姿から、マサは、ヒデが自分より高等な存在になったのだなと思った。
そこからのマサは卑屈だった。
ヒデと廊下ですれ違っても、会話はおろか目も合わせなくなり、遠くでヒデが知らない誰かと笑い合う声が聞こえるだけで、腹の中がぬらぬらした。
一体自分は何がしたいのか。
休み時間、マサは机に突っ伏し、鬱屈していた。
しかし
自分とヒデとの繋がりは、昨日今日現れた奴らなんかには絶対に越えられない。
それだけを信じることで、マサはなんとか正気を保っていることができた。
そして、正気を保っていれられなくなったのが、それから一年後のことだった。
マサは女子の噂話から、とうとうヒデに彼女ができたことを知ったのである。
マサはもはや無表情だった。
無表情で廊下に飛び出し、ヒデを見つけるやいなや、その顔面に全体重を乗せた拳を見舞ったのである。
それが、二人が中学二年の時の夏であった
「だってそりゃ、女は反則だと思うだろ。女はキスやセックスができるんだぜ。女というだけで。反則だろ。そりゃ、噂は結局デマだったけど」
と、マサはそこまで話したところで、横で蜜柑を剥いているヒデが笑っているのに気づいた。
「キスもセックスもしてるじゃねーか」
確かに、今ではもうマサとヒデはキスもセックスもしているし、同棲生活も長い。
「そうだな」
マサはヒデから蜜柑を一房もらった。
狭い賃貸アパートに住む二人の中年。
二人の笑顔はとてもよく似ていた。
『好きか嫌いかで言ったら、多分好きです』
僕は午後の日だまりの中で光合成しながら、光の中で揺れる何かに向かって、そっと手を伸ばした。
ネエ、ミエル?
逆光で顔は良く見えなかったけど、その女の人は微笑していたと思う。
「あなたは誰ですか?」
「私は女。君は誰?」
「僕は生き物。いずれ死にます」
女の人は、日だまりの中へ入ってきて僕の隣に座った。
「君、何を考えていたの?」
「詩人みたいなことを。でもすぐに忘れてしまうのです」
「じゃあ今、何を考えてる?」
「あなたはいい匂いがします」
「ありがと」
「いい匂いは一瞬だけ僕を幸福にします。でも、その記憶が僕を苦しめる」
「まるで恋ね」
女の人は深呼吸をして目を閉じた。女の人はきっと神様と話をしているのだなと僕は思った。
“君は誰?”
“僕は神様。いずれ死にます”
“私は女。いま恋してるの”
僕はまた何かを考えようとしていた。世界の秘密に一つ一つ名前を付けるのだ。死、時間、匂い、恋……
“ねえ神様、一つ質問していい?”
“どうぞ”
“セックスと死、どっちが気持ちいいと思う?”
女の人は大きなあくびをして目を開けた。
「おはよう、詩人さん」
「おはよう。それで神様は何と言っていましたか?」
“(セックス+死)÷光合成=恋=死×詩=セックス×光合成=気持ちいい=神=女−男=0”
「神様なんて、どこにもいないわ」
僕は光合成を続けた。
『世界を肯定すること。そこから始めるしかないと僕は思う。革命? さもしいな』
「嘘だ! さっきあなたは神様と話をしていたじゃないか」
「ええそうよ」
「だったらなぜ」
「君をからかってやろうと思って」
「ひどい……」
女の人は、震える僕の体を抱き締めた。
「ごめんね、光合成くん。私とセックスがしたいのでしょ? でもね、セックスも死も、ただのゲームなの。この死んだ世界ではね」
女の人の体は僕を包み込んだまま、砂のようにサラサラと崩れ始めていた。
「もう時間がないわ」
「どうしてあなたは、僕に会いに来たのですか?」
「私が会いたいときは、いつでも君に会いに行く。私は希望なの。君の失ったすべてがこの私。だから」
女の人の体は、僕の腕をすり抜けるように崩れ去った。
「君に……」
僕は手のひらに残るキラキラした残骸を眺めた。
ネエ、ミエル?
