# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | 月銀奇譚 | アンデッド | 976 |
2 | 夏から | 灰棚 | 738 |
3 | 既知と害の狭間でわらう物の怪の膝 | 山羊 | 554 |
4 | しあわせな人生 | おひるねX | 767 |
5 | 小さな手のひら | 由香子 | 887 |
6 | 窓の向こうより | ユウキabl | 997 |
7 | 星に願いを | 森下萬依 | 1000 |
8 | 青空 | .Shin | 409 |
9 | 少年ロケット | 謙悟 | 953 |
10 | 美少女学園〜優等生選抜調教 | 朝野十字 | 1000 |
11 | 第三者 | 壱カヲル | 296 |
12 | 農場にて | さいたま わたる | 1000 |
13 | 奴隷日記 | のい | 808 |
14 | 笑う淑女の生活 | わら | 1000 |
15 | シューポポスの湖と二人のホバークラフト | エビメス錠 | 970 |
16 | 不惑 | 黒田皐月 | 1000 |
17 | 記憶よりも記録に残りたいと恥も外聞もかなぐり捨てた私は『スカートで隠した三十七度の微熱を貴方の指でそっと癒して』をUPする | 三毛猫 澪 | 5 |
18 | チューニングとリズムを | 金武宗基 | 880 |
19 | 故障す | 鼻 | 995 |
20 | 龍ができるまで | 彼岸堂 | 1000 |
21 | 鍋 | 宇加谷 研一郎 | 1000 |
22 | メルト | 壱倉柊 | 1000 |
23 | 庇護して | クマの子 | 1000 |
24 | おフトン姫を読んで思ったこと | qbc | 999 |
25 | 今極道に仁義なし | えぬじぃ | 1000 |
26 | 家族の食卓 | euReka | 989 |
27 | おじいちゃんの呪い | 高橋唯 | 995 |
28 | 男が交際中の女に四つの話を聞かせる。 | みうら | 1000 |
29 | やさしく、さびしい、けもの | くわず | 1000 |
灯り一つに、身も一つ。
月に夜雲(よぐも)がかかる中。
一人で夜道は、怖い怖い。
そんな峠の暗い道、そこを一人でとぼとぼ歩く、行商帰りの男がいた。
男はいそいそと歩く中、ふと前の方を見やったら。朧気に、うっすらと人影が現れる。
近づくと、手元の灯りと僅かな月明かりで、おなごらしき後ろ姿が、だんだんだんだん見えてきた。
どうやら、どこぞの娘のようだ。はてさて。こんな夜、こんな場所で、娘さんが一人とは。なんと物騒なことだろう。
そうして親切心から、男は娘に声をかける。
疑うことも露とも知らぬ、根っから心が、優しき男だ。
「娘さん、娘さん。こんな場所で、いったい何をしておられる?」
優しく問いかける男の言葉に、娘はスッと振り返る。
振り返ったその眼(まなこ)。夜の闇でも金色(こんじき)と、はっきりわかるそんな目だった。
生気を纏う、艶やかな肌の色。銀のような灰色の、短き御髪(おぐし)が人らしからぬ美しさ。それが振り向き様に、夜風と踊る。
おなごのあまりの美しさに、男はゴクリと息を飲んだ。
「人を待っておりますの」
紅白混じる巫女のような装束で、不思議な出で立ちをした娘。憂いを帯びた深い瞳で、悲しそうにそう答えた。
「それにしたって娘さん。こんな峠でこの時刻、誰も人なんて来やしませんのに」
気づかう男と、奇妙な娘。
「それに今夜の冷たい夜風。娘さん、華奢な身体に障りますよ」
優しき男が困ったようにそう言うと、娘は「フフフ」と袖で笑う。
そしてそのあと、こう言った。
「そうですね。だけどほら。待てば海路の日和あり。こうしてあなたが来てくれた」
おなごはとても嬉しそう。
男はゴクリと唾を飲んだ。
満の月が充ちる夜。月にかかった夜雲の群れが、男のためだけ少しだけ、その身を横に反らしていった。
――月明かりに照らされた、おなごの半姿がそこにある。
御髪から出た獣の如き銀色耳と、腰の辺りの銀色尻尾。
優しき男は、己の目を疑った。
そうして娘は、静かに寄り添う。男に寄り添い、頬染める。
さすれば男は、声をあげる合間もない。
その身はすぐに、冷たい夜風になっていく。
誰もいなくなった、峠の夜道。おなごも暫く、現れまい。
今日も明日も、行ってはならぬ。優しき男は、行ってはならぬ。
灯り一つに、身も一つ。
月に夜雲がかかる中。
一人で夜道は、怖い怖い。
蝉の死体が散乱する頃、僕の体は脱皮をしていた。
夜は虫達の演奏会と化し、寝る時にはたまに憎たらしい羽音が耳元で聞こえ、
外灯の光を日光と勘違いして昼夜逆転した蝉がこの世の無常さに嘆いていた。
そんな自然界と分け隔てた人間界の空間にいる僕は、浴槽に浸かり、
体を擦っては体の皮を剥いていた。
ふと、下を向き、浴槽を見た。
そこには僕の体と分離した皮がふわふわと海月の様に散乱していた。
それを見た僕は、一杯取れたなと言う稚拙な喜びと、湯を汚してしまったと言う無益な落胆と、
気持ち悪いや汚い等と言った不快感を抱き、浴槽から出た。
風呂から上がり、さっぱりとしたところで鏡の前に立った。
体が赤みを帯びた部分や焼けて浅黒くなった部分、陽にあまり焼けず普段通りの肌の部分と、
醜いと感じてしまう模様が僕の体の表面で描かれていた。
さっさと治らないかな。
上半身は裸のまま、俺は居間へと足を運んだ。
「お先。」
「お疲れ。まだ日焼けの痕が酷いね。」
彼女が僕の上半身をまじまじと見ながら、快活にそう言った。
「暫くはこんな感じだろうな。」
「私みたいに日焼け止めを塗ってたら良かったのに。」
「そうだな。塗っておけば良かったよ。」
俺は冷蔵庫から牛乳のパックを取り出し、コップを使わずにそのまま口をつけて飲んだ。
風呂から上がって火照っている体の内側に冷たい乳製品が気持ち良く流れた。
「いい加減、コップを使って飲んでよ。」
彼女は少し怒っていた。
「ああ、ごめん。」
僕は冷蔵庫に牛乳をしまい、彼女の隣に座った。
彼女は怒るのを止めて、僕の剥けそうな皮を剥いて遊んでいた。
僕はその彼女の行為をただぼんやりと見ていた。
僕はその晩、彼女を抱いた。
外からは馬鹿な蝉が叫び続けていた。
ああ、同じだな。
時が過ぎ、少し冷たい風が吹くようになった。
伝染した病院。
座布団の花。
そんな二つのモノに囲まれた世界で僕はひた走る。
――物の怪から逃げる為に。
「甘いサンダーお待ちなさい」
物の怪が笑う。
止まると捕まりそうな気がして、僕は闇雲に逃げて走る。
物の怪が襲う。
僕は走る。
物の怪が襲う。
僕は逃げる。
物の怪が光る。
僕は走る。
次の瞬間、まばゆい光に包まれた。
光の速度に、追い抜かれた。
白くてなにもない世界に、グリーンピースがただ一つポツリ。
それは徐々に拡がっていき、真っ緑の世界へと色を変えた。
やがて緑は色あせていき、真っ青な世界に変わっていく。
ここで僕は考えた。
緑、青ときて、次にくるのは何色だろう。
緑と青は光の三原色のうちの二つだ。となると次にくるのは残った赤色か、緑と青を組み合わせた水色、そのどちらかだろう。
仮に法則性を求めるのならそうなるはず。
だけど、違った。
世界はまた白の世界へと戻っていった。
「くすくす。ハ・ズ・レ」
グリーンピースを食べながら、物の怪はそう笑ってみせた。
嘲るように。遊ぶように。ケラケラと。バカにした。
目を開けると、世界は僕の部屋だった。
やりっ放しの勉強、汗まみれのTシャツ、抜け落ちた髪の毛。
夢だったのか……? そう思った直後、新たな疑問が立ちはだかる。
(僕は、なんの夢を見ていたんだ?)
思い出せたのは、耳に残る誰かの笑い声だけだった。
人が生まれる。
幸福な人生の始まり。
わたしは大切に育てられてきました。役者になる。そんな方向が決まっていたのでした。
しかし、時間はすぎてわたしは、大人になっていたのです。役者のわたしの仕事が終わって。次の仕事がなかったとき、わたしは貰われてこの家に来たのです。
不安でいっぱいのわたしの前に、やせてひ弱な子供が、ものめずらしそうにたっていました。
みっともないとしか云い様ない子供で、だいじに育てられたようには見えませんでした。
そんなことはいえませんから、精一杯わたしは愛想良くして、友達になろうとしました。
しかし、大事にされていない子供っていうのはひにくれてれていて、意地悪だったのです。
意地悪な子供に肥溜めに突き落とされ、寒い冬の日に身を切るような冷たい水で洗われてそのまま、わたしは肺炎を起こしてしまいました。
病気の時には寝ないで看病してくれた両親や家族たちはいません。
すっかり、人を信じることもできなくなって、生きる気力が息をするたびにもれていきました。
そのうちに発熱から、体が震えるようになりました。がたがた震えていると、いまさらながら空腹を感じるようになったのです。いくらか気力が戻ってきたのかもしれません。
いやなことは考えないようにしました。
そうだ、温かい家庭と両親弟たち、わたしは幸せでした。役者としても成功しました。
いまはつらいときですが、また、あのころに戻れるでしょう。
そう思うと、まるで母親に抱かれているように体が温かくなってきました。お父さんはたくましく見守っています。弟がお母さんに甘えたいそぶりです。
こっちへおいで、一緒にお母さんに抱いてもらおう。
すっかり暖かく、幸せな気持ちですこし眠りました。
きれいな白いわたのような雪がちらちらと落ちてきました。
しあわせだなぁ……そうおもいながらまた眠りに入っていきました。
研究室の扉は、いつも無防備。
大切な書類の山は、読み放題だ。
読んでも分かりっこないのに、憎らしいどころか愛しい。
こっそり忍び込んでから、もう数時間。
部屋の主は、未だ戻らず。
それをいいことに、主の白衣に袖を通し、主の机にうつ伏せた。
微かな残り香に顔を埋めて目を閉じれば、主の温かさまで感じる。
窓が綺麗な夕暮れに染まる頃、研究室に向かう靴音が聞こえた。
主が戻る前に、白衣を脱いで元の場所に戻した。
そして、足音をたてないようにソファーに座った。
それと同時に扉が開いて、私の体がトクンと音をたてた。
「ん?どうした?」
「別に。」
「久しぶりだな。元気してたか?」
「それは、こっちのセリフたと思うけど?」
「そうだな…ごめん。」
別に悪くもないのに、謝るところも大好き。
「今日は、絶対に帰るんだよね?」
「ん?何でだ?」
何でもない。だた、少しでも一緒に居たいだけ。
でも、そんなこと言わない。
「分かった。帰るよ。」
そう言って、大きな手のひらは、私の頭を優しく撫でる。
離れ際に残る指先の感覚が、切なくてたまらない。
一緒にいれば居るほど寂しくなるから、せめて家に着くまでの一時は、手のひらだけでも重ね合わせていたい。
「お兄ちゃん。」
「ん?どうした?」
「本当に悪いと思ってるなら、家に帰るまで手を繋いでいい?」
「いくら兄弟でも、高校生の女の子と手を繋いでたら、勘違いされないか?」
「じゃあ、いいよ。繋がなくて!」
怒ってなんかないよ。ただ…寂しいだけだよ。
好きなだけなんだよ。
お互い小さな手のひらだった頃。
あの頃は、何も言わなくたって、私の小さな手のひらを包んでくれたよね。
「帰ろう…でも、少し遠回りしてな。」
少し遠回りは、人通りの少ない帰り道。
恥ずかしいのか、私の顔も見ずにそっと指に触れてから、繋ぎ合わさった手のひら。
好きだから、兄弟だって、高校生になったって、手を繋ぎたい。
「繋いで」と頼んだのは、私の方。
「いいよ」と繋いでくれたのは、私の大好きな人。
それなのに、私はきっと、また泣いてしまう。
幸せの錯覚に惑わされて、思いを声に出してしまわないように。
そっと深呼吸して、繋いだ手をぎゅっと握りしめた。
涼は生まれつき体が弱く、外で遊ぶこともままならない。
十歳になる頃には一日のほとんどを、窓から森の見える部屋で読書を
しながら過ごす、静かな少年になった。
涼は読書を終えると、窓を開けにいく。
森の香りを肺一杯に吸い込んで、目を閉じ、想像の中で本の世界に入り
込むことが涼の一番の楽しみだった。
しかし涼には母親からきつく言われていることがある。
夜は決して窓を開けてはいけないのよ。
何で? 母の真剣な顔に驚きながらも涼は問い返した。
……夜に窓を開けると。
母はそこで言葉を切った。一呼吸置いて続ける。
……怖い鬼が来て、さらわれてしまうのよ。
言い終えた後、母は小さく笑って優しい顔に戻ったので涼は母の言葉を
信じるか迷った。しかし鬼など居ないと思っていても、もし窓を開けて
鬼が部屋に来たならきっと自分は殺されてしまう、そういう恐怖が確かに
涼の中にあった。
涼は大人しく母の言うことを聞くことにした。
夏、蝉のうるさい昼下がり。
お気に入りの冒険小説を読み終えて、いつものように涼は窓を開ける。
夏の森から放たれる香りと、木々のエネルギーの様なものが読み終えた
小説の世界にぴったりな気がした。目を瞑り、大きな深呼吸をして想像の
中にのめり込む。
その世界の中で涼は自由だった。
ヒーローにでも何にでもなる事が出来た。
その日の晩。暑さと、想像の中でした冒険の興奮が冷めやらないせいで
涼は眠れず、ただ天井を見つめていた。
目を閉じても想像の世界に入りこめない。チク、タクと時計の音が
邪魔をする。音を止めようにも涼の背が届かないところで動き続ける時計を
涼は疎ましく思った。
ふと涼が窓に目をやると、何か影のようなものが映った気がする。
涼はベッドから降りて窓のカーテンを開けた。
何も、居ない……。
そう呟いてから涼は考えた。本当に鬼などいるのか? 窓を開ければ本当に
鬼がくるか?
しかし見る限り鬼どころか、虫一匹すらいない。
暑さと、冒険の世界に再び入り込む誘惑が涼を動かした。
涼は窓を開けた……。
一瞬何かが部屋に入ったような気がしたが、涼にはそれが風にしか思え
なかった。鬼などいないのだ。涼はそう結論づけた。
それから涼は眠れぬ夜に、窓を開けて想像の世界を楽しむようになった。
そして冬、雪が静かに降る夜。
涼は肺炎をこじらせて、帰らぬものとなった。
鬼は涼を連れて行ってしまった。
ポロン、パロン。またあのメロディーが聴こえる。秋の空が暮れ行く頃、一番星が空にそっと瞬いている、そんな時間。どこからか漂う暖かな夕餉と金木犀の匂いに包まれて、そのメロディーはそっと僕の耳をノックする。猫柳に囲まれた、洋風瓦屋根の小さな民家。その前で足を止め、耳を澄ます。たどたどしいけれど、確かなタッチで奏られるピアノの音。ポロン、パロン。また、僕の耳をノックする。居間であろう一室にオレンジ色の明かりが灯っていた。開け放した窓から、メロディーの主人公の姿が見える。二つに結んだお下げが、紺色のワンピースの上でそっと揺れている。ポロン、パロン。指先が動き、彼女の顔に笑顔が浮かんだ。
「ロリコンだねえ、それ」
吉田が親子丼を平らげて言った。昼休み、大学の食堂だ。吉田の大きな声に、暇をもてあました学生が振り返る。
「違うって」
僕は黙ってサンマ定食に箸を伸ばした。脂が乗っていて旨い。
「そのピアノの主はまだ小学生くらいなんだろ。毎日それに見とれてるお前、絶対ロリコン」
身も蓋もない言い方だ。確かにあのメロディーの主人公はまだ幼い女の子だけれど、見とれているのでは、断じて、ない。
「聴き惚れていると言って欲しい」
僕はサンマをひっくり返して身をほぐしながら言った。
「懐かしいような、どこかで聴いたことあるような。そんなメロディーなんだ」
ロマンチストだねえ、そう言って吉田は興味なさそうに欠伸をした。
ポロン、パロン。帰り道、やはり僕は足を止めてメロディーに聴き入っていた。懐かしい感情が沸き立つ。郷愁とでもいうのだろうか、心の奥から流れるその感情に僕は浸った。目を閉じて、聴覚に全神経を注ぐ。金木犀と夕餉の匂いが鼻をかすめ、流れるメロディーに幸せを感じた。
ピアノの音が、ふいに止んだ。
「お兄ちゃん、だれ?」
目を開けると、目の前に少女が立っていた。二つに結んだお下げ。メロディーの主だ。
「だあれ?」
少女は再度問いかけた。黒い瞳に、好奇心と不安がよぎる。
「教えてくれないか」
僕はしゃがみこみ、少女に目線を合わせて言った。
「あの曲は、なんて曲?」
少女の顔がぱっと輝き、瞳に光が宿った。
「星に願いを」
そう告げると少女は家の中に駆け込み、またメロディーを奏で出した。ポロン、パロン。いつもの音が流れ出る。
記憶が繋がり、溢れ出す。母の腕の中で聴いた子守唄。
「星に願いを」
呟いて空を見上げた。夕暮れに、金星が瞬いていた。
9時ごろにようやくへたりながらも仕事を終えて、気持ち足を引きずりながら電車に乗った。
外には永遠と家の電気が続いていて
どうしようもなくむなしくなった俺は郊外の安い貸家より4つ先の駅で降りたんだ
何も無い
駅前ですらやってる店がほとんどねえじゃねえか
俺は歩いて、30分もかけてその辺を探検しつくした
何も無い
辺りには車も居ない、歩行者なんて居る訳無い
だまってアスファルトが道を作っていた それだけ
俺はくやしくなってスーツのままで道路の真ん中に大の字で寝たよ
寝転んだ拍子にネクタイに首を絞められて 硬い靴は俺の邪魔をして
だけど俺は横たわった
雲ひとつ無い、真っ暗な空がどこまでも続いてたんだ
おれはその中にひとつだけ異様に明るい 優しく俺を見つめる月を見つけて ソイツをぼんやりと見つめ返した
月の周りの星がどこからかきた雲に隠れる。
俺は我が家に帰るために汚れたスーツで電車で揺られながら
明日は同じ場所で、太陽に挑んでやるんだと決意した
「あの海の向こうには、何があるの?」
「さあ、何かしらね」
そんな会話をふと頭に浮かべた、物心ついて間もないような子供が一人。夜中に布団から抜け出し、パジャマの上からぶかぶかのコートを羽織って、家を飛び出した。寒風が吹きすさぶ真冬の澄み切った星空に包まれながら、彼は些細な疑問を解決すべく、その小さな足を一歩踏み出す。
行き先をはっきり決めていたわけではなかった。ただ行きたい方向に、誰もいない道のど真ん中を闊歩する。好奇心に掻き立てられ、最初はゆっくりだった歩行のスピードも、時間を追うごとにどんどん速まっていく。
寒風は依然牙を剥き続けていた。木々に僅かに残された葉を次々と食いちぎる。ありとあらゆる生物の気力を根こそぎ奪い去る。路上に点在する水溜まりの時間はもうすでに止めてしまっていた。
足を速めれば速めるほど、そんな寒風はより猛威を振るって彼に襲いかかる。だが、彼は全く怯もうとせず、さらに走るスピードを増していく。
いったいどれだけ走ったことか。それなのに、彼が疲れることは決してなかった。走れど走れど力は尽きず、さらに勢いが増すばかり。
行く先々では土の割れた田畑ばかりが目の前に広がっていたが、彼が進むのを躊躇うことはなかった。ただ真っすぐ、その上を駆け抜けるだけ。少なくとも、現時点で彼を止めるものなど何ひとつ存在しなかった。
さらに時間が経てば、何度も何度も力強く蹴っていたはずの地面の手応えまでも失っていく。足だけでなく、身体中の重みが影を潜め始めた。風が彼の身体を地面から巻き上げようとしているのだ。
彼は風の誘いに乗った。最後にしっかり、勢いよく地面を蹴りつける。
上へ上へと巻き上げる風の流れにうまく乗り、彼の身体はぐんぐん上昇していく。それと同時に、羽織っていたコートは風に剥ぎ取られ、地面すら見えない暗闇に沈んでいった。
寒いだとか痛いだとか、そんな余計な感覚は、コートと共にすべて地上で脱ぎ捨てられた。浮力をも身につけた小さな身体が、夜空を駆け抜ける閃光へと成り代わる。
それでも、いまだにあの些細な疑問を解決できてはいなかった。あの海のずっと先には、いったい何があるのだろうか。
わからない。
わからないからこそ、今でも彼は一筋の流れ星となって、夜空を切り裂き続けるのだ。
芳川良治は女子高の数学教師であり、治癒不能な変態だった。
彼が数学準備室に呼びつけたのは藍原美由紀。ストレートのロングヘアー、整った顔立ち、薔薇色の頬、そして自然な愁眉が本人の意図しない艶かしい科を醸し出していた。
裕福な家庭で厳しくしつけられた美由紀が偏差値の高いこの女子高に入学できたのは、頭がよいというよりは、親の言いつけ通り従順に一生懸命受験勉強したからだった。暗記では対処できない数学は大の苦手だ。
そんな優等生の美由紀が、校則に違反して学校に携帯電話を持ってきた。
「ただの携帯でなくiphoneだ。この大不祥事が表沙汰になれば君は退学処分だ」
美由紀は無言だった。伏せられた長い睫は罪の意識にじっと動かず、ふっくりした唇は諦めたように少し開いて微かに震えていた。
「なぜ黙り込んでいる? 君は真面目さが足りないな。それとも私が嫌いなのか。数学だけ特に成績が悪いのは、私が気に入らなくて手を抜いているのかな」
「ち、違います……」
「じゃあなんだ。もう少し心を開いてくれないと、担任として力になれないよ」
「私、どんな処分を受けても仕方ありません」
「もちろんそうだ」
芳川は大声で決めつけた。美由紀はつらそうに唇を噛んだ。
「君のためを思って言ってるんだよ」
芳川は一転して猫なで声になり、
「君にチャンスを与えたい。これからiphoneへの誘惑を断ち切るための訓練をして、きっぱりiphoneを諦めることができれば、親にも学校にもこの件は秘密にしておこう」
「先生……」
「君のiphoneは預かっておく。代わりにこれを持って帰りなさい。訓練用だ。タッチできなくても我慢する精神を鍛えるためのものだ」
美由紀は言われるまま特殊なiphoneを持ち帰った。それはjailbreakして表面に特殊なシールが貼られ、タップもピンチもできなかったが、自動的に次々画面が切り替わり、Safari、iPod、iTunesなどの鮮やかなページが次々と表示されるのであった。
美由紀はiphoneの画面を見つめて、悶々と一夜を過ごした。
翌朝、芳川のもとに駆け込んだ美由紀は、美しい顔を歪めて懇願した。
「先生、お願いです、シールをはがしてください。我慢できません……!」
一晩で豹変した美少女を見て芳川は内心激しく興奮したが、懸命に平静を装い、ポケットに手を突っ込んだ。固くそそり立つ裸のiphoneが手に触れて、思わずギュッと握り締めた。
午前9時32分―遺体発見
私は現場に居合わせた刑事から聞き出した。ついでに現場が一望できるアングルから写真を一枚撮った。
午前11時04分―赤坂デスクから電話
「さっさと次の現場へ行け!」と罵声を浴びせられる。
午後2時15分―強盗被害に遭ったコンビニに到着
ついでにサンドイッチとパックコーヒーを買う。
午後4時49分―編集部にて今日の記事を作成
傍らで赤坂デスクが何やら言っている。
午後9時20分―居酒屋にてビール3杯、しまほっけの塩焼き。
んまい。
深夜0時半頃―帰宅
隣室の玄関はまだ、ブルーシートに覆われてる。
深夜1時頃―テレビで殺害現場の報道をしている
少し酒も回っている。今日はいい気分で寝れそうだ。
一面、はち切れんばかりのつぼみをつけたセンノウの畑。
そこへどこからともなく黒装束の一団がやってきた。総勢五十名。みな黒の衣装に覆面姿だ。忍者気取りなのだろうが、どう見てもゴキブリの集団だ。
「タケヤンさん」
畑を覗き込んだひとりが、ひときわ大きな図体の人物に声を掛けた。
「しっ、コードネームで呼べ」
「すみません、オカシラ。まだ花になるまで間がありそうです」
オカシラはセンノウに近づく。
「もう少し、か」
五十体の黒づくめは、一塊となって背後の景色へと溶け込み、見えなくなった。
陽が傾き、夜が帳を下ろそうかなと逡巡している頃合、東の畦道から少女がやってきた。黄色い帽子に黄色いレインコート、黄色い長靴の黄色づくし。そして手には大きな籠。膨らんだつぼみに目をやりつつ、籠から何かを取り出した。
虫だ。
一本一本のセンノウの株元へ、律儀に虫を三匹ずつ置いていく。すべての虫を撒き終えた後、黄色い少女は、いかにも満足そうな笑顔を浮かべてもとの道を引き返していった。
十六夜の月明かりの下、憔悴しきった顔がぼんやり浮かびあがると、やがてそれはサラリーマン姿となった。この畑の持ち主だ。畑に一瞥くれると、チッと小さく舌を打ち、通勤鞄から殺虫剤を取り出した。スプレーで虫を退治し、ホースで丁寧に水を撒いた。何も言わずにため息をつき、畦に腰を下ろす。タバコを一本吸ってから、近所の畑をぐるり一巡し、帰っていった。
東の空が白むと同時に、誰もいなくなった畑でセンノウは、時を違わず一斉に開花した。朝露を含んだ真紅色の花びらは、朝日を反射させ、畑一面を深く瑞々しい赤色に輝かせた。
次の瞬間である。どこにいたのか黒装束、地平線からうじゃらうじゃらと湧いて出てきた。
「よし、今が刈り時だ」
タケヤン、いやオカシラの号令とともに、みなが一斉に花を引っこ抜き始めた。まさにセンノウ根こそぎ。イナゴの襲撃のごとく、あっという間にすべての花を刈り取り、集団はどこへともなく去っていった。
荒れ果てた畑。そこには、もう何もない。
三日後、いちど黄色い少女がやってきたが、畑を一瞥すると何もせず踵を返した。
畑の持ち主は、あれから一度も姿を見せない。
見捨てられた畑。今は残月が見守るだけのただの荒地。
私はカーテンを閉める。かつてセンノウ畑であった荒地と別れ、階段を上がる。
二階の窓からは、あの黄色い少女の牧場が見えるはずだ。
「お前なんか要らないよ、出来損ない」
名前無かった、ずっと出来損ないって言われてた……何も持ってなくて、誰も何も教えてくれなくて、だから何も知らなかった。
−−−○月×日
「あなたはいいわねぇ」おばさんがこっち見て言う、『じゃあ代わってよ』とナイフを差し出して言った。殴られて、罵られながら人間の腹裂くのが仕事だったから、いつだって代わってほしかった。
また殴られた、「そんな仕事するのはあんたくらいよ出来損ない!」だって、いいわねぇって言ったのに……ナイフには自分の顔が映ってる、頬っぺた腫れて、目が死んでた。
−−−○月△日
また死体運ばれて来た、仕事の時間、腹裂いて、内臓出して、洗って……これ売るって言ってたけど、こんな汚いの買う人いるのかな。
−−−○月□日
なんだか今日は町が騒がしい、男達が騒いでる声がする、でも楽しそうな騒ぎじゃなくて乱闘してるみたい、見慣れた内臓と血の臭い、女と子供は家に隠れてるみたいで居ない。男がこっちみてなんか言ってるけど周りが五月蝿くて聞こえない、手引っ張られた「奴隷の子供か」手枷が食い込んで痛いのに引っ張られる「おもしろい」男はそのまま引っ張っていこうとした、訳が分からなくなって頭が真っ白になった……
−−−○月☆日
昨日のことが嘘みたいに静かで、目の前には乾いた血の海と内臓で、昨日の男は腹にナイフが刺さってて死んでた、いつも使ってるそのナイフは血に濡れて光っていた。逃げよう、ここから逃げよう、そうきめてナイフを抜いた。
−−−○月■日
このままケモノの餌にでもなったほうがましではないかと思ったけど、あいにくノミの心臓しか持ってなくて、怖くて逃げてしまった、自分は最初から生きてなどいないのに、命を亡くすのが怖かった。
☆−・・・−☆
夜が来て月が上がる頃、安らぎの国へと一人飛び立つは奴隷の子。この話物語にあらず、奴隷の子には起も承も転も結もない救いのない現実である。
「生きてるって、何でしょう」
「生きてるって、何かしら」
「生きてるって、何なのでしょうね」
「難しい問題ですわね」
「はぁ」
「どうなさったの、お姉様。溜め息なんておつきになって」
「あら怒狸子さん、いらしたの」
「ええ、ずっと。それで、どうしたんですの、お姉様」
「聞いてくださいます?」
「もちろんですわ、お姉様」
「昨日は鏡月のウーロン茶割り、今日は大五郎のウーロン茶割り」
「ええ」
「明日は鏡月のウーロン茶割り、明後日は大五郎のウーロン茶割り」
「そうですわね」
「毎日同じ事の繰り返しで、わたくし、生きている気がしませんのよ」
「そんなことありませんわ、お姉様」
「え?」
「集合!」
「な、なんですの? 怒狸子さん。このおすもうさんたちは一体どなたですの?」
「はじめ!」
「きゃっ! なんですのあなたたち。いやっ、苦しい。やめて、やめてください!」
「はいがんばって! どすこい! どすこい!」
「いやっ、ちょっと、苦しいんです、やめてください! やめてーっ!!」
「止め!」
「はぁ、はぁ、はぁ……」
「ご苦労様。はい、これでちゃんこ鍋でも食べてくださいな」
「はぁ、はぁ、はぁ……」
「よし撤収!」
「ど、怒狸子さん、なんですの今のは」
「おすもうさんですわ」
「どういうことですの? わたくし、危うく死んでしまうところでしたわ」
「まあ、お姉様。今何とおっしゃいまして?」
「ですから、死んでしまうところでしたと」
「死んでしまうところということは、生きているではありませんこと?」
「あら、そうでしたわ」
「よかったですわ、お姉様」
「生きてるって、何でしょう」
「生きてるって、何かしら」
「生きてるって、何なのでしょうね」
「難しい問題ですわね」
「…………」
「あ、あら、お姉様? おねーさまー!!」
「あらぁ怒狸子さん。こんばんは」
「まあ、魅留お姉様。今夜もひときわ白くてお美しいのですね」
「もぉう、からかわないでくださいな」
「ところで魅留お姉様、これからお出かけですの?」
「ええ、南の島まで。海のきれいなところですのよ」
「それは羨ましいですわ」
「まあ、それなら怒狸子さんも一緒に行きませんこと?」
「いいんですの?」
「もちろんですわ。怒狸子さん、あちらについたらやってみたいことがあるんですの」
「なんです?」
「わたくしと怒狸子さんとで観光客の前に立ちまして」
「ええ」
「二人で息を合わせてこう言うのです」
「何と言うのです?」
「あいあいあいあいあい百圓」
超高層ビルやマンションが建ち並び、見上げた空は摩天楼の角張った屋上によって不可思議なポリゴンに切り取られている。
少年は粗相の罰として両親からベランダに鍵を掛けられて軟禁されていた。
狭いベランダではエアコンの室外機が低い唸り声を上げており、少年は屈み込んで温風を吐き出すファンに顔を近づけた。
「昔はね、この扇風機で夏の暑さを凌いだの」
法螺話とも知らず、少年は軟禁されるベランダで両親の若かりし頃の苦労を慮った。こんなんじゃ夜は暑くて寝られないよな、少年は若い両親の顔を想像しながら扇風機に話しかけた。
手で額の汗を拭い払うと、たくましく室外機の上に立った少年は空を見上げた。
「明日からは祭りだな」
地上七六階からの眺めでも、まだ空は摩天楼に切り取られて角を数え切れない多角形を成している。
超細密表示が可能な電子版でも、そこに表示されるドット画の世界七大陸はどれも多角形にしか少年の目には映らない。見上げた空の多角形は南極大陸のようだと少年は思う。
明日からは一斉に摩天楼間の転落防止ネットを取り払う。それは名ばかりで、地上で蝶を追っていた老婆が窓から投げ捨てられた冷蔵庫に押し潰される事件を受け、また類似性のある事件が頻発していたことから転落防止という名目で隣のビルとの間に張られた、人ばかりか冷蔵庫以上の重量物でも受け止める強固なものだった。
明日からは視界を遮るネットが失せ、シューポポスと呼ばれる夜空の湖が綺麗に眺められる。
無限にあるビル間でシューポポスは、ヨーロッパ大陸でもあろうし、北アメリカ大陸やアジア大陸でもあろう。
毎年のように懐古の念に囚われた厭世人がテロまがいに冷蔵庫を落として死傷者が出るが、命懸けでビル間を練り歩く祭りを取りやめようという声はほぼない。
シューポポスの湖底には星座と呼ばれる線画と、天の川という水脈が眠ると電子図書には記載され、金婚の年の七月七日、夫は天の川を妻へ、妻は星座を夫へ、星柄の品を贈るしきたりだ。
七七の日は明日。
少年の両親は銀婚にもまだ遠い二人だが、シューポポスの湖で小舟に乗った二人が約束の品を交わす光景を少年は想像して笑みがこぼれた。
南極の氷すら溶かさん熱帯夜の空を見上げ、少年は足下の扇風機がホバーとなり、摩天楼群は小舟となり、シューポポスの湖を渡っている気がした。
中学のときの立志式は校長の話が長かっただけで、何かをしたいと思うことはなかった。三十路の節目は失業中で、親の情けで食いつないでいた。そして今日、私は四十歳の誕生日を迎えた。
今まだ私は何をなすべきか、何ができるか、わかっていない。その証拠に、今なお天職と言えるものはおろか、定職と言えるほどに続けられている仕事すらない。住所も転々とし、人付き合いももはやその構築にすら倦んでいた。今日この日を祝ってくれる人など、いるはずもなかった。奮発して買ったホールケーキも、切り分ける必要はない。皿さえも出さず紙箱を開いてそのままテーブルの上に置いて、私はフォークだけを用意した。
今が良いとは思わない。だから私は何かを探し続けて、転職を繰り返しているのだと思う。しかしだからこそ、私は常に周囲に馴染んでいなくていつも疎外感を持っているのだと、思い直す。過去に過ちがあるのではないかという疑問が、思い浮かぶ。紅茶のティーバッグを入れたカップにお湯を注ぎながら、私は記憶を洗ってみた。
私は、そのすべてを明瞭に思い返せないほどにたくさんの選択をしてきた。しかし、思い返した中に、違う選択をすれば良かったと思えるものはなかった。それはしかし、どのひとつを取っても、強固な意志によってその選択をしたからといったことではなかった。だから違う選択をした場合の成功が、まったく思い描けない。気づいたときには少々冷めてしまった紅茶に溶け切らないミルクのまだら模様のように、描くことができない。私は仕方なく少しだけカップにお湯を足した。
結局、今と同じだった。ずっと迷っていて、悩んでいて、何もなしえずにいた。何も身に付かず、何も持てず、それが今に続いている。しかし時間だけは確かに過ぎていて、つまり私はずっと今に抗しようとあがき続けていた。思っていたことも、今と同じに違いない。
だから、私は無駄なことをしていると遠い過去から知っていたと思う。知っていても改めなかったことに、私の過ちがあったのだ。
四十歳になった今日、気がついた。惑うことが、無意味であることに。もう惑うことなく今を過ごし、いつか私がなすべきことが、できることがわかる日を待とう。「四十にして惑わず」、私は生まれて初めて論語の教えるところを実践できそうだ。だがしかし、目の前のケーキと紅茶は論語にはあまりにも不釣合いで、私は自嘲気味に笑わざるをえなかった。
差取り、という言葉があるらしい。
周囲との微妙なズレを、差を修正する。自分の中の微妙なズレを修正する。
周波数にしてみるとそんなに違いはないのだけれども、そのほんの少しのズレが、大きな不協和音となってゆく。
妙だな、という違和感は、女の直感だな。女が少しだけ感じる事ができる。
妙子は絶妙に周囲と自分のズレを感じた朝に、今日のリズムと周波数に注意して、自分のズレを重心を少しだけズラした。
それが彼女の方法論で、自分を否定する事なく、他人を否定する事なく、過剰に肯定する事もない方法論だった。
妙音とは褒め言葉だと思う。 悟りとはいいイメージないけれど。
街では星も見えなくて、太陽にしか気づかない。星に願いをかけた。スターになった人は手の届かない人でもある。君はスターになれるよ、との歌は実は悲しい歌なのだ。夜にしか見えない星は夜型人間の。朝の太陽で露のごとく消えた。あの子は死んで、星になったが、みんなの夢を悪夢にさせじと、輝いている。だから、よく眠って。
どちらが夢でうつつなのかは、実の所、言えなかった。妙子は残酷な気がして。 どちらも本当だから。
自然にリズムと波長は皆知っているから。狂っていることも。ただ大幅に狂っていると思い込んでしまった。そう。最初の2ヘルツのズレから大幅になっただけのそれだけなのに。
その日も街の周波数は高かった。テンションの高さだけが忘れさせてくれる、解放。
蓄積される疲労とそれに対応されるべきカロリー。それがコンクリートジャングルのサバイバル術だから。
ごまかしごまかし我張ってきたら頑なはキレた。
無我にしたら笑いは消えた。
都会で自然と頑張らずいきるには、周波数の合わせ方と、相対和音の対応の仕方を。オクターブは、いろいろあるから。リズムにも8分には4も2もあるから。
それは否定せず肯定せず、否定と肯定もあるような、チューニングの方法の仕方と思えたから。
こんな例え話になったけど、 地球は大きい。太陽の進行も、星の進行も。
大地の進行も。
風に煽られたカーテンが生き物のようにはためく度に、その隙間からはパキッとした青空が見え隠れしていて、蝉の声、風鈴、畳。
まさに日本の夏だなあ、と浩は思った。
しかしそれらは、浩になんの進展ももたらさないただの風景であって、たとえ爽やかな風が吹こうと、蝉が鳴こうと、浩には恋人もできなければ就職もできないのである。
それに気付かない浩は、その一時の感情に任せて「俺は幸せだなあ」と安易に決め付けた。
そしてすぐ気付く。
「違う」
もうすぐ30歳になる手前、恋人はやはり欲しかったし、何より仕事がなければ、今も仕送りを続けている続けている両親の死期がそのまま自分の死へと繋がることになるのだ。
いかん。
そう思った浩は求人誌を開き、なるべく楽で人間関係が希薄そうな仕事に赤ペンでチェックした。
そして夕方までインターネットで職を探すふりをしながらエロサイト巡りに励み、一息吐くと晩飯のカップラーメンを食べ、風呂に入って寝た。
布団の中で「俺はこれでいいのだろうか。生きるとは一体」などと陳腐な哲学に耽ったが、それも鈴虫の声や月明かりに影響されただけのもので、10分もすると飽きて眠りに落ちていた。
そして翌朝、浩はいつも通りなんとなく目を覚ました。
開口一番発した言葉は「なにこれ」だった。
枕元の時計は午前10時を指しているというのに、窓の外は真っ暗で、物音ひとつ聞こえないのだ。
窓を開けた浩は、もう一度「なにこれ」と言った。
外は真っ暗というよりも黒一色。街明かりはおろか、空も地も無いただの黒の中に、浩の部屋だけがポツンと存在しているようだった。
そして、三言目にしてようやく浩は状況を理解した。
「あ、なるほど」
今日は、浩の30回目の誕生日だった。
大学を中退した歳からちょうど10年。
「10年間も止まってたら人生が故障しちゃうよ」とは浩の祖母の言葉だ。
街などで路上に座り込み、虚空に話しかけている老人などがその典型らしい。
浩はドアを開け、家の外に出た。
地面の感触は無いが、落ちている感じも無く、ただ黒い中で足を前後に動かすのはこの上なく虚しかった。
浩は家に戻ることにした。
しかし、振り返るとそこに家は無く、浩の周りはただの黒だけになってしまっていた。
浩は泣いた。
泣いて泣いて、弱音を吐きまくった。
泣いている自分は可哀相だと思った。
しかし周囲は黒と無音。
往来の人々も、泣いている浩の前をただただ通り過ぎるばかりであった。
気がつくと俺はパイプ椅子に縄で縛り付けられていた。
訳もわからず辺りを見回す。ひたすらに闇が広がっている。その中で俺のいる場所だけがライトアップされている。ここはどこだ。何故こんな場所にいるんだ。昨日は高架下で飲んでいたはずだ。それは覚えている。でもそこから先の記憶が全く無い。そもそも何故俺は縛られているんだ?
「おはよう」
闇から俺の前に唐突に現れる白衣の男。不気味な笑顔を浮かべつつ俺を見下ろしてくる。
「おめでとう。君は見事選ばれた」
白衣の男がにやにやしながら言う。
察しのいい俺はそれで全てを悟った。この白衣の男、誰かに似ていると思ったら、そうだ。ガキの頃見ていたヒーロー物の何とか博士にそっくりじゃないか。
「これから改造手術をしようと思う」
ほら見ろ、やっぱりだ。バラバラのピースが脳内でどんどん合わさっていく。
つまり俺がヒーローなのだ。改造人間として悪に立ち向かう存在。最低の人生に転機が訪れたんだ。
小中は根暗だったからいじめに遭った。高校でそのイメージを払拭しようと髪を染めてみたが、またいじめられた。頭が悪かった俺は大学受験も失敗した。両親は出来のいい弟にばっかり構った。見返してやろうと必死で職を掴んだと思ったらひどい会社だった。今度は上司にいじめられた。女なんかできた例がない。デブで吹き出物だらけの俺なんて誰も構ってくれない。どいつもこいつも俺をいじめ、蔑み、嘲りやがる。俺が何をしたってんだ。
最悪だ。
「ついては君に聞きたいことがある。この御時世、どんなヒーローが流行ると思う?」
「……そうだな。龍をモチーフにしたダークヒーローがいいぞ。武器は剣で、イカした必殺技も必要だな」
「なるほど、龍か。それに剣。そして必殺技。王道だな」
白衣の男がうんうんと頷く。
――そうだ、俺は龍になる。
剣を持って社会の屑どもを皆殺しにするんだ。そして、心が綺麗で胸も大きくて凄く可愛い女の子と恋に落ちるんだ。全ての人間が俺をヒーローとして崇めるんだ。
最高だ。
「ありがとう、やはり君を選んで正解だった。実に参考になったよ」
「そいつはよかった。なら早く改造してくれ」
「心得た」
白衣の男が懐から銃を取り出す。
「え?」
「誰も君を改造するとは言ってないよ? ちゃんと絶世のイケメンを別に用意してある」
「ちょ」
「君の意見はきっと採用されるよ」
あ、そういや何とか博士って悪役だったな。
ぱん。
鍋を囲みながら「読むとは知識と推論能力の組合せのことだよ」なんて話をさっきから何時間も哲夫とモト子がつづけているのを、俺は意味もわからずニヤニヤとうなづいていた。まったく文学なんて古臭いや。
哲夫の部屋にきているというのに、まるで俺が主人であるかのようにさっきから哲夫にポン酢を足してやったり、酒がなくなったモト子から
「洋介、ビールないよ」
とアルミ缶をペコペコ鳴らされて、ひとりでコンビニエンスストアまで買いにいったのも俺だった。
「目が受けた衝撃を、文学世界に書き直すことによって、我々文士は文学という手段で感性に抵抗する」
哲夫の言っていることは、俺には理解できそうで、イマイチはっきりわからず、なんだか力士に首根をつかまれて宙ぶらりんにされている小人のような気持ちになる。
(ああ、いてえな)
バスの中で首を傾けて眠ったせいで、捻挫したようだ。哲夫のうちに向うバスのなかで、モト子が「哲夫くんと話していると息するのが苦しいくらいにドキドキしてくる」と言っていたのを思い出す。俺は夜勤明けで本当は一日中寝ていたかったのに。まったく。
「そんなに哲夫と話あうならお前ら付き合っちゃえばいいじゃん」
俺がモト子をひやかすと「哲夫くんには知性のきらめきがあるけど、洋介にはキラキラしてない名刀のしなやかさがある」と真面目に返されて、それは哲夫と話しているみたいだった。
鍋のスープも蒸発してしまうほど二人の議論が白熱するのをぼんやり聞いていると、甘い花の匂いがして、いつのまにかアキさんが隣にいた。哲夫は見向きもしないし、アキさんはアキさんでストッキングを脱ぎだして、ポイっと投げはなった。俺はアキさんの脚に見とれてしまう。そのうちベルが鳴って、夜の仕事を終えたユカリさんも帰ってきた。
「アキー、今日どうだった」
「うーん、思い出したくない」
「洋介くんウオッカ飲まない?」
「飲むー」
「どうなの警備って」
「夜のデパートは遊園地ですよ」
ウォッカにライムを搾ったのを3つ作って、俺たち3人も酒盛りをはじめる。ユカリさんが鞄から出した「客から貰ったいいとこのスルメ」をツマミに話がはずむ。
まだ哲夫と俺が高校生で彼が文学なんかに目覚めていなかったころ、俺たちはいつまでも子供のままで、誰からも縛られずにいたいな、なんて語りあったことがあった。俺はもう縛られる側になりつつあるけど、哲夫は相変わらずだよな。なんてさ。
うっかり寝過ごした瀬里は、約束よりニ十分遅れでやってきた。
「お豆腐を、買っていまして」
「お前バカじゃねーの」
「失礼な。私が豆腐を買ったら駄目ですか」
「そうじゃねえ。あれはラーメン屋の笛だ」
しまった――と瀬里は思った。完全に思い違いをしていた。
やはり覚醒しきっていないのか。瀬里は頭を振った。僅かながら、自分とこの時代の間には未だズレがある。だがそれは僅かで、フォローできる範囲だ。豆腐だってラーメンと一緒に売っていたといえばいい。
「豆腐もってんなら見せてみろ」
「ごめんなさい、嘘をつきました」
瀬里は百年のあいだ冷凍保存されていた。二〇〇〇年から百年間。彼女の父は孤高の天才科学者(マッドサイエンティスト)であり、たった一人で瀬里を氷漬けにしたのだった。父の仕事の為ならと、瀬里も喜んでそれを受けた。
しかし一つだけ問題があった。それは、瀬里が蘇ったとき、既に父はいなかったということだ。
その場のノリって恐ろしい――目覚めて彼女はそう思った。
とにかく瀬里が目覚めたとき、周囲に彼女の知り合いは一人もおらず、人々は彼女を未知(野蛮)のものを見るような、好奇と恐怖と、ほんの少しの嘲笑を含んだ目で見つめ、やがて暗い場所に閉じ込めた。瀬里は久方ぶりに恐怖を感じた。
そこへある日ふらっと現れた若き天才科学者タクミ(異端児)は、彼女を見るなりこういった。
「お前、ロボットか?」
「そうです。あ、いや、違う」
「もうロボットでいいよ。そのほうが冷凍なんちゃらより説明しやすい」
そうして瀬里はタクミの所有物になった。
タクミと暮らしていく内に、瀬里は自らのおかしさに気付き始めた。時代錯誤を超越した頭のおかしい部分が、自分にはあるのではないか。タクミには「お前は本質的にバカ」と言われた。
いや違う。瀬里は強く思った。私は普通だ。普通のミレニアム・ガールだ。タイムラグって恐ろしい。そうして瀬里は自らの存在を時代のせいにした。このとき初めて彼女は自らをロボットだと思った。
タクミはよく音楽を聴いた。ある日それで瀬里の話を無視した。
「悔しいか」
「はい」
「なにをするつもりだ」
「こうです」
瀬里はポケットの中にあった鋏で、イヤホンのコードに刃を入れた。
しかし切れなかった。
「バカ、そんな物で切れるか。頭を使え」
そう言うと、タクミは耳からイヤホンを外した。
その瞬間、瀬里はタクミを力いっぱい殴った。
人に言えばなんでそんな事でと思うかもしれないけどわたしは昨日おきたそれのためにもう学校には行けなかった。
朝、目覚ましを止める。さえずりが聞こえる。晴れた空、快晴。解る? 決意の朝。
布団を出て制服に着替える。いつもより体がシャキシャキ動く。肩掛けカバンを手に部屋を出る。カバンが軽い。教科書が必要ない。そして黄色いナフキンに包まれたお母さんが作ってくれたお弁当をカバンに入れた。
お母さんはもう仕事に出ていて部屋には私だけ。玄関を出てカギはいつもの植木鉢の下へ。もう会えないわね、さよならと言ってアパートの階段を下りた。
駅へ歩く。教科書の入ってないカバンはわたしのお尻に当たるたび跳ねた。良い天気。どこへ行こうか?
いつもの駅。でもいつもと逆方向の電車に乗る。ホームでふらふらしてると急行がすべり込んできた。やった、空いてる。
椅子に座ってケータイでミクシィを開く。電車に乗ってる時や空いた時間はいつもコメントやメッセージをチェックしてた。でもこれは切らなきゃいけない過去なの。画面をいつもより下にスクロールして簡単に脱会できた。
終点の駅。名前だけは知っていた。今まで私の乗ってた電車はみんなここに来てたんだ。知ってて知らない駅、場所。
はじめての町。ふらふら歩く。秋日和。学校ではもうじき文化祭だった。
ふらふら歩くとお昼になった。公園の池の前にあるベンチでお弁当を開いた。母の最期のお弁当。でもたくさん歩いたせいで、なかはぐちゃぐちゃになっていた。せっかくお母さんが作ってくれたのに。
どうしよう。さっきまで唯一大事だったお弁当。でもぐちゃぐちゃのこれをいつまでも持ってるはイヤで、早くもうどこかにやりたい。
弁当を黄色いナフキンで包んで戻すと池に小さく投げた。池は緑色で弁当はすぐ見えなくなった。ただ水面に泡が残った。
空腹というより気持ちの悪い胃を抱きながらまた足のむくまま歩き始めた。秋の空。気づいたら空模様もあやしいし、わたし今寂しい……。
公園のモニュメントの上、蝿が目に入った。動かなかった。わずかに風が吹いて翅(はね)が震えた。『わたし、寿命じゃないのよ。餓死したの』そう聞こえた気がした。
わたしはなぜか見捨てる事ができなくて、なんとかしてあげたくて。
「かわいそう。寂しいね。助けてあげる……」つまみ上げると舌の上に置いて、歯に当てないよう呑み込んで、お腹で抱いてあげた。
指定暴力団山淵組の舎弟頭である前田竜也は、組長の用件を聞いて眉をひそめた。
「兄貴。正直に言うが、俺はできればあのシノギには関わりたくない」
「頼む、見てるだけでいいんだ。やはりお前がおると若い衆の気が引き締まる。Dを嫌っとるのはわかるがそこを曲げて。な?」
その単語を耳にして、竜也の眉間のシワがわずかに深くなる。だが結局は不承不承といった具合でうなずいた。
「……組長たっての頼みなら。だが兄貴、Dが極道を腐らすという俺の主張は変えんぞ」
「わかっとる。だが今の世の中は金がすべてだ。古風な任侠を気取っても、ゼニがなけりゃどうにもならんのよ」
諦観漂う組長の言葉に、竜也の表情がまた一段険しくなった。
「いや、オジキに来てもらって助かるっす。今日が一番の大事っすから」
Dの元締めである若頭補佐の愛想笑いに仏頂面を返す。竜也は彼のことが嫌いだった。扱っている物もそうだし、ヘラヘラした態度も気に入らない。だがなにより腹立たしいのは彼のシノギで組が支えられている事実だ。
「いつ来ても気色悪い薄笑い浮かべた奴らばかり。反吐が出る」
「こういうシノギっすから。これも組のためですよ」
そう喋る若頭補佐をぶん殴りたい衝動をグッと堪える。
そのとき、スピーカーからの声があたりに響き渡った。
『ただいまより、コミックマーケット108の第三日目を開催いたします』
割れんばかりの拍手。そして地響きとともに野暮ったい服装の男どもが汗だくで駆け寄ってきた。
「新刊3部ずつ下さい!」「シュパッツたんの本を1冊!」「プフィール姉様の上下巻を4部……!」
次々と寄せられる注文。若頭補佐はそれに笑顔で対応し、マンガだかゲームだかの少女が描かれたDを配っていく。
D。かつては明治時代の文学になぞらえて同人誌と呼ばれていたが、実体がかけ離れたせいか今ではDの略称で通っている。
萌えという性欲とは似て非なる感情で彩られた物に、一部の人間は金に糸目をつけずにのめりこむ。その賭博や麻薬に似た特性により、いまやDの大半は暴力団によって作られていた。
この現状が竜也には耐えがたかった。極道というのは仁義や矜持に満ちた、侠気あふれる存在ではなかったのか。
竜也はビッグサイトの天井を仰いで嘆く。
「俺たちは、どうしてこんなとこに来てしまったんだ……」
「あ、それガンダムSEEDの名言っすね」
茶化した若頭補佐の顔面に、竜也の裏拳が炸裂した。
僕たち家族は夕食後の食卓を囲んでいた。
「ねえ」三つ下の妹が僕に言った。「そんな気持ち悪いもの早く捨ててよ」
食卓の中央には、銀色の袋に閉じ込められた“そいつ”が置かれていた。一見すると、まるで未開封のレトルトカレーにしか見えないという代物だ。
「ほらまた動いた!」妹は顔をしかめながら叫んだ。
母さんは溜め息をついて僕を見た。
「近頃どうも様子がおかしいと思ってたら部屋にこんなもの隠して」
父さんは一人黙ってお茶を啜っていた。
「ミキだってもうすぐ結婚するっていうのに」
母さんは独り言みたいにつぶやきながら台所へ行った。
妹のミキはテレビを点け、父さんは新聞を開いた。僕はやることがなく、正面の白い壁を眺めていた。
ふいに妹がテレビを見ながら口を開いた。
「それって地球外生物かも」
「まさか」
ずっと黙っていた父さんが新聞から顔を上げた。
「それ、名前は何というんだ?」
「名前なんてあるわけないさ」
「名前がなきゃ困るだろ」
母さんが、むいた梨を皿に盛って台所から戻って来た。
「それ、保健所に持って行ったほうがいいんじゃないかしら。ねえ父さん?」
父さんは新聞を閉じ、“そいつ”を眺めながら腕組みをした。
「そうだな。悪いが母さん、明日保健所へ電話しておいてくれないか」
僕は天井を見上げた。何も無かった。
「ちょっと待ってよ」妹はテレビを消した。「その変な袋、今から開けてみない?」
家族は一斉にお互いの顔を見た。まるで悪だくみでもするみたいに。
「それはだめだ」父さんはみんなから目をそらした。「名前も分からんような生物を裸で野に放してみろ! 地球の生態系を破壊しないとも限らんぞ!」
「だったらさ」妹はニヤつきながら頬杖をついた。「袋から出た瞬間に調理用のバーナーか何かで燃やしちゃえば?」
「とにかく」母さんは僕にハサミを手渡した。「ミキも結婚するんだから、変な問題はキレイさっぱり始末してちょうだい!」
僕たち家族は食卓を立ち、みんなでゾロゾロと庭へ出た。
「いいかい?」
家族で庭に集まるなんて何年振りだろう。
「切るよ」
その後、妹は結婚し、子供を産んで新しい家族をつくった。父さんは定年退職し、母さんと二人で穏やかに年金暮らしをしている。
そして僕はというと、あの日、銀色の袋から出してやった“そいつ”と家を飛び出し、今も一緒に世界中を旅して回っている。“そいつ”にまだ名前はない。
結んだ糸にぶら下がってゆらゆら揺れる五円玉の穴からちらちらとおじいちゃんの顔がのぞき、それが目の前のおじいちゃんとはあまりにもかけ離れた表情を浮かべていて、私は穴に見入ってしまうのだ。
「加奈子、じゃあ始めようか」
おじいちゃんは目尻を下げ、穏やかな声で私に制服を脱ぐよう優しく促す。
「渡さないからな、加奈子は絶対に渡さないからな」
おじいちゃんの体臭は加齢臭というよりも既に死臭で、私の上を這い回るように激しく動きながら、そんな呪詛を吐いた。私の中でふるふると絶頂に達したおじいちゃんは、精根尽き果てたように寝息を立て、やがてこと切れた。
おじいちゃんの亡骸は割合に軽く、わきに退けてから服を着て、薄汚れた五円玉をポケットにしまってから救急車を呼んだが、現れた救急隊員の驚いたような軽蔑するような瞳がなんだか可笑しかった。
親戚に助けられながらの慎ましやかな葬式も終わり、おじいちゃんが私に残したものといえば古臭い木造の平屋と老いた柴犬、それと少々の蓄えだった。
老犬は主の亡くなったことにも気付いていないようで、相変わらずのふて腐れた毎日を過ごしている。名前を呼んでも振り向くこともなく、なんとなく人恋しさを覚えた私がじゃれ付くと、老犬は若かりし頃のように赤黒いあれをそり立たせて身を固くしたので、私は何かに操られるかのように老犬を絶頂にいざなってしまった。
出すものを出し、まるで何事もなかったかのように涼しい顔で眠る老犬を五円玉越しに眺めると、そこにおじいちゃんがいた。
おじいちゃん、と呼びかけると、老犬は面倒くさそうに片眉を上げてこちらを見たので、私は老犬をたしなめた手のひらを見つめながら少し考え込んでしまう。
すっかり枯れ落ちた町並みを五円玉から覗けば、そこには色づきはじめた世界が広がっている。
見上げると今にも降り出しそうな厚い雲が空を覆い、私は天に向かって五円玉を掲げ、そこから見える雲ひとつない突き抜けるような青空に息を飲んだ。空はどこまでも青く澄み渡っている。
私は腕をいっぱいに広げて存在を誇示し、今度こそ私から何もかも全てを奪い去って欲しいと、この小さな穴に願った。
向こうの通りで手を振る靖史くんを何の気なしに覗き、そこから見えた彼の姿に、私はなんだか気恥ずかしいような、だけどすがり付きたくなってしまうような、そんな感じを覚え、おそるおそる手を振り返した。
――僕が聞いた話をするよ。
――うん。話して。
耳無丸
明けて間もない山を独り歩いていると、不意に、川のせせらぎも樹々のざわめきも自分の足音さえも消えてしまうことがあるのだという。このとき、自分はどこどこから来ただれだれで、これからどこどこへ向かうところである、と大声で叫ぶようにしていうと、まわりの音がかえって来るのだそうだ。これは耳無丸と呼ばれるものの仕業といわれており、そのものは自分と同じように音の聞こえない人間を連れていこうという魂胆であるので、取り合おうとせずに歩き続けるのは宜しくないということである。
黄泉送
とある山奥に大雨の降った翌日にだけ現れる、水嵩が足首に届かない小川があり、地元の人間は決して近づかないのだが、その川がふたたび干上がる翌朝には、近隣の宿の蒲団の中で干からびて死んでいる旅人が、年に数人は出るのだそうだ。この小川を地元では黄泉送と呼んでおり、樹々の根に絡みとられていた魂が、これに乗って黄泉の国へ流れてゆくのだという。
人面玉
樹齢二百年以上の大樹の洞に、赤子ほどの大きさの艶々した丸い玉が見つかることがあるという。その玉には人の面相のような模様があり、それを川の水に浸けておくと、だんだんと大きくなってゆき、一昼夜して人の形となる。もとは玉だったそれが当然のように口をきくので、いろいろと問い質してゆくと、十数年前に山に入ったっきり行方不明になっていた、とある村の男だった、とわかったりするのだそうである。もしも大樹を尋ねて歩く夫婦があれば、この玉を捜し求めているのかもしれない。
子成犬
夫婦となって十年以上、子ができない家の牝犬が出産すると、中の一匹にすらすらと人語を操る犬が交じっていることがあるのだそうだ。その子犬は、家の者たちがそれぞれ胸の内にしまっている家庭内の不平不満を、まるで本人であるかのように次々と言い当て、家族中に洗いざらい喋ってしまう。そうして、生れ落ちて三日目の朝に死ぬ。その日の日没までに、夫婦二人で、この遺骸を麻の布に包み近隣の山に丁重に葬ると、半年のうちには懐妊の知らせがあるのだという。
――なんだか、意味あり気ね。
――そうかな。意味なんてあるのかな。
――意味のない言葉なんてないでしょ? だったら意味のないお話なんてないはずだわ。
――白状するけど、これは僕なりのプロポーズなんだ。
――それじゃあ、わたしも何かお話を見つけなくっちゃね。
「あ、それなに」
社のロッカールームで帰り支度をしていると、私服に着替え終え化粧を整えていたK子が私の頸許を指差し、嫌に華やいだ声で言った。
手鏡を取り出して映すと、頸の右側から肩口にかけて、十センチほどの筋が入っていた。皮の下から朱みが灯っていたが、痛みは無かった。
「どこでつけたのよ、そんなの」
K子の言葉に、周りにいた者達もちらと視線を寄越す。何かを誘き出そうという、澱んだ沈黙が辺りを満たし、そしてその誘き出された何ものかを殴りつけるための凶器か、身体の芯に響く金属音が視界の陰から時折投げつけられる。私はそそくさとブラウスを閉じ、曖昧に微笑んでドアを潜った。
最寄駅までの雑踏の中に身体を浸しながら、頸許の記憶を辿った。が、ただあの傷の輪郭が鮮やかに甦るだけであった。
近頃やけに夜を彩るようになった青色の灯りに、淡く温かく、それでいて冴やかな朱が浮かぶ。あたかも獣に爪立てられたような、躊躇いの無い一筋。
たとえば、熊。さほど大きくもなく、といって小熊でもない中ぐらいの熊が、私の寝ている間に頸許に柔く爪を立てたのかも知れない。欲も怖れも痛みも感じさせず、鎮まる私の肌に、ただすっと筋を引いて去っていく――私の日常に取り紛れながら、ずっと寄り添っているかと思えば不意にいなくなり、知らない間に親しく寄って来て、それでいてまみえることはなく、残り香だけがいつも漂っている――、そんな存在ではないのか。
そんな空想を、先ほどのK子の笑みが内側から喰い破った。人との繋がりを、見晴らしの悪い路地裏からしか捉えられない女の、下衆な嗤いだった。彼女らはその総身に散在する、碌に顔も想い出せない人々から徒に刻まれた無数の傷を、安っぽく毒々しい衣装と、底無しに軽薄で虚が実を丸呑みする脳でひた隠しながら生きているのだ。しかも慈しみの欠片も無く、錆びついた刃で切り裂かれた傷はこの上なく膿みやすく、彼女らの心身を容赦無く腐らせていく。
私は、黙々と駅へ向かう人々の中に立ち止まり、私の傷にそっと触れてみた。獣は、故郷から来たのかも知れない。生の取り結び方を忘れかけていた私に、故郷の標しを与えてくれたのか。
或いは、日々押し寄せる暮らしに埋没し私の意識から抜け落ちた故郷が、はぐれた母を呼ぶように、愛憎の傷をつけたのか。
指先から意識を戻した私は、駅がどちらの方角だったのか、もはやわからなくなっていた。