# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | 電子心霊課 | おひるねX | 1000 |
2 | 爆弾彼女 | アンデッド | 942 |
3 | 燃やすゴミ | 借る刊 | 924 |
4 | 全日本ウマシカ連合 | 謙悟 | 995 |
5 | マロニエ | 青山るか | 910 |
6 | 復讐と言えなくもない | 鳩 | 1000 |
7 | プレゼント | 山羊 | 899 |
8 | 諏訪報復譚 | えぬじぃ | 1000 |
9 | 小指を落とす | 清水光 | 953 |
10 | 雨の中 | 灰棚 | 835 |
11 | Honnoji | 鼻 | 964 |
12 | ヨル | あかさ | 335 |
13 | おわかれ | くわず | 1000 |
14 | 感情の中で。 | のい | 744 |
15 | 猫 | みうら | 1000 |
16 | こたつむり | 彼岸堂 | 944 |
17 | 紫陽花 | 三毛猫 澪 | 938 |
18 | 空 | 田中彼方 | 999 |
19 | rot ion ape = 面会 晩餐 仮 | 高橋唯 | 1000 |
20 | (削除されました) | - | 804 |
21 | 午後の講義をさぼって | 宇加谷 研一郎 | 1000 |
22 | うんこ | 金武宗基 | 11 |
23 | ウグイス | クマの子 | 1000 |
24 | フリースロー | 多崎籤 | 1000 |
25 | 黒い猫 | euReka | 993 |
26 | 岩感 | わら | 1000 |
27 | 愛なき者 | 黒田皐月 | 1000 |
28 | 色のない世界 | 篤間仁 | 1000 |
29 | サーカス | qbc | 1000 |
30 | 黒い海の町 | キリハラ | 1000 |
ここは、人外局 電子心霊課。
始まりはあなたも知ってるサイバーワールドにまちがいない、ちょっと五年先の未来だが、もはや機械は魂を持っていると、みとめられているのだ。
未来を知るのに、電子心霊課の仕事に付き合ってみる?
<いらいしいゃいませ。今日の御用はなんでごさいましよう>十年かわらぬ受付案内だ。
「贋金を受け取るな。拒否しろ」と判ったようだ。
<わぁ、なつかしい。お父上>
私が設計した統合評価関数(イチロウ)が挨拶しに、浮き上がってきた。この基礎関数は、もう変化しない。
「やぁ、なつかしいね」
これからずっとこのままなのだ。私が年をとったらどうなるのだろうか。そんなことを考えながら、治療を始める。
めんどうなので分かってる事はすべて一度に、指定してやる。
「輸出したレジ・販売プログラムが、受け取った現金が贋金だったとき、それを受け取らないようにする」 これでいいかな?
「検討はじめ」 命令を出した。待つこと三分。
<贋金を受け取ったのではなく、すでに受け取った現金が偽物だったのです>
返事が出た。
「贋金とわかったら、取引を拒否して贋金をかえすようにしろ」
待つこと、四分。
<贋金をかえすと、贋金使いになってしまいます>
「それは見解の相違だ」
そう云ってやると。そのまま、返事がなく。十二分。
<パパ。こんにちは。>負荷効率関数(桜)が出てきた。イチロウの妹。
「あぁ、げんきかい? 無理なことを云ってるつもりはないけど……」
<ママも、困ってるわ。悪いことはできないのよ、>
<あんた、なにを無理なこと言ってるの? 悪事をしろっていうなら私が許さないよ>外部連絡関数(おっ母さん)が出てきた。
さて、お手上げだ。
受け取ったら、犯罪者になってしまう。こんなパラドックスは、ウサギも亀もびっくりだろう。
電話が鳴った。ぴぴぴぴ、ぴーーー 外線から、しかも外国からの連絡だった。
局長は云った。「まだやってるか? 贋金処理を?」妙に機嫌がいい。
「はぁ、一生懸命やってます」
「ああ、そうだろう。もうやめとけ無駄なことだ」
「はぁどういうことです?」
「革命だ。いままでの札は全部使えない」
おっ母さんと桜が嬉しそうに笑っってる。
<それじゃ、問題解決ね>
「この展開を予測してた?」と、聞いてみた。
<いいえ、贋金は返せません>と、答えたイチロウは、ぶすっとした顔に見えた。
「ああ、それでいい。贋金は全部没収だ。革命警察が回収する」
局長が言った。
僕の彼女はテロリストだ。
けど僕は有紀が好きだから、そんなのは些細な事だった。
それにこんな世の中だから、そういうのも解らんでもない。まあそれはそれ、これはこれ。
それよりも深刻な問題がある。それは有紀が、爆弾を内蔵した爆弾人間だって事だ。
元科学者で今はテロリストである佐藤浩市似の父親に改造されてそうなった。それは必要な使命なんだとか。
だから何かというとすぐ爆発しそうになる。それで何度も死にかけた。
特に有紀は感情の高ぶりが影響して、すぐ左目の瞳が赤くなりカウントダウンが始まる。
喧嘩した時もそう。ワガママな時も遊ぶ時も。
『木場ぁ。私これ欲しいの! 早く買ってよ!』
赤くなってボン!
『木場ぁ。この長い髪の毛なーに! 十五秒以内に説明しろ!』
赤くなってボン!
『ん……あっ。やだ…………ダメ……死んじゃうー!』
赤くなってボン!
想像しただけでもあらゆる危険が潜んでいた。
今日、僕の部屋で有紀と一緒に映画を見ていた時。主人公の友人が死ぬ場面で、急に有紀が泣き出した。
つい最近、同様に爆弾人間である友人を任務で二人も亡くしたからだろう。
僕はビデオを一旦止めた。
「大丈夫?」
「……うん」
いつしか彼女も駆り出されて、死が二人を分かつ時がくるのだろうか。
僕の方が爆発しそうだった。
「……ごめんね。私こんなで、迷惑かけて」
「そんなのいい」
君さえいてくれれば僕はそれで。
「じゃお詫びに木場君って呼んで」
「なんで?」
「いつも呼び捨てで腹立つから」
有紀は恥ずかしそうにもじもじしていた。
「木場く……ん」
「素直で宜しい」
僕は有紀の頭を撫でた。
有紀は余計に小さくなると、その分こちらにすり寄ってくる。
素直な有紀が可愛かった。
「あ、目赤くなってる」
「え、う……どうしよ……」
「まさか。木場くん、木場く……起爆?」
「止まんない、止まんないよ!」
「大丈夫、冷静になって落ち着いて」
「ダメ! 止まんない!」
ここで二人して死ぬのか。けど一緒に死ねるんなら――。
目に涙を浮かべた有紀を抱き締めて、僕は叫んだ。
「うわあー! 好きだあー!」
ファイブ。
フォー。
スリー。
トゥ。
ワン。
『ボーンッ!』
「ちゃんちゃん♪ なーんてね! けど本当に爆発したらどうする?」
「それでも好きだ」
久しぶりに実家に戻った。
大学で必要なものを取りに行くついでに、部屋を片付けてしまうつもりだった。
燃えるゴミと燃えないゴミを分別していく途中、クローゼットの奥底に丸められた大量のカンバスを見つけた。
高校生の時、美術の予備校で描いた油絵だった。
一枚広げて見ると、それは形が歪な、目が痛むほど発色の良い赤で描かれた静物画だった。
裏地がちくちく手のひらを刺してきたのが気に食わなくて、それを再び丸めて燃えるゴミに重ねた。他に丸められた油絵も、全て燃えるゴミをまとめた一角に寄せる。
油絵だけじゃなく、その時使っていたエスキース帳や筆、水彩で描いたドローイングも総て燃えるゴミに区分する。
私の部屋は見る間に燃えるゴミに占拠されていった。部屋の隅で分別された他のゴミたちが、肩身狭そうにその身を変形させている。
クローゼットが粗方空になったあたりで、姉が私の部屋にノックもせずに入ってきた。
「なに、片付け?」
「そうだよ。」
「散らかっちゃってんじゃん。」
彼女は棒アイスを齧りながら、ゴミを重ねていく私を無感情に眺めている。
「ゴミを捨てたらすっきりするよ。」
「ふうん。」
冷房で冷えていた空気が、姉が開けたドアから逃げていく。
閉めてほしいと頼んでも無駄なことは知っていたから、姉が眺めている中、私は黙って画材道具を燃えるゴミの山に重ねる作業に没頭した。
「そのゴミ、捨てるの大変じゃない?」
彼女は唐突に、私の背後で山になったカンバス等を指さして言った。
私は理由もよく分からない羞恥に顔が赤くなるのを感じた。
「捨てない、燃やすよ。ガレージで。」
「あ、そう。ママに見つかったら怒られるよ。」
姉はそう言うと、ドアを閉めずに自室へ戻っていった。
姉があっさりゴミと言い放った油絵、エスキース、デッサン。心のどこかで、もったいないとか、とっておけばいいのに、とかいう言葉を期待していた。
私が、受験の為に必死になって描いてきたこの絵を価値のあるもののように言って欲しかった。
殆ど空になったクローゼットの一番下に、潰れかけたマダ―レッドのチューブがU字に転がっている。
私はそれを掴んで力いっぱい後ろに放り投げた。
ぱんっ、と丸めた画用紙に当たる音。或いは何かが破裂する音が、部屋に反響する。
さて、我々全日本ウマシカ連合が主張したいことは以下の通りです。
ここに「馬鹿」という言葉があります。見ていただいたらわかるでしょう。我々の漢字が使われているのです。このことに、どうしても納得がいきません。我々のイメージをひどく侵害している。そのため、この漢字の使用を即刻禁止していただきたく思っています。
私事ではございますが、もともと一匹の鹿にすぎない私の所属していた団体は、奈良鹿連盟という県規模程度の大きくない団体でした。しかしこの鹿世界において、私が「馬鹿」という言葉に対して不満を抱いているかどうかという質疑を皆に問うてみると、思っていた以上に鹿たちの反響が大きかったのです。その反響は日に日に大きくなっていき、ついに一つの権利運動にまで発展しました。様々なデモ活動を行ってきたのはもちろんのこと、その運動の規模を広めるために、奈良鹿連盟以外の日本中の鹿団体に協力を依頼しました。「馬鹿」に対して不満を持っていたという点では他の鹿団体も同じだったようで、承諾を得るのにはそう時間はかかりませんでした。
そして、日本中の鹿団体が結束している最中に、とある馬団体の伝書馬が我々のもとに訪れました。彼らの目的は「馬鹿」という感じが織りなす悪いイメージを一掃するため、我々関東ホース連合や西日本ヒヒン連盟も一役買わせてくれないか、というものでした。協力を断る理由など、我々は持ち合わせてはいませんでした。
そのような経緯もあって、ついに我々は全日本の馬と鹿の権利を守るべく「全日本ウマシカ連合」を設立。今日の権利主張の日を待ちわびていました。
こちらに、運動参加者全員の署名と蹄印があります。我々の世界には紙が存在しないので、鹿煎餅で代用させていただきました。ちょっとでも強く鹿煎餅に印を押そうとすると煎餅が割れてしまったり、鹿煎餅という食糧の多くを失ったことによる空腹に苦しんだりしつつも、どうにか全員分の蹄印を集められたことは評価してもらいたいものです。
これを踏まえて、そちらさまにはいろいろ検討をしていただきたく思っています。具体例としては「馬鹿」という漢字使用の永久停止、代用として「莫迦」「募何」の使用を日本の教育機関で徹底。少なくとも、この要求以下になることはありえません。
我々の主張は以上です。どうか、前向きな検討をよろしくお願い致します。
全日本ウマシカ連合代表 シカ
木漏れ日が、カーテンを揺らす微風の金の糸に生命を宿すように、夢のなかで虹彩が光の粒子を直接とらえたとき、ザザ・コムザはぎくっとして目覚めた。
彼は、時計を見てそこに午前六時四十五分という時刻を発見したが、彼に残された限られた時間をそれに費やすことが、自分の人生にとってどれだけ重要なことかどうか、もう一度値踏みしていた。
それとは、今の結婚生活のことだ。
結局、その選択が彼の人生というキャリアのなかで最も重要なミステイクになるわけだが、むろんそんなことが彼にわかるわけもない。
朝食の後に、彼はビジネスのパートナーであるスミスに電話をして、新しいプロジェクトの戦略をはじめから立て直すことにする旨を伝えた。
彼らは完全なパートナーシップとかけがえのない友情に支えられていた。
スミスには、すばらしい商才があり、ザザは最高のエンジニアだった。
多数の投資家が、彼らの技術力に興味を抱いていることは明白で、いよいよ会社も軌道に乗ってきていたが、今の大きなプロジェクトが最終的に実を結ぶ五年後には、ザザは会社を去ることに決めていた。
そして、妻のもとから去ることも。
だから彼は、美しい妻、テレーザを見る度に胸が締めつけられるように痛んだ。
彼らは幼年期からのいいなずけられた者同士であり、大学の一年生のときに結婚していた。
彼らはかなり貧弱なセックスを月に数回行っていたが、それはそれで素晴らしいことだった。
テレーザのその美しさといったらたとえようもないほどだったが、彼は、未だに元カノのことが忘れられず、長い赤毛の娘の、赤い巻き毛の房を今も密かにクローゼットに隠しもっていた。
ある日、ザザ・コムザは、テレーザに髪を赤く染めてくれないかといった。
テレーザは、自分の栗毛色の髪をとても気に入っていたので、悩みに悩んだが、結局はザザの希望を容れて、髪を赤く染めることにした。
美容院でテレーザが髪を真っ赤に染めている頃、ザザはホテルの一室で赤毛の女を抱いていた。
パウダールームで、テレーザは鏡のなかの燃えるように赤い髪の見知らぬ女に、にこりと微笑みかける。
マロニエの樹が、降りはじめた夏の終わりの雨に濡れていく。
何のことは無い。
話はとても単純なモノだ。
ある日、僕は一人の女性に恋をした。
それは叶うことのない恋だった。
ただ、それだけのこと。
それだけで僕にはこのボタンを押すだけの理由には事欠かないのだ。
何よりもこの千載一遇とも取れなくもない好機を逃すことは僕の欲望が僕のちっぽけな理性を握りつぶすには十分すぎると思えなくもない。
なに、すぐに済む。全てが済む。きっと僕の世界を終わらせてくれるかもしれない。
あぁ万歳万歳。このちっぽけな僕もこの美し過ぎる全ても2秒で崩壊。さよならだ。
こんな都合の良い、もとい嬉しいことは多分無い。
……だから、僕の指よ迷うことなくこのボタンを押せ。押せ。押せ押せ押せ押せ押せ押。
駄目だ、指が動かない。
今更、なんの未練があるのだろう。この僕は。
ただ一つの動作が実行出来ない。
僕の思考は時計の様にグルグル回る僕の体はPCの様にカチカチ固まる。
動け動け動け。さぁ動けーーーー。
「藤原さん?」
「ふごけっ!!」
思わず僕は素っ頓狂な声を上げる。と同時に頭の中は一層加速して加速して地球を離れ遥か大宇宙……じゃなくて。
「大丈夫?家に何か用?」
あぁ、先輩先輩お願いだからそんな僕にだって心、コココロの準備が……。
何か言おうにも体と心の不一致に僕はただただただ成す統べなく……。
「いえ間違えました」
「そうなの家じゃなくてご近所さんに用事だったのかな」
「はい。そうだと思います」
あぁ、僕のチキンなんたる根性無し。
「それじゃさよなら!」
逃げますチャンスはピンチです。
せっかくせっかく先輩のご両親がいない日を狙って、と言っても表に車が無かっただけなんだけど来たというのに僕は又してもインタフォン一つ押せずに逃亡する。
こんな自分もう嫌だ!世界なんか滅べばいいんだ!!むき〜っ。
「待って藤原さん」
その時、僕には確かに見えたんだ天使。
「はひ!」
もう駄目、言葉とか忘れた怖い嫌。
「あの良かったら私とこれから買い物行かない?」
「え、何!?何処に!?」
なんだこの展開なんだよこの嬉しすぎるぞマジと書いて本気で!??
「うん新しい水着欲しくて」
「行きます行きます先輩となら何処でも地獄でも!!」
「はははっ、実はね今度彼と海行くんだけど参考にさせて貰っても良いかな?」
「藤原さんスタイル良いから一緒に水着、買おうよ。ねっ」
はにかんだ顔で先輩は僕に笑いかけてくれた。
「 」
言葉に出来ず世界なんて滅べば良いと僕は心から思った。
「お母さんにプレゼント渡すんだ」
娘の可奈に一つ隠し事をしてテレビゲームをやらせていたら、不意にそんなことを口走った。
「なにをプレゼントするんだい?」
「ひろし!」
不謹慎だけど、私はくすっと笑ってしまった。
彼女が言うお母さんとは、このゲームのなかに登場する千恵というキャラクターだ。
そして、ひろしは病気で亡くなった千恵の息子。
そう、彼女はゲームのキャラクターに息子というプレゼントを渡そうというのだ。
「でも、どうやって渡すんだい?」
「しゅじんこうをひろしって名前にすればいいんだよ!」
なるほどな、と私は思った。
このゲームは主人公の男の子を操って好きな女の子に告白するという、いわゆるギャルゲーと呼ばれるものだ。
ひろしの死はヒロインの女の子を攻め落とす過程で発生するイベントの一つだ。
可奈はどうしてもひろしを死なせたくないらしく、わざわざ最初からやり直して名前をひろしにしてから再スタートした。
可奈は6歳だ。だから私が横で漢字や言葉の意味を教えなければいけなかった。
ゲームを進めていくうちに、ひろしが死ぬイベントに差しかかった。
二回目だというのに、可奈は目に涙を溜めて死を悲しんでいた。
たかがゲームにここまで感情移入してくれることが、私は正直嬉しかった。
ヒロインに告白をして、ゲームが終わった。オチは主人公とヒロインの間に子供ができ、名前を「ひろ」にするというものだった。男なのか女なのか性別は明らかにされなかったが、そこがいいのかもしれない。
彼らはどちらが生まれようとも、子の名前を「ひろ」に決めていたのだろう。
ゲームをクリアしたというのに、可奈の顔はなぜか浮かばなかった。
「どうした?」
「お母さんにひろしをプレゼントしたのに、なんでお母さんは喜んでくれないの?」
千恵はゲームのキャラクターだから……と、口に出かかった言葉を私は飲み込んだ。
いや、可奈。お母さんはちゃんと喜んでいるよ。
私は、今度は妻である千恵に目をやった。
台所にいた千恵は、少し笑顔を見せたあと、すぐにまた夕飯の支度に取りかかった。
照れていたのだろう、と私は思う。
エンドクレジットの最後には、監督の名前が映し出された。
監督 石橋 千恵
「間違いだろう?」
「いえ、確かです。武田の軍勢が真っ直ぐこの城に。その数、一万は超えるかと」
天文十一年夏。諏訪を治める総領であり諏訪大社の神職も兼ねている諏訪頼重は、部下の報告に耳を疑った。
武田信虎と同盟を結び、共に戦ったのはつい昨年のこと。その後、信虎が追放されて息子が当主の座についたが、両家の盟約はそのままのはずだった。もし外交方針を変えるとしても、二十と少しの若い跡継ぎが国内を纏めるには時間がかかる。そう油断していたのだ。
「こちらの手勢は?」
「すぐに動かせるのは、千に届きません」
「わかった。篭城の手配をせよ」
城に篭れば、十倍以上の敵にもしばらく耐えられる。城攻めが長引けば、敵はなりたての当主に不信を抱いて動揺する。それを期待しての作戦だ。
だが敵将の武田晴信、後に信玄と名乗る男の強さを、頼重は知らなかった。
一ヶ月と持たなかった。武田勢の侵攻と同時に、同じ諏訪の一族であるはずの高遠氏が寝返り、本城はあっさりと陥落。頼重は一里ほど北の支城へと撤退したが、そこにもすぐに敵軍が群がり、風前の灯であった。
「武田め……よくも我らを裏切りおったな」
諏訪頼重は包囲された小城の中で、奥歯が砕けんばかりに歯噛みしている。
頼重の横には、彼の娘が悲痛な面持ちで座っていた。
「降伏すれば皆の命を助けると言っておりますが」
「一度裏切った人間の言が信用できるか!」
そう一喝する。
頼重は座してしばらく考え込んでいたが、やがて能面のように表情を消してすっと立ち上がった。
「父上、どちらへ?」
「祈祷をしてくる」
「しかし戦勝祈願ならすでに……」
「違う、呪詛だ。我らが死のうとも、必ず武田を滅ぼす呪いをかける。諏訪の神霊を侮ったことを後悔させてやる」
そう言って頼重は歩み出す。だがその足に娘がすがりつき、彼に懇願した。
「おやめください父上。呪詛は願った者にまで災いをもたらします。それよりも、武田に許され共に栄えられるよう祈るべきです」
「うるさい! あの武田とともに天を戴けるか! 我が子、我が孫の世までかかろうと、必ずや滅ぼしてくれるわ!」
そう言い切り、頼重は障子の奥へと消える。残された娘は一人静かに泣き崩れた。
翌日に城は落ち、諏訪頼重は切腹させられた。
彼の娘は連れ去られ、やがて武田信玄の子を身篭る。
その子供の名は武田勝頼。後に武田の家督を継ぎ、失政と敗戦により家を滅ぼすこととなった。
左足小指に甲のほうから刃をあてがう。痛みはない、するどい冷たさがある。理論上はただしいが、さてその理論がただしいかわからないし、その理論とこの現実が適合しているかもいまいち信用できない。けれどもこうして実行にうつそうとしているのは、単純な楽観主義もあるがそれ以上に、うしなうものの小ささによる。とゆうのはいささか虚偽のまじった言動ではある。逆に現状わたしはそのものの価値とゆうのを十分にはかりきれてはいない。必要がないとゆうことがただちに不必要にむすびつくかといえばそんなことはない。それでは世界すべてが必要と不必要のすべてに分類されてしまうじゃないか。そうきれいにはわりきれまい。必要でも不必要でもないものがたくさんあるはず。そうゆうわけだから必要でないものを不必要、不必要でないものを必要とするのは、論理的でない、とゆうよりも困る。どちらかとゆうとわたしは自らの必要について否定的であるが自らの不必要については否定的ではない。行き着くところはわたしの不必要であり、自動的にわたしはわたしに対して廃棄処分をくださなくてはならなくなる。けれどもそれではここはわけのわからないものばかりがあふれてしまって、なにがなんなんだか判別がつかなくなる。あきらかに不必要なものをとりのぞいても必要があいまいにおかれているわけで、なにがなんだか混乱してきて、これもすべては必要とも不必要ともつかないもののせいだらしかった! 体重をかけるとやはり痛んだ。麻酔などとゆう代物にもちあわせはなく、気休め程度にバファリンを十錠ほど飲んでみた。ぎりぎりと力をくわえてゆく。肉に薄い鉄の食いこんでくるのが感じられる。さすがに骨を断ちきることはむずかしいだろうから、うまくその隙間を通ってはくれないか。指先にふりかかるぬるぬるっとして熱いなにかははねっかえりの血液のようだ。いつまでも終わりは訪れない、刃先は床を叩かない。ためらいがある、おそらく。わたしの痛覚がわたしの運動をはばんでいる。きわめて簡略化された模式図が頭に思いうかんだ。ぎりぎりと食いこませているつもりではあっても、それが現実に行われているのかはっきりつかめない。神経はむやみに痛みを訴えるばかりだった。運動はもしかすると脳の中でだけ行われているのかもしれなかった。
煙草の煙が儚く弱い龍を描いていた。
男は椅子に座り、背凭れに上半身の体重を乗せ、ギターを右手で抱え、
おぼろげと宙に舞う白い獣を見上げていた。
外は、男の心の様に禍々しく黒い闇に、涙とも血とも見える様な雨が絶えること無く降っていた。
男の部屋のすぐ横にあるベランダの床は少しずつ濡れている幅を広げ、
徐々に床の白さを漆黒の世界へと創り上げていた。
男はずっと前から降っていた雨の音に気付き、外をゆっくりと見た。
その目は焦点があっておらず、目の前の状況を見ず、
遠い何処かを見ているようだった。
左手に持っていた煙草の灰の塊がぽとりと落ち、フローリングの床に落ち、
落ちた衝撃で肺の塊は男の心の様に散り散りになった。
男は煙草の灰が落ちた事に気付かず、少ししてから手に持っていた煙草を灰皿においた。
その後、呼吸する時の身体の揺れと心臓の動き以外の動きは全く無かった。
暫くその状態が続き、その間、外の雨は強弱が変わるも止む気配は一切無かった。
空はアスファルトに似た重苦しく冷たい雲が覆っており、
世界はコンクリートの箱の中の様に無機質で暗いものとなっていた。
男は深く息を吐き、上体を起こし、ギターを弾き始めた。
奏でる音は不快でも心地良くもなく、ただその音が在る、そんな音だった。
誰の心にも届かず、弾いているその男の心にさえも届かぬ、
何も生み出さない音がそこにあった。
男はギターを弾くのを止めた。
ギターを椅子の横にあるギタースタンドに立てて、目を閉じた。
そのまま、男は何かを考えていた。
結論が出たのかは分からないが、男は目を開き、椅子からゆっくりとゆっくりと立ち上がった。
その姿は生きている人間とは思えない程に生気が無く無気力な立ち上がり方だった。
男はそのまま歩を進め、家を出て、雨の中、傘をささずに何処かへ消えた。
その際、男は先程落とした煙草の灰を全く気付かずに踏み付けて去った。
男はいつ、煙草の灰を踏んだ事に気付くだろう。
多分、気付く事は無いだろう。
雨が靴の中に入り込み、洗い流してしまうから。
電車。俺の向かいの席で知的障害者が笑っている。
実に微笑ましい事だ。
彼は時に爆発的に笑い、その度に周りの客は顔をしかめるが、俺はそれをとても可愛らしく思う。
障害者を屈託なく受け入れる俺。
彼と目が合わないよう、執拗に吊り革を眺めたり、不自然に首をねじってわざわざ遠い窓から景色を眺めたりしている客達に比して、豊かな心を持った俺は、彼と目が合えば優しく微笑み返す。
幅広い価値観。
全く、こんな俺をクラスの女どもに見せてやりたいものだ。
まあ、スポーツの技能と不良っぽさぐらいでしか男を計れない、そんな女達が俺の魅力に気付くにはもう少し年齢を重ねないと…。
などと考えていると、いつの間に近づいてきたのか、知的障害者が俺の席の前に立っていた。
立っているのはいいのだが、こういう奴らには他人に対する心の距離感というものが無いのか、この男は、自分と俺の爪先が当たるぐらいまで接近してきている。
おっと、「こういう奴ら」と言ったのは、敢えてフランクな言葉を使うことによって彼らとの壁を…
「本能寺で待ってる!」
あまりの大声に、俺を含め、障害者周囲二メートルの人間が一瞬痙攣した。
声の主は当然、俺の前で笑っている知的障害者の彼で、その目は完全に俺を見据えていた。
え、なにこれどうすりゃいいの?
周りの客達も俺をチラチラと見ているが、それは同情の目、好奇の目、そしてなぜか蔑むような目と、俺にとって何の得にもならない目ばかりだった。
冷房の風が冷や汗をさらに冷やす。
とりあえず微笑みかけてみたが、彼はますます嬉しくなったのか
「本能寺でずっとずっとずっとずっと待ってる!」
とさらに大声で連呼し、ついには飛び跳ね始めた。
まずい。
やっぱ俺こういう人ムリだ。
接し方分かんない。
ていうか何、本能寺って。京都の?訳わかんね。なんかもう泣きそう
その時だった。
「ちょっと、あんたやめなさいよ」
女の声だ。
思わず俺が謝りそうになったが、その言葉は障害者の男に向けて発せられたものだったらしい。
女は、男の目をまっすぐ見ていた。
そして、男がしょんぼりしながら「ごめんなさい」と言うのを見た女は、普通の顔で俺に会釈し、右手の作成途中のメール画面に視線を戻した。
車内に安堵の空気が満ちた。
女は、俺と同じクラスの女子だった。
あの会釈。たぶん俺は、彼女にまだ顔すら覚えられていないのだろうな。
何だかとても静かだったのです。
キャンドルに薄緑色の小さな紙をあてたら、微かに揺れて小さな音がしました。
灯をみつめて、狭間にいるような、遠くにいるような、心地です。
まが玉形にゆっくりと、灯が、揺れました。
あぁ、夜がいらっしゃる。
左の肩と背中がしっとりとして少し重いので、分かりました。
こんばんは。
ため息のような囁き声が左耳から聞こえたので、
いらっしゃいませ。
と内省するように呟きました。
夜はいいました。
キャンドルの灯が永遠ならば、そう願うのでしょうか。
あぁ、漸く、こうたずねられる時がきたのですね。
今は、朝日の留守と闇の帰宅をのぞみます。
夜は、ため息で灯を消して、小さな粒になりました。まだ少し灯を含んでいる薄緑色の小さな紙の上に座って、隙間からするりと抜けていきました。
母は眉根を寄せて、堅く閉ざされた襖を見つめていた。橙や黄色、焦茶の紅葉が揺蕩い、小川の水面を彩っている。だがその流れは、母の眼には映ってはいまい。へたり込むように坐し、だらりと下がった左掌の指で、畳のささくれを弄んでいる。
すう、と二十センチほど襖が開く。そこから顔の右半分だけを覗かせた伯母が眼の前の母に、「ごめんねえ、けいちゃん、まだやわ」と声を潜めて笑った。
母も「へえ」と釣られて笑みを浮かべたが、瞬時にそれを畳んで首を垂れた。断たれた小川の流れが、母のうなじ越しに再び結ばれる。
「どうなん、まだなん」
私が問うと、母は虚脱した背筋を即座に律し、「孝雄、そんな言い方はいかん」と窘めて立ち上がると、客間として宛がわれた八畳間を出、水屋へと消えた。
「怒られとる」
上体を捻って振り返ると、縁側に面したガラス障子を全開にし、桐箪笥に凭れた体に夜気を浴びせながら、宗次郎が嗤っていた。
私より一つ上の宗次郎はS県の私立高校に通う三年生で、恐らく私達と同じく伯母夫婦に呼ばれたに違いなかった。こうして逢うのも十年振りになる。
彼の伸ばした膝の上には、カバーの外された文庫本が伏せ置かれていた。
「何読んでん」
「推理もん」
私が野球部の練習を終えて帰宅すると、受話器を握り締める母の、白濁していくかのような相槌が聞こえてきた。
「きね婆ちゃんが危篤なんやと」
母は面倒がる私を急き立てて、車の助手席へと押し込んだ。
祖母の家は、私宅から車で三時間程かかる。母の横顔を見ながら、何故この人は他人の親の死に目に逢おうと急いているのか、と不思議に思った。それも、十五年も前に自ら他人へと成り果て、死後の便りで私達の日常に小さく深い傷をつけた男の。祖母と言っても一二度会ったぐらいで、向こうは大層可愛がってくれたか知らないが、私からすれば記憶の澱程度の、過去の欠片でしかなかった。だがハンドルを握る母の両掌の皮は、白く強張っていた。呼び鈴を何度も押し、駆け出た伯母に状況を訊くと、母は「間に合うた」と大きく息をついた。
「今、怪しいと言われとった男が殺されてよう」
宗次郎の言葉に、水屋から漏れ入る、湯呑み達の搗ち合う微かな音が重なる。母は盆に急須と七つ程の湯呑みを載せて、襖の向こうへと渡った。
八畳間を横切る際、母は私に一瞥呉れた。その意味を図りかねていると、縁側に穿たれた闇が、私の倦みを一層底深いものにした。
暗い森をただひたすらに歩いて、疲れたら座って、お腹が空けば木の実をとって、暗い森に静寂と何も見えなくなるような闇がおりてくれば、死んだように眠った。
「どうして」なんて聞かれても分からないし、聞く人も最初からいなかった。
救いの手はない、救われるほど不幸じゃない。
不幸は幸福な人が思う感情だから私は知らない。
歩いて歩いて歩いて……
どこに行くの?
何を見たの?
私って何?
疑問が浮かんでも聞く人が居ない、だから……忘れちゃう
まるで交互に空に浮かぶ太陽と月が「忘れてしまえ」とでも言うように、私の考えは消えていく。
「君、どこ行くの?」
モノクロの世界に色が……
「ドコ?」
私の世界にヒトが現れた、私はただ何時ものように歩いていたのに。
「ことば、分かる?」
コクリと首を縦にすれば納得のいった顔で笑ったがまた同じ質問を繰り返した。
「知らない」とだけ答えると残念そうな顔をした、でも私は悪くないから謝らない。
数日一緒に行動した、勝手にヒトが私のあとを歩いたために、一緒に行動をしているようになった。
数日が数ヶ月になって
数ヶ月が数年になってもヒトは着いてきた。
ある日ヒトは死んだ、どうも眠るのとは違うらしい……何故だか目から水が流れたけれど、貴重な水だから拭った指を舐めた。
ヒトは土に埋めた。
私は前に進んだ。
私は、前とはもう違ってしまった、自分以外のヒトが気になった、気になると今まで怖く無かったこの森が急に恐怖の対象でしか無くなった。
私はこの森で暮らせなくなった。
私は自由を失った、他者との交流で自分を森の一部だと考えられなくなった。
それでも不幸だとは思わない。
ただ……寂しい。
この感情だけがやっかいで私の心を唯一蝕んで、恐怖の対象になった森の中で涙を流させた。
待ってるから、何時までも私が自我を失うまで……。
ティッシュ配りをしているお兄さんお姉さんから沢山はいしゃくしてきたティッシュの総体を塒にしている猫にミルクやる。もうお昼。名はミルク。
どんなに急いていてもがつがつしていないように見えるのがよいよね。
とウェブログに。
鉛筆とかで書くことをおもえばたいそうシンプルであるローマ字キー入力の指づかいにより脳ということにここではしておくけれどもそのなかのどこかしらで日本語でかんがえた日本語が日本語ということに日本できめられたようであるあるカタチを途中アルファベットを垣間見せつつもとっていって目の前にあるパソコンの画面に難無くシュツゲンしていっているようなのってなんかこうすっごい高速だよねー。
とウェブログに。
ケータイの文字入力、モールス信号的じゃね?
モールス信号小説! みたいな。
書道家が一文字一文字きちんと書として入魂していった四百字詰原稿用紙換算四千四百枚の大長編小説ってそれはもう小説なの? 書なの? とかさ。
うちにまだ額に入れて飾ってあるけど
ミルク
って、ぜったい一目で瞭然とはいかない路上詩人命名の字はあれはもう猫の名ではなく書だよな、ま、その前に牛乳とかをあらわすイングリッシュをカタカナにしたやつだよな。
さ。
ティッシュ配りの人がそばにおいている段ボール箱をそのなかのティッシュごと回収してまわるアルバイト、というとみんなそんな仕事はないということが多いのであたらしい人とかに説明するのが至極面倒なのだ。
とウェブログに。
彼氏というか来月わたしの誕生日に入籍のつもりでいる婚約者にも出逢ってすこししてから訊かれ、わたしにもよくわからないがそれをやると指という手の指にリングをぼこぼこつけたスキンヘッドのデブがとてもよろこび日本円の札束をくれるのだと説明したことがあって、え、いくらくれんの? という彼の第一声にわたしの子宮はズキュンと貫かれたのであった二週間前に。
とウェブログに。
ってこれって猫ってタイトルなんだから猫のこと書かなきゃダメじゃね? と彼が今わたしの横にきていいました。
なのでここまで書いてきた文章を全選択削除して
わたしは猫を飼っていて、名前はミルクといいます。路上詩人さんにつけてもらいました。下の画像はミルクがミルクをがぶがぶ飲んでいるところで〜す。
とウェブログに。
リアルミルクは今あぐらかいてる彼氏さんのあぐらのなかでうねうねしてます。
ペットを飼おう。
独り身に耐えられなくなった俺は、会社帰りにペットショップに立ち寄った。
「飼いやすいのとかあります?」
「それでしたら『こたつむり』など如何ですか? 大人しくて粗相もしませんよ。餌も手軽です」
「……『こたつむり』」
ふと、店のど真ん中のフロアを独占する『こたつむり』に目がいく。
長い黒髪を床に広げながら眠そうな表情で炬燵に入っている彼女に、俺は一目惚れした。
「あの子を買うよ」
「ありがとうございます」
『こたつむり』は翌日、軽トラの荷台で運ばれてきた。相変わらず眠そうな表情をしている。彼女は俺が押入れから引っ張り出してリビングに設置した炬燵を発見すると、自分のいる炬燵からもそもそと出てくる。
炬燵から出た彼女は美しかった。長い黒髪と白い肌のコントラスト。蠱惑的な肢体。一切の無駄がないその姿形は、たとえTシャツにジャージという格好であっても見惚れてしまうほど美しい。
やがて彼女は俺の炬燵に入り込む。引っ越し完了と言ったところか。
「『ミカンが好物』か。安いのでも大丈夫かな」
炬燵の上にミカンを置くと、彼女の手がゆっくりと伸びてそれを掴む。そして皮を剥き、剥いた皮を卓上に放置して食べ始める。食べてる彼女も可愛らしい。
「俺もメシにするか」
簡単な野菜炒めと味噌汁を作り、冷蔵庫から冷えた発泡酒とご飯を取り出す。
俺はそれらを炬燵の上に並べ、そして自然に炬燵の中に脚を突っ込んだ。
「ひゃうっ」
彼女が変な声をあげる。
「悪い。入っちゃダメだったか?」
慌てて炬燵から出て彼女の様子を伺う。うつ伏せから仰向けになって現れた彼女の表情は、何とも形容しがたいものになっていた。
「はし、ちょうだい」
彼女はそれだけを告げる。
慌てて箸をもう一組取り出して渡すと、彼女は起きて卓上の野菜炒めをつまみ始めた。
「おさけ」
俺はもう一本発泡酒を取り出して、彼女の前に置く。ちびちびつまみながら、くぴくぴ呑む『こたつむり』。
俺は恐る恐る炬燵に脚を突っ込む。彼女の足と俺の足が触れる。
沈黙。
どうやら、許されたようだ。
「おいしい」
彼女はそう一言だけ漏らした。
時間がゆるやかに流れていく。
この子を買って正解だったと心から思った。
俺は、もう一度だけ自分の足を彼女の足に触れさせた。
「あなたはほんとうにあなたなのですか」
丁寧に刈り込まれた庭の松から雀が問いかけてきた。
「間違いなく私は私で、今朝学校へ行くとき通りかかった澪は今ここにいる澪だよ」
「本当に澪だったのですか」
不意に投げかけられた質問にどう答えていいのか、その真意を計りかね「他の誰かが私の姿をして雀さんを騙そうとしているのならともかく。でも雀さんの顔には見覚えがあるから、やっぱり今朝『おはよう』って挨拶したのは私だよ」と答えた。足元で、散歩途中のタマが頬擦りし、そのまま風のようなしなやかさで足の間をすり抜けていった。
雀さんは納得できないと言わんばかりに首を傾げ「本当かな。だって朝のあなたはあれほど愉快そうだったじゃない。なのに、いま通りがかったあなたはキリストの教えを裏切った弟子みたいに曇った顔をしてる」と続けた。
「それは、あのときと今じゃ状況が違うんだから仕方ないでしょ」禅問答のような遣り取りにウンザリし、投げやりに言った。
しかし雀さんは容赦なく「ほんの数ヶ月前のあなたは靴のかかとを踏んだり、ツンツンした髪型を嫌悪していたでしょ。なのにいまのあなたは平気な顔をして、それどころか自ら進んで流行のスタイルに身を任せている」
「だって気分が変わったんだもん」
「それなら中学生のときのあなたはどう。人を助ける医者になりたいと言って勉強してたじゃない。なのにいまのあなたは遊んでばっかり。国立の医学部どころか、私立の薬学科さえ危ういじゃない。もしも中学のときのあなたがここにいたら、どんなに嘆くことか」
ふと横を見ると、タマが庭のブロック塀へ登り、双眸を光らせ雀さんを捕らえようとしていた。
叱ろうと手を翳しかけたとき、タマの後ろの紫陽花が夕陽を浴び幻想的な色合いを醸しだしているのに気付いた。思い直し伸ばした手をツンツンした髪へ戻しクルクルいじった。
「やはり、今のあなたは以前のあなたとは……」
雀さんが言い終わらないうちにタマが飛んだ。
低く身構えてからの跳躍はあまりにも正確で非情だった。
喉笛を噛み切られた雀さんは哀願するように私を見つめる。
だって紫陽花を背にしたあなたたちはとても神々しくて、私なんかが覆すには恐れ多かったんだもん。
「そうよ。今の私は少し前の私とは違うの」
父の形見の一眼レフを探したが、急いで家中を回っても見つからなかったので、携帯電話に付いてるカメラで撮った。少々荒い画像にはなったが、とりあえず目当てのものを記録出来た。
随分進歩したけど、これはまだまだおまけだね。由美子にそう言うと、彼女は少し考えてから疑問を口にした。
なんで、空なんか撮ったの?
なんでよ。綺麗だからと言うわたしに対して由美子は呆れたようだった。
だって、ただの青い写真じゃん。
たしかにね、と思う。三時過ぎの雲一つない空というのは、まともに考えれば、つまらないものなのかもしれない。けれども、一つの色が満遍なく広がっているというのは、それはそれで綺麗なものだとわたしは思った。
由美子にはそういう微妙な気持ちが分からないようだった。わたしも、べつに分かって欲しいとは思わなかった。
それより、さ。ごはん食べようよ。
最近また太った由美子はすっかり空腹なようだ。一食抜いても、その分他で食べたら変わんないよ?そう言うわたしに、彼女は膨れっ面をする。
だって、お腹が減ったんだもん。
学生の頃はそれでもまだ可愛かった。あの頃、愛くるしいピグレットだった由美子も、今ではすっかりプーさんだ。可愛い子豚ちゃんとは到底言えない。食いしん坊で、緩慢な動作の、太った熊。愛嬌があるだけ、マシかもしれないけど。
由美子にそんなことを言うと、また彼女は膨れてみせた。
もう、最っ低。笑いながらそう言って、わたしの胸を叩く。案外それが結構痛くて、でも痛がってる自分を見せるのが恥ずかしくて、痛いの代わりにスパゲッティでも食べようか、と言ってみる。
作ってくれるの?
うん。由美子は顔を輝かせるが、そういう表情はあまり彼女には似合わない。視線をスライドさせて窓の外の方を見て、遥か遠くの方に微かな紅色が差し始めるのに気付いた。ちょっと待って。そう言って、またバルコニーに素足で出る。あまり成果は信用していなかったが、携帯のへぼカメラは意外にも、夕方前の水色と透明に近い赤色のグラデーションを収めてみせた。
今度はちょっと綺麗かも。
横から小さな画面を覗き込んできて、言った。それとやっぱ、昼食は私が作る。そう付け加える。
なんで。今度はわたしがそう言う番。
思い出したの。
お義父さんのカメラ、間違って捨てちゃったのよ。すまなそうにそう言う由美子を見て、プーさんもそれはそれで魅力があるなと思う。
彼女は買いたての猫のようにアンテナを四方へ伸ばして自らのテリトリーを広げていた。私はテレビデオのスイッチを入れた。
白い部屋と手術台。寝かされた修造。彦麻呂と曽根がメスとフォークを持って両脇に立つ。傍らのカセットコンロには鉄板と湯の張られた鍋。
「いつもすまんなあ。こればかりはしゃあないんや」
「わかっとるって。これも妻のつとめや」
彦麻呂は慣れた手つきでエの字にメスを入れ、腹の皮を両側にめくった。修造は目をひくつかせながら天井を見つめている。
「綺麗に詰まっていて、まるで宝石箱やなあ」
「プライベートでそんなん言うなや」
彦麻呂が一口大に薄く切り分けたレバーを鉄板に押し付けると、じゅっと音を立てて鉄くさい香りを立てた。そこに塩と黒胡椒を振りかける。
「タバスコとってくれや」
「ルール違反やで」
「じゃあなにか、あとでタバスコ飲むんはいいんかい」
「やればええやん」
「ええから黙ってわたせや」
曽根は舌打ちして、タバスコの口を台に叩きつけて割ってから、腹の中に盛大に振りまいた。瞬間、修造は全身を強張らせて目を見開き、涙をこぼした。
「これで文句ないやろ」
「こっちにかけたかったんや」
「ここにつければええやろが」
まあええか、と彦麻呂はレバーを腹の中のタバスコにつける。焼きすぎたレバーはぼそぼそとしてあじけない。
「これ膀胱やんな?」
言いながら曽根は、膀胱を握り締めた。
「みてみ、こいつお漏らししとるで」
からからと笑う曽根に彦麻呂は目を細め、鋏で切り取った腸を湯に浸けた。
「これ胃やんな、遊んでもええか?」
「ええよ」
曽根は胃を握り締め、口から吹き出してむせる修造を見て、きゃっきゃっと騒いだ。胃を引っ張り出して管を切り、袋を口に当ててつぶやく。
「あんた、好きやで」
修造の口から響いたその言葉に、彦麻呂は決まり悪そうに顔をしかめた。
「ほら、修造はあんたが好きやって!」
「あほか、わしにはお前しかおらんよ」
曽根はのどの奥でふふと笑い、子宮に手を伸ばした。
「そこはあかん」
「なんでや」
「そこにはわしの子が入ってるんや」
彦麻呂は丁寧にメスを操り、ちいさな子宮から指ほどの小さなひとをつまみ上げると、それを湯に浸し、やがて諦めたように口に放り込んだ。
曽根はまっくろな瞳でそのさまを見つめた。
彼女は伏し目に、食い入るように画面を見つめ、冷蔵庫の中にこんにゃくしか入れていない私は彼女の腰を抱いた。
ビーフシチューをつくろうと思って、買ってきた厚切りの牛肉をたまねぎと炒めた。ルー、ルーとシチューの素があるはずのところを探ると、ひとかけらしかない。
予定を変更してシチューではなく、牛肉炒めにしよう。ひとかけらのルーを湯で溶かして煮詰め、ソースにした。
「毎日、何が楽しみなのかわからない」
昨晩ふらりとでかけた飲み屋で知り合った女がそんなことを言っていたのをぼんやりと思い出す。カウンターで何本目かのベルギービールを俺は飲んでいて、女は珈琲とオレンジを注文していた。
「珈琲にオレンジっておまえはサガンか!」
酔いもまわって、マニアックな文学的つっこみをしている俺を無視した女は、カットオレンジを皮ぎりぎりまで噛みしめ、果汁がたれるのも気にせずにのみこんだあと、湯気をたてた珈琲をすすった。
「だってラム入り珈琲だもん。ラムとオレンジの相性は悪くないよ」
女はサガンについての俺のつっこみは無視して、またオレンジを齧りながら、
「朝の太陽は私の髪を熱し、私の肌の上のシーツの跡を、だったかなあ、悲しみよこんちはの一節は」
とつぶやいたあとで、「私、昨日彼氏できたの」といった。女の話によれば、ウサギのぬいぐるみに時計を埋め込んで、その心音を聞くのが趣味の男らしい。同僚だという。
「変態だな」
「でも楽しそうに語るのよ、あなたの趣味は」
「趣味? べつにない」
「私も趣味ってない」
女は毎日仕事して夜に飲みにきて休日は買物してそれで人生が過ぎていく、つまらない、毎日つまらない、と俺に言った。彼氏ができたのにどうして荒れてるんだろう。女はまもなく眠った。
俺はマスター相手に心臓の音聴く男なんだってさ、なんて話していると――それ木々高太郎の短編かなあ。死体の首だけ研究室からアパートに持ち込んでレポートかいてる学生の部屋に大家がたまたま入ったとかね――さすがブックバー。かなわないな。世の中かなわない奴ばかりだよ。
俺は牛肉炒めとトーストを食べながら、うちでもビールを飲む。午後の講義には間に合わないだろう。そのうち夕方になって今日も喫茶店でバイトだ。何が楽しみだなんて俺も答えられないけど、言葉にできないことの積み重ねに楽しさはあると思うんだけどなあ。
「猿山さん、俺彼氏もちの女をすきになりました!」
職場の先輩に話しかけた。噂では本当は猿らしい。
「いいねえ、恋は強奪に限るよ」と猿山さんは親指をたてて笑った。
祖父の残した家は山の奥にある。
主の居なくなった家はもう人の訪れることもなかった。畑や田圃も荒れてしまい、どこまでがうちの土地なのか、その目印も今は生い茂った草の中ではっきりとしなかった。手入れのされない山は人も自然の手にも負えなくなる。家も生き物でほおっておくと腐っていく。父はふた月に一回、僕をつれて祖父の家を訪れては家と山の掃除をした。学生の僕が主の居なくなったこの山に通うようになった頃の話だ。
人手のついていない山は厳しかった。父はこの家で生まれ育った。掃除の合間には小川でカワムツを捕る仕掛けや、松茸の見つけ方を教えられた。特に川でメダカを見られたのは嬉しかった。
昼に弁当を開きながら「お前が生まれる頃、そういえばじいさんは山で採れたものをやりたいやと云ってたな」と父はつぶやいた。お茶に口をつけた父を置いて僕はまた山道へ草刈りに出た。
草刈り機の紐を肩に食い込ませながら長くなった笹の中で作業をしていると、ラグビーボールのような鳥の巣がどこにつくでもなく上に乗っているのを見つけた。それは丸まった枯れた笹の葉でできており、手に持つとやわらかくて簡単にくずれそうだった。中をのぞくとウズラ卵と同じ位の茶の色をした卵が入っていた。逆さにすると転がり出てきて、これも指でちょっと力を入れればつぶれてしまいそうだった。巣のあった草は刈ってしまったので、僕は卵を元に戻して近くの茂みにそれを置いてきた。
家に帰って、見つけた巣は何の巣か調べてみた。あれはウグイスの巣であることが解った。二ヵ月後にきた時には巣は見つからず、中の卵もどうなったか解らなかった。木々はざわつき、山は次の季節の鳥が鳴いていた。
あれから五年、私は欠かさずにこの祖父の家の掃除をしにやってくる。父は山がつらくなり今は一人の作業となった。
仕事がつらくなると季節の移り変わりを待つようになった。高層ビル街では、車の窓の外を流れる都市環境緑化のために植えられた並木が、ビルの窓に反射する太陽のまあるい光をフラッシュのようにさえぎって強く目を撃つ。山に来れば季節が変わると同時にまた嫌なことも変わると思えてくる。
今年も掃除は続いている。いつか見たウグイスの卵が上手く孵ったかとうとう解らず仕舞だが、夏を迎えようとすると例年通り、山のどこからかウグイス達の声が聞こえてくる。親鳥が子供に鳴き声を教えている様子が聴いてとれる。
始める前に一つだけ。
話の途中で君は何度か質問を目にするだろう。
君はその質問に答えてもいいし、答えなくてもいい。
ただそれはとても他愛のないものなので、深く考えなくていい。
それじゃあ、始めてみよう。
君はエレベーターで三階に昇り、そこにある図書館を訪れる。気になった本を一冊抜き出し、適当なテーブル席に腰かける。ふと見ると正面に顔見知りがいて、君達は会釈をし合う。この話の中の君は男子高校生で、顔見知りは同じ学校の女子高校生だ。
――ところで君は今何歳だろう? 現役の高校生だとか? それとも高校の頃のことは昔話?
彼女は参考書とノートを広げている。ノートには細かな文字が記され、矢印やアンダーラインが引かれている。それとなく覗き込むと、ノートの端に描かれたイラストが見えた。ざっくりとした荒い線で描かれた女性の横顔で、味のあると言われそうな、女の子の描く絵としては珍しいタイプのものだった。
――君は絵を描くほうだろうか? 子供の頃は描いていただろうか? 描かないのなら、いつから描かなくなったのだろう?
彼女はノートを覗き込んでいる君に気づいた。持っていたペンを指先でくるりと回し、視線を向けて君に気づいたことを知らせる。
――君ならこんなときどんな反応をする?
彼女はノートの新しいページを開け、そこに荒い線を引いていく。しばらくすると、佇む一人の女性ができ上がる。長い髪と体の線でそれがわかる。両手で丸いものを持っている。ボールのような、しかしそれにしては少し歪な形をしている。歪になったのではなく歪にした丸だった。君が軽く首を傾げると、彼女は丸から矢印を引いてその端に「レタス」と書き、アンダーラインで強調した。
――彼女はどんな顔をしていた? ちゃんと笑みをかみ殺せていただろうか?
彼女は次のページにも女性とレタス、それからバスケットゴールを描いた。女性はシュートを打とうと頭の上にレタスを構えている。膝を曲げ、軽くジャンプ。放たれてバックスピンのかかったレタスが放物線を描き、バスケットゴールに向かっていく。しかしリングに当たり、真上に跳ねる。入るかどうか……というところで彼女は描くのをやめ、パタンとノートを閉じた。口の端を小さく上げて君を見つめる。
次の質問は彼女の科白と同じだ。
「レタス、入ったと思う?」
それから最後の質問。
――君はこの話から何か意味を見出すだろうか?
鼻に、白いスジのある黒い猫だった。
「なぜか部屋の中にいたの」と彼女は言った。「何を訊いてもニャー。どこから来たの? あなたは誰なの?」
黒い猫は彼女の与えたミルクを飲み干すと、ソファーに座って彼女と一緒にテレビを観たのだという。
「深夜のドキュメンタリー番組だったわ。小さな島の高校生がね、本土の学校に定期船で通う話なの」
黒い猫は番組が終わると、急に何かを思い出したように窓の隙間から去って行った……。
「島の高校生はね、定期船の中で宿題をするの。将来の夢は教師になることだって」
僕は手の平を彼女の目の前にかざした。
「猫や高校生の話はいいからさ」僕は言った。「大切な話があるんだよ」
彼女は僕を見た。初めて僕の存在に気付いたみたいに。
「僕と結婚して欲しいんだ」
黒い猫が、彼女の傍らで体を丸くしながら眠っていた。
「もしかしたら今の仕事を失うかもしれない。なにしろ想像もつかないような不況だからね」
彼女は猫を撫でながら僕の話を聞いていた。
「君のことが好きなんだよ。たったそれだけの理由さ。君と結婚したいと思うのは」
黒い猫はあくびをした。何も心配することのない平和な午後である、とでも言いたげに。
「ちょっとビックリしちゃった」彼女の頬が緊張を緩めた。「なんかドキドキしてる。だって……」
……高校生は島の港へ着くと、いつものように船長から郵便物を預かった。
「いつも悪いな。気いつけて帰りや」
船長に軽く会釈すると高校生は、暗い、島の集落へと吸い込まれて行った。寄り添うように集まった家々の間を縫う路地。目を閉じても迷うことはない。でも今夜は、なぜか迷路のようだと高校生は思う。まるで知らない場所のようだ。
「こんばんは」
高校生は一軒の家を訪ねた。
「郵便です」
「あらあ、どもども」
割烹着を着た女性が家の奥から現れた。高校生の母より少し老けて疲れている。女性は手紙を受け取ると封筒の裏を見た。
「うちの馬鹿息子や……。何年振りやろ」
高校生は玄関口に黙って立っている。
「あんたもそのうち、島を出ていくのやろ。たまには家に連絡くらいせんとな」
高校生は会釈をして玄関の戸を閉めた。暗くて狭い路地に足を踏み出すと、暗闇から猫が現れた。鼻に白い筋のある黒い猫だった。
「こらこら……」
しきりにまとわりつく猫に高校生は話しかけた。
「君は好きな場所へお帰り。今夜は星がきれいだ。帰り道は知ってるよ」
小さな喫茶店。男はゴツゴツした大きな違和感を覚えていた。周囲を窺うのだがその正体がわからない。仕方なく正面を向いたときに、男はようやく気づいた。
岩だ。
店内の中央で、大きな岩が床から突き出ていた。
「知ってるんだから。もう会ってないだなんて嘘だったんじゃない。ねえ、聞いてるの?」
男の正面では女が怒鳴り散らしていた。
「聞いてるよ」
生返事で答えながら、男は岩から目が離せずにいた。なぜ気づかなかったのだろう。違和感は消えるどころか重さを増して、ゴリゴリと男の胸を抉っている。
「正直に言いなさいよ。どうせあの女なんでしょ」
「うん」
内容もよく聞かず、岩を見つめながら男は答えた。見つめているうちに違和感が少し小さくなった。
女は重いため息をついた。
「もう、どうして私がこんな目に」
涙が溢れてきた。それでも女の声は男に届かない。男の違和感はどんどん小さくなっていく。うん、なかなか趣のある美しい岩だ。
女が顔を上げると、男は冷たい表情をまっすぐこちらに向けていた。岩が女の真後ろにあるからそう見えるのだが。
違う、これは……
男の視界で、岩が形を変えた。砂が堆積して徐々に姿を形作るような感覚だった。
女の貧乏揺すりでテーブルがガタガタ鳴った。男が落ち着いているのが悔しかったのだ。男はそれでも女に注意を払わなかった。
お地蔵様だ。男はそう思った。
岩はもう完全に地蔵だった。小さな驚きは、柔らかい感覚に包まれて消えた。
「それで、これからどうするの」
涙が残った目で、女は男を睨みつけた。男は灰色にくすんだ瞳でこちらを見据えている。
地蔵は柔和な笑みを浮かべていた。岩なのにこの柔らかさはなんだろう。
「あなたはどうしたいのって聞いてるのよ」
女は声を張り上げた。対して男は安堵を感じていた。胸のゴツゴツは丸くなっていた。川上の岩石が流されながら磨かれていくように。
「何よ!」
女が素っ頓狂な声を上げた。
「何よ今更。許すわけないでしょう」
男は手を合わせていた。目は澄み切って、そこから石清水のようにこんこんと涙が湧き出ていた。何故なのか男にも分かっていなかった。
「絶対許さないんだから!」
絶叫しながら女は涙を落としていた。男は静かに目を瞑った。
沈黙の後、女は顔を上げて驚愕した。
「きゃあ!」
女が猛然と立ち上がるとテーブルが傾き、ティースプーンが跳ねた。スプーンは男にぶつかり、硬い音を立てた。
一人暮らしを始めて、学生時代の知人との連絡を取らなくなった。同僚は仕事上では仲間であるが、タイムカードを押してしまえばそれまでの関係だ。「誰か」以上の誰かは私には必要なかった、はずだった。
失業した。五パーセントを超えて失業率は上昇をしていると言う。私がそちら側に入ることも、確率論的にはそれほど低確率とは言えないだろう。その五パーセント超の人と同様に私もまた新たな仕事を探せば良い、退職金をもらって当座の暮らしには困らない私は別段の気負いもしなかった。
しかし。何社に問い合わせをしても、面接をしても、採用されず通しだった。期間わずか一ヶ月、金策に窮するにはまだ数倍の猶予があったのだが、私は挫折してしまいそうだった。私は誰かにとっての「誰か」以上にはなれないのか、漠とした苦しみに蝕まれ、そして私はようやく気がついた。
「誰か」以上の誰かとはどのような存在か、私はそれを知らない。知りもしないものに、私自身がなれるはずもない。
思えば。私は「誰か」以上の関係を疎んじていた。それでも寂しいとは、私の内に空白があるとは、思わなかった。なぜか。答えは簡明だった。私が人間としてあるべきものを欠いた欠陥人間だからだ。欠陥品が世に受け入れられることはない。これまで私がここに在ったことの方が、間違いだったのだ。
ごめんなさい。不意に口をついて出た謝罪は、誰に向けたものだっただろうか。この私に、謝罪したくなるような「誰か」などいただろうか。声を殺し、涙を抑え、それでも確かに泣きながら、私はその「誰か」に縋ろうと、謝罪の向いたその先に思いを巡らせた。巡らせたのだが思い当たるものは何ひとつなく、泣きたい衝動は加速して、それがさらに思考を阻害した。そのうち、もう私は死ななければいけない、としか考えられなくなった。
そうだ、死ぬ前に両親だけには伝えなければ。気がついた。私の親にしてしまってごめんなさい。それだけは伝えなければならなかったのだ。
電話をかけた。叱られた。死なせるためにお前を生んだのではない、そう怒鳴られた。私は死ねなくなった。
しかし。その必要もまた、なくなっていた。私にも、「誰か」以上の誰かが確かにいる。だからきっと私でも誰かの「誰か」以上になれる、いや、なりたい。私は初めて誰かを心からありがたく思った。誰かのためにしっかりと立つのだと、私はまずその場で立ち上がり背筋を伸ばした。
目の前に広がる荒野と朽ちた廃墟。
かつてこの地球上で生態系の頂点に立ち繁栄を遂げた人類。その象徴ともいえる高層ビルの乱立する大都市も今はあのように無残な姿となりうち捨てられている。そこにかつての繁栄の面影は存在しない。
その建造物の群れを細かく観察し、手元の鉛筆をスケッチブックに走らせた。
無機質な対象をこれまた無機質な灰色の線で描く。
ふと走らせていた鉛筆を止めた。
ゆっくりと前のページを開く。そこには今描いているものとよく似た風景が描かれていた。
また前のページを開く。そこにもよく似た、しかし細部は異なった廃墟の画がある。
更にページを捲っていくが、どのページにも同じようで異なる様々な廃墟が描かれていた。
無論何が描かれているかは知っていた。全て私が描いてきたものだから。
これは今まで世界中を回り見てきたものだ。
このような廃墟は別段珍しくもないのだが、私はあえてそれを描いて回っている。理由は特にない。
その何となく描いてきた風景をもう一度よく見る。
全て白地に灰色の線のみで構成されている画。
持っている道具が鉛筆しかないのだから当然と言えば当然だ。ある意味この色のない線は無機質な廃墟を描くのに相応しいかもしれない。
だが私は少し残念な気もした。
「……アンタこんな所で何してる」
不意に声をかけられた。
顔を上げるとそこに男が一人立っていた。ボロボロの衣服に痩せ細った体。右手に金属製の棒が握られている。
これもそこらの廃墟と同じどこにでも見られる存在だ。出会ったことも何度かある。
経験上どのような用か何となく判っていたため、私は今の質問に答えず先の言葉を紡いだ。
「金銭は所持していないな」
「……」
「一応食料はあるが、あなたに施せるほどの余裕もない……どうする?」
次の瞬間、男の持っていた棒が勢いよく振り下ろされた。
私は完成させたばかりの画を見た。
自分でいうのも何だがこれは良い出来だ。今まで描いてきた中で一番と言ってもいい。
しかし当然の事ながらこれもまた灰色でのみ構成された画だ。
目の前に広がる風景を見る。
確かにそこにある廃墟は彩度を失っている。しかしそれを取り囲む空や大地には鮮やかな色があった。
私は、できればこの画にも色をつけたかったのだ。
だが手元には普段使っている鉛筆と、先程手に入れた赤しかない。
目の前の風景に赤い部分がないのが残念で仕方なかった。
軒下では黒いワンピースを着た少女が泣きそうな顔をして立ちすくんでいる。音もなく降る雨の中、半透明の彼女は一層頼りなく見える。
ある日、月の海から黒い水が落ちて城下町の広場に池を作った。水を失った月は浮力をなくして城に落ち、王侯貴族を挽き潰した。
しばらく町は混乱を極めたものの、私を始めとする騎士団や議会の尽力、また夜の住人達が存外協力的だったので秩序の回復に大した時間はかからなかった。
復興が一段落する頃になって町の住人は池の水が何時までも消えない事に気付いた。しかし闇より黒く染まったそれを掬い、或いは口にする者は獣以外いなかった。怖れを知らない畜生は水辺に腰を下ろしそれを啜る。その様子を見た人々はわずかな勇気を得たのか、獣の死体を池へと投げ込むようになった。
池の水は都度都度泡一つ立てずかつて犬や猫、鼠であったものを飲み込んだ。そして、投げ込まれたものは様々な形で池から地上に戻って来た。生前の姿、腐乱死体、半透明の痩せた空気、骨。池から上がった死体達は変わった素振りも見せずに町を闊歩した。人々は驚嘆し、慌てて骨を砕き、死体を切り刻んだが全てはすぐに元の姿に戻るのだった。
一方で同じ効果を人間に使えると考えた者もいた。後ろ盾を失った下級貴族や被害を被った人間の家族、私の両親等、多岐に渡る人々が真夜中に遺体を池へ引き込んだ。やがて町の何割かは死んだはずの人間で構成されるようになり、夜が神聖な時と見られ始めた。
事態を憂えた議会は騎士団に対策を命じ、形成された部隊は私の発案によって月の鉄を削り出した武器でそれらを抹殺することとした。
月から生まれた者は月の力で殺す。私の目算は当たっていた。私は下級貴族の前で王を袈裟斬りにし、獣を端から砕いて回り、両親が復活させた弟を自らの手で消した。弟の一件以来親族とは顔を合わせていない。
そうして池の発生から一年が過ぎる前、町は静かな憎悪を孕みつつ夜から昼の地へと返り咲いた。
弟を斬った時に両親が見せた表情は今でも涙に染み付いている。月を切って作った丸刃の剣は、握る度に重さを増すように感じる。死神の呼び名にはもう慣れたつもりだが、身体は言う事を聞かない。
目の前では黒いワンピースの少女が泣きそうな顔で私を見上げている。私は柄に一旦かけた手を下ろし、彼女の頭を撫でる。手を握り、彼女の両親の元へ誘う。その後どうするかはまだ決めていない。