ウン、ミエル
スキ?
ウン、スキ!
『私、大っ嫌い』
私は完璧な人間ではなかった。それでいつも苦労してきたし、いつも悔しい思いをしてきた。だからこそ、せめて我が子だけにはそんな思いをしてほしくなかった。
社会に出ても苦労することなく、また悔しい思いをさせないためにも、我が子を社会に出すまでの間に完璧な『作品』にまで仕上げる。ただその一心で、私は自分の身を削ってでもお金を工面し、我が子には小さい頃から幾重にも及ぶ英才教育を積ませてきた。
我が子には休む暇など決して与えなかった。そんな暇は将来にいくらでも勝ち取らせてあげるからと何度も言い聞かせた。「もう嫌だ」と我が子がいくら泣き喚いても、私は首を縦には振らなかった。もしそこで折れてしまえば、他の人間に置いて行かれる。休むことで何も進歩しないことに対する恐怖が、私に我が子を休ませることを許さなかった。
私を止める人間も、誰一人としていなかった。夫、というより我が子の父親は、私が我が子をお腹に宿していたときに逃げられてしまったし、私の両親もすでに交通事故で他界していた。そのため、我が子を完璧な『作品』に仕上げなくてはならないというある種の強迫観念は止まることを知らず、我が子への厳しさという形で、日に日にエスカレートしていった。
そして。
いつからだろうか、我が子が私を恐れに恐れたあげく、私のもとから離れようとしていたのは。私が我が子のためにと思って施してきた英才教育を、あろうことか我が子は次々と投げ出し始めた。その度に私は何度も何度も我が子を『修正』してきたが、我が子の考え自体はどうやっても変えることができなかった。私が長年の間、自分の身を削ってまで築き上げようとしていたものを、我が子は意地でも崩そうとしていたのだ。
そのとき私を支配した感情は、今まで私がしてきたことすべてを無駄にされたという、我が子への憎しみとは違った。我が子を完璧な『作品』に仕上げることができないという、焦燥感のほうが勝っていた。
どうしよう、このままでは完璧な『作品』なんて作り上げられやしない。この『作品』は社会になんて出せない。
ならどうすればいいのだろうか。この『作品』を社会に出さずに済むには、どうすれば。
ああそうか、いい方法があった。
こうすれば、この『作品』が社会に出ることは永久になくなる。
そうだ、こうすればいいんだ。
あはは、ははは。
あはははははは。
……。
(この作品は削除されました)
〈スタートラインは皆一緒〉などという浅はかな戯言をこの世に解き放ったのは一体どこのどいつなのか。ちなみに言っておくが、これは僕自身の才能の無さに対する愚痴などでは断じてない。現に今、スタート地点において、僕の両隣のレーンは遥か前方と後方なのだ。つまり、スタートは皆孤独というべきなのだ。
そんなことを走りながらも考えていたから、五年前、僕はこの四百メートルの舞台で君に敗れたのだ。いや、きっと敗北はそれ以前に決まっていたのだろう。誰もレースの号砲が真のスタートとは言っていない。ありがちな文句だがそういうことだ。〈始まる前から、勝負は決まっていた〉。何だか意味がネジ曲げられた気もするが、とにかく僕は負けたのだ。ところでこの〈だから、僕は負けたのだ〉という言葉は、文末に添えるだけでいつでも筆を置くことができそうだ。そんなことを考えているから、僕は君に負けたのだ。
「戯言を解放させすぎだろう」
君は言う。
「そうかな」
「閉じこもって小説ばかり書いてるせいだ」
「君こそ、パソコンと対峙してばかりだろ」
「それはお前も同じさ」
「残念、僕は手書き派なんだ」
二人は思うまま解放する。
僕は赤いトラックに目をやった。
スタート、カーブ、直線、スタート。丸いトラックは回帰する。始まりと終わり、それは所詮人為的なものだ。ぐるぐると、僕は半永久的に回り続ける。君はどうだい。昔、陸上競技のエロ小説を読んだ。あの主人公は、こんな薄い競技服を着て、性欲が体外に溢れ出るのを抑えられたのか。否、大丈夫か。レース中のランナーはみな全身性感帯か、あるいは全身不感帯だ。ちなみに僕は前者で、だから走ってきた。
君は、どうかな。
そんなことばかり考えていたので、五年経ってもやっぱり僕は君に敗れて、エクスタシーを感じながら終わりへとなだれ込んだ。君は笑っている。僕は恍惚としている。
あれ?
文末にくる筈の言葉が、どこを間違ったか文頭に来ているぞ。
終りが、始まりに。
あるいは、これから何かがあるのかもしれない。
あるいは、僕の中で何かが終ったのかもしれない。
僕と君は、背を向け合って、全くの逆方向に歩きだした。
「十歩で振り返って、バン、な」
「うん」
僕は答えて十歩進んで、そしてそのまま十一歩目も踏んだ。
十二歩、十三歩。進んでいく。
もしかすると、ただの天邪鬼なのかもしれない。
銃声は聞こえてこない。君もそうなのかな。
僕のマーチにはドアが一枚ない。
一応助手席脇を塞ぐジュラルミン版とガラスはある。問題はその四囲が車体とアーク溶接してあること。ドアが壁の軽自動車。歩道から視線を感じることもある。
車がこうなった理由は簡単、僕の可愛い彼女、真冬が足癖の悪い子なのと何故か溶接に必要な機材を持っていたから。気が短い事も関係している。脚力が強いのも。
ドア溶接事件の経緯は、半年前に高速道路でたまたま窓を開けていたら、隣を通った半ヘルバイクが、あろうことか僕の助手席に火のついた煙草を放り捨てて来た。ただそれだけ。煙草は彼女お気に入りのチェックのスカートに落ちて、火が消えた代わりに焦げ跡を残した。
次の瞬間、彼女は顔色一つ変えずに纏う空気だけ鬼神のそれと化して、スカートを翻えらせ僕の僕の僕のマーチのドアにサイドキックをお見舞いしていた。見事ジョイントと鍵を弾いて青空の下へ身を躍らせ、半ヘルをバイクごと一車線吹き飛ばして中央分離帯に叩き付けた可哀想なドア。速度を出していなかったからまだ良かったものの、クソガキもとい半ヘルは打撲や擦過傷を山ほど拵えて泣き喚く羽目になった。悲鳴を上げながら許しを請う二人組を彼女はその名前にふさわしい表情で冷然と見下ろし、静かに言い放った。
「財布」
結局次のパーキングエリアで免許のコピーをとって脅した挙げ句半ヘルを解放した僕達は、五月晴れの陽気な世界の誘惑に負けてドアを後部座席に突っ込んだままドライブを続行し、何とか警察の目を避けて地元に帰り着いたのだった。
で、翌日電話で呼び出され駐車場に行ったら彼女が既に溶接を始めていたと。
「綺麗にくっ付くよ、これ」ケラケラ。
文句を言ったら殺されそうに思えたのと、案外違和感なく仕上がっていたので、僕は彼女の蛮行を半笑いで許すことにした。悲しかったけど。
彼女が足の裏で蹴り飛ばした箇所は靴の形に凹んでいる。まるで日比谷かブロードウェイみたいだけど、怖いから口に出したことはない。
チェックのスカートはカツアゲ同然に巻き上げた慰謝料で色違いを手に入れた。灰色のタートルネックに合わせると如何にも大人しげな雰囲気で、ドアを破壊する悪魔には見えない。
助手席側のドアが開かないから出かける際は先ず彼女が運転席からギアをまたいで乗り込む。その時にスカートの裾から覗く太股や何やらは、言えないけど見栄えが良くて、僕はその時だけ嬉しい気持ちになる